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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

警察・駐在

七郷駐在所に自転車を寄付

 市川貢家に、七郷村の駐在に村民有志が自転車を寄付した時の収支決算の報告文書が保存されている。日付けは、1925年(大正14)9月20日である。これは七郷村村長初雁鳴彦と村の駐在巡査板橋好雄が連名で、寄付者個々に収支決算を報告したときのもので、市川藤三郎宛になっている。
 収支決算の内訳を見ると、初雁鳴彦を筆頭に13人が金10円づつ、8人が金5円づつで、合計170円を寄付金として集め、その他にそれまで使っていた古自転車を25円で売却して、それを合わせて合計195円を資金として、新しい自転車1台(160円)と雨具(14円)を購入して、駐在に寄付している。差引残金21円は修繕費として村長が保管すると記されている。
 当時の嵐山地域は七郷村と菅谷村に分かれていたが、自転車の普及状況を見ると菅谷村の場合は、自転車保有台数が1909年(明治42)に11台、翌1910年(明治43)に14台(以上『嵐山町史』年表)、1914年(大正3)に46台(大塚基氏家文書)、1925年(大正14)には441台(菅谷村役場文書)になっている。増え方を見ると、1914年のときの菅谷村の全戸数が611戸であるから7.5%の保有率であったが、25年の戸数は690戸なので64%の保有率になっている。大正時代の中頃から急速に台数が増えていることがわかる。
 七郷村の場合は自転車の保有台数ははっきりしないが、菅谷村でこれだけ普及してきたことを見ると七郷村でも普及してきたと思われる。七郷村で村の駐在に自転車を寄付したのは先の収支決算文の日付けで述べたように、1925年(大正14)のことである。そして自転車寄付の収支報告文書に、古い自転車を売ったことが記されているので、駐在所にはすでに何年か前から自転車があって利用していたと思われる。村の中で自転車を持つ家が増え、その便利さが理解されるようになった状況の中で、村の駐在に自転車を寄付するということになったものとであろうか。
 当時は民主的改革を求める雰囲気が社会に広がって大正デモクラシー時代といわれるが、その中で民衆の社会運動が活発に展開されたことが注目される。第一次世界大戦後の一時的な好景気が終わると、1920年(大正9)には全国的に農村を不景気の波が襲ってきた。埼玉県では同年の小作争議は9件、翌21年には74件と急激に増加した。小作争議の発生場所は、おもに県東部の穀倉地帯が中心であったが、小作争議の波は県内各地に広がっていった。比企郡でも激しくはないけれども小作争議が各村で起こっている。
 七郷村では1921年(大正10)に古里と吉田で収穫の5割以上を地主に小作料として収めなければならない苦しさから、小作人がそれぞれ団結して立ち上がり、古里では小作料の1割5分引、吉田では1割引を地主に要求し、古里は7分引き、吉田は五分引で妥結している。村の駐在に自転車を寄付した人たちがいる反面、小作争議に立ち上がらざるを得ない人たちが多数いたのが、当時の村の状況であった。
 参考までに、自転車一台の値段は教員の一月分の給与程度はしたという。まだ高価なものであった。そして、越畑の市川藤三郎の1926年(大正15)の納税領収書によると、県税雑種の自転車税が年8円であった。

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