第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
修養団
幸せの種まきの仲間たち
埼玉県連合会会長 塚本智導さん 1母に導かれて仏門の道へ
昨年(1996)二月十一日に創立九十周年を迎えた財団法人修養団は、十一月十八日に秋篠宮、同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、文部大臣はじめ多くのご来賓、社会教育団体や青少年団体の代表、さらには日本全国の会員やブラジルからの会員など千五百人余の参加を得て、九十周年記念大会を開催した。
参加者の三分の一を越える五百人余は、埼玉県連合会の会員であった。確かに、地の利という便もあったが、埼玉からこんなに多くの人が参加したということは、埼玉県連合会が活発な活動をしている証しでもある。が、なんといっても、先頭に立って人集めに協力してくれたのが、ここに登場する塚本智導さんである。
塚本さんは、父親・佐助、母親・豊(とよ)夫妻の長男として、大正四年(1915)一月十二日、現在の岐阜県高山市に生まれた。幼名を定次(さだじ)といい、妹・文子との四人家族に育った。塚本家は、雑貨店を生業としていた。
一般的にいって、こうした書き出しで始まると、すぐに本人のことについて書き始めなくてはならないのだけれど、塚本さんの場合、どうしても、お母さんのことについて触れないでは、前にすすめない。
冒頭にも触れたように、塚本さんの母親の名は豊というが、その後、仏門に入り豊光(ほうこう)と改名した。
父親・佐助さんは、大正十四年三月四日、四十二歳でこの世を去る。塚本さん十歳のときのことである。まだ小学校在学中のことでもあり、悲しかったという思い出はあるが、佐助さんのことについてはあまり記憶にない。やはりなんといっても、豊さんにまつわる思い出のほうが鮮烈であり、強い印象として残っている。
後になって聞いたことだが豊さんが当時のことを振り返って、塚本さんに話している。
「夢枕に一人の黒い服を着た僧侶が現れて、お前の寿命は三十四歳までだが、お前を生まれかえらせてやる。お前の体を借りて、世のため人のためになってもらいたいからだ」と。
びっくりした豊さんは、近隣の人に呼びかけて集まってもらったら、夕方六時頃、白装束の豊さんが、バッタリとたおれ、約二時間ほど呼吸がとまっていたという。
「私がたおれていたとき、美しいお花畑を歩いていると、白髪の方が手招きして『お前はまだこっちにきてはいけない。元の世界に帰りなさい。二十一人の人がお前を待っているから。そして、和歌山の高野山へいきなさい。なにかが掴めるはずだから』とおっしゃって、帰してくれたんだよ」と。
豊さんは、二時間ほど呼吸が止まり、医者からも臨終の宣言がなされたが、息を吹き返したとき、豊さんを見守っていたのは、予言どおり二十一人の人だったと言う。
あの世にいくことを拒絶された豊さんは、佐助さんの四十九日法要が終わると、高野山詣でのため行脚に旅立った。後に触れるのだが、塚本さんをお寺に預け妹の文子さんだけを連れて行った。
またまた不思議な話だが、高野山へ行くように夢枕で指示された豊さんは、高野山に赴くが、どこへ行けばいいのかわからない。苦労に苦労を重ねたずね歩いているとき、ふと、あるお寺の前で足が止まり、足の赴くままにそのお寺の門をくぐると、その住職が、またまた不思議なことをおっしゃったという。
「昨夜、私の枕元に仏さんがお立ちになり、こうおっしゃったんだよ。『いいか。明日、子どもを連れた女性が、お前をたずねてくる。その女性は私の名代だから、ていねいに応対しなさい』と。なるほど、あなただったのか。不思議に思いながらも、待っていたのだよ。よく来た。よく来た」と招いてくれた。
こうして高野山に滞在した豊さんは、修業を重ねハッキリと霊感を得るようになる。いわゆる神憑りの道を歩むようになる。
豊さんの自伝ではないので詳しい紹介はひかえるが、豊さんの風聞はアッというまに各地に広まり、多くの信者を得るようになる。北陸地方、東海地方の各寺院などに招かれて布教した。その効用は、
一、足腰の起たなかった人が歩けるようになる
一、豊さんが触れただけでイボがとれる
一、内臓に苦しんでいた人が全快する
などなど、枚挙にいとまがないほどであった。
塚本さんに「お母さんにお世話になった。今日の私があるのはすべておかあさんのお陰である」などと具体的に話してくれる人も一人や二人ではなかったことからも信憑性は高い。そうして恩を感じた人達が、霊泉寺(愛染堂)というお寺へ迎えてくれた。現在でも境内に、昭和十三年(1938)建立された信者たちによる碑が立っている。お供え物などがあると、貧しい人々に施したりしたので多くの人から慕われていたと言う。そうした豊さんは、昭和三十二年(1987)八月十六日逝去する。
一介の雑貨店のおかみさんが、神憑りの人になったのが、塚本さんを仏門の道へ歩ませることとなる。〔閑話休題〕前にも触れたように、父親・佐助さんの四十九日法要を済ませ、母親・豊さんが妹・文子を連れて高野山に向かって旅立ったのと同時に、塚本さんはお寺(久唱寺)に小坊主として預けられる。まだ十歳のときのことである。
『向上』1024号 修養団, 1997年(平成9)6月
いくら父親がなくなり、母親に命じられたとはいえ十歳の子どもにとってはつらい修行生活だったに違いない。早朝起床、床掃除などの朝の行事などは、腕白で気ままに育ったいたずら盛りの少年にとっては、耐えられぬ苦労だった。半年あまりで母の元へもどった。
大正末期から昭和初期の古きよき時代に少年時代を過ごした塚本さんは、世間一般の少年がそうであったようにのびのびと育った。どちらかと言えば、大柄だった塚本さんはガキ大将であった。仲間のなかではいつも親分であり、慕われていたと言う。
当時の高山には、自然がいっぱいあり、野山を走りまわったり、動植物と戯れたり、相撲をとったり、三角ベースの野球をしたり、運動会の騎馬戦ではいつも乗り手になったりして少年期をのびのびと送り、尋常小学校六年、高等小学校二年を過ごした。