第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
公民館
わたくしたちの女子学級では、
年間を通して家庭科の学習をこのようにして進めてきた比企郡菅谷村七郷青年学級
一、地域環境の概要(地域とは旧七郷村を指す)
(一)地域の自然
比企郡の最北端に位し、北は大里郡江南村【現・熊谷市】と川本村【現・深谷市】に接し、南北に細長く、耕地と山林の割合はほぼ半ばするといった起伏の多い谷間の小地域である。東西四粁南北八粁面積一四平方粁、人口三七〇〇人、戸数五九〇戸その大部分は農家で、一戸当り平均耕地は八アールといった小規模経営をよぎなくされている。
(二)地域の経済
農業中心とはいえ小規模経営で、農業の所得のみで自立できる専業農家は比較的少く、昔から現金収入の源泉と考えられていた養蚕も国の保償によってようやく最低限が支えられている現状で、今迄の桑園を如何に転換するかに迷っている有様である。一方家畜についても、酪農に力こぶを入れているが、仲々伸び得ない状況である。経済のシワ寄せが農村に押しつけられた現今、この窮状から脱出すべく、その経営にも様々な営農技術を導入し、多角経営的な方向へと考えているものの、隘路に突き当っては行き悩んでいる実情である。最近菅谷村自体としても新農村建設目標のもとに生産対策に重点をおき、農地改良に農道の整備に特産物の研究に有線放送施設等の事が考えられ、新しい村への脱皮が考究されつつあることは誠に喜びに堪えない。
(三)地域の行政
旧七郷村は、昭和三十年(1955)四月十五日旧菅谷村と合併して菅谷村と称し、新興の意気に燃えている。
(四)地域の教育
学校は地域の中央に小学校一、中学校一とくに中学校は昭和三十一年(1956)二月小高い岡の上に、近代建築の粋を集めて建設されたモダン校舎で、村の誇りの一である。学校から程遠からぬ県道にそって公民館があり、地域の社会教育の中核となって活動している。
二、青年学級の沿革
終戦後数年間は国民全体が虚脱状態から脱することができなかったが、世の中が安定するにつれ青年たちも漸く安定をとりもどし、夜学会という形式で、学習の集いが各地に誕生した。本地域においてもその例にもれず補習学校の形態で、先ず女子が立ち上り学校に集った。村当局の配慮で和裁の指導者も得られ学習環境も整えられて、軌道に乗った学習が繰り広げられた。やがて昭和二十八年(1953)八月青年学級振興法の実施と同時に男子も負けじと非常な熱意と盛り上りをみせ、やがては本物となるかと見えたが、年を経る毎に一人減り二人減りして遂に跡形もなく消え失せてしまった。このような悪条件の中にあっても、女子は和裁中心の学習を継続した。その間、村当局を始め関係者各位の努力と苦心には敬意を表せざるを得ない。それかあらぬか昭和三十三年度(1958-1959)には、県の認める所となり、光栄ある実験青年学級の指定並びに文部省準指定を受けることになったわけである。
三、実施機関名
比企郡菅谷村七郷公民館
四、主たる開設場所及び開設期間
主なる開設場所 比企郡菅谷村立七郷小学校
開設期間 自昭和三十三年(1958)四月〜至昭和三十四年(1959)三月五、対象の分析概要
年齢別
18才未満 2
18才〜20才未満 10
20才以上 20
計 32
学歴別
中卒 25
高卒 7
計 32
職業別
農業 32
計 32
続柄
長女 10
二、三女 22
計 32六、運営組織の概要
菅谷村教育委員会
菅谷公民館
七郷公民館
公民館運営審議委員会―主事―
青年学級運営委員会
公民館長
青年学級主事
社会教育委員代表
公民館運営委員代表
講師代表
中学校代表
小学校代表
青年団長・副団長
各大字生徒代表七、職員組織について
職名 氏名 性別 主なる担任教科 現職名 備考
主事 権田正雄 男 中学校長
講師(専任)島田のり 女 和裁
講師 横瀬みどり 女 ホームプロジェクト・洋裁 小学校教諭
講師 吉田ユキ子 女 料理 中学校教諭
講師輔佐 青木幸子 女 青年団副団長八、予算について
収入の部
市町村費 140500
県費補助金 15000
国庫補助金 50000
寄付金 ―
その他 ―
計 205500
備考
支出の部
職員費 33500
消耗品費 5000
光熱水費 1500
食糧費 5500
旅費 4500
報償費 12500
燃料費 10500
印刷製本費 700
備品費 131400
通信運搬費 400
計 205500
備考 報償費には社会見学、旅費補助金を含む九、研究活動の経過
(一)実験青年学級県指定、文部省準指定を受く
昭和三十三年(1958)六月実験青年学級県指定並びに文部省準指定を受けた。
私は、今迄青年学級について余り経験もないし、着任後日も浅いので、地域の事情もよくわからず困惑していた矢先、突然青年学級主事に任命され、かててくわえて実験青年学級の県指定並びに文部省準指定という光栄ある大任を担うこととなったものの、何等の足掛りとてなく、如何にしてこの責を果すべきか悩んでおりました処、県社会教育課の御配慮により実験青年学級同志の意見交換、相互研究、併せて指導の機会を企画して頂き本当にホッとした思いがいたしました。
第一回は七月三日県社会教育課分室で、
1 研究指定までの経過及び指定の趣旨、主題、条件、報告書、その他説明
2 質疑応答及び意見交換、問題点の提起と、話し合いが行われたが、不幸にして参加の機会を得なかった。やがて第二回の研究会が七月二十五日熊谷市役所で開催された。研究課題は、
3 学習過程の編成、実験青年学級の今後の取り組み方について意見交換指導を受けた。
研修の仕上げという格好で、九月十六日から九月十八日まで二泊三日間の青年学級主事講習会が開かれ、この道の権威者の意見を聴き、ねんごろな御指導によって漸く或る程度の自信がもて足掛りも得られたので、駄馬に鞭打ち勇気をふるい起しながら次のような歩みを続けた。(二)青年団幹部との懇談会
昭和三十三年(1958)七月十八日中学校家庭科室において、青年団幹部と懇談会を開き次の事項について話し合った。
1 どんな人に準備委員(運営委員)になってもらうのがよいか。
理論的にはほんとに親身になって考えてくれる人、骨惜しみせずに活動してくれる熱心な人、ということになるが、さて誰にということになると仲々むずかしい問題であったが、色々話し合った結果次の方々を委嘱することになった。
(1)主催者の立場の人
公民館長 社会教育委員代表
(2)指導者の立場の人
中学校長(主事) 教頭 女子代表
小学校長 教頭 女子代表 専任
(3)協力者の立場の人
青年団長 副団長
(4)参加者の代表の人
青年団幹部大字代表の人
2 生徒への呼びかけをどうするか
地区内の青年に呼びかけ八月二十日までに、入級届と履歴の大要、学習内容についての希望を主事宛提出すること
3 第一回運営委員会の日時、場所、協議事項をどうするか
(1)日時場所 八月二十五日午後一時半、中学校家庭科室において
(2)協議事項
イ、開講式をどのようにするか
ロ、運営方針について
ハ、学習目標について
ニ、学習教科と時間数
ホ、実行予算について
尚一日も早く委員を委嘱し、協議事項を前もって流し、研究のうえ参会することを約し終了した。(三)第一回運営委員会
1 日時場所 八月二十五日午後一時中学校
2 協議事項
(1)何時何処で開校式を行うか
昭和三十三年(1958)九月四日午後一時半から小学校裁縫室で行う。
当日の来賓としては、村長、教育長、社会教育委員長、議会議長、村内主事、公民館運営審議委員、講師とする。
(2)運営方針をどのようにするか
イ、青年の自主性を尊重する
ロ、青年の生活実態及び地域の実情に即応する
ハ、実際生活に必要な職業または家事に関する技能の習得と一般教養の向上を期する
(3)学習目標をどうするか
イ、自分達の生活課題解決の糸口をつかむ
ロ、自分達の文化的欲求をみたし、明るい家庭、明るい社会を建設する
(4)学習教科と時間数をどうするか
イ、家庭科
和裁、料理、育児衛生、お花、着付美容、礼法、ホームプロジェクト、洋裁
ロ、一般教養
珠算、時事問題、音楽、教養講座、文化祭研究発表、公民館定期講座
ハ、その他
視察、社会見学、レクリエーション
全時間を五〇〇時間位として、各教科目の時間配当は後日行うこととした。
(5)実行予算案の編成(四)開講式
予定通り九月四日一時半から小学校裁縫室で、多数の来賓を迎え盛大に開講式をあげ第一歩を踏み出した。式後約二時間自主的にレクリエーションを実施した。
(五)視察
十月三日行田市星宮皿尾部落営農の実際と台所改善の実情を視察非常に得るところが多かった。
(六)第二回青年学級運営委員会
1 日時場所 十二月二十三日中学校において
2 協議事項
(1)学習計画の再検討
学習計画を再検討して、各教科目の回数と配当時間を決定し、一月八日から始まる女子青年学級に備えた。
(2)実行予算の再検討
県からの補助金通知に接したので実行予算の再検討をした。(七)公民館定期講座
昭和三十三年(1958)九月から翌年の一月七日までの間は公民館定期講座の計画に基づいて学習を実施、召集回数六日。
(八)本格的学習の開始
一月八日午前九時より女子部の本格的学習を開始した。
(九)第一回訪問指導
一月二十日午前十時より野中県社会教育主事、瀬戸比企教育事務所指導主事、秩父、川口の専任主事、村内関係者、菅谷青年学級専任主事並びに生徒六名を迎え、第一時限料理、指導者吉田教諭、第二時限、和裁、島田講師の実地授業参観。午後研究会開催諸先生方の御指導を受け、次回の計画について話合い午後三時半終了した。
(十)第二回訪問指導
二月十四日午後一時から野中県社会教育主事、山川比企教育事務所長、瀬戸主事、村内関係者青年学級運営委員と話し合いの会をもった。中心話題を次の三項目にしぼり、午後五時半まで続けた。
1 青年学級の対象である生徒の実態について
2 教科目と講師の問題
3 設備予算等について(十一)昭和三十三年度青年学級研究協議会
1 日時 昭和三十四年(1959)二月二十五日九時より
2 場所 比企郡滑川村青年婦人研修所
3 本青年学級としての参加者
主事 権田正雄(第一分科会)
講師代表 島田のり(同)
生徒代表 小屋野富子(第二分科会)
小林八重子(第三分科会)
島田敏夫(第二分科会)
安藤貞良(第三分科会)4 実践発表者並びに発表題目
「七郷青年学級運営の実際」 小屋野富子
野中県社会教育主事の講演講評、杉山孝行先生の指導があって盛会のうちに午後三時半終了した。(十二)第三回運営委員会
1 日時場所 三月四日 中学校家庭科室に於て
2 協議事項
(1)社会見学実施の日と見学場所
イ、日時 三月十日午前六時出発
ロ、見学場所
(イ)淀橋青果市場
(ロ)国会(参議院)見学
(ハ)東京タワー見学
(ニ)日本テレビ
(ホ)デパート、浅草観音参拝
(2)修了式に関すること
イ、修了証書をどうするか
総授業日数の半分以上の出席者に出す
ロ、皆勤賞その他賞品のことについて
皆勤賞は勿論努力賞を出すこと
ハ、修了式の日時について
三月二十五日午後一時半ホームプロジェクト発表後、中学校音楽室において行う(十三)社会見学
予定通り三月十日実施、修養団本部の菅野先生の案内により予定の場所を見学、恰も移動青年学級の様相を呈し、極めて有意義の見学であった。ただ残念だったのは、一日中雨にみまわれたことだが、考えようによればむしろ強く印象に残ることかもしれない。
(十四)ホームプロ発表会、修了式
1 日時 三月二十五日午後一時半
2 発表者と題目
イ、私達の考えた結婚の条件 小林八重子
ロ、嫁と姑 小屋野富子
3 修了式
多数の来賓臨席のもとで意義ある修了式を行った。十、学習内容と計画表
職業科
農業 5回 10時間 小菅
農業簿記 7回 7時間 飯島
計 12回 17時間7家庭科
和裁 260時間 島田のり
料理 9回 18時間 吉田ユキ子
育児 2回 4時間 大塚満津
衛生 2回 4時間 早川
美容着付 2回 6時間 菅野
お花 8回 18時間 塚本智導
礼法 2回 4時間 竹内信子
ホームプロ 5回 10時間 50時間 横瀬みどり
洋裁 5回 10時間 横瀬みどり
定期講座・和裁 1回 8時間 戸田
計 372時間一般教養
珠算 4回 4時間 藤野豊吉
4回 4時間 初雁不二彦
時事問題 3回 3時間 小高正文
音楽 4回 4時間 清水栄一
教養座談会 1回 2時間 (村長)青木義夫
〃 1回 2時間 (教育長)金子慶助
〃 1回 2時間 (公民館長)井上文雄
〃 1回 2時間 (農協長)市川武一
〃 1回 2時間 (婦人会長)塚本満子
定期講座その他 29時間
計 51時間其の他
視察 1回 9時間 行田皿尾部落 十月の予定
社会見学 1回 9時間 国会見学 三月の予定
レクリェーション 3回 8時間
計 26時間十一、研究の成果
こと教育に関する限り、一年位実施したからといってその成果をうんぬんすることは到底不可能なことと考えるが、強いて気付いた点をあげてみると次のようなことがいえると思う。
一 今迄は徒手空拳と申しましょうか、教室と裁ち板、アイロン、こて位で、これといった設備もなくて実施してきたが、本年度は予算的に恵まれたため、設備面である程度整えられた点は特筆大書すべき第一の成果である。
二 青年学級に対する生徒や一般村民の考え方が違ってきたように思う。
即ち学校の延長という考え方から、自分達の生活課題なり悩みなりを解決する糸口を見つけながら、ともどもに磨く場で、自分達にとっては極めて重要な場所である。何とかこの芽生えを、すこやかに伸して行きたいという気持をもった青年が多くなったように思われる。
又村民一般の理解も深まったようである。
三 学校と青年の接触が多くなるにつれ親しみがひとしお加わった。十二、研究過程で障害となった点(今后残された問題点)
一 学習課目が多すぎレクリエーションの時間が少なすぎると思うので、今後は学習課目を精選し、娯楽面を多くとり入れるように工夫する必要がある。
二 どのような学習形態をとり、それにふさわしい組織をどのように作ったらよいか。
三 学級運営により魅力をもたせ、特に中学校を卒業したばかりの青年が、喜んで飛び込んでくるような青年学級にするためにはどうしなければならないか。
四 青年活動と学習活動を別個のものにしないで、同身一体的な活動ができるよう工夫する必要がある。
五 野放し状態にある青少年の道徳教育を如何にすべきか。
六 昭和三十三年度は可能な範囲で、共学の方法をとったが昼間実施したため、男子学級は極めて不振であった。このことについても充分考慮する必要がある。
これを要するに青年の実態をよくつかんで、魅力ある青年学級にするためにはどうしなければならないかという問題に要約できるように思われる。参考資料
一、私達の考えた結婚の条件
発表者 小屋野富子(二十才)
(34・3・25 ホームプロ発表会資料)
一 あなたの望んでいる結婚の塲については
農村14 都会17
二 婚家の職業については
配偶者が勤人12
百姓1
勤めをしているが百姓もしている12
勤人ではないが大工、左官等の職人2
酪農をしている3
三 家族の人数は何人位がよいかについて
一人8、三人8、四人6、五人5、六人4
四 どんな家庭状況のところをのぞむか
封建的な家庭1
民主的で上下の区別なく皆平等に扱う。従って少しのものでも子供も大人も同じに分ける22
経済的には大して恵まれていないがきわめて明朗な家8
五 暮し向きについてはどういうところを望むかについて
普通でよい20
良い方を望む7
特によい3
普通より悪いが暮しには差支えない1
六 住居についてはどう考えますか
小さいが間に合う(二間〜三間)14
中位の大きさ(四〜五間)17
七 作業場については
割合に大きいのが別に作られている15
小さいが別にある14
別に何もなくてよい1
母屋が大きいので間に合わせる1
八 飲料水については
水道がよい16 ポンプだが近くにある2
ポンプだがホースを利用して水くみには苦労しない8
家の中にポンプをつけ、流しでつかう5
九 配偶者の人権について
学問も高く温和な人がよい5
学校は普通程度だが努力家がよい16
高校程度の学力で苦労して育った人10
十 配偶者の結婚の知識
幾分勉強している24
特に研究ずきで細い点も知っている7
十一 配偶者の兄弟関係について
男兄弟のみがよい6
男女半々ぐらいがよい16
兄弟はない方がよい9
十二 姑についてはどう考えるかについて
父母そろっているのがよい17
母一人だけ5
父母はいない方がよい7
父母、としよりもいるのがよい2
十三 子供はいく人くらいがよいかについて
二人14 三人15 四人2
十四 姑の役職の経験については
婦人会等の役員の経験のある人31
十五 子供の育て方について
小さい時はしからないで育てたい3
小さい時からきびしくして大きくなったら余りいわないように育てる25
学校へ上ったらきびしく他は普通3
調査人員31 年令17才〜21才迄二、嫁と姑
発表者 小林八重子(二十才)
(34・3・25 ホームプロ発表資料)
○こんな嫁になりたい
一 姑にも、その家庭にも、早く馴れたい
二 自分勝手にせず何事も話し合って行きたい
三 真の親兄弟と思い何事も協力して行きたい
四 時には歌も歌い冗談も云える朗かさを作って行きたい
五 食物は栄養を考え家族が喜んで食べてくれる料理を作りたい
六 何事もこまめに働きたい
七 暇な時には読書もし、自分の知識の向上につとめたい
八 少し位の事には気をつかわず、腹も立てずに心を大きくもちたい
九 気どらない嫁になりたい
十 農業について少しずつ研究して行きたい
十一 たとえ嫁の意見であっても正しい時は通させてほしい
十二 姑と嫁で話し合う時間をたくさんもちたい
十三 師ごとはなるべく分担してやって行きたい
十四 家庭内の生活改善は少しづつやって行きたい○こんなお母さんがほしい
一 嫁と思わず娘と思ってほしい
二 仕事も洗濯物も相談してやらせてもらいたい
三 食事時は早めに仕事から上らせてもらいたい
四 経済の許す範囲で作業着位は買ってもらいたい
五 病気の時は自分の子供と思って看病してほしい
六 家族揃って時には映画や旅行に行かせてもらいたい
七 うわさ話や嫁の悪口は云わないでもらいたい
八 何事も理解のあるお母さんであってもらいたい
九 若い人達とも良く話し合えるお母さんであってほしい
十 時には少し位小遣いを出してもらいたい
十一 教えていただく事は別として、その他の事については嫁のすることに余り口出しをしないでもらいたい
十二 「わしが嫁の時代はこれこれだった」と思っても嫁に対してそれを繰りかえさせてもらいたくない
十三 何年たっても実家から仕着せをしてもらうようなことのないようにしてほしい
十四 食事も嫁許りが給仕にならず、他の人も協力してやってもらいたい
十五 洗濯は仕事外と考えないで、家庭の一つの仕事を分担しているのだとみてもらいたい
十六 嫁の道具の多いのを自慢したり、又その量の多少によって良い嫁、悪い嫁の区別をつけてくれることのないよう、道具をもらうのではなく「人間」をみてもらってほしい
十七 嫁をもらったからといって、すぐ婦人会等に出されるのはこまる(文責 権田正雄主事)
『青年学級のあゆみ』昭和33年度実験青年学級記録1 49頁〜60頁 埼玉県教育局社会教育課, 1959年(昭和34)