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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

部落めぐりあるき

昔を今に

部落めぐりあるき 將軍澤の巻(その二)

 將軍沢といふ地名は如何なる起原をもつてゐるのであらうか。この土地の人々が一般に知つてゐることは、坂上田村麻呂將軍がこの地に留つたからだといふことである。然し新編武藏風土記によると「村内ニ利仁將軍ノ霊ヲ祭リシ大宮権現ノ社アルヲモテ將軍沢ノ名アリト云」とある。利仁將軍といふのは藤原利仁のことで比企年鑑(松山町比企文化社出版、一九五〇年版)によると西紀九一五年(醍醐天皇、延喜一五年)従四位で武藏守に任じられ、比企郡の郡家(野本村古凍に居住し、一年置いて九一七年(延喜一七年)には勅命に依り、郡家より出兵して下野(栃木縣)の賊徒、宗藏安藤を討伐したが、九二一年(延長元年)——最新世界年表(三省堂発兌、昭和六年発行)によると九二一年は延喜二一年であり、延長元年は九二三である。比企年鑑の年代は多分間違いであらう——比企郡家に歿したので、里人は相寄つて此れを將軍塚利仁社に祠つた。延長五年(九二七年)、比企年鑑、九二五年)に醍醐天皇麻疹に悩ませられた時、この利仁社に奉幣勅願し平癒を祈られた。翌六年に癒つたので利仁社に利仁大権現の勅称を賜つた。さうして次の朱雀天皇の承平元年(西紀九三一年)には藤原利仁の館跡に里人が集まつて「利仁山野本寺」を創建した。従つて比企年鑑によれば藤原利仁將軍は將軍沢とは殆ど関係ないし、土地の人も利仁將軍については何も知つてゐない。又大宮権現社もないから新編武藏風土記の地名説は疑はしくなる。然し比企年鑑の町村名勝旧蹟めぐり菅谷村の巻には大宮大権現(將軍沢)として「高さ三尺程の塚上にあり、往昔武藏守藤原利仁此地を巡視の砌(みぎり)此塚に腰掛けて憩しを記念し里人相寄りて権現に詞ると云ひ傳ふとある」が、これは新編武藏風土記の記事と同じである。私の考へでは恐らくこの大宮権現社は現在の根岸の権現様のことではなからうかと思ふのである。將軍沢には田村將軍社といふのがあるから、土地の人々が信じてゐる口碑の方が正しいのであらう。比企年鑑にも恒武天皇の延暦十六年(西暦七九七年、年鑑に七九八年とあるは誤り)坂上田村麻呂征夷大將軍として第二次蝦夷征伐の途次須江峠北方の沢地に軍兵を駐屯せしめ、此れより將軍沢の地名起るとあるからである。この時田村麻呂は塩山八幡に詣でて戦勝の祈願をした。さうして翌延暦十七年(西紀七九八年)蝦夷平定の帰途再び塩山に登つて戦勝を報告し、奉礼として壮麗なる社殿を建ててゐる。この塩山八幡は延暦十二年(西紀七九三年)に田村麻呂が征夷副將軍として蝦夷征伐の途次塩山々上に宇佐八幡を勧請したものである。これが後の鎌形八幡となるのである。毒蛇退治の話は第三次蝦夷征伐の帰途(延暦二一年、西紀八〇二年)のことで毒蛇は兇賊の首長だと云はれてゐる。嘗(かつ)て我々の國史にあつた須佐の男の命の八俣の大蛇退治も乱暴な兇賊が古代には横行して居たのを英雄が退治して姫を助けたといふ武勇談と考へられてゐる。この当時岩殿山にどんな賊が居たか知る由もないが、岩殿山には不鳴の池軍陣弁財天、物見山雪見峠、龍堂六面憧など田村麻呂に関係する史蹟があり、亀井村にはシトメ山と云つて大蛇をしとめた所だと云はれてゐる山などあるからし何かあつたことだけは事実であらう。然し笛吹峠の由來は大蛇を退治するために笛を吹いたからだと云ふ説は比企年鑑を見て全く否定された。これによると最初はスエ峠又はウスエ峠と呼ばれてゐた。スエといふ名の起りは現在亀井村に須江といふ地名があるが、その昔(奈良時代今から千二百六十年前)この附近に新羅(朝鮮)から帰化して韓奈末許等十二人が居住し、新羅焼傳へて須恵器(土器)を焼いたことによるらしい今でも須江、泉井、大橋にはそのかまどの跡があり須江窯跡として縣の史跡に指定されてゐる。最初にこの峠を通つたのは西紀一一〇年(今から千八百四〇年前)で大和武尊が蝦夷征伐に行く時此処から菅谷・八和田を通り兒玉に向かつてゐる。その後坂上田村麻呂が蝦夷征伐で通り、大同二年(西紀八〇七年)この地の人々は田村麻呂の仮営地を記念して、將軍社を建てた。その後かなり長い間歴史はこの峠を無視し舞台は鎌形、大藏に移り源氏の兵士達が登場して最も華やかな歴史の一こまを演ずるのであるが、それらのことに就ては後に譲りたい。だがこの間、この峠が全く棄てて顧みられなかつたとは思はれない。既に西紀六六九年(天智天皇八年)に慈光老翁は平村都幾山に弟子慈訓、小角と謀つて恩師追福のために一宇を建て都幾山慈光寺と名づけ、六七五年(天武天皇三年)には弟子慈訓は恩師の遺訓を奉じ、慈光の俤を模した千手観音像を自ら刻んで都幾山内に観音堂を建ててゐる。大宝二年(西紀七〇二年)に小角は岩殿山に正存院を創り、坂上田村麻呂は延暦二五年(西紀八〇六年、大同元年)に蝦夷征伐戦勝の奉礼として岩殿山に正法寺を再建(養老元年、西紀七一七年、海上人が佛法修行の為草庵を結び正法庵と名づけてゐた)して観音堂以下酷ー外坊六十余院を奉建してゐる。従つてあの巡礼街道は岩殿から慈光寺へ行き來する人でにぎわつたことだらうと思うふのである。正安元年(西紀一二九九年)將軍沢三段田が上州長樂寺領となつた。かくして將軍社が建てられてから五百三十年の歳月が流れて歴史は再びこの須江峠をクローズアツプしたのである。

『菅谷村報道』10号「昔を今に」 1950年(昭和25)12月25日
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