第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
人物・家
これは明治という日本の大変革期に越畑(おっぱた)に生まれ、友愛を育(はぐく)み人間愛に包まれて、熱い心で軍務に、村政に精励した馬場儀平次(ぎへいじ)と久保三源次(さげんじ)の物語である。
儀平次は1868年(明治元)に、三源次は五年後の1872年(明治5)にそれぞれの家の長男として誕生した。学校の制度が目まぐるしく変り、就学率の極(きわ)めて低かった時代(明治14年就学率全国平均45%)に、二人とも八年間にわたる小学校教育を終えた(椙山(すぎやま)学校・昇進(しょうしん)学校)。しかも度々、優等賞を受ける俊才(しゅんさい)であった。栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し、とはこのことを云うのであろう。後年二人の書いた書簡を読むにつけ、その学才の高さが、今日の大学卒業者に比(ひ)するとも劣らないものであることに驚かされる。
儀平次は卒業後間もなく十六歳にして馬場家の家督(かとく)を相続し、十八歳で妻帯、若くして一家の生計を荷(にな)ってゆく事となった。そして、1888年(明治21)年徴兵(ちょうへい)によって歩兵第十五聯(れん)隊(高崎)へ入営(にゅうえい)、1891年(明治24)陸軍上等兵で除隊した。入れ替わりに翌年、小学校卒業以来農事に勤(いそし)み、盛んになってきた養蚕業にも手を染め、改良温育法の研究に取組んでいた三源次も徴兵され、要塞砲兵(ようさいほうへい)第一聯隊へ入隊した。
その後を追うように12月6日儀平次が三源次へ送った手紙がある
「玉書謹(つつしん)デ拝見仕(つかまつり)候、陳者(のぶれば)足下恙(つつが)無(なく)御入隊ニ相成欣喜(きんき)ノ至ニ奉存(ぞんじたてまつり)候(中略)君ト手ヲ分ツ、独リ悲ニ不堪(たえず)(略)嗚呼(ああ)、是ヨリ以後ハ君ヲ措(おい)テ誰(だれ)ヲカ友トセン(略)生(せい)、今ヨリ一心ヲ君ノ勤務中ト同ウシ決シテ生モ他出ヲ禁ジ諸事控(ひか)エ目ニシテ月日ヲ送ル(略)君ヨ遠隔(えんかく)ナガラモ兄弟ノ約ノ如クセヨ只、生ハ君ノ名誉ヲ挙ゲテ帰国セン事ヲ日ニ月ニ楽(たのし)ムノミ尚(な)ホ三十日ノ夜、又昇堂(しょうどう)シテ御尊家一同取分(とりわけ)君ノ妻君(さいくん)其他妹樣方ニ至マデ兄上樣ノ御不在中ニハ決シテ遊(あそび)日(び)ナリトモ可成(なるべく)丈(だけ)他出セズ、只(ただ)母上樣ノ御合手(おあいて)ヲ致シ、他ヨリ必ズ不名誉ヲ来タサザル事ニ注意(略)生不肖(ふしょう)、将来益(ますます)貴家ニ力(ちから)ヲ尽シ、百事不都合(ふつごう)出来ザル事ニ注意可致(いたすべし)(略)次ニ御老母樣ヤ御母上樣其他妻君(さいくん)御妹共ニ至ル迄心ヲ一番ニ止メ、日々農業無抜目(ぬけめなく)致シ居(おる)心掛ニ付、君ニモ其心ニ成リテ御勤メ被下度(くだされたく)願上候(略)君ノ御実家ハ御女中計(ばかり)ニ付、生等不足ナガラモ充分御注意可致(いたすべく)候トモ尚貴殿ヨリ御書状ヲ以テ不在中ニ充分注意シ諸事不都合アラザル様可致事(いたすべきこと)ヲ御送付相成度候也(あいなりたくそうろうなり)」
儀平次の切々とした友愛の情あふれ、残された女性ばかりの久保家を護り、三源次が後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく軍務に精励出来るように激励する姿を偲ぶことが出来よう。
1894年(明治27)年3月3日悲報が三源次のもとに届いた。
「如何(いか)に貴家は不幸なる哉(かな)、又不幸の嵩(かさ)みたる哉(かな)、談ずるにも生、涙数降(すうこう)して談ずるを得ず、(略)貴兄の実弟儀三郎君永々の病気の処遂に去月二十三日を以て無常の風に導かれ、未だ其の涙の干(かわ)かざる中に大切なる貴兄の一子貴治(たかじ)様(略)寿命とは申す者の不憫(ふびん)なる哉(かな)、遂(つい)に本月三日黄泉(こうせん)の客に相成(あいな)り(略)君よ君一心を変ずる勿(なか)れ、君一心不乱(ふらん)に軍業勉励し(略)決して悪酒抔(など)呑(の)む事勿(なか)れ、必ず呑(のみ)玉(たま)ふなよ、思止るは男子なり」
実弟の死はおろか、前年に生まれた愛児貴治(たかじ)をも失った三源次の胸中は如何許(いかばか)りか、それでも儀平次は一心不乱に軍務に精励せよと励まし、その身を案ずればこそ悪酒を禁じている。
1894年(明治27)年8月、日清戦争勃発(ぼっぱつ)、31日儀平次は召集令状(しょうしゅうれいじょう)を受領(じゅりょう)、後事を馬場松太郎に託(たく)して、勇躍(ゆうやく)高崎の聯隊へ入隊したが、9月11日突然、過員により帰休(ききゅう)を命ぜられ、泣く泣く帰郷することになった。しかし、儀平次はこのままでは引き下がらなかった。
10月31日、「天皇陛下ニ御厚恩ノ万分一ニモ奉報(むくいたてまつ)ラント一心不乱 義ハ山岳ヨリ高ク死ハ鴻毛(こうもう)ヨリ最ト軽キト覚悟シテ郷里ヲ出発シタルニ其精神ヲ貫徹(かんてつ)スルヲ得ザルハ不幸之レヨリ大ナルハナシ」という熱い赤心(せきしん)は[従軍志願意見書]を提出させるに至った。当時、既に砲兵軍曹に昇進していた三源次はこの相談を受け、次の一文を送っている。
「追白(ついはく)、貴兄事(こと)従軍志願致準備(じゅんびいたす)ニテ、余ニ御相談被下(くだされ)、誠ニ敵(てき)概(がい)ノ御精神実ニ感ズルニ余リアリ、然(しか)レドモ君ハ一度兵役ノ義務ヲ終リタルニアラズヤ今回トテモ吾々モ同様従軍ノ叶(かな)ハザレバ素(もと)ヨリ残念ノ義ニ候得共(そうらえども)、是互(これたがい)ニ之ヲ忌避(きひ)シタルニハ無之(これなく)、何レモ命ニ依テ成ル者ナレバ是非ナシ、世ニハ少モ其義務ニ服ザル者モ有ルニアラズヤ、君ヨ其念ヲ絶(た)チ、家ニアリ殖産(しょくさん)事ヲ盛大ニシ、余暇ニハ壮年輩(はい)ヲシテ鼓舞(こぶ)、敵愾(てきがい)気性ヲ発奮(はっぷん)スル事ニ勤(つと)メ、父母ノ膝下(しっか)ニアリテ忠孝二つヲ全(まっとう)セヨ、是余(よ)ガ深ク希望スル所ナリ、敢(あえ)テ愚(ぐ)意(い)ヲ吐露(とろ)ス」
即ち、血気(けっき)にはやる儀平次を諌(いさ)め、儀平次またよく其の言を入れ、七郷・八和田・菅谷・宮前聯合忠勇義烈会を主唱(しゅしょう)し、会員百七十余名を集め、軍資金を献じ、大いに敵愾心(てきがいしん)を鼓舞した。
1895年(明治28)1月20日、三源次から儀平次宛に「故郷ヲ懐(おもい)テ」と題する一書が送られて来た。
「かりにも他郷に身を寄せて誰れか故郷を懐はざる者あらん、己れの生れし方を恋はざる者あらん、況(ま)して我々の如き身の自由ならざる者に於(おい)てをや、都は如何に慰(なぐさ)むる者多きと雖(いえど)も故郷の好(よ)きにしかず、己れ北の空を眺むる時寝る時未(いま)だ一たびも故郷の老母の事、母の事、親友の事或は思を通(かよわ)せし乙女の事(笑い玉ふ(たまう)な)家事の整頓及び火事の事思い出さぬ事とてなし、山又山、川又川幾(いく)数(かず)をへだてぬる処に我が故郷は有るらん、恋しき母は居(お)るならん、親しき友は居るならんと想ふ心のやるせなく、山時鳥(やまほととぎす)を聞くに付、森の子がらす見るに付、己が心如何(いか)ならん、(略)嗚呼(ああ)、思へば余が兵役に服するの前、放蕩(ほうとう)以て君及び父母の意を傷(そこな)ふ事数回其不幸の罪何事か之に加へん、然(しか)るに未だ一日も其意を安んぜし事なく郷を離れ、殊(ことに)、日清開戦以来層一層(そういっそう)其我が為めに君又家族の慮(りょ)を煩(わずら)わし何を以てか之に報(むく)ゆることを得(え)ん、転(うた)た悵然(ちょうぜん)として哀愁極(きわまり)て為(な)す所を知らず然(しか)りと雖(いえども)、古(いにしえ)に既往(きおう)は咎(とが)めずと云う語あり、故に日に月に其精力練り、上(かみ)は皇恩の万分の一に報い、下(しも)は自家の功名を成(な)し、以て父母の名顕(あらわ)さんとす、君之を諒(りょう)せよ」
遠く故郷を離れて軍務に従事する三源次が故郷を偲(しの)び、祖母や母、親しき友のことを想うやるせない心情がよく伝わってくる。こうした状況下におかれた義兄弟のために儀平次は1892年(明治25)年から1895年(明治28)まで、何と四十六通の手紙を送っている。或いは農事や養蚕の事、火事・洪水の事或いはお祖母(ばあ)さん・お母(かあ)さん・奥(おく)さんの様子を伝え、そして久保家の守護を誓い、健康を気遣(きづか)いながらも軍務への精勤(せいきん)を励まし続けた。
同じ年の3月儀平次は再び応召(おうしょう)され、高崎補充大隊へ入隊、新兵教育掛(かかり)を命ぜられる。一方三源次にも1月出戦命令が下り、旅順口へ着任したが、幸いにも日清戦争は四月講和条約が締結(ていけつ)され、戦争が終わった。儀平次は6月に帰郷、三源次も11月には除隊となって帰国できた。以来二人は七郷村の村政に深く関(かかわ)って行くことなる。
先ず1897年(明治30)、三源次は二十六歳の若さで七郷村収入役職務代理となり、1899(明治32)には儀平次も又三十二歳で収入役職務代理となった。三源次は1901(明治34)年には村会議員に当選、翌1902(明治35)年には助役、1903年(明治36)には三十二歳で村長に就任した。
時に1904(明治37)年2月、再び戦争勃発、即(すなわ)ち日露戦争である。この頃儀平次は三源次村長のもとで助役代理の職にあったが、そこへ召集の報(しらせ)あり、同年7月21日、村長三源次は申報書(しんぽうしょ)をもつて留守(るす)第一師団長阪井重季宛に「馬場儀平次ハ本村助役在職中ニシテ戸籍及徴発(ちょうはつ)事務主任者ニ有之(これあり)代人ヲ以テ代ヘ可(べか)ラザル者ニ候」と具申(ぐしん)、第一師団参謀(さんぼう)渡辺、これを諒(りょう)とした。三源次は行けば死ぬかもしれない戦争に、親友儀平次をゆかせたくなかった。しかし、戦火は拡大し12月には遂に、儀平次は後備歩兵第49聯隊に入隊を命ぜられ、「儀平次ガ 行末(ゆくすえ)如何(いか)ニト 人問ハヽ 水ノ流ト 吾(われ)ハ答ヘン」の一首を残して、1905年(明治38)1月には海外へ出征、満州各地を転戦、儀平次は三十八歳になっていた。もはや老兵である。4月には奉天に達し、そこから父親へ宛て一書を送っている。
「謹啓(きんけい)仕候(つかまつりそうろう)、陳者(のぶれば)御地方蝶舞、鳥歌ふの好期節に相成候(あいなりそうろうこう)、御家内樣愈々(いよいよ)ご清祥(せいしょう)之由奉欣賀候(きんがたてつりそうろう)、(略)来信に依れば覚司(かくじ)は今回励農会会計長に選任被致居候由(いたされおりそうろうよし)、就ては諸事務は金銭等之取扱ひ(い)を為す役目に付随分(ずいぶん)注意周到(しゅうとう)にして出務を要す、何共なれば人の信用不信用は只(ただ)、金銭上に止まり、些少(さしょう)たる事も後悔ゆとも其詮(せん)なきものなれば、厳重ニも熱心に注意致すべき事に御座候(ござそうろう)、古語に曰(いわく)、一年の計は元旦にありと、金言なる哉(かな)、人の一生は未成年之うちにあり宜敷(よろしく)善良に心掛けべき事に御座候(ござそうろう)間、御祖父様にて御教訓相成度候(あいなりたくそうろう)、(略)次に過般家政之教訓申上候得共(そうらえとも)、猶(なお)又(また)、小生心配に付左に一言申進候(もうしすすめそうろう)間宜敷(よろしく)ご承引被下度候(くだされたくそうろう)、早々不備(ふび)
教訓
覚嗣ニ告(つぐ)
一、予不在中は取分(とりわ)け母ニ幸ニ、祖父ニ順ニ、叔母姉妹弟等ニ信ニ、以て世人ニ善ニ交誼(こうぎ)を結ぶべし、以て父の帰国を待てよ
ちよニ告
一、父ニ幸ニ妹ニ信切ニして、子供等を善良ニ教育し、一家之和ニ注意を加へ、吾(わ)が不在中ハ専(もっぱ)ラ夫の名誉上ニ留意する事、日夜忘却(ぼうきゃく)すべからず、以て我家祖先之恩二報(むく)ふべし、以て夫の帰国を待てよかんニ告
一、其許(そこもと)は随分不仕合(ふしあわ)せの事なれば、必ず百般ニ堪忍(かんにん)して家業ニ従事し、兄の無事帰国するを待つべし
右之者は吾不在と雖(いえど)も主人在宅と心得て百事ニ従事相成度(あいなりた)し、外しま及つき以下皆老父之命ニ従い一言も反(そむ)く事なき様致し度し、此教訓は各自眠間(ねむるま)も忘るヽ勿(なか)れ、若吾が意ニ反く事有ば其罰(ばち)必ず宥(ゆる)すべからず、夫れ留意せよ
三源次出征中は久保家の残された女性たちを気遣い、何くれとなく尽力して来た儀平次だったが自分も応召され戦場に出てみると、自分の家の人々が心配になり、厳しくも懇篤(こんとく)な忠言を長男覚嗣、妻ちよ、実妹かんへ与えたのである。戦場にあった人々は儀平次も三源次もみんな家郷(かきょう)をしのび、残してきた人々を気遣ったことだろう。
1905年(明治38)9月には戦争も終決し、11月に儀平次も無事復員した。日露戦争中、三源次は応召されることもなく、七郷村村長として1907年(明治40)年4月まで銃後(じゅうご)に在って村治に勤め、軍友会(後の在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)を設立し、愛国婦人会委員となって、婦人層や在郷の壮年層の指導、戦意の高揚(こうよう)につとめた。また農会長を兼任(けんにん)農政にも深く関与した。
1911年(明治44)10月再び助役に就任、翌年には村長に再任された。一度ならず二度までも村の要職を歴任する事になったのは,いつに彼の人徳と熱誠(ねっせい)に拠(よ)るものと思われる。1916年(大正5)まで村政に尽瘁(じんすい)、遂に1920年(大正9)、比企郡会議員に当選、県政にまでかかわって力を尽くすこととなった。儀平次は三源次ほど華々しく表面にたって活躍はしなかったが、その後二十余年の長きにわたって、区長、道路委員、衛生委員等を歴任、三源次の村政を支え、その良き理解者・協力者となって村の諸問題の解決に尽くした功績は大きく、儀平次あっての三源次と云うとも過言(かごん)ではない。
儀平次は1936年(昭和11)9月、熱く国を愛し、友愛と人間愛につらぬかれた一生を終わった。六十九歳であった。三源次は軍籍にあって手柄を立て出世もしたが、それ以上に村にあって再度助役・村長そして郡会議員を歴任、長きにわたって村治に尽くした功績は偉大であった。1946年(昭和21)8月、七十五歳にして永眠した。後年、五男茂男は歌碑を建ててその功を称えた。
碑文に云う
人からは 土龍(もぐら)村長と 言われつゝ
我父は村の道を拓(ひら)きし(土屋文明選)