第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
人物・家
町の今昔
嵐山町郷土史片々(九)*1越畑の盲人 青木宗伯
長島喜平
かんが目に入って盲になったということを、物語として度々聞いている。盲で有名な江戸時代の学者塙保己一もその一人であったが、越畑にも青木宗伯という人がいた。
宗伯は、昭和三年(1928)二月十八日死去というから、古い人ではない。宗伯は、幼少五,六才の頃、かんが目に入って盲になり、その当時、ほうそうにかかった時であったという。盲目になったため、東京へ出て鍼術(しんじゅつ)を学んで身をたてた。鍼術とは、はりのことで、体にさす鍼の技術によい感をもっていたという。
独立して鍼術導引所の看板をかかげ、弟子も多くいた。
後に越畑へ帰り、そこで鍼をやっていた。
東京にいる頃、本所一之橋寿亀山一っ目の弁財天を信仰したという。
現在、青木宅の庭の小さな祠に大弁財天女像なるものが祭ってある。
宗伯について、もう少し調査しておきたかったが、宗伯の三代目にあたる青木操さんが、亡くなってしまったので、上岡箕輪の岡田実先生の奥さん(宗伯の末子)を訪ねたが、あまり宗伯について記憶がないらしい様子であった。
宗伯は、かんの強い人で、清潔好きであったという。
障子の敷居に少しのごみがあっても、障子をひいてわかったとか、いかにも盲人にありそうな勘である。
盲人になったことを生涯のなげきとせず、自分の生きる道をきりひらいて強く生きていったことこそ盲人ばかりでなく、また何時の世にも必要な生き方である。
七三才の長寿を全うし、死去して源興院大鍼租勇居士といい、遺品は熊谷市のかけと寺に奉納したとか、その寺は空襲でいまはない。
熊谷盲唖学校長をした中村春吉氏は宗伯の弟子という。
(筆者は埼玉県郷土文化会常任理事、朝霞高校定時制主事)*1:この(九)は重複。報道206号に「嵐山町郷土史片々(九) 荻山忠治氏家の近世年貢文書」が掲載されている。
『嵐山町報道』213号「町の今昔」 1971年(昭和46)5月25日