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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

干害

人口揚水の微笑

            遠山 吉田又一

 ねこの手もかりたい農繁田植期も夢の様に過ぎ去つた六月も二十八日「今日も田植えをすることが出来ない」と東の空に炎々と燃えるが如くに昇りジリジリと照りつける太陽をうらめしく眺めて家中で語らい合う。野良に出てもカラカラに乾き切つてムンムンしてゐる。其の遠山に清らかな槻川はせせらぎの音も軽ろやかに時期の田植えの水に困りきつてゐる我々の気持を察せぬか、知らぬ素顔で南の山際を流れ去つて行く。二十八日も午后、照りつける太陽のもと、消防団の役員の方のお話しで利用場に集り村の理解ある諒解を得て消防ポンプを利用し田植えを行うべく揚水(ようすい)をして下さるとの事で全く天を眺めては溜息をしてゐた我々は感慨無量。早速二十九日早朝より消防役員の方々はまだ忙しい自分の毎日の仕事を投げ出して「機械の操法は我が責任」とばかり責任感にもえて先頭に立ち機械を運転してくださり思いもつかなかつた槻川の水は忽ちにして川から遠く離れた高い処の乾ききつた水田に向つて放水され、見る間に水は満たされ手早い作業によつて次々と微笑みのうちに苗が植えつけられ、やがて地内四町歩の水田はたつた二日間にして青々とうづめられ、初夏のそよ風になびく日をむかえることが出来た。此の文明文化の進歩が斯(か)くも山中までシントウした事はスリ鉢の底遠山に生れた我々にとつても一つのほこりであり今后のより一層のめざましい発展を期待すると共に胸に深くきざみ今回の消防団役員各位の理解ある御協力を深く字員一同心より感謝致して居る次第です。

『菅谷村報道』59号 1955年(昭和30)7月25日

消防ポンプで水揚げ 水田植付に懸命の努力

      潅漑面積 八町三反余

 この夏は近年に珍らしい空梅雨のため六月下旬になつて天水依存地帯は水田植付不能におちいつた。村当局はこの対策として消防ポンプにより給水を計画自動車ポンプ四台、手挽ガソリンポンプ一台、可搬動力ポンプ三台を動員し六月二十五日から七月六日迄十二日間。自動車ポンプ延二十四日、手挽ガソリン及び可搬動力ポンプ延二十一日を費(ついや)し未曽有(みぞう)の大規模な人工給水を実施した。その結果水利最悪の場所若干を残すのみで極めて好成績の裡(うち)に給水作業を終了した。
 鍬を打ち込めばぱつと白煙立つ乾き切つた水田。固い土塊に注がれる水に泡をたてゝ崩れ落ちてゆく。水の廻るのを待ち兼ねて腕利(うできき)の若者達が一滴の水も漏らすまいと見事なくろを塗つてゆく。ポンプの放口からは一分間四石余の水が一瞬の淀(よど)みもなく出ているが、手揃で仕事がす早く、何時も給水の方が追はれ気味である。近所、親戚の応援でせまい田に牛馬が二三頭、はいつてかきならす、これ又駆(は)せ付けた応援の老若男女が水田せましとばかり一列横隊に並び左手に持つ苗束に右手が器用に通ふと見る間に、まるで機械のようにつっつっと苗は植へられ足取り軽く後ずさりする。これを追つて前から青い波が押し寄せる如く瞬く間に忽ち青田がひろがつて行く。畔塗りの男達も田植の女達も腰を延ばす度毎に植へたての青田を眺め乍ら有り難い事だ、大したものだと心から感嘆の声をはなつ。三十度をこえる炎天下、連日陣頭指揮の村長さん。その熱意にピツタリ呼吸の合つた消防団員、機関係、放水係、連絡係、一致協力、終日活躍の後今植付の終つた青田に月の映る頃、帰路につけば、あたり一面の水田より期せずしておこる蛙の声は、さながら凱歌の如く自ら胸の暖る情景であつた。
 かくて【大字千手堂】八町三反の旱田(かんでん)は見事植付を完了した。
(中島元次郎記) 

『菅谷村報道』59号 1955年(昭和30)7月25日
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