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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第2節:福祉・社会活動

婦人のページ

区長職を終わって

            菅谷一区 宮本紀子

 まだ森のたたずまいが深く感じられる東昌寺の門前に結婚とともに住居をかまえました。静かな町でした。関根前町長の熱い想いのこもった「山紫水明を大切にして文化の薫り高い町づくり」の話に強い印象を受けたことを覚えています。嵐山町と私の出会いはこうして始まりました。二十三年前の話です。私の第二のふるさととなり、子供たちにとってはふるさとそのものです。その心を大切に抱きながら地域とかかわり合って今日になります。
 私の住んでいる菅谷一区では、多くの人が区長という立場と仕事を理解するようにとの考え方にたって九年前から区長選出が各班持ち回りとなりました。六十一年(1986)度は九班が当番です。私の班ですが、私は区長選出については、年配のかた、地域の社会活動にかかわっている男性、有力者のかたがたが話し合い選出しあうものと思いこんでいました。ですから全く無関心でいました。ところが私の所に「区長をお願いできないか」と話がありました。もちろん断りました。私自身がその任ではないことを一番承知していました。しかしおもいもかけず区長を受けることになってしまいました。
 「なぜ区長に」と多くの人に尋ねられました。
 当番の班の住民としては、何分の一かの責任はわが家にもあること、二十三年もお世話になっている地域のことであること、だれも受け手がいなくて係りの人が困っていることなどの理由に加えて、「手伝ってあげなさいよ」と、いとも簡単な夫のひと言で話は決まってしまいました。首都圏に勤める多くのサラリーマン家庭がそうであるように私の家でも夫は夜だけの嵐山町民です。家庭における役割分担は自然と決まって、地域社会のおつきあいは私の役目です。気軽に返事をした夫は嵐山における区長職の現状をまるで知りません。私にしてもくわしくはわかっていません。今にして考えてみると一番の原因は、知らなかったことと、たのまれると断れない性格と、楽天的であることではなかったかと思うのです。区民の皆様からはそんなことで区長を受けてもらっては困るとおしかりをうけるかもしれません。
 区長職を受けたとき女性であるということは考えに入れないことを決心しました。しかし紅一点と聞いて、初めての区長会は緊張して出かけましたが、女性であるからという特別なことは何もなく自然に受け入れていただき私の心配は吹き飛びました。区長会は保守的な世界ではないかと考えていた私のほうが認識不足でした。数回の集まりの中で、自分の生活する地域を大切に思う傍ら、現代社会に生きている進歩的な人たちの集まりであるとの思いを強くしました。
 「女性だから大変でしょ」という励ましの言葉もいただきましたが女性だから大変ということは全くありませんでした。ただ私のまわりのかたが「区長が女性で…」そう考えたことはあったかもしれません。区長の仕事の中で特に難しいことが二つありました。一つは人を推せんすることです。適任者を推せんすることの責任の重さと、お願いしたかたに承知していただくことでした。幸いにして昨年はご協力していただくことができ、現在もりっぱに活躍していらっしゃるのを見てうれしく思っています。
 もう一つは行政と住民のパイプ役である区長職においてその視点をどこに置くかということです。私たちの幸福を目的にしている点は同じですが長期の展望で当たる行政と時に住民の望むことは相反することもあります。区長を通して町から要請されることを区民に理解していただくことなど、悩みながらの一年間でした。
 白紙からの出発だった私はまず会議や、行事に出席をすることを第一に、一年間をすごしました。諸行事に参加することによって、嵐山町の一年間を知ることができました。私たちをとりまく世界がどんどん変化しています。人の生き方も、考え方も、政治も、経済、自然も…。そのような中で嵐山町は多くの人びとの英知と努力にささえられてバランスのとれた町をめざして一歩一歩あゆみ続けている町であると、区長職を通して感じました。区の皆さんと楽しい交流もできました。すばらしい人との出会いも数々ありました。自分にとっての歳月をあらためて見つめ直す機会ともなりました。私にとって荷の重い一年であったことも確かですがそれ以上に実りの多い一年間であり、新たな出発となりました。

『嵐山町報道』356号「婦人のページ」 1987年(昭和62)8月25日
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