第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
部落めぐりあるき
昔を今に
部落めぐりあるき 將軍澤の巻(その一)
菅谷村の北海道と云はれる將軍沢は千手堂、遠山と共に菅谷村で最も自然的環境に恵まれた土地であらう。四方山に囲まれてゐるだけに冬の陽ざしも暖かく、何か文化的に遠い匂ひも感ずるし、それだけに一見おだやかなひとざとにも思はれた。それでも終戦直後は赤旗が大部氣焔を擧げたといふことである。戸数は四十三戸、人口は二百五十二人で、菅谷村では少い方から三位、田は十二町、畑は二十四町の耕地面積である*1。この土地の小字名は中山、西方、八段田、一町田、丸山、三段田、田向、中町、稻荷林、大平、鶴巻、南鶴、高代、上大谷、下大谷、東方、坂上と十七字あることが明治九年(1876)十一月二十六日、土地丈量御検査済(小久保恭之助氏藏)に記されてゐる。その当時の土地測量には縄や紐では伸び縮みがあるといふので、竹を細くけづつて間数をとつたのださうである。十七の小字にもそれぞれのいわれがあるのであらうが誰も知つてゐそうもない。新編武藏風土記には小字名としてヲウス塚(茶臼塚ともいへり)といふのがあることを記してゐるが土地の人に聞いても知らないという。たゞカネ塚(大藏地内)というのが山王様(日吉神社)の側にあり、明治時代にこの塚を発掘したところ石碑が出てきたので富士権現を信仰する大藏の人たちがそこへお宮を建てて祭つたそうである。今カネ塚の由來も石碑の文字も知ることができない。
大藏から將軍沢へ行く道にちよつとした橋がある。よく注意してみなければ分からないやうな橋であるが、これを縁切橋(大藏地内)といふ。この附近にはまことに不吉な名が多い。この橋の両側の原(今は畑になつてゐるが昔は原であつたのだろう)を不逢(アワズ)が原(大藏地内)と云い、橋を渡つて不動坂を上ると將軍沢で、すぐ山王社がある。これを縁切山王と呼ぶ。さうしてこの附近の山林を不添の森と称する。一たん結んだ縁を切るのは難しいがこの縁切山王にお願ひするとうまく縁が切れるといふ話が傳つてゐる。そのため遠く秩父郡の方からも千本旗をあげに來る人もあるという。又、將軍沢への縁談には一切この橋を渡らないことにしてゐるさうである。この地の名物はささら獅子舞であるが、何時代から行はれどうした起原をもつてゐるのか不明である。太鼓の張替をする時に皮の裏側に「江戸太鼓師」と書いてあつたことから、明治以前から既に行はれてゐたのではないかと推測されるだけである。そのいわれはどうであれ、村の年中行事として傳統的に毎年行はれて來てゐるが、それでも戦争中は二年ほど休んださうである。この地にまつはる傳説として笛吹峠がある。その昔、坂上田村麻呂といふ將軍がエゾ征伐の途次、この地に立ち寄り岩殿山の大蛇を退治したといふ話は私たちが幼少の頃よく聞かされた話である。大蛇を退治するにはどうしたらよいかいろいろ考へたがそれにはまづ大蛇を見つけださねばならない。九十九谷もある谷間のことである。さう簡単に探し出せるものではない。然し蛇は笛の音が好きだということが分つたので、峠に上つて笛を吹くことにした。だが笛の音だけではよく分らないだらう、雪を降らせれば蛇の跡がつくから分るだらうといふ今から思へば全くナンセンスな考へが湧いたのである。時は六月一日夏である。將軍の祈りによつて朝から雪が降り出した。ために目出度く大蛇を退治することができたという。この物語は眞実でないかも知れない。然し今でもこの土地の人は旧六月一日の朝には門先で小麦のカラを焚き雪の日の將軍の寒さを暖めてやり、マンヂユウをこしらへて大蛇退治のお祝いをしてゐる事実は見逃してはならないことである。又笛吹峠といふ名の起りも右【上】の様な傅説に基いてゐるのであらう。
私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。將軍沢から龜井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散つて歩く度にかさかさと鳴つた。焚木でも取つてゐるのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になつて稻が掛けてあつた。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた。高さ一米五十糎ほどのこの石碑の表には「史蹟笛吹峠埼玉縣」とあり、裏面を見ると「笛吹峠ハ正平年間ノ戦績ニシテ建武中興関係遺跡トシテ名アリ今回埼玉縣ノ指定ニ基キ菅谷亀井ノ両村之ガ保存ヲ協議シ当所ヲ選ム時恰モ建武中興六百年ニ際ス即チ記念保存ノ為ニ之ヲ建ツ 昭和十年三月 笛吹峠保存会」と記されてあつた。私は枯れた草むらに腰を下してこの文の意味を考へてみた。これによると笛吹峠は前の坂上田村【麻】呂とは何の関係もないからである。正平年間(1346-1369)の戦績であり、建武中興関係の遺跡だとあるが、建武中興は後醍醐天皇の御代(1318-1339)であり、正平といふ年は次の後村上天皇の御代である。従つて正平年間の戦が建武中興に関係あるとは思はれないのである。然し吉野町時代にこの峙【峠】が戦場になつた頃もあつたのであらうか。千軍万馬の関東武士達が鎧甲に身を固め、白刃をひらめかして戦つたのであらうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(かちどき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして劒撃の響と人のうめき声——それらはこの谷々に轟き渡つたことであらう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。たゞ颯々たる松籟の音とささたるすゝきの揺ぎとちゝたる小鳥の囀りのみである。この峠に生ひ繁つてゐる松やくぬぎはそして道端の小草は古き日の面影を語ることができるであらうか。
その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今も猶秋風の中にささやくことができるというのであらうか。坂上田村麻呂の生きた平安時代は今から千百年の昔であり、正平の代も今から六百年の昔である。樹齢それ程の樹木を見ることができないのは寂しい限りである。
笛吹峠の歴史的意義は更に今後の研究によつて明かにされなければならないであらう。この碑の建つてある所は私の今上つて來た道ともう一本の道とが交錯してゐる四辻になつている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれてゐる。白い脚絆にわらぢを履き遍路笠をかぶつた巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通つて行つたことであらう。この道を少し行くと学有林があるが私は龜井村の方へ下りていつた。目の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稻はすつかり刈りとられてきれいに掛けてあつた。藁屋根の人家からは炊煙が上り、大きな沼が鈍く光つてゐた。さうして銀色の鉄柱が果しもなく小春日和の中に続いてゐた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は靑く或は紅葉に色とられてゐた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれてゐた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思ひ途中の別れ道から左へ降りて行つた。もとの上り口へ出ると思つてゐた私は全く見られない光景に出逢つてしまつた。左手は丘ですゝきが一面に白くほゝけ右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き更に笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山の如くはなやかではない。云つてみれば素朴の美景とでも云のであらうか。然しこゝは一体どこであらう。田圃に稻を刈つてゐる人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかと更に尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があつたのかと思はずにはゐられなかつたのである。
(報道委員S記)*1:10号掲載の訂正により、修正を行つた。内容は次のとおり。
『菅谷村報道』9号「昔を今に」 1950年(昭和25)11月25日
「田は百六十六町を十二町に、畑は三百七十八町を二十四町に、山林原野は六百六十七町を、今のところ不明なるため取消しと致します。」