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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

老いて安楽の生活をせんには、如何にして可なるや(紺屋軍次郎の話)

第十二章

題目 勉強忍耐の人能く其身を起す、
例話 紺屋軍次郎の話、
目的 人々の運命必しも同じからず或は安らかに事を成す者もあり或は勉強刻苦して後に成る者あり其幸不幸は外部より来る情勢に関する者なれば如何ともすること能はず然れども勉強忍耐の人は歳月の際に、我目的に適すべき外部の情勢を造ることを得べし是れ一朝一夕の勉強にて出来得べきに非ず其間に種々の障害物と競争せずんばあるべからず其競争は即ち我に好機会を與ふる媒介なりと諭す、

中村軍次郎は、父を番七といひ、文化十二年十二月七日を以て、武蔵国比企郡古里村に生る。家世々農を以て業とせり。軍次郎生れ得て剛強徒に家禄を食むをこころよしとせず、常に独立の志あり。十七歳の時、家を出て所々の紺屋に到り、其傭となり、勉強すること五六年にして、全く染方を覚えたれば、家に帰り、一族の助けを得て、紺屋業を始めたり。左れども種々の不便ありて、利益も心の如くなる能はず、再び家を去り国々を経歴し、其間或は商人となり、或は人の奴僕となり、備(つぶ)さに辛酸を嘗め、漸にして喉を濡したり。されば時としては山野に臥し、或は食を得ざること数日にわたりたること往々ありしと。後遂に児玉郡本庄駅に到り、魚商となりしが、鰯十尾の価僅に二三百文のことなれば、是を以て容易に資本を得るに足らず、小児は膝下(しっか)に泣き妻は疲れて床に臥し、更に詮術なかりしが、遇々人の助けありて、駅の南新田といふ処に家を構ひ、爰に紺屋業を開きて勉強すること一年ばかりにして、稍日用の器具も備りたり。然るに丙午年火災に罹り、家財一物も残さず灰燼に帰し、元より細資の上の災難なれば、如何ともするに道はなく、殆んど当惑の至りなれども、斯くて果つべきにもあらねば、自ら気を皷して曰く「我年既に三十に余り、其過ぐる所概ね人の為めに使役せらる。今にして立つ能はざれば、終身復た浮む時なかるべし。命の有らん限り、気魂の続かん限り志を替ゆまじ」と。屹と心に誓ひ、再び親戚朋友等に輔助を乞ひ、金八両を得て、彼是の入費をすまし、火災後の甕など集め、僅に以前の職業を続けり。其後千辛万苦を為すも三年の久しき間、些少の利潤なく、反て五十両余の負債を生じたり。されど猶ほ屈せず、終日糸を絞り、傍ら藍玉の商法をなしたれば、五六年にして負債をも償ひ稍々利益を見るに到れり。是より漸く利益を加へ、夙夜怠らず勉強しければ、次第に利益を増し、当時にては其蓄財万を以て数ふるにいたり、本年即明治廿四年七十七才の高齢にて、子孫栄へ職業も繁盛し、聊の不足なく安楽の生計を遂け居るといふ、

(問詞)(一)軍次郎は何処の人にして、何年の出生なりや、
(二)始めに何職を修めしや、
(三)其後如何せしや、
(四)軍次郎の本庄に到るまでの経歴如何、
(五)其後如何せしや、
(六)火災に罹りてより如何せしや、
(七)軍次郎当時の有様如何、
(八)如何して軍次郎は安楽の身となりしや、
(九)老いて安楽の生活をせんには、如何して可なるや、

『家庭教育 修身亀鑑』21頁〜24頁 1894年(明治27)3月再版

 「紺屋軍次郎の話」については、「立身出世のモデルとなった紺屋軍次郎」、「こんやぐんじろおのはなし[杉山文悟]」を見られたい。埼玉私立教育会『埼玉教育雑誌』7号(1884年4月発行)に掲載された「紺屋軍次郎の話」が初出である。作者の杉山文悟は杉山村、モデルの紺屋軍次郎(中村軍次郎)は古里村、ともに現・嵐山町出身の人物である。
 「勉強」には、様々な意味がある。『日本国語大辞典』では、 1 努力をして困難に立ち向かうこと。熱心に物事を行なうこと。励むこと。また、そのさま。 2 気がすすまないことを、しかたなしにすること。 3 将来のために学問や技術などを学ぶこと。学校の各教科や、珠算・習字などの実用的な知識・技術を習い覚えること。学習。また、社会生活や仕事などで修業や経験を積むこと。 4 商品を安く売ること。商品を値引きして売ること。また、比喩的に用いて、大目に見ること。おまけをすることと示されている。「勉強忍耐の人能く其身を起す」の「勉強」とは 1 の意味で、勤勉ということでしょう。

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