第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会
道
1911年(明治44)、道路開通を祝って古里戊申(ぼしん)青年会が「七郷道路記念之歌」を発表していますが、その冒頭(ぼうとう)に「実ニ旧道ノ状態ハ 道幅狭ク迂曲(うきょく)々々ト (中略) 岩ヤ粘土ノ坂トナリ 凸凹斜(でこぼこななめ)ノ場所モアリ腕車(わんしゃ)(人力車)ヤ荷馬車ハ猶事(なおのこと) 小学生徒ノ往来ニイ最モ難儀ノ道ナリキ」とあり、開通以前には今日の想像を絶する悪路であったことが理解できます。
また、1919年(大正8)、越畑十三間沼(じゅうさんげんぬま)西の小川熊谷県道端に建てられ現在は越畑八宮(やみや)神社にある新道記念碑によれば、里道(りどう)改修の企(くわだて)は1895年(明治28)頃にもあり、1898年には衆議を得て延長三百余間(けん)にわたって竣成(しゅんせい)したとあります。これを前駆(ぜんく)として七郷村は1908年(明治41)、菅谷村より村内を南北に縦断し男衾(おぶすま)村今市(いまいち)(現寄居町)に至る甲線、福田村和泉(いずみ)(現滑川町)より勝田・広野・杉山を東西に横断して八和田(やわた)村中爪(なかつめ)(現小川町)に達する乙線、七郷村役場前より八宮神社前を通り小川熊谷県道に達する丙線の三路線延長八七五〇間・総工費一万四二二一円余の工事を計画したわけです。当然県の助成が必要であったので、同年8月県知事へ陳情、10月郡長が既設道路の実地踏査(じっちとうさ)に来村、同月県参事会へ陳情、11月には県の通常議会に三十九名の傍聴者を送り、工事に対する村民の赤誠(せきせい)を披瀝(ひれき)しました。12月県費補助五六三八円二二銭が決定し、1909年(明治42)2月工事に着工しました。
しかし、同時期に小学校統合問題が解決し、村役場の隣に新校舎建設を進めたため、村負担分の念出には困難を極めることになりました。住民各戸へ地租割五分五厘、個数割四分五厘の負担を強(し)い、菅谷・男衾・小原(おはら)村(江南町から現熊谷市)から寄付を仰(あお)ぎ、小学生徒の醵金(きょきん)すらも受ける始末でした。また1908年12月には節約規定をだして、「古今未曾有(みぞう)の大事業」の為、向う三ヶ年間年始回礼(かいれい)、冠婚葬祭の冗費(じょうひ)を省(はぶ)き、余財を募(つの)ることを呼びかけた程でした。それでも出資金の未納者が多く、整理委員まで任命して納付を督促(とくそく)しました。
かくて苦労の末(すえ)1911年4月、里道開通式を迎えることが出来ました。前出の記念之歌は「土地ノ面目(めんぼく)改善シ 交通便利トナリニケル 全村一致ノ活動ハ 今ヨリ産業発展ト 永劫無尽(えいごうむじん)ノ幸福ハ斯(かく)シテ増進セラルヘキ」とその喜びを綴っています。今日の町内主要道の根幹を作ったものと言えるでしょう。
博物誌だより111(嵐山町広報2003年10月日号掲載)から作成