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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

部落めぐりあるき

昔を今に

部落めぐりあるき 思想の巻(その一)大正時代

私たちの村に於ける思想的潮流はどのやうな流轉をして今日に至つたのであらうか。思想と呼ばれるに値する運動が人々の心に映されるやうになつたのは、はつきり云へば昭和の初年頃なのではなからうか。大正時代は云はば思想的低流の時代とでも云ふべきであらうか。大正もそれは第一次大戦後でなければこの村は思想らしい動きは目立たず極めておだやかな村であつた。それは無政府主義的な又は社会主義的な或いは共産主義的な思想の主唱者が居なかつたことを意味するのである。
わが村にこのやうな思想を吹き込んだのは松浦高義氏であつたが、それも昭和初期頃になつてである。彼は大正九年(1920)(二十七才)菅谷の三軒長屋(昭和十一年の大火災*1に焼失現在小島屋旅館並び)に新潟方面より移り住み(出生地は唐子村青鳥)自轉車業を営んでゐたがその技術は人々の認めるところであつた、然し当時の彼は金もうけに熱中して居り、如何にして金をもうけるかといふことを眞剣に考へてゐた。さうしたは彼はある日(震災前)東京に行き上野の山をふらついたのであつた。歩いてゐるうちに彼はとある露店で一冊の本を発見したのであつた。「金は金を生む」といふ題名は当時の彼にとつては全く魅力的な響きをもつてゐた彼は直ちに十銭の代價を拂つてその本を買い求め家に帰つて読み耽(ふけ)つた。さうしてその本から彼が教へられたもの或ひは彼が感じたものは何であつたらうか。それは金もうけをするには徳義を欠かなければならない。世の中の仕組みは正当なことをやつてゐたのでは金持ちにはなれないやうになつてゐるのだといふことであつた。彼はこの本によつて社会とはどんなものであるのか、もつと知りたいといふ欲望が生じ、滅茶苦茶に社会的な本を読んだ。新聞廣告を見ては取り寄せたりもした。然し彼は系統的には本を読まなかつた。従つて彼は唯単におぼろげながらも階級意識的なものを持つた程度で、はつきりと共産主義とか社会主義とかいふ思想的な考へ方は持つてゐなかつたのである。
 一方その当時、七郷村吉田の出身であるマリコ良策は大学を出て渡米し、帰朝後大正八年(1919)頃比企、大里の青年を糾合して江南青年革年團を組織し、轟安雄(現縣会議長)を副團長とし、大いに政治的活動を開始した。菅谷では根岸福次、関根仲兆、関根淸一、田島吉五郎、高橋亥一、岡村定吉氏等が七郷では内田幾喜(現村長)、市川武市、栗原侃一、金子忠良、荻山忠治氏等の二十歳前後の青年がこれに参加した。大正七年(1918)には第一次世界大戦が終り、翌八年(1919)にヴエルサイユに於て講和條約が結ばれ、世は平和の声に酔い痴れて行つたが大正九年(1920)三月にはニコライエフクで日本人が多数露兵に惨殺される一方猛烈なる社会主義運動が滔々(とうとう)と入り來り。この分では近い將來日本も完全に赤化されるのではないかと思はれる程であつた。大正八年の米騒動が起る前年にはロシヤ革命が行はれ九年には日本にはじめてメーデーのデモンストレイシヨンが行はれ社会主義同盟が組織された。大正十一年(1922)には非合法の日本共産党が生れ徳田、野坂等がその組織に当り、この年また日本農民組織が創立された。さうして各地でデモや争議やストが繰り返された。そこで政府は大正十二年(1923)に共産党の檢擧を行ふに至つたが、この年九月関東に大震災が突発し東京は一夜にして灰燼と廃墟の宸ノ化した。政府は治安維持の名の下に社会主義や労働組合運動者を取締つた。だが多くの人々はこのやうな思想を一概に危険思想として恐れ戦前戦後の好況と不景気の中に浮沈しながら或は太平の夢に浮かれ或は絶望と頽廃の嘆きに身を沈めていつたのであつた。
 〽おれは河原の枯れすすき
  同じおまえも枯れすすき
  どうせ二人はこの世では
  花の咲かない枯れすすき
というやるせない頽廃の情緒がもの悲しいヴイオリンの音に歌はれ続いて
 〽逢いたさ見たさにこわさを忘れ、暗い夜道をたゞ一人
  逢いに來たのに何故出て逢はぬ
  僕の呼ぶ声忘れたか
といふかごの鳥の歌は若き青年男女の心に田園的恋愛のせつなさを淡い感傷としてしみこませたのであつた。
 かうした風潮の中に於て理想と情熱に燃ゆる村の青年達は革新團の態度にあきたらず内田幾喜、高橋亥一、関根淸一氏等は七郷、菅谷、宮前の青年を以て更に革新派を作り、大正九年(1920)の冬演説練習のため内田幾喜氏宅の蚕屋の二階に集り毎夜熱弁を振つたのであつたがこの革新團も次第に下火となり名ばかりの存在になつて行つた。それと共にマリコ良策がアメリカから連れ帰つたマリコ稔が社会主義運動を展開するに至り、高橋、松浦、今村重雄(当時歯科医)大野幸次郎氏等がこれに共鳴して行つた。
大正十三年(1924)帝國議会議員選挙の際小見野村出身の山口政二は民政党より立候補し「余大学を出でてまさに十年身治めざるにあらずと雖(いえど)も今尚一家とゝのはず……と」名文を以て挨拶し理想選挙を標榜するや独眼龍の彼は忽ち青年たちの大いなる信頼をかち得て当選したのであつたが議会に於て禁酒法案上提演説中不幸壇上で脳溢血のため倒れてしまつたのである。直ちに補欠選擧が行はれ政友会から横川重次が立候補した。然るに比企の政友、民政の両派は妥協して横川氏をかついだため山口政二に対する青年の信頼はこの老壯年連中の妥協策に対し大いなる反感を抱き山口政二の弔合戦と称して当時岩槻にゐた一芥の無名青年山口六郎次を中立派として候補に押し立て関根、高橋、村田秀作氏らは手前弁当無日当で奔走したが、これらの比企青年達の燃ゆるが如き正義感と情熱も政民両派の前には力及ばず敗退せざるを得なかつた。

*1:菅谷の大火は昭和十年が正しい。

『菅谷村報道』11号「昔を今に」 1951年(昭和26)2月10日
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