第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会
警察・駐在
1871年(明治4)以降警察制度は除々に整えられていきました。1875年(明治8)「行政警察規則」が公布され、それまで松山に置かれていた取締所も警察出張所となり、邏卒(らそつ)の呼称も巡査に変りました。菅谷には分屯所(警察第九松山出張所第八菅谷分屯所)がありましたが、1877年(明治10)、松山警察菅谷分署と改称されました。この時の菅谷分署は九坪の民有地に六坪半の庁舎が建てられ、巡査五人が常駐し、三十五か村を管轄していました。庁舎は同年8月に新築されていますが、同年3月・4月に鎌形の簾藤信平・菅谷の関根伊右衛門・杉山の初雁京之助外十三名がその建築費として寄付をしています。七郷では受持巡査駐在所を造ろうとしたが果たせず、金泉寺の玄関茶の間を借り受けたということで、当時は警察も民力に頼らざるを得なかったのです。
参考文献・資料:
金泉寺文書「小川分署巡査派出所寄付金取立帳」