第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会
道
駅から見て右側にあった。井上商店はこの写真の頃とは営業内容が異なるが存続。中村商店は廃業したが建物は残っている。この写真の撮影年代は昭和30年代の前半頃か、それもかなり早い年代と思われる。
井上商店の店頭がこのような形態であったとは記憶に残っていない。「大賣出し」の大きな幟(のぼり)が見える。看板には化粧品、用品、洋服など表記されているが、運動靴、長靴、学生服、その他の雑貨類も取り扱っていたらしい。後には洋服仕立てをメインとした店になった。この写真は井上商店の開店間もない頃のことと考えられる。
次に中村巳平商店であるが、この店は当時新築し、飴、菓子、玩具、野菜、果物などを商っていたと記憶している。
それから目につくのは両店の看板の表側に書かれている「嵐山共和会」の表記である。嵐山共和会とは、昭和20年代後半から昭和30年代にかけての大字菅谷の各商店の連合組織で、ほとんどの商店が加入していた。当時、菅谷村大字菅谷であったのに、「嵐山」の文字を標榜に掲げたのは、駅名に嵐山の文字が使われていることと、未だ観光地「武蔵嵐山」のイメージが色濃く残っていた時代であったので、観光地「武蔵嵐山」の復興を強く願う意味も含めて、敢えて「嵐山共和会」としたものと思われる。
嵐山共和会の活動には、山岸宗朋氏などが大いに活躍したことを記憶している。主な活動の中に、街路灯の設置、街路樹の柳の植樹があった。大賣出しの幟が縛り付けられているのがその柳で、かなり育っているようだ。(権田文男)
嵐山共和会発足
嵐山駅前通りは本村の象徴である。人間の体にたとへれば顔面である。顔の中の眼玉である。顔を一見すれば心身の健康狀態が窺(うかが)はれる。菅谷村の興廃は駅前通りを見て瞭然とする。この重要な地域に居住する吾々は先ず地域住民の親和協力をはからなければならない。といふ趣旨で此の程駅前通りの有志が相計つて嵐山共和会を結成した。現在会員は約四十名、三月十四日夕刻から内田屋に集つて、盛大な発会式を催(もよお)した。会則によれば、入会脱会自由としてあるが村の発展と共に会員は益々増加するものと見られている。尚この日選出された役員は左【下】の通り。
『菅谷村報道』31号 1953年(昭和28)4月1日
会長 新井義憲(あらいよしのり)【新井兄弟商会の兄】
副会長 上条(かみじょう)明治
同 高山千吉
相談役 田幡順一
同 山岸宗朋
天王様に子供神輿……去る四月発足した嵐山共和会では、来る七月の菅谷天王様の例祭に子供神輿(みこし)を作つて大いに景気をつけることになつた。それと共にリヤカーの山車(だし)も作つてこれは少女達に引いて貰うといふから今年の夏祭りは特別の賑いを呈するだろうといふ噂が巷に溢れている。
『菅谷村報道』33号 1953年(昭和28)6月10日