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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第2節:福祉・社会活動

青年団

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号(1/2)

巻頭言

建国以来未曽有ノ国難ヲ克服シ興亜日本ノ運命ヲ双肩ニ担フ新興日本ノ青年ノ使命タルヤ実ニ重且遠シト思惟ス而シテ事変ノ処理ヲ完全ニ遂行スルニハ前途ニ重疊スル幾多ノ困難ヲ想起セザルヲ得ズ宜敷シク青年ハ三千年来ノ皇国ノ理想ヲ確認シテ脚下ニハ実動ノ鉄腕ヲ撫シテ自己ノ行手ヲ凝視シ根本的ニ徹底的ニシカモ永遠ナル聖戦ニ渾身ノ勇ヲ捧グル秋ハ来レリ信念的生活ノ遵奉者トシテ無上ノ栄誉に対ヘント謹ンデ皇軍ノ武運長久ト英霊感謝傷痍軍人ノ平癒ヲ祈願スルト共ニ皇軍ノ意気ト努力ト二劣ラヌ迫力ヲ以テ興亜殿堂ノ礎ヲ築カン吾人ノ前途ニ聖光アリ誉アリイザ進マン
          校長*1 久保英雄

*1:七郷青年学校長

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

七郷便り

戦線ニ御活躍ノ勇士並二後方勤務ニ砕励ノ将兵各位ガ最モ慰安トモナリ又知ラント欲スルコトハ郷土ノ状況デアルト思フ。然シナガラ甚ダ自分勝手ナ言分ニ相違ナイガ【5字墨塗】村出身者個人個人ニ手紙ヲ書クコトハ容易デナイ為メニ、思ヒナガラモ御無沙汰ニナルノデアリマス。然ル所青年団ガ団報ヲ発刊シテ故郷ノ現状ヲ具サニ報セントセル企図ハ誠ニ喜ブベキコトデ吾人ノ衷心ヨリ感謝スル所デアリマス。第一回ノ発行ニ際シテ生憎筆ヲ執ルコトノ出来ナカツタコトヲ遺憾ニ存ジマシタガ、今回ハ紙上ヲ拝借致シ一言所信ヲ述ブルト共ニ、銃後ノ現況ヲ御伝ヘスルコトニ致シマス。
欧州ノ事態ハ愈々軌道ニ乗ツタヤウデアル、大ニヤッテ貰ヒタイ。少クモ支那事変ノ解決ノ付クマデハ、望ムラクハ興亜建設ノ聖業完成マデモト思フノデアリマスガ、欧州列国否世界ノ国際情勢ハ極メテ複雑微妙ニシテ、昨日ノ敵ハ今日ノ味方ト言フヤウナ変転滑脱無キヲ誰ガ保証シ得ルモノゾ? ヒトラー独総統ノ脳裡ニ将亦スターリンソ聯書記長ノ胸底ニ如何ナル秘謀ヲ蔵スルカ、チェンバレン英首相ヤ、ルウーズベルト米大統領ガ如何ナル老獪手段ヲ採ルカ判ッタモノデハナイ。サハアレ我ニハ自主独立ノ不動国策アリ。前線モ銃後モ、上下貧富ノ区別ナク老幼男女ヲ問ハズ真ニ同心一体トナッテ大和民族ニ與ヘラレタル大使命ノ遂行ニ邁進スレバヨイノデアル。現代戦争ガ国家総力戦タルコトハ申スマデモナイノデアルガ、武力ニ次ギ最モ重要ナルハ経済力デアル。殊ニ食糧問題ハ其中枢ヲ為スモノデ事変下ニ於ケル農村ノ任務又重大ナリト言フベキデアル。カルガ故ニ吾等農民ハ生産増殖計画樹立遂行ニ万全ヲ期シテ居ルノデアリマス。幸ニ本年ハ天恵モ伴ヒ米ハ近年稀ナル増収デアルコトハ啻(ただ)ニ農家ノ為メノミナラズ、国家ノ為メ同慶ニ堪エナイノデアリマス。次ニ戦時財政ノ基礎ヲ確固ナラシムルニハ、輸出貿易増加ニ依ル外貨獲得ト輸入物資ノ消費節約及国民貯蓄ノ励行ヲ必要トスルノデアリマス。吾ガ農村ニ於ケル繭増産計画モ大ニ其効ヲ奏シ、外貨獲得ニ寄與セルコトハ勤労報国ノ発露ニシテ欣快トスル所デアリマス。物資節減ト貯金報国デアリマスガ、生産物価昂騰ニ依ル貯蓄ト生活改善ニヨル貯蓄計画遂行ニ当ツテ居ルノデアリマス。即チ繭ハ春初秋蚕トモ一貫目一円、晩秋蚕ハ二円、米ハ一俵一円二十銭、小麦ハ一円五十銭、大麦ハ一円、其他販売物ニ一定ノ貯蓄額ヲ定メ又生活改善ニ依ル貯蓄モ本年度ニ於テ一戸平均十円ヲ目標トシテ実施ニ努力シテ居ルノデアリマス。尚軍需供出ニ就テハ大麦、甘薯ヲ始メ干草、梅干、兎皮ニ至ルマデ利害ヲ超越シテ常ニ割当以上ノ成績ヲ以テ赤誠ヲ捧ゲツツアルノ状態デアリマス。出征将兵遺家族ノ業ニ対シテハ勤労奉仕班ノ活動ト青年団、分会、小学校等ノ側面援助ニ従リ是亦萬遺憾ナキヲ期シテ居ルノデアリマス。本月三日ヨリ一週間軍人援護強化週間ヲ実施シ、第一日ニ於テは午前四時半サイレン合図ニ各部落毎ニ神社ニ参集、出征将兵ノ武運長久祈願ヲ挙行時局認識軍人援護強化ヲ力説シ、第二日ハ寺院主催ノ出征将兵健康祈願ニ戦没者慰霊法会ヲ挙行、第三日以後ハ役場、学校、分会、青年団、愛国、国防婦人会等戦没者ノ墓参ヲ行ヒ又学校児童ニ慰問文ノ作製発送ヲ為サシメ、最終日ニハ午前中愛国、国防婦人会ノ合同総会ヲ開催、午後ハ遺家族慰安会ヲ開キ、藤原夢声ノ軍国美談ヲ中心トシ桃中軒千代外ノ浪曲、漫才、百面相、舞踊等ノ余興ニ一同腹ヲ抱ヘ且ツハ心ヲ引締メ以テ銃後ノ護リニ一段ノ励ミヲ加ヘタノデアリマス。尚当日ハ名誉アル戦病死者ノ御尊影並ニ遺留品陳列室ヲ設ケ偉勲ヲ偲ブト共ニ、英霊ニ対スル崇敬ノ念ヲ新タニシ又二十一日夜青年団主催時局映画会ヲ開キ、遺家族ヲ招待、慰安ニ努メマシタ。まあコンナ具合デ銃後ハがっちりシテ居リ、十年ヤ二十年ノ長期モ何ノソノト言フ意気込デスカラ、ドウカ安心シテ皇国ノ為御奮闘ヲ切ニ御願ヒ致シマス。
今日(十月二十四日)カラ三十日迄本年第二回ノ防空訓練ガ始マリマシタ。然カモ今回ハ全国一斉ニ行ナハレマス。国土防衛ノ重要任務デアリマスカラ実戦其モノノ気持デ真剣ニヤリマス。
我等ハ常ニ思フ。帝国ハ開闢以来未ダ一度モ外敵ノ国土侵入ヲ受ケタコトノナイ御稜威(みいつ)高キ国柄デアル。コノ尊キ誇リヲ傷ケザルヤウ、国ヲ挙ゲテ努ムルコトガ皇国ニ生ヲ享クルモノノ責務デアルト信ズルノデアリマス。
農村ハ愈々麦ノ蒔入カラ稲ノ刈取リ、脱穀、調製等戦闘ガ開始されます。然シ戦果ハ確実ニ偉大デアリマス。ソレニ応召兵モ続々帰還サレタノデ、人的資源モ心配無ク総テノ角度ヨリ長期戦ノ準備ヲ整ヘマシタ。前線ハ頼ム、銃後ハ保証スル。
     事務室ノ片隅ニテ  栗原侃一*1

*1:七郷村長 栗原侃一
※掲載にあたり句読点を付け加えた。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

青年の進むべき道  七郷青年団長・阿部寳作

日支事変も更に第二、第三の段階に入り、いよいよ長期交戦が続けられる事が明になったこの時、我等青年は益々挙国一致、堅忍持久の志を堅し、心を一に国難打開に邁進せねばならぬ事は、今更私が申上るまでもない。一度北支、中支、南支に亘って海に陸に絶いざる勇戦を続け、前代未聞の戦果を収めつつある皇軍将士の功績、労苦、辛酸を思ふ時、我銃後青年の緊張、努力は如何であらうか。我等は精神的にも、物質的にも、団体的にも銃後の守りを固くし、東亜永遠の平和樹立の為にあらゆる苦境をもしのび、終局の目的貫徹の覚悟がなくてはならぬ。即ち、我等は日常の生活を通して、後顧の憂なからしむる事が目下の急務である。
修養とは人の生涯を通してこの修養の効果を発揚して行く為の修養でなくてはならぬ。是れが最も大切な修養の眼目である。
最近あらゆる方面より日本精神を教育せらる。この日本精神は唯道を説き、徒(いたづら)に之れを論ずるだけでは何の効果もない。即ちまず実行である。聖人の書を読み、道を聞いても聖人にはなれない。そこに銘々の努力が要る。奮起が要る。忍耐が要る。各々心を励まし、奮起努力してこそ時局を打開し、非常時を克服する事ができるのである。
我等は先ず我が周囲を能く再検討する事が必要である。時局下の青年として最も真面目に我等の受持ちを尽くしてをるかどうか、一々反省してみる事が銘々の修養を実際に活(いか)し実行して行く事であって、銃後の守りを固くし、日本肇国(ちょうこく)の精神を実際の上に現して行く、貴い我等青年の使命であると思ふ。

※掲載にあたり句読点を付け加えた。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

郷土の便り(広野)  小林森久

御在隊の皆様御機嫌は如何ですか? 暫く御無沙汰して居りましたが団報発刊に当り、皆様の御留守に起った広野の近況を記述して村の様子を知って戴き、併せて御無沙汰御詫びにさせて戴きます。事変が長引くにつれて、聖戦参加の皆様方勇士の数が益々多く成り、銃後は非常に手不足を感じます。然し、生産拡充、勤労倍加の意を体して、私達広野の若人も、今元気一杯に皆様御留守の郷土を守って毎日農耕にいそしんで居ります。稲も見事な穂を揃へました。今年は春の気候の関係で田植が遅れ其の作柄も案ぜられましたが其の後土用に入っての暑さと適当な雨量とに案外立派な成育振りをみせて秋に入っての気候も良く今瑞々(みずみず)しい穂波を耕地一面にうねらせて居ます。気遣われた颱風も事無きを得そうで本年は豊作の見込が付きました。
亦欧州戦争の余波を打けて生糸の奔騰(ほんとう)に可成りの高値を出している蚕も只今晩秋蚕上蔟中です。今年の蚕況は、春は普通で値段は八円位でした。初秋蚕は一寸上作とはいへませんでしたが値段に於て九円位の高値が見られ晩秋蚕亦、少々成績は面白からぬ方もある様ですが、値段が十一、二円等の呼声高く先づ先づ皆様の御留守も農家は万々歳とも言へませう。唯色々の物資統制の中に交って肥料が配給制度に成った事は今迄と違って一寸不便を感じます。然しこれとて戦地に於て、食糧も無く、弾薬もまた無きあらゆる困苦欠乏に耐へて戦ふ皆様方の事を思へば、私達とてもあらゆる方策をめぐらしても耐えてゆかねばならぬことでせう。
次に皆様方の御武運長久をお祈りする祈願祭は、今も尚毎月十九日に厳粛に施行されて居りますが、能見神官殿が八宮神社の社前に報告申上げる勇士の御名は月々に依り時々変りが御座います。一月には高木君が、八月には権田重明君が晴れの凱旋をなされまして、嬉しい帰還報告をされ、亦五月には内田増蔵君の応召、権田愛作君の海兵団入団、六月には権田本市君の応召が御座いまして、新しく三君の御名が加へられました。広野の現在隊のお方は【5字墨塗】御座いまして、秋には杉田徳治、井上彦輔、栗原角男の三君が入営する事に成って居ります。
二月に行われた故宮田伍長の村葬は折柄の春雨に一入(ひとしお)の哀愁をそそる盛儀でしたが、其の後も在郷軍人や青年団や其の他一般の方々の墓参に、香煙るるとして絶える間も御座いません。
扨て皆様は長い伝統と歴史を持つ消防組が解散して、新しく防護団と合併して警防団を結成した事を御存知でせうか。
皆様もおそらく消防組居んたる御方が多う御座いませうか何時の間にか消防手を辞めさせられて新らしく警防団の辞令を受けて居られることを御承知ですか。去る七月にはこの新しい警防団を動員して初の防空演習が行われ可成りの成績を挙げました。
銃後の護りは愈々鉄筋コンクリートです。
皆様方の御留守中に亡くなられた方、生れた子供さんも数有りますが、それらは省いて此処にお婿さん二人を御紹介いたしませう。一人は下郷の権田亀太郎さんのお宅で静江さんの夫として長次さんと云ふ二十五才の青年を宮前村中尾から一月の下旬に迎へました。背の大きい立派な方です。第一補充兵です。もう一人は七月に亡くなられた永島廣吉さんのお宅でつえさんが、大岡村大谷から寅武さんと云ふ廿八才の方を迎へられました。左官屋さんで非常な腕のいい働き者だそうです。
九月九日、十日の二日間は広正寺に於て私達七郷村青年団の主催で五箇村連合仏教会後援の修養会が開かれました。私達は或ひは一週間の剣道練習会に身体を練り、今この修養会に精神を練り、かうして心身共に練りに練って銃後国防の完璧を期しているのであります。今宵は仲秋の名月です。澄み切った空に銀盆の如き名月が輝いています。おそらく皆様の上にも同じ光を投げかける月で御座いませう。かうしてじっとこの満月に魅入っていますとあおの歌の文句を思ひ出します。
月が鏡であったなら 遠い貴男の俤(おもかげ)を……と
長くなりますからこの位でペンを止めます。
呉れぐれも皆々様の御健康と御武運長久を祈上ます。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

戦線の勇士を想ひて  早川正吉

聖戦下三年目の実りの秋を迎へて、只管(ひたすら)北中南支の第一線にて興亜建設の礎石として活躍する皇軍勇士の面影を思って銃後国民の感謝に堪へ難きものです。顧みれば過去の昔二年或は三年の実りの秋、垂穂も風になびいて金波銀波を瞳に映しつつ、日の丸と歓呼の声に送られて元気一ぱい銃後をしっかりと頼むぜと車窓より日の丸を打ち振り打ち振り出征したあの郷土先輩勇士を黄金の波を目にして、心中より強く思ひ出されます。
この勇士こそ、支那の荒野での活躍は一方ならぬものでしたらうと思ひます。
暑い暑い酷暑も寒い寒い厳寒も只、頼みの銃剣を手に執り、東洋平和のため砲煙弾雨の中をくぐり、或はトーチカで又クリークで、雨に降られた事もあるでせう。寒風積雪に悩まされた事も多々あったでせう。其の苦戦は筆舌にも語り得ないでせう。
又過日来は北支方面は八十年来の雨とて、戦友より便りを頂いております。河川は大泥濫道往く人も昔の大井川を渡る如き、雲助の話の様とて承はるが、其の辛苦は一方ならぬものだたらう。
そうした自然に苦しめられつつも第一線で鉄砲玉の中で、敗残兵の掃蕩に、鉄道警乗勤務に、また宣撫工作に、日夜軍務に精励する兵士を思ふ時、我々は何と感謝して良いか解りません。
職場の勇士を思へば、我々の日頃の暑さはなんでもない。暑いからとて自由に休めるのですから。勇士を思って少し位の暑さは克服して、労力不足の今日勤労倍加、一人で二人分も働く様にして、農産の拡充を計らねばなりません。
我々は銃後に有りて青年として、こお新東亜建設にあらゆる難局を打解して進まねばなりません。
荒波が襲って来るとも先づ戦線の勇士を思って、乗り超へ乗り超へ如何なる艱難も突き飛ばして進まう。
そうして日頃の勇士の有難さを一日も忘れることなく、日常職場で働き乍ら、暇あれば慰問文なり、慰問袋を奮って送りませう。
彼地に南船北馬する勇士こそ、故郷の様子が知りたいのだ。便りこそ銃後国民の及ばぬ嬉しさだそうです。お互いに励まし合ひ振ひ起ちて戦線の勇士を安んじ、一日も早く此の大難局を突破して、挙国一致堅忍持久の心構ひを層一層深め、新東亜建設に邁進しようではありませんか。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

郷土の便り(杉山) 内田哲郎

 青く高く清浄なる大空、黄色を帯びし実もたわわな稲穂又、その上を吹き渡る風、又、終日しとしとと降る雨、辺り一面に聲える虫の音、全く今は中秋である。秋の風情は万物に宿り、天地間の物皆果を結ばんとして居ります。誠に秋は広壮であります。人間世界は今東、又西に正邪の区を別ち邪を滅せんと尊き人命を無にして奮戦して居ります。宗教的立場から見れば誠に哀れな事に思ひる事でもあらう。将来の事、又、その為に立たんとせん国より見れば大いに意義のある事も思ひます。
 鴨長明の方丈記、うたかたに、ゆく川の水は絶えずして、しかも元の水にあらぢ。よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消え、かつ結びて、久しく止る事なし。世の中にある人と住家かとはまた此の如しと。之は、人生のいかにはかなきかを嘆いた文句に過ぎない。何故短い一生の中に人間は何んの為に血を流して闘はねばならぬのか。
 戦ひは人間ばかりではない。ありとあらゆる生物には常に闘争がある。ましてや万物の長たる人間に於ておや。それがなからう筈はない。祖国を思ふは我を思ひば、日支事変も最早二ヶ年余、聖戦の成果も益々上って居ります。吾が杉山よりも武勲を輝かせつつ大陸の山野に広駆して居ります。勇士は多数居ります。之ら勇士の方々に銃後の青年として何を以って報えたならよいであらうか。その一端として団報を通じて、字の大様の偶筆を以って御報告させて戴きます。顧りみれば事変始って実りの秋最早三度、勇士の皆様も農家の出身故、敵を前に銃剣いだきて漸しの間まどろむ夢に、又一時の休みに、思ひは故郷に走り、本年の稲の出来は、蚕はと色々と御想像の御事と推察致します。
 第一線の皆様喜んで下さい。未曽有な大事変に会ひ無くてはならぬ農作物は多幸な事に、本年は非常に豊作です。今、田圃は実もたわわな稲穂は秋風にないで居ります。土用より今日まで天候実に良く、稲順調に過ぎ、最早多収は間違はないだらう。
 夏作も大豆、小豆と云ひ稀にみる上出来です。これ皆神の加護です。第一線の兵隊さんの御陰です。養蚕もこの晩秋蚕は十円以上だろうと云ふ非常な高値の由で、銃後も前線の皆様に負けはせぬと皆張切って居ります。春蚕も初秋蚕も好成績を得ました。掃立数量からも、又収繭量より見ても労力不足の今日に於いても決して以前に劣ってはおりません。
 弾丸の飛び来る炎熱の中を呑まず、喰はず、昼と云はず、夜と云はず御国の為に戦って下さる沢山の勇士の方々を思ひばと、銃後も全く真剣です。
 吾が杉山にも一大文化の一端が現はれました。百何十尺とかの鉄道省、送電大鉄塔は越畑より来る広野大橋付近より薬師堂前に入り、杉山を斜めに走り、志賀観音堂の南に通って居ります。山頂に巍然(ぎぜん)とそびえる様は文化の対象物のなき吾が村にとっては実に一偉観です。工事は当地に本年早春に始められ、八月に完成した様です。最早全完成も間もなく発送電される由です。この暁は東海道本線は電化され、又工場は今の電気不足も吹き飛ばし、工場のモーターの物凄い唸りは多数の生産品を山と積むことでありませう。
 未だ特筆すべきは数ありますが、杉山支部の様子を御伝へ致しませう。
 事変が始まりますと、出征、入営、又や都会の工場にと、国防の第一線に又産業戦士として活躍なされて居ります故、支部員は全く少人数となり、或は時などは七人となり心細さを感じた事もありました。然し人数など問題ではない。前線の兵士は何十倍もの敵と戦って居るではないかと。協力一致の実を上げ支部員毅然たる態度で活動して下さいました。
 新鋭青年、早川長助君は名誉ある興亜青年、報国隊埼玉中隊の一員として、一月より満洲に参り、智識を博めて間近に帰還致す事でありませう。
 我々のよき指導を待って居ります。
 本団役員も本年早春代り、更に強力な七郷青年団が組織され、若人としての任務を遂行しつつあります。吾が杉山より阿部新団長の就任を見、支部の誇りとすると共に、支部員一同の心身共に強固に、事業遂行に、且っては比企郡連合青年団より表彰されし栄誉を更に光輝あらしめんと努力致しつつあります。前線の諸兄よ、中秋十五夜の月も間もありません。弾丸飛び来る広野の果に、枯草枕に眺むる異郷の月、故郷の月と異はねど自らその趣情は異なる事でせう。月見る度に故郷を思はぬ者はない事でせう。
 雲なき夜空を昇る月に、又、雲間に浮ぶあの月に、過ぎし数々の戦闘に、厳寒、酷暑をものともせず、全くの苦難と戦って、只祖国日本の為、東洋永遠平和の為にと働き下さる勇士を思ふ時、何を以って、之に報えんや。吾等若人はこの位の労力不足は「何のその」の意気で勤労倍加、生産拡充に一人で二人分も三人前も働くことこそ銃後青年の大きな努めである。与へられたる義務でなくてはならぬ。
 そして戦場の勇士に先づ安心して戴くことが大きな感謝の一つである。
 今攻め立てられて居るあの悲惨なポーランド民衆、又敗戦に敗戦を重ねて居る蒋政権下の支那民衆のいかにみじめであるかを考へた時、吾々は皇恩の又国体のいかに有難いかを一時も忘れてはならぬ。
 前線の兵士も銃後の吾等もお互ひに励まし合ひ更に振るえ立ちて新東亜建設の一大事業に邁進すると共に東洋永遠平和の礎と進んでならうではありませんか。国防第一線の諸兄よ益々奮励致すと共に御自愛の程御祈り申上ます。(終)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

郷土の便り(古里) 千野信吉

 秋風衣の袂(たもと)を払ふとは昔のことでせう。
 今は全く夏から秋になるのもわからぬ忙はしい世の中です。唯何んと言っても秋の一番嬉しい知らせが有ります。それは黄金の波です。にへかへる田の草を幾度か続けて今は全く文字通り黄金の波……全く嬉しい、稲田を一廻りすると涙を催します。
 事変下国家の要求する物は生産確保です。今年は、何に到しても豊作でせう。我が村でも相当の労力不足は生じましたが銃後青年の意気百倍良く百姓の本分を到して来た次第です。いよいよ麦まきの仕度もせんけりゃなりません。肥料は相当の不足は充分心にして、堆肥の増産を行ふ他有りません。
 心を戦線の勇士に転じますれば、我等農村青年は秋の農家を何と知らせませう。
 先づ銃後の此の郷土は全く安全です。安全とは一に豊作、二に天気、三に増産、四に自粛、五に全村一心国策通り。秋の農家は実に人生最大の幸福を覚います。
 虫の声を聞きつつ、星天の中透き通る様な月をながめつつ、今年は米は六俵取れるかな、七俵かなと。晩秋蚕は十円、十二円、十五円?……。夕食中の一家の笑声は秋の農家の代表言葉でせう。
 秋の農家は実に気持良い。(未完)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

秋の夜 杉田善作

 銃後の務めにつかれし足を宿し晩餐を済(すま)し一家団欒に更ける秋、いつも賑やかに時を訪れる数々の虫の音、落ちし夜露に体をしとらせ気持よささうに自由の天地とばかりに泣き競って居る。
 これは草むらの影で泣いて居るのだ。空には一片の雲も無く大正無数の星が光をはなって居る。晴れし夜空の元、そよそよと黄金の波を辿(たど)って来る涼しい夜風に、いつしか自己をも忘れんばかりの心地良さ。嗚呼何んと云ふ楽土、七郷なのだ。しかし今までの心は一掃され、楽土を後に遙か遠くの彼の地で悪戦苦闘、友の労苦を偲び、実りし秋の成績を、又故郷のニュースを鈴虫の便りを、書いて行くペンは自然と便箋をすべって居る。前線の將氏よ竹馬の友よ、多幸と武運長久を祈りつつ、一夜の連想に心をかたむけ空想は又古里の便りは便箋に綴られて行く。こうした頃は東は白らみ、日は一寸、二寸、五寸、一尺と木立の影を昇って来る。我が心も踊って居る。やがて日は冴えて光々とおりし白露を輝かせ始めた。此の時、我が心は一層の元気にみえ、希望も満つる。嗚呼、我等青年は勇躍萬里の波濤(はとう)を拓(ひら)いて、天下の富嶽の安きに置く者、吾人、我等を外(ほか)にして断じて他に求むべからずとの自尊的信念と気魄(きはく)とを胸中に抱きながら、將氏の武運長久と逝きし勇士の冥福を、すみし秋の夜空に固く誓ひながら、心の底で万歳を唱へた。愈々時間の波に漂って眠瞼もたれて来た。芳香に一生を埋むる野人もこうして秋の夜の一夜、一夜を楽しく且つ意義深く送り行く。自然の音律も次第にうすらへで来た。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

支那事変と我等の覚悟 田幡寛吉

 支那事変勃発以来国民一層の緊張勤労せるうちに満二ヶ年余を矢の如く過ぎ去り、しかも連戦連勝、敵地を奥へ奥へ進み行く間に、年月を夢の様に迎へられたのでございました。
  天に代わりて 不義を討つ
      忠勇無双の 我が兵は*1
 当時、おお昨日も出征、今日も動員と、手に手に旗を振り、勇ましき軍歌と万歳、万歳とで駅頭に勇士を送りて後、農夫は我れも我もと鋤鍬をふり、熱汗をしぼって働きつつ、反面には遠いみ空の将兵を偲び、手を合せて感謝すると共に、物資節約に、勤倹貯蓄に進んで勤労奉仕に、或は千社詣りに国民挙って武運長久をお祈りいたしました。やがて国民の歓喜は南京陥落、徐洲武漢三鎭等支那の重要地は悉く占領され、旗行列、提灯(ちょうちん)行列に国民の喜びは天地に漲(みなぎ)り溢(あふ)れました。
 又新聞やニュース映画等で月さへ凍る厳寒の下に敵を睨んで剣をとる兵、鉄をもこがす炎熱も厭はず荒れ果てた山河を幾千里と進み行く情況を見る度に、知らず、知らず目頭があつくなり、胸にこみあげて来るものが御座います。私達が今からして安らかに不自由なく生活出来得るも、皆々家を故郷を其の身を忘れて一身を君国の為に捧げて働へて下さってた、将兵様のおかげで御座います。事変も愈々長期戦となってまゐりました。今時局の重大さをしかりと認識して一層堅忍持久(けんにんじきゅう)、物資節約に勤倹貯蓄に進んで、銃後戦線に活躍せねばなりませんですから、私達は如何なる苦難にも打勝って増産業戦線に精進すると共に、日々の修養を怠らず、立派な日本男子となって御恩を報ひなければなりません。戦線を思ひますれば『七転八起』たとへ倒れても亦起き上り向上の道に国民一致団結して強く、正しく生きて、ゆかなければなりません。何も忠実に勤勉であれば、後に成功するものであるの確信を以って明るい生活をして行きませう。
 同時に姿こそ見へねど遠へ彼方の皇軍将兵様の武運長久をお祈りすると共に、深い感謝を献(ささ)げつつ、毎日緊張して作業に従事いたしませう。

*1:軍歌『日本陸軍』(作詞:大和田建樹、作曲:深澤登代吉)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

郷土の便り(太郎丸) 大沢卯之吉

 日支事変以来字としても皇軍戦勝の祈願を初め、其の他色々祈願など鎮守様にて毎月三日正十二時には太鼓合図の元に行なはれます。我が皇軍も益々敵の心臓たる地に又奥地に攻め進み行く様ですが、我が皇軍の進むのもけして支那が弱いのでは無く、言ふ迄も無く我が皇軍の強い事と深く深く認識致す上、我等国民と致して、又青年と致して、飽迄(あくまで)国民精神総動員の事をば守り、私くし達農務に出来うる限りの力と熱とを持て邁進して行く覚悟で御座居ます。
 其の意気を持て今は農務に励んで居ります。何んと言ふても農家としては物を取る事が大切であると思います。此の事変と致しても、大切な小麦の如きは当字と致しては例年度より、はるかに増産で有ります。一戸当り二、三俵は確実に目に見えて居る様な訳です。又春蚕の如きは実に、莫大の結果に上って居ります。やる事なす事皆な熱心にする上か、此の様に小麦や麦なども言ふ所ろ無く、万点万点にと進み行き、字に致しては誰でも又何処の家でも益々恵比寿様の如くになって今の仕事の晩秋蚕に励んで居るが、前い、前い【前へ、前へカ】からの意気である上、色々の結果の様子です。
 又桑園の如きは金肥も節約致した上、自給肥料にて矢張り例年の約三倍以上増産致して居ります上、字と致しては申迄も無く、他村や他の字にも随分桑を売り出して居ります。
 蚕で上がり、又多少桑で上る上、益々にこにことに笑ふ角には福来るの様な事で、又農家と致して一番大切な水田の如きは実に此の上も無い豊年の様子です。又豊年の様子では無く、確実に豊年と定り、此の二、三年前は少し大雨が降ると字は耕地に大水が出て作物を初め、色々の物など目茶目茶に、荒し荒されてしまったが、此の一年前、県の御骨折にて河川工事を致した上、御陰様にて昭和十三年度の如き、大水でも大した事も無く、又此頃の大雨でも少しも水は出づず、実に当字と致しては作物を初め、色々の物が大増産を益々見て居ります。(終)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

俳句 古里・安藤武治

秋晴れや赤誠こもる千社札
出征の子の陰膳や今朝の飯
秋の風稔る稲穂を渡りけり
晴朝に銃後の我等馬草刈る
戦争の話に更ける秋の夜
日曜に来ては社頭にぬかずけり
秋晴に応召の旗はためきり
戦線と銃後を結ぶ総力線(戦)
供出の梅干出すものも戦線の勇士の辛苦思へばこそ
仕事終へ心の安さ夕の鐘耳に止めつつ手を洗ひ居り
生くる日の僅かばかりといと惜しみ血を吸ひる蚊逃しけり
宵月の光ほのけき物干の忘れしものを取りに出てけり
晩秋蚕銃後取る気持で増産を目ざしてやれど病蚕が出来てがっかりうなだれる
               (終り)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

都々逸 田幡清次郎

棘の中にも花咲く茨よ
   知らず手を出しや怪我をする
人の振見て我が振り直せ
       桜花見て色直せ
腹に実の無い瓢箪さへも
   胸に括りがつけてある
夜半に嵐の吹くとも知らず
       咲いて笑ふた山桜
梅の匂ひを桜にこめて
       枝垂れ柳に咲せたい
口でけなして心でほめて
   人目しのんで見る写真
人に頼めば浮名が恐し
   二人じゃ文殊の知恵も出ぬ
思案する程思案は出ずに
   たまに出るのは愚痴ばかり
初年は冗談中頃義理で
   今ぢゃたがへに実と実
ゆめに見るよぢゃ惚よがうすい
       真に惚れたら眠られぬ
意見聞く時や頭を下げな
   下げりゃ意見が上を越す
人に物言や油の雫
   落ちて広がる何処までも
            (曲全集より)

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月

若き力 青木政雄

 朝霧は晴れて昨日の嵐もいつ暴れたのかの様にさわやかな晩秋の風が吹いて居る。田圃にはすがすがしい空気を精一杯に吸ひ、さくさくと朝草を刈る若人の群れがあしたの希望に燃へて其一鎌一鎌に銃後国民の心意気が溢れて居る。此の心意気こそ将来報国の一念にのみ希望を持つ若人でなければ誰あらう。噫々其姿此の心意気が五体を満ち満ちさせて自ら指揮する何の如くに黙々と働いて居るのだ。
 何々云ふ偉大なる姿で有りたのもしい若人ではないか。田圃の稲穂はそよ風にゆられるまで神秘的だ。そうして朝の精か舞ひでそうな陽光をあびてやがては秋の収穫を目前にひかへ今日ありし日を約束して居たかの様に思へてならぬ。
 稲穂は唯だ此の群がる若人達に今までの努力と汗の結晶を感謝するかの如くに穂頭をさげて居るのだそうだ。私達も此の青年で有り此の稲穂を見習をう。実れば実るほど頭をたれる稲穂噫々何と云ふ美しいさわやかな作物であらう。
 万物の長たる若人達に修養せよ、自覚せよ、そしてあらゆる困窮を克服せよと物言は教訓なのだ。此の教訓こそ我等若人の胸には愛国の情熱が益々つのり、長期にわたる国難を打開すべく近き将来を期待されて居るのだ。
 噫々何たる重務であり、此の重き務を果す、若人達は何たる幸福であらう。

比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月
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