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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

『青嵐』

『青嵐』13号の表紙|スキャン画像『青嵐』13号の表紙

たなばた祭り 一年D組 長島洋子

 まちにまった、たなばたの朝、私はおばあちゃんや親類の人たちといっしょに小川へ行くことになった。菅谷までいってから電車に乗って小川に向かった。電車の中は、たなばたを見に行く人で満員だった。数分して小川駅についたときはもう満員で歩くのもたいへんなくらいだった。よその人をのりきってどんどん親類の家にむかった。家がすぐ前の方に見えた。私もみんなもやれやれと思った。家についてからすこし休んでから、たなばたを見ることにした。約一時間位たった時、おばあさんが「もうよく休んだからたなばたでも見に行くか」といった。それから家を出て人ごみの中を見て歩いた。くす玉にテープがさがっているのが多くみえた。私はおばあちゃんに、「このくす玉きれいだね」といったらおばあちゃんは「ああ」といっただけでした。ふと私が親類の男の子を見たらさがっているテープをひっぱっては取り、ひっぱっては取りいっしょうけんめいに取っていた。そして手に持ちきれなくなると、おばあちゃんにまいてもらっていた。私はそれをみて「これはとってはだめ」といった。その子は平気な顔をして「なんだいおめえなんかそんなにきどるない」といった。「私はなにもきどってなんかいない。ただとめただけだで」といった。「それだったら、おめえも、こうやってテープを取れよ、おもしろいぜ」とすましていた。私はちびのくせに、なかなかいばっているなと思った。そしたらおばあちゃんが「これは小川の人たちがお金をかけてかざって見てもらうためにたなばた祭りということを開いたんだよ」といった。私も「そのとおりだよ」といった。それでも男の子はテープを取っていた。
 私はずいぶんごうじょうだなと思って、だまっていた。私がおばあさんに止めてといったらおばあさんが、止めたらすぐ「うん」といってやめた。私はよかったと思った。それからこおり水をみんなでのんでから親類の家に帰ってきた。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

おかあさん 二年B組 吉野ひろ子

 私の家のおかあさんは、私達を学校へ出した後、洗濯、掃除、その他少しある畑仕事をだいたい一人でまわしてしまいます。私はたいへんだなあと思って、早く学校から帰って、少しはおかあさんの手伝いをしようと思うけれども、それは思うだけ。いつも放課後、本が読みたいと思い、図書室で本を読んでから家に帰ると四時頃になってしまう。このため仕事を手伝うひまはないのである。だからお母さんは疲れて「容易でない」とよく言うことがある。私はおかあさんのそんな言葉をきくのがいやなので、聞くたびに早く学校を卒業しておかあさんを楽にしたいと思っている。けれど、私みたいな子に親孝行ができるかと思うと、自分でも情けなくなることがあります。今おかあさんが望んでいることは「遊んでばかりいないで勉強をしてえらい人になうように」と言うことだ。そんな時の私には何もいえなくなってしまう。でも私は、それで満足する。正しくしつけるために私達に言いきかせるのだからと思うと、少し自分がわがままを言い通してきたことをすまないと思った。私は今後、おかあさんにはあまりわがままを言ったり、心配させたりするのはもうよそうと思った。もうあと少しで中学三年生になるのだからと思うと自分でもはずかしいような気持になる。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

計画表 三年A組 柴田みき

 義務教育の最後の夏休み、今年位きちんと過ごそうと思った。そこで浮かび上ったのが計画表実行、出来る出来ないは問題にしないで、立て始めた。計画表は自分の生活に合っていなければ効果はない。自分に合うようにいろいろと練った。出来上った計画表を見つめて考えた。三日ぼうずにならないように、一日おきでも二日おきでも続けばよい。その計画表を元にして生活が始まった。一日、二日、三日、四日、計画表にのって過ごした。五日目からずっと学校へ行く日が続いた。学校へ行く。ここからだんだん計画表から離れて、だらしのない生活が始まってしまった。三日ぼうずではないがたった一日多いだけ。あきれてしまった。実行のむずかしいことがわかった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ヂーゼルの一日の思い出 二年B組 内田良枝

 去年の十二月十八日の朝、私は姉に連れられて、ヂーゼルに出かけた。冷たい風が顔を強くあてている。東松山駅をおりると人通りが激しく子供連れの人が多かった。歩道を歩きながら、松山という所は菅谷と比べると、とてもにぎやかな所だと思いました。十分ばかり歩くともうヂーゼルの門に着いてしまった。姉は友達や、その道を歩いている人に「おはよう」とあいさつするが、私は恥ずかしくって姉のそでにつかまってしまった。姉は恥ずかしがる私に、「そんなに恥ずかしがる事はないじゃあないの。」と言ったが、私は凄(すご)く恥ずかしかった。ヂーゼルは凄く大きな建物がいっぱい立ち並んでいた。姉は自分の働いてゐる場所へ連れて行ってくれました。日曜日だったのに出勤している人がいました。そこへ私が行くと、皆が「和恵ちゃんちの妹かい。」とじろじろ見ていました。姉も恥ずかしそうに「そう」と答えていました。その日は、ちょうどバレーボールの試合の日でした。姉もその仲間に入って試合をするのです。私は姉がバレーが出来るのかと思うと、ちょっとおかしくなるくらいでした。あまり運動しない姉だからです。一回、二回目と一課の裏庭でして勝ちました。三回目は体育館でやることになりました。私は、体育館の二階に上がり応援していたのですが、広い体育館なのであまり下の方が見えず、そぐそばで応援していました。だが残念な事に姉のチームは負けてしまいました。その試合が終ると、もうお昼になってしまいました。売店で食事をして、姉の友達のノブ子さんと私と姉の三人で、工場見学をしました。油の臭(におい)が鼻にきて気持の悪い程でした。でも色々な機械類を見たり運動場の方へ行ったり、裏山にくり拾いに行ったりして楽しい一日を過し、家に帰りました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

たっぺの道 三年A組 奥平定男

畑中の登校の道
あたり一面真白
「もう初霜かな」
「まさか」とつぶやく
片足を踏み入れたとたん
ざくざくざく
「なんだろう」と思って下を見ると
背丈がやっと一寸そこそこのたっぺ*1
太陽の光を受けて光っていた
「おお寒い」「もう冬か」
とつぶやきながら歩いて行く
さすがに登校の生徒もまばら
厚さ三分位のくつ底もだんだん冷えてくる
百歩ぐらい歩いただろうか
くつ底も冷えきって
足がいう事をきかない
下をむきながら歩いた
白い息が胸元をおおう
そのたびにわずかに暖かさを感じる
長かったたっぺの道
わずか二百歩余りの道が

*1:*たっぺ:霜柱。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

関西旅行 三年A組 根岸重雄

 七月十二日朝、前々から用意した持物を手に胸をはずませ、駅に行くと、皆んな集合していたので急いで並んだ。それから少したって、校長先生と先生方の注意などを聞いて、五時十九分の電車に乗った。朝一番だというのに混んでいて、僕達何人かは腰掛られなかった。電車の中の皆の顔を見るとまだ眠そうだ。一時間半位たって、池袋に着いた。そこで少し待ってから山手線に乗った。そこもラッシュアワーでたいへん混んだが、今度は腰掛られた。そのうち品川に着くと、方々の学校の生徒がホームに渡っていた。出発時間まで約一時間半位あったが、駅の中やまわりを見たりしているうちに出発の八時四〇分になり「日の出」号がホームに入って来た。
 電車の中の座席は、学校で一応決られた場所に座り、それから適当に、友達どうしで取りかえた。僕達の座席は、菅野、須沢、神村、奥平、山下、僕の六人。始めてみる東海道沿線のけしきは、とても美しいので、しばらくは外を見たきりだったが、そのうちあきて、菓子やキャラメルを食べたり、いろいろこれからの事を想像して、胸をおどらせていた。幾つかの大きい駅に止って、約七時間位電車にゆられ、京都に近くなった時、雨がざあざあ降ってきた。僕達はちょっとがっかりしたが、降りかたがすごいので、じきに止むと思った。だけど一時間位降ってもやまないので気をもんでいたが、しだいにやみはじめた。ちょうどよかったと思った。そのうち終点の京都に着きホームで人数をしらべ、駅を出るとバスがむかえに来ていた。そこから宿屋までバスで行った。
 宿屋に着くと、「毎度おおきに」と、むかえてくれた。それから菅野、山下、神村、中島、僕の五人は、自分達の部屋を宿屋の人に聞いて荷物をおろし、着物をとりかえ休んだ。一時間位たつと、夕食が運ばれて来た。夕食がすむと、おふろに入り、それから九時まで自由時間なので、おもいおもいに遊んだり、買物したりしていた。九時までだというのに、一晩中遊んだ。
 朝になると洗顔して、朝食をすませ、八時頃バスで今日と見学へむかった。金閣寺をはじめ多くの名所を見学し、写真を撮ったりして五時頃宿屋に帰った。又この日も前の日の様に何時間も眠れなかった。
 三日目は朝八時頃奈良方面にむかった。二時間半位バスに乗り奈良公園に着いた。ここは「しか」がたくさんいて、人になついているので、しかを入れて皆、撮影に一生懸命だった。一時間ちょっと、しかと遊び、そのほか幾多の奈良名所を見学して、五時すぎ京都駅に着くと、宿屋から自分達の荷物がとどけられていた。
 京都駅で一時間半以上待って、十九時五〇分東京へむかった。電車の中では来る時と同じ様に腰掛けた。皆、この日は疲れて元気なく、九時に電車の中の電気が消えると寝た様だった。だが夜行はあまり寝られなかった。一晩たって品川に着き、山手線に乗り池袋へくると、寄居行は七時の出発。まだ六時、疲れているのに一時間も待ったのでひどく長く感じた。
 やがて七時になり、池袋発なので全部腰掛けられた。皆、電車の中で眠ってしまったせいか、またたくまに武蔵嵐山に着いた。駅には五〇人位の家の人と学校の先生がむかえに来ていた。駅の前に並んで人数を調べ、ちょっと話を聞いて解散した。楽しみに長い間待っていた修学旅行三泊四日も、またたくまにすぎ、無事こんなふうにして多くの思いでを残して終った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

思い出 三年A組 大野満寿代

 修学旅行の数日前朝礼の時、週番の目標発表の後、何先生だったか忘れたが、「もう三年生の修学旅行も目の前にぶらさがっている。」との事。私はもう……いや私だけではない。みんなもそうであろう。うれしくて仕方がなかった。いよいよ旅行の前日である。みんなと一緒に買いものやら、使いやらで川島からの帰り、「どうも空もようがおかしい。」と思ったがそのまま歩き始めた。そしたら大粒の雨がばらばら雷の音と同時に降って来た。ちょうど好子さんや澄子さんが脇の見せによったので、そこの人が「少し雨やどりでもしていけばじきにやむよ。」と言ったので腰をおろし、話にふけった。ちい子さんは「三年生は心がけが悪いかな。」と言った。およそ一時間位、その店にいて、やっと雨が小ぶりになったのでかさをかりて買いものに出かけた。「みんなはよかったなあ。」という表情だった。やがてみんなと一緒に家に帰り、明日の仕度をした。いよいよ出発。品川まで、東武線、山手線に乗り「ひので号」に乗って京都駅まで行ったが行きにはあまり感動しなかった。だが、さすがに日本で一番大きい湖だけあって琵琶湖の大きさには眼を見張ってしまった。
 京都についたときには雨が降っていたので、東、西本願寺の見学は翌日に廻し、旅館「八雲荘」までバスで行った。翌日(十三日)は京都市内の見学、十四日は奈良市内の見学。それにしても驚いたのは奈良の大仏、それに寺の多いこと。中でも法隆寺、清水寺、などは有名な寺の一つである。大仏の話にしても説明の人の話によると、まゆげの長さが一六三センチメートル位あるそうですので、私達の背の高さより少し長いことになります。でも私達が下で見ただけでは、それ程、大きいとは感じませんでした。寺にしても神社にしても豪壮雄大でその当時の文化のありさまがよくわかります。というふうに次々に見学して廻り、帰ることになった。
 帰りは夜行で、その車中が一番面白かった。というのも、脇の席の男の子達が眠っている子の口の中へあめを入れたり、眠っている人を写真にとったりして、面白がらせたからだった。旅行の思い出としては私はあまり忙しく見学先を廻って来ただけで終ってしまったような気がする。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

随想 関根次郎

 去年の五月、本校に勤務するようになってかあ間もなく、『青嵐十二』を手にした。『青嵐』という誌名に、まず『あふれる若さ』を感じ、一二五ページにわたってぎっしりつめこまれた作品に『たくましい努力』のあとがうかがわれて、心あたたまる思いだった。あおの頃のぼくは転任して間がなかったので、学校の様子も皆目わからず、毎日心細い思いで勤務していただけに、この青嵐に接したことはまさに「闇夜に光」の感じであった。
 ぼくの前任校であった大河原中学校でも、やはり生徒会の手によってささやかな文集『やまざと』がもうかなり長い間にわたって発行されている。いつもその編集にたずさわっていたので、文集を発行するということがいかに苦労の多いものであるか、そしてどんなに意義あることかということを一通りは知っている。それだけにこのようにりっぱな『青嵐』がもう十二回も作り出され、そして今十三号の誕生を目前にしていることに対して最大の敬意を払うとともに『青嵐』こそは菅中生徒会の最上のほこりであることを強く感じる。

 本校へ転任してから、何の因果か習字を担当しなければならなくなった。毛筆は師範学校一年生のとき持ったままで、以来十五年間にわたって手にしたことがない。弱ったことになったが、とにかく何とかしなければならあに羽目になった。幸いに内田先生がその道の大家なので、その教えを乞い、『三十の手習い』という言葉はないかも知れないが、昨年七月よりそんな状態になったわけである。
 ある書道会にも入会して、意のままにならぬ毛筆をおぼつかない手つきであやつっているわけだが、できばえの良し悪しは別として、『人間は何かの形でそれに没頭できるものを持つことが大事なことだ』ということがわかっただけでも大きな収穫だと思う。

 新しい年をむかえることは、おめでたいことと昔から相場がきまっているようだ。おめでたい意義をとりたてて考えてみたこともないが、『物事ははじめが大切』ということなのであろうか。とにかく、何事でも無計画で大した見通しもなく仕事をはじめたところで、そこからは期待すべき結果は生まれないであろう。また『終りよければすべてよし』とか『最後の五分間』とか『立つ鳥あとをにごさず』とか言われているように物事は終りも大事のようである。とすると物事は初めと終りが大事で、その途中はどうでもよいということになるのだろうか。
 スキーを練習しはじめたころ(今はじょうずだという意味ではない)うまくすべり出すことができれば、途中もうまくすべれて、案外じょうずにとまることができる。そんなことを何回か体験したように記憶している。ヘッピリ腰ですべり出したのでは満足にすべれなかったような気がする。

 最近語尾に『ヤー』をつけるくせがついてしまったらしい。家へ帰ってそのことを指摘されると『そうかヤー』なんて言ってしまって大笑いになることがしばしばである。これも菅谷村にはやく慣れたいという涙ぐましい努力?の副産物なのかも知れない。ともあれ語尾に微妙なアクセントをつけて、『センセ』と言われるのもあまりいい感じではないが、『先生ヤー』にもウンザリする、何とかならないものか。
 これから大寒にはいるというのに、もうチラホラと梅の便りも聞かれ、北海道なみの寒さだという奥秩父の川ばたにもねこやなぎのとんがりぼうしが冬の陽に白く光っているという話を聞くと、何となしにほのぼのとしたあたたかさをおぼえる。たしかに、ここ数日名物のカラッ風もなりをひそめ、元日に降った雪も外秩父の山なみから日ごとに影をけして小春日よりのおだやかな日が続いているようだ。
 三年生諸君とは、週に一時間の保健の時間を通してだけのわずかな接触にすぎなかった。考えようによれば、ぼくのような人間とのつき合いがすくなかったことはみんなにとって、しあわせであったかも知れない。いずれにしても、諸君の言動をただボンヤリと眺めて過ぎてしまったことは申しわけなく思っている。何の印象も残ってはいないだろうが、せめて『消防ポンプ』のニックネームだけでも時より思い出していただければ幸いと思う。
 これからの諸君の前途にも、きっと多くの困難が横たわっているであろう。そうした難事に当面した時、決してあせらず、冷静に事を処理していただきたい。そしていつも『すなおな気持ち』で物を見、考え、行っていただきたいことをお願いする。
 三年生の前途には幸多かれと祈り、この言葉がいつもみんなの胸に希望のともしびをともしつづけることを念じて筆をおく。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ふろ 一年D組 中島操

僕がおふろをわかしていると
おじいさんが「ふろがわきそうだからかんましてみろ」
といった。僕は「うん」とへんじをした
僕がふたをあけたら
ゆげがゆうれいのように
ゆらゆらあがって僕の顔にあたった
ほおがぬくとくなった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

日曜日 一年C組 関口幸子

 麦まき、いねかりも終ってしまった私の家の日曜日。みんな農繁期の緊張がほぐれ、家の中が明るくのどかなふんいきに変ってきた私の家、秋空にかりがわたる空を見ながら私はえんがわで本を読みだした。私は今、一月おくれの「読書の秋」を楽しんでいる。
 私の母はどんなことでも、どんなかんたんなことでも、こんなことはやさしいと思ってはいけない、と教えてくれます。すると私の心に、「小説を読むことがむずかしいだろうか」とうかんだ。小説というのは長い作文だと私はなにげなくよんでいた。
 だんだん時間がたつにつれて、私は飽きてしまった。私はこの時、母が言った言葉を思い出した。どんな小説でも悪く読めば悪くなるが、良く読めば良くなるのではないだろうか。
 そして小説を読むことは根気と努力がいると私は思った。私は今、小説を読んでいます。お母さんのことばを思い出しながら。そして今日は日曜日なのだからと思い、一字一字をよく目を通して、「何日かかってもかまわず終りまでよもう」と私は私の心に決めた。そして私は何日かかったかわかりませんが一冊の本を読み終わった。私こんなに長い小説を、はじめて終りまで読んだ。この時の私の心は、うれしさにうれしさをかさねたような気持だった。
 大平山の木が冬をまちかねたように赤や黄に染まり、私の顔に北風が通り過ぎて行く。もう冬がそこまで来ている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

私の日曜 一年D組 権田その子

 私は日曜日になると、早く起きて、そうじをして、そうじが終ると、御飯を食べた。つぎになにをするんだいとききに行った。「そうじが終ったら、すぐに仕事をしろい」といったので私は、「そうじだらするけど、ほかの仕事はしないよ」といった。「どうしておまえは、そうじがすきなんだい」といって笑った。「だってやだ家の手伝いなんか」「それじゃあ、おまえは女中になるといいや」といったので、私は「女中になんかならないよ」といったら、かあちゃんが「おまえは、勉強が出来ないからそれでいいんだよ」といった。私は笑って「いやだよ。」といって畑に行ってしまった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

まゆかき 一年D組 中島きよ子

 きょうは、家のまゆかきです。物置から機械を出して来て紙やむしろをしき、まゆのけばを取り始めました。そして私はテレビを見ていると、お母さんが「きよ子は、向こうの方にいってうすいまゆやしみのついているまゆをひろい出せ」といいました。そして母ちゃんと一緒にしているとねえちゃんが来て、「私も手伝ってやるべえかあ」といったので私と、こうたいにしました。家は少し(20g)やったのであまりいそがないで、あんがい早く終わったけれども、四十グラムから五十グラム位やった家は大変いそがしそうでした。でも家は皆の家より少し多くとれたようでしたので父も母も大変よろこんでいます。これからの養蚕もいっしょうけんめいし、たくさんの良いまゆを作って、いい生活ができるようにしたいと思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

母がいない時 一年B組 根岸洋子

 私の家は七人家族です。ある日、お父さんが「小川の方はもうおせっくだなあ」と言った。私が「妹をつれていったら」と言うと、父は「行ってもいい」と言った。つぎの日は日曜日でした。お母さんは、実家の家にいくというので朝からうれしそうでした。九時三十分頃、お母さんはしたくをしていました。私が母の髪をゆってやりました。私は人の髪をゆうのが大好きだからです。母は十時の電車でいってしまった。残ったのは四人でした。三人いってしまうと家はとても静かです。夕方は夕食のてつだいをしました。食後はあとかたづけをしたり茶わんを洗ったりしました。それからテレビを見たり、ふとんをしいたり、お風呂にはいったりして、ねようと思ったら、父がまだテレビを見ていました。「朝早いんだから、もう、けすよ」というと「洋子はおっかねえなあ」と言いました。よく朝、四時半になると、めざまし時計が「ジリジリ」となりだした。私はあまりねむいので時計をふとんの中に、いれてしまいました。
 まだなっていたので、しかたなく起きた。おばあちゃんはもう起きていました。私はいそいで、ごはんの下に火をいれた。五時になってから父を起こしました。ねむそうだ。歯をみがき顔を洗いごはんを食べていました。私はその間に弁当をつめました。おばあちゃんが、ちゃわんやあとかたづけをしました。父が会社に出かけると、私は、すぐふとんの中にとびこみました。一晩母がいないだけで、なかなか大変です。私はいまさらのように、母の毎日の生活が、大変であることを、知らされました。もう少し、これからは、母に協力して、私に出来ることなら手伝ってやろうと思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

アルバイト 二年B組 深沢明子

 毎日毎日があきてしまうので、友達の節ちゃんと唐子の花火工場に行くことになった。毎朝七時半に菅谷を出ます。むこうへ着くのが八時ごろです。仕事は線香花火に白い紙を巻きつけるのです。一日中机に向って座っているので足がしびれて仕方有りません。一日の日給は別に決まってはいませんが、千枚巻けば五十円です。最初の一日は千枚位しか巻けませんが、なれてくると一日に二千枚から三千枚まけるようになります。今日でまだ四日目です。工場から家に帰って来るとほっとします。たったの五十円をかせぐのにこんな思いをするのかと思うと、これから先がうんざりします。この暑いのに父も汗水たらしてもって来てくれる金を、私達がやたらにむだ使いをしては申しわけないと、つくづく思いました。十時と十二時と三時に休みがあります。三時休みには必ずすいかがでます。一緒にはたらいているおばさん達は、ろくに休みもしないで夢中になって働いています。節ちゃんも私よりは少し早く行ってるせいか、一日に三千枚位まきます。唐子は野菜や果物がたくさんできるせいかピーマンなんか菅谷で買えば十円で四個位しかこないのに、唐子では十円で六、七個位きます。今機械が故障しているので、三日休みです。家にいても姉とけんかばかりしているので、母にいつも言われます。「喧嘩するひまがあるんならば、勉強をする気でもおこしなさい」私も早く大きくなって、父や母にのんびりしてもらい、たまには湯泉にでもやりたいと思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

最後の夏休み 三年C組 滝沢日出子

 義務教育最後の夏休み、私達三年生にとっては大事な時期である。この休みで今までの一、二年生の基礎をしっかり覚えこんでおかないと後になってつまずいてしまう。明日からは、明日からはと思い、いざ本を広げてみると長く続かない。八月の中旬まで毎日運動練習で学校へ行ってたので、休みの気分はいっこうに出ない。試合も終ると今度は勉強一方になるわけだが、夜は夜ですぐ目を閉じてしまうしまつ。又昼間は昼間でだらだらして、する気にはなれない。規律正しい生活と言うものが成り立っていないことに、今年は人数が多いと言うのにいつになったら本気でやれるか、自分自身と言うものがいやになってしまう。床についてもみんなの勉強している姿がまざまざと頭に浮かんではなれない。「そうだ」と思うが気ばいあせってやっぱりふり出しにもどるばかりである。こう思っているうちにも時間はすぎていくばかり。休みもあとわずか。ある日、近所へ内職が来て、してくれと頼まれたのですることになった。でも内職と言う事は初めてなので見当もつかなかったが、し方を教わったら案外簡単であった。これは少女雑誌の付録につけるおて玉を作るのだが一個九十銭、十個で九円、百個九十円と頭で計算しながら作るのだが、なかなかはかどらない。一日百五十個から二百個作れます。
 今日で三日目、手先もだいぶなれて来たので多く作れるようになった。一日、一日が楽しみである。しんぼう、しんぼう、何事も努力の結晶の様なものである。
 夏休みの反省として、まずよく遊んだと言う事はたしかだ。後でもたらす効果は大きいものであろう。でも内職したと言う事は、私にとり初めての体験であったため、大変役に立ったと思う。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

幼い時の思い出 三年C組 大野峯子

 母と私、それに隣のおばさんと日美子ちゃんで青鳥号に乗って買物に出かけた。車内中、車掌が私達の所に来て、どうか私の室にマイクがありますから、日美子ちゃんと私に歌ってくれと言われてしまった。母につつかれて二人はスタスタと車掌室に入り込んでしまった。車掌はにこにこした表情で「では一人ずつ名前を言ってから歌って下さい。」と、言われたので、日美子ちゃんがさきにうたい出した。私は日美子ちゃんが歌っている間、車掌室から首を出して日美子ちゃんの歌をきいていた。とてもおもしろかった。つぎに私が歌い終わると、二人が車掌室から出ると客は皆腰をふかくかけ直った。きっと小さい子なので歌が途中できれてしまわないかと心配していたらしい。
 これは行きながらの出来事だった。帰りには又たいへん。途中の駅で電車がとまり、ドアがあいた。二人は、母の顔を見ながら電車からおりたり乗ったりしているうちにドアがしまってしまった。二人は青い顔をして泣きだしてしまった。そこへ駅員が来て二人にいろいろ聞いて電車に乗せてくれた。母たちはつぎのホームで待っていてくれた。でも小さな時はとってもおもしろかった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

あせ 一年D組 中島けい子

おかぼ【陸稲】の草むしり
風は少しもない
あせは目にしみ
口の中にも入る
ぽたぽたおちて
畑の上にしみた
頭がボーとなって
思わず立ち上ってしまった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

夕立ち 二年C組 野村八重子

むし暑い
せみがじいじい鳴いている
遠くの方でゴロゴロと雷が聞こえる
家では
ほしもののとりこみに
かけまわる親子たち
やっと取りこみおわったら
雨がえんりょなく降ってきた

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

山 二年C組 内田清司

遠いむこうに
くっきりと浮んだ秩父連山
まっ青で
長々として
すみきった空気をいっぱいすって
英雄だといわんばかりに
じっと俺を見ている
いつも俺たちを守ってくれる山
俺はそんな山がすきだ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

母 一年B組 内田岩夫

母さんは あせっかきだ
朝からあせをかいている
みんなのせんたく、食事、畑仕事
母のいう事を聞かないと
『困った子供だ』となげく
ちょっとおとなしくするとよろこぶ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

水たまり 一年A組 滝沢幸子

登校する道に大きな水たまりがある
自動車が
水面に変わった影を作ってすぎさる

自動車がきた
みんな両わきに分かれる
自動車は
白いしぶきを上げて去って行く
自分の影をこわしながら……

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

いちょうの木 一年B組 忍田みよ

いちょうの木はだまっている
校庭のすみに立ったままいつまでも
いちょうの木はだまって
私たちをみつめている

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

きり 一年D組 斎藤夫

けさ学校にいくとき
学校がきりにつつまれてまるで天国へ来たようだった
学校は白いきりの中で
宙に浮いているようだった
みんなきりの中に消えていった
しかしぼくが近づいていくにつれて
学校はエレベーターのように
だんだん目の前にあらわれた

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

暗い夜 一年D組 杉田広吉

自転車に乗って
 おつかいにいった
遠くの山がぼうっと見える
遠くのあかりも見える
おつりをにぎって
帰ってきた

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

かあちゃん 二年C組 杉田千恵子

どうして私の家だけいそがしいのだろう
みんなの家では遊んでいるのに
やっぱり人手がないからだ
かあちゃんがいればいいなあ
こう思ってもしかたがない
死んでしまったのだもの
いそがしいいそがしいといって働いているが
なかなからくにはならない
あと幾年たてばらくになるだろう
その幾年かと言う年が
過ぎ去るのには苦労がある
その苦労こそ かあちゃんがいれば
やっぱりかあちゃんがほしいなあ
かあちゃん!かあちゃん!

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

朝 二年A組 斎藤寿夫

目がさめた
でるのは寒い
かあちゃんは
口ずっぱく言っている
あと一分一秒でも
とうとう起きた
ねまきのすきまから
すうすうと寒さが
身にしみた
おもわず顔に手をやった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

朝のおつかい 二年A組 瀬山千恵子

まだうすぐらい朝
自転車にのって
おつかいに出た
朝の空気を胸いっぱいに吸いこむと
とてもいい気持だ
ベルを鳴らしたら
「チリリン。チリリン」と
朝の空気の中に
ひろがっていった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

けんか 二年A組 新井君代

仲の良い友達と
けんかした後
さびしくてしかたない
おとなしく
ごめんねとあやまろうと思っても
その
ごめんねの言葉が出ない
ただ
その人の行く先を見つめているだけ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

七夕祭 二年A組 初雁寿美子

 嵐山発二時の電車で小川にいった。小川の町も、今日はにぎやかだった。私たちは、一廻りしようといって、駅前から見始めた。商売などしている家は、とくにきれいにかざりつけてあった。たくさん知っている人も来ていた。道のかどには手品などのみせものがあり、いっぱい人があつまっている。一廻りするにも時間がかかった。テープなどが下の方まで下がっているので、みんなさわったりしていつもひらひらとゆれている。近代化にちなんでロケットなどもかざってある。今年の七夕祭は天候もよく、ほんとうによい日であった。
 もう日がくれて花火がなるころになった。私たちは電車のまどから花火を見ながら帰った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

希望 二年C組 小林ツル子

 私は、小さい時から夢や希望、空想といろいろな事を思っていた。
 ある朝、私は、こたつに入ってラジオを聞いていた。何時頃だったかまだ学校へ出かける前だった。それはいま病院なんかの看護婦さんが少ないという放送で、ある病院では、百四十人の患者で九人の看護婦さんと言った。それじゃあ約十四、五人の患者に看護婦さんが一人だ。とてもたまらない。ふつうだったら四、五人の患者に一人ぐらいの割当だと思う。なかなか給料がすくないとか、むずかしいことを言って、なりてがないそうだ。高卒だと三年、中卒だと七年も勤めないと看護婦さんになれないそうだ。それで准看護婦さんを助手として使っているのだ。
 私は、それを聞いて、「看護婦さんになろうかな」と思った。いろいろ空想してみたが、やっぱり私には似合わない職なのであきらめた。
 その日、学校から帰って新聞を見た。やっぱり就職のことがきになり、その欄を見た。お手伝いさん、女工員と、まあいろいろな職が書いてあった。お手伝いさんい行こうかなと思ったが私の性質にはちっとも合わない。でもまだたくさん新聞にも載っていない会社もあると思った。私は先生の方へは進学としてあるが、模擬テストなんかから見たらぜんぜんうかる見込みはない。テストなんかして悪いときなんか勉強をやろうと思っていくらかやるが、ふだんはやっていない。
 この間は、問題集を買ってきてまだ今は一週間しかたたないからあきないでやっているが、、一、二ヶ月たつとぜんぜん手をつけないで本箱にしまっておくようにならなければよいが……。
 なにしろ進学したい。みんながどのように勉強をしているのかその方法が聞きたい。
 いく人かの子に聞いたら、夜やるのだそうだ。
 私はたいがい外の明るいうちにする。夜やりたいが、すぐねむくなって、その上心細くて起きていられない。これでは進学は、ほんとうに希望だけになってしまう。
 私たちの組には毎日最低二時間もしている子がいるそうだがそれを二年も続けたら、私みたいな子とは大変違いが出来ると思う。
 もし私は、進学して高校を卒業したら会社員になって立派に働きたいと思っている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

朝 二年C組 小沢秀

ココケッコー にわとりがなく
朝だ 朝だ たのしい朝だ
太陽が東の空から登る
霜がとけてゆげがあがっていく
今日もみんな元気で働く
コココココケッココココ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

夕方の川 二年A組 小沢愛彦

ぼつぼつ日がくれ始めた
つりをしているもの
もう二人になった
牛を川原につれてきて
草をたべさせたり
体をながしてやったり
めんどうをみている
魚はぴょんぴょんはねている

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

滝 二年C組 開発紀美子

どうどうと
滝が落ちている
どこから流れてくるのか
わからない
じっと見ていると
すいこまれそうだ
あの滝にうたれても
たおれないような人に
私はなりたいなあ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

風雨 二年C組 小林朝光

学校の帰り道
台風の影響か
雨としっしょに風が吹いて来た
みんなかさを前の方にかがめる
まわりの草木がざわざわしている
よその家は干し物をとりこんでいる
雨戸をしめる音も聞こえてきた
ぼくたちは家に急ぐ
だれも話などしない
自分たちの家が見えた
「ああよかった」と思った

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

夏の夜 二年B組 内田仲次

夏の夜は星がきれいだ
みんな縁側に出てすずんでいる
はだかの人もいる
プーンとかがきて刺していく
時々ピカピカといな光りがいて雷が鳴る
すずしい夏の夜だ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

一本の木 一年B組 関口宏

山の上に
一本の木が雨にうたれて立っている
枝からたれるしずくが
なみだのようだ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

人形 一年D組 鯨井洋

机の上のこけしが
何がうれしいのだかうれしそうに
わらっている
何がうれしいのかな?
近いうちにえんそくでも
あるのかな

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

登校 三年A組 武井潔

「さむいなあ」
と言いながら家を出た
けさも
きのうと同じ霜がおりていた
「ギュギュ」と
たっぺをふみしめる音が
いかにも勇ましい
「つめたい」
そう言いながら二百メートルの
たっぺの道を歩く
その向こうは
いよいよ学校だ

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

テレビ 一年D組 吉田幸子

私がテレビを
パチンとかけると
すぐつかない
テレビがパッとついた
私は「あっついた」といった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

手つだい 一年D組 小林秀雄

学校からかえると
うちの人が「ふろをむしてくんな」
といった
たきぎをとってきた
すこしたってふろがわいた
自分がむしつけたので
一番にふろにはいった

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

人生読本を読み 三B 根岸浩子

 この本は図書室にありました。私がこの本を選んだ理由としては、このごろ自分は、どのように、どんな考え方をすればよいか解らなくなってきたからです。父母は、「浩子の頃はね、大事な時なのですから勉強いればよいのですよ。」と言うからです。私は元来本でも、古典など好きなので夢中でよみました。初めはそれほどおもしろいと思いませんでしたが、「信頼について」という所を読んで、ほんとのその通り、と思いました。ここは、「マリの日記」からなのですが。マリの友人にコリニョンという少女がいます。彼女は、友情や信頼を信じたがっています。しかしマリは信じないと言っています。こんなことを聞くとマリという少女は、なんと冷こくな人だろうと思われるかもしれませんね。マリはけっしてそんな人物ではありません。マリは親切や友情はおしまない。しかしそれに対してお礼の言葉などを期待しているとさみしい思いをする事があるからだ。それに対して期待をかけず、自分で満足すればよいと言っています。
 次に「教養について」「友情とは」などその他にも色々、なるほどと思うような事が書いてありました。でも私に取ってそれらの本は何の役にも立ちませんでした。やっぱり、私は私、これらの聖人のようなまねは、私はとうていできません。
 私は私なりに、友人と交際し、いっしょうけんめい勉強すればそれでよいのです。他人が満足し、自分も満足する。それでいいではありませんか。でも、こうに考えるのもやはり本のえいきょうでしょうか。
 私はもうすぐ卒業します。今までは私はどのような種類の本を何冊よんだかとても思い出せません。でも一番おもしろく読んだのが文学全集です。でもこのような本は一度よむと二度目はおもしろくありません。私の何度も何度も読み返した本は、偉人物語やノーベル賞物語でした。これらの本の中の人物には、野口英世や、リンカーンなどのように貧しい家に生れた人もいました。また湯川秀樹博士や、アルバート・シュバイツァなどのように、割と豊福な家庭に育った人もいました。しかし偉人の共通点は一つ、どのような貧困にも、ぶじょくにもたえて、最後の最後まで真理をつきとめ、人々のためにつくしている事です。私は大変短気なために、とてもこのような人々のまねはできないと思います。それに偉人になりたいとは思いません。私は私の考えた、ただ一つの進路を真すぐに取りたいと思います。でも私は自分の希望通りになれたとしてもなおのこと、このような本だけは、一生読んでいたいと思っています。かならずどの本も私になにか大きな楽しい事をささやいてくれるからです。私はこれらの本のささやきが大好きです。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ひろ子の幸福を読んで 一D 山下こう子

 この物語の主人公は、もちろん、ひろ子です。それに、おとうさん、おかあさんの三人家族である。ひろ子は、中学二年生、おとうさんの仕事は大工です。
 この物語のあらすじは、
 ある日、二ヶ月ぶりで父が、お金をもらってくるというので、母は大よろこびです。
 やがて、仕事が終った父は、お金をもらって帰りに、デパートによって、食パンを買って、また、次の所へいって、買おうと思って、ポケットをさぐりましたが、お金がありません。なにを買おうかとまよっているときにすられてしまったのです。その事を父が母にいうと、母はひどくおこりました。そして、その次の日の朝食に、食パンを、ちょっとしか食べません。いや、たべたくてもないのですからしかたがありません。ひろ子は、あるじじょうで、先生の家へ、アルバイトにいくことになりました。アルバイトというのは、赤ちゃんのこもりをすることです。それでもう、夕食は先生の家でごちそうになってくるのです。でも、このごろ父の仕事がないので、父と母はいつもけんかばかりしています。
 ある日の事、父の妹が来て、家がくるしいため、きっとむかえにくるから、それまでこの子をあずかってくれといったので、あずかる事にした。その子はけん一という子なのです。父も母も、けん一を自分の子のようにかわいがった。父の仕事も見つかったのです。
 ある日、きょうは、もう年のくれ、あしたはお正月という日、母が病気でたおれてしまった。それで、ひろ子が家の事は、いっさいめんどうを見なくてはなりません。となりのおばさんが病気にはよくきくといって、にんじんをもってきてくれた。父も母もにんじんは大きらいなのです。でもそのにんじんをたべてか、母の病気はぐんぐんよくなってきた。やがて、一月の末には、母は元の体になって、仕事などもできるようになってきた。
 この物語を読んで感じた事は、おとうさんが、もうすこししっかりしていなうては、そしてまた、ひろ子は勇気があり、立派な子だと思った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

私はくつ 二A 高橋篤子

 私はいま大きなくつ屋の店に大ぜいの仲間と一緒にならんでいます。あっだれかきました女の人です。
 その人は私のとなりのひとりを買っていきました。
 私はどんな人に買われるんだろう。私をかわいがってくれる人でなかったらどうしよう。なんだかしんぱいになってきました。仲間はどんどんへっていきます。また新しい仲間が私のわきにならびました。「これ下さいな」お母さんらしき人がきて私を持ち上げました。店員さんは私を箱の中に入れてそのお母さんらしい人に渡しました。
 私は箱の中でたいくつです。家へついたようです。箱があけられて私は再び外に出されました。
 私をはく子は男の子でした。意地悪そうな大きな目で私を見ながらいいました。「でえーすげえなあ、母ちゃん高かったんべえ」といいながら私をきたない手でもって、じろじろと見ていたがそれどころではなくまっ黒な足で私をはいて大とくいです。私は明日から毎日働かなければならなくなりました。夜が明けました。今日から働く日です。またきのうのようなまっ黒な足で私をはいてカバンをちょっと肩にかけて石をけりけり学校へ向かいます。私はいたくてたまりません。しかしその子は平気で思いきり石をけります。ああ、早く学校へ早く早くやっと学校へつきました。私は学校へ行けば休めると思いましたが、その子は運動が好きらしくカバンを教室へなげこむと運動場へいちもくさん、そしてすもうを取り始めました。私の顔は、たちまちほこりだらけになりました。私が休めるのは授業中だけです。でも私は毎日毎日いつもいっしょうけんめい働きました。でもその子は私を一回でもみがいてくれたことがありません。私はだんだん弱ってきました。よこはらの方はすごいきずでいたくてたまりません。しかしつくろってもくれません。その翌日私は、ごみ箱の中にすてられてしまいました。
 ああ私はこれからどうなるのでしょう。
     さよなら さよなら

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

現在の私達 三C 小林加代子

 「わかりません」「わかりません」「わかりません」これが私達の学級会の様子だ。三時間もの時間を使いどうやらグループを作っての学級会と決まり、組分け、配置も決まった。
 しかし、いざ会議となると発言者は四、五人きり、ひどい人になるとグループになったのでこれ幸いとばかり議題に関係ない話をしたり、テキストを広げている。
 先生がいる時はまだよい、居ない時の学級会と言ったら、もう話にならない。議長の質問に対し「聞いていなかったのでもう一度言って下さい」と言うのが多いのである。他のグループにと出歩く人、教室から出てしまう人、もちろんおしゃべりは……早く言えば蜂の巣をつついたようだ。
 つい先日、三年生になったばかりと思っていた私達も、中学生活と言う最終列車に乗りかけている現在である。なのにかかわらずなぜこうなのか。先生の意見では私達は幼稚なのだと言う。確かにそうかも知れない。今の一年生の方がずっとおちついていると思う。
 この事は朝の自習でも言えるのではないだろうか。何度も何度も週訓とされながら、いつも週番の発表で悪いのは三年生である、私達はもう卒業なのだ。目の前には難問が待ちうけていると言うことについての自己の認識が各自ちがいすぎるのである、多少はちがうのが当然かも知れぬが、余りに差がありすぎては、これも一つの問題だと思う。実際の私達ではそんな事よりむしろ最後の年だ、ゆかいに子供のように遊ぼうと言う気持を持っているらしい。
 こんな事を書く自分も皆と変わらなく悪い生徒にちがいない。でもこの頃は気をつけているつもりだ。最後のしめくくりを立派に有意義に過ごそうと。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

こんなこともある 杉田正巳

 世の中にはいろいろなことがある。
 ある会社の入社試験場の入口に、こんな貼り紙がしてあった。
 「ここではきものをぬぐこと」
 あまりにも緊張していた受験生のK君、入口に行くと上衣を脱ぎ始めた。
 このように、私達が日常使っている話しことばや読みかた、あいまいな返事等、ちょっとしたことに、大きなまちがいが生じるものである。

 つぎにその例を二、三あげてみよう。
◎「いいよ」とは何のこと
 先生が生徒と一緒にハイキングに行った。
「先生、りんご食べますか」
「ああ、いいよ」
 生徒はりんごをむいて先生にさし出す。
 先生は迷惑そうに、
 それでも、
「ありがとう」

◎待っていたが
 下宿の学生、あるとき、
「今夜は、おそく帰ります」
「それでは、ごはんは食べませんね」
 学生は、首を横に振る。
 女中は、おそくなるが、ごはんは食べるのだと思い、準備しておく。
 しかし、学生には食べるつもりはまったくなかった。

◎へびの天ぷら
 「今夜のおかずは、何がいい?」
 三人の兄弟が机に向って勉強しているところへ、おかあさんが入って来て、たずねた。
「みんな、ひとのまねをしないで、めいめいの好きなものを紙に書いて、おかあさんに渡そう。」
 と兄の一郎が提案した。
「そうしよう」
 と二番目の由利が賛成した。
「ぼくだってひらがなが書けるようになったもん」
 一年生になったばかりの末の清が肩をそびやかした。
 おかあさんの手に、三枚の紙切れが渡された。
 一枚目には「カツ」と書いてあり、二枚目には「玉子やき」と書いてあった。
 三枚目をみて、おかあさんはびっくりしました。
 それには、
「へびの天ぷら」と書いてあったのです。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

何もできない夏休み 三B 福島千代子

 登下校に毎日笑ったり泣いたりしていた私たち、皆の先生におせわになった私たち、台風の時などいつも先生におくってもらった。小さかったころ、もうあれから九ヶ年たってしまった。これからはいままでのようなことは、いってはいられないだろう。就職又は進学などで、なやむだろう。この夏休みもろくに勉強しないで終わってしまう。計画をたててあってもなかなか思うようにできない、ひまがあってもできない。どうしてこうなんだろう。
 父母はそんなにねころがっているのなら勉強しろというが私は父や母に言われては、よけいにしたくなくなる。そうかと言って言われなければよけいにしないだろう。私は夏休み中にそういう気持をなおそうと思っていたがなかなかなおらないものだ。これからはいっしょうけんめい何でもできることはしようと思う。残り少ない中学生活を今度こそ有意義に過そう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

約束と嘘 三B 内田嘉子

 私はある人と約束をしたが、その人は、東京の人で三十才ぐらいの産経新聞の人だ。
 ある日、その人を嵐山の近く迄案内してやった、その時に話がはずみ産経新聞の日曜版を、毎週送ってもらえることになった。
 それから数日たって第一回目の新聞が届いた。手紙文も同封してあった。「この新聞が少しでも、役にたてば、光栄です」と書いてあった。そえ書きとして、勉強のこつが、詳しく書いてあった。私は、その手紙を二、三日してから母に見せた。返事に迷ったからである。母は「すぐ礼状を出しなさい。」と言った。私は、すぐ出そうと思ったが、なぜか、気が進まず、なかなか書かなかった。
 新聞がついてから、もう一週間にもなる。このまま返事を出さなければ、なんて無知な事なのだろうと、思われるかもしれない、だが私には、返事を、書かない理由があるのだ。
 それは、手紙の文中に、「今、二年ですか、三年ですか」と書いてあった。それなのに、最後に「お返事を下さい。」と書いてないのだ。なぜ書かないのだろう、書かなくてもよいと思ったのだろうか、又は、忘れたのだろうか、私は、一生懸命考えた。この頃の私は少しの事でも、いちいち気にしてしまう。
 ノイローゼ気味の所があると、だれかに、言われたことがある。考えれば、考えるほど、何かいやらしさを感じるようになった。
 そんなことを考えているうちに、又数日たってしまった。そして私は、返事を書くことにきめた、悪いことだと思ったが、二度目の新聞が来ないように、うそを書いた。
 来月から産経新聞をとることになりました。こんなうそを書くまでは、ずいぶん心の絆回があった。私は。こんなに、こんなにもの思いにばかりふけていた。勉強しなかったことを返事としている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

宿題 三C 多田ヤス子

 「ジー」とベルがなったとたん「終った」という安心感がわいてくる。この時間H先生の授業だ。「終りになる」と思った時ふいに「何頁から何頁まで今度の時間までにやってくること。」といわれた。この宿題は次のH先生の授業の時間までということになると、長くても一週間で短ければ明日までときまっているので「いつやればいいんだな。」と決めてやることが出来る。だがこれが夏休みになると一ヶ月以上もある夏休みの宿題となるとなかなか出来ない。例えばこの作文。夏休みに入る前から後の黒板に青嵐にのせるためのものを募集した。この〆切は八月二十一日の全校召集日だ。この召集日に報道部の人に出すことになっているので、早く書いてしまおうと思っても適当な題目もいつ書くかという日もきまらずとうとう召集日の前の晩から書き始めるという始末。前に上げたようなときには、やれるのに、こういう長い間、休みが続くとどうしてやれないのだろうか?これは、やっぱり毎日学校へ通ってだされた宿題よりも、長い間の休みとなると、どうしても気のゆるみからこんなことになってしまうのかもしれないが、ならないようにしたいものだと思ってこの作文がやっとのことで全校召集日の朝になって書き終った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

釣り K・F

 最近釣り人口が非常に増加している反面魚が年々少くなっていると聞くが、たしかに以前に比べて少くなって来ている事は事実だ。私の思い出をたどっても獲物が小さくなり少なくなって来ている。
 私も釣りは趣味の一、二を争うほどのものだが、腕は余り自慢にはならない。下手のよこ好きの部類であろうか。
 釣りも、場所によっていろいろに分けられる。川、渓流、沼、海、湖上の穴釣り、一応全部やって見たが、それぞれ違った味がありどれが一番好きとも言えないが渓流の釣りであろうか。これはどうしても相当山奥に入らねばならず、遠出をし時に何泊かしないとよい釣場がないので費用がかかるのが難点だ。ただ大ていそのようなところは景色がすばらしいので釣る事と同等以上の楽しみを与えてくれる。真夏でも永くは入っていられない位冷たい水につかりながら又時に滝壺に落ちそうになりながら釣りあげたやまめ岩魚の何と新鮮でおいしそうな事、一度味をしめたら何度でも行って見たい釣りだ。
 二年程前、水上からバスで一時間半さらにダムによって出来た湖上を四、五十分モーターボートを頼み利根川最上流の八木沢に入った事がある。ここもダム工事が進行中であったがその沢を約二時間奥に入った。少し入ると大きいのは十米を越す滝の連続である。獲物は三十糎近いのを一匹小物を五、六匹途中餌箱を流れに落し流れと競争して二十分も下ってしまった。さて帰ろうとしたが頼んでおいたモーターボートが迎えに来ない。日はどんどん傾く、いよいよ野宿かと思ったが幸に工事用の舟に乗せてもらった。ところがこの運転手ひどく酔っている。舟は一所をぐるぐる廻りやっと少し進んだと思うと水没した大木が枯れて林のように立っているのにぶっつけたり、逆の方向に行ってしまったり、止むを得ず同行の友人が運転してようやく渡ったが汽車に間に合わず予定外の一泊をしてしまったのも思い出の一つとして残っている。
 沼などの鯉釣り、これは割合近くで出来又獲物が比較的大きく手ごたえの点では最上だ。糸がうなるようなやつを釣った時の感触は忘れられない。それ故に何回空のびくを下げて帰っても今度こそ今度こそと出かけるものだ。ただ近くで出来ると言ってもいつでもどこでもと言うわけにいかないのは残念だ。
 始めてリール竿を使った頃或釣会に行った。ところが魚の数より人間の数の方が多いかと思われるくらい。釣り場所も非常に狭い。投げこんて見たがうまくいかない。うまくいったと思うと餌がとれてしまう。一寸目標からそれると、四、五人の糸をまたいでどやされる。投げる度にどやされ止むを得ず帰りまで餌はつけかえずそのまま、勿論〇匹。
 海釣り。これは季節場所により釣り方も魚も違ってくるようだが、時に思いがけないものが釣れるのは魅力だ。いつか夜釣りに行き、この辺のナマズに似たような割合大きなのを釣って大喜びで手づかみで持ち帰ったが宿の主人に、それはゴンズとか言って猛毒を持っており、さされるとはれ上ってしまうと言われ冷汗をかいた事もある。あとは、あじ、キス、ハゼ、名前の知らない二、三の小魚しか釣った事はない。
 穴釣り。これも遠くに行かないと出来ないのが難点だ。又厳寒でなくては駄目で防寒具をつけても相当きつい。しかし四、五十糎もある氷に穴をあけ糸をたれているとかすかに手ごたえのあった時は寒さも忘れさせてくれる。ひらひらと釣り上ってくるワカサギの姿を見た時は格別だ。まして二、三匹一度にかかった時は、氷の上に投げ出しておくとすぐカチカチに凍って冷凍魚になってしまう。長い時間をかけて持ち帰っても悪くなる心配はほとんどない。
 川釣り。近くでいつでも出来る点はありがたい。夏の夕方夕涼みがてら糸をたれている気分は捨て難い味がある。しかしどうも魚が小さく数は釣れても鯉などのようなあの感触がない。もっとも荒川に行けば同じ魚でもずっと重量感があるが。釣りについてはまだ用具とか餌とか、釣る方法とか其の他いろいろとあるが知識も浅いし経験も少尉ので又の機会にゆずる。ヘボ釣師のヘボ談義だが釣りは最も健全娯楽、大衆娯楽だと思う。しかも実益が望めるのだからこれに勝るものはちょっと見つからない。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

山 一D 野村あい子

 おごせに、お客に行った十八日に、むめいせんしの墓にのぼることになった。朝八時に家を立って町を通って歯医者さんの所を左に曲ってかなり行くと、坂になる。途中でようち園で、ぶらんこにのったりすべり台したりして、又坂を登った。二百メートル位いくと、むめい戦士の墓に着きました。親類の人が、これは戦争に行って、帰ってきたらおかあさんも、おとうさんもいないで、家までもない人たちのためにつくったのだといった。上から下を見ると人が豆つぶ位に見えた。それからお昼を食べました。回りは皆木です。十八日はむめいせんしの墓、にぎやかでした。かえりにはあついのでやすみ休み帰りました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

幼い生命は 三B 須磨和美

 あのかわいい純子ちゃんの顔が今も目の前に浮かぶ。あのかわいい生命は死と戦い、とうとう死に奪われてしまった。
 純子ちゃんは三十六年四月に生まれた。純子ちゃんが生まれてからは両親にとって悲しい悲しい出来事ばかり、だが両親から見れば初めての子供だったのでうれしかったのであろう、まるまると太った純子ちゃんの顔自分にとってあのかわいい顔が忘れようとしても忘れる事が出来ない。私のたった一つの願いは、やさしい両親のそばですくすくと育ってもらいたいという事だった。“純子ちゃん”私は心の中でこうつぶやいた。あの小さな生命が、幼い生命がいまやかえらぬものとなってしまった。私はいつも夜になると空を見る。そのたびに考えるのは純子ちゃんの事、ああかわいい生命がいつの間に終ったのであろうか。又私は“純子ちゃん”とつぶやいている。私が始めて純子ちゃんの名を聞いたのが私の父が小川日赤に入院していた時に純子ちゃんのパパがお見舞いに来て下さった時の事だった。それ以来私には純子ちゃんがどんな子供に育つだろうかと思うばかり、そして、来年の御節句は大きな猫をかうよ。と笑わせられたあの日の事を、いつも私は考えている。純子ちゃんは、いつもママの背中におんぶして菅谷の方に行った。純子ちゃんのママはいつも私を見るとにこにこと笑いのかおであいさつを交わす。あの時のやさしい姿は、私に二度と見る事が出来なかった。じっとうつむいているパパの姿も今や笑いの顔をうかべることが出来ないのであろう。“純子ちゃん”私はこうさけんで見た。純子ちゃんは生まれた時以来生死の境をさまよった。そんな時こそパパやママの苦労があった。両親の苦労があればこそ純子ちゃんの生命は長かった。だが七ヶ月の生命は考えて見ても長いとはいえない。七ヶ月七ヶ月人の運命は長いとはいえない。純子ちゃんは何ヶ月か何の不幸もなく、くらして来た。生後七ヶ月たった。十一月半ば過ぎたある日とうとう短い一生を終った。両親にとって忘れようとしても忘れる事が出来なかったであろう。純子ちゃんは私の妹のように感じる。長女として生まれた純子ちゃん、私はスクスク育ってもらいたいと祈ったの。純子ちゃん、純子ちゃん又今日も私は呼んでいる。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

おじいさんの病気 三C 島崎マサ子

 うちのおじいさんはもう八十三だがとってもじょうぶで、いつも彦孫の子守をしている。耳も聞こえるし、腰もまがっていない。いままで病気という病気をした事のないおじいさんがふっとしたことから、腰をいためて医者にかかった。それは、いつものように彦孫の貞子を子守っていた時、庭からコンクリートの上に上がって縁側で休もうと思って上がろうとしたところひっくりかえったそうだ。それから床につき接骨医に見てもらったところが肉ばなれらしい。それでも四、五日接骨医が来て治療をしてもらったら経過もよく一人歩きぐらい出来るようになった。暖かい日などはよく縁側に出て休んでいる。日曜日など家の人が仕事に出ているときなど私がよく世話をしてやるが、ある日曜日のことだ、いつものようにふとんをほしながら、おじいさんも外に出て寝ていた。私もようがあるので、机にひきかえした。しばらく、おじいさんがよんだのでいくと、「ふとんを内にすいてほしい」といわれたのでしいているとおじいさんが歩いてきて寝た。ねる前になにか食べるかきいたらなにもいらないからそこのブドウ酒を茶わんについどいてほしいといわれたので、ついで枕もとに置いて、縁側で新聞を見ていたら、急におじいさんが呼んだので、急いでいくと、くるしいから背中をなぜろと言われたので、なぜてやったら、田んぼにいって母ちゃんを呼んでこいといわれたので自転車でいくと、みんなは、田んぼのつちかけをしていた。おじいさんがきもちがわるくなったからすぐくるように言ってすぐにひっかえした。母ちゃんも早くきてくれたので安心した。母ちゃんもたまげたようだった。おじいさんもまだまだ苦しそうだった。物をもどしてからは少しはおちついたらしい。それからも一週間同じような状態ですごした。また日曜日の午後八時頃から急に病状が悪くなってきたので、おじいさんの子供達に電報をうったり、近くにいるものにはうちのものが知らせた。その晩に章さんが塩のおばさんの所にいって、おばさんを呼んで来た。おばさんが来た時はもう十一時近くであった。オートバイの後にのってきたのでとてもさむそうだった。それでもすぐにおじいさんの所に行ってすぐに看護している。私も学校があるので、そのままねてしまった。つぐ朝起きてすぐおじいさんの所にいってみると、母ちゃん達がいて、夕べは、ねもしないでかんごしていたと言う。おじいさんも夕べは寝なかったらしく寝ていた。私はそのまま学校へ来たが、なんとなくいつもとちがった。それでも授業が終って家に帰った。家にもおじいさんの子供達が来ていた。みんなおじいさんの枕もとにすわっていた。義姉に今ようすをきくとびっくりしてしまった。それは昼前などは口もまんぞくにきけなくなったということだ。医者が来て注射をしていったからやすんでいると言うことだ。いっくら年寄の人でも人のやっかいになると言うことはいやげだった。おじいさんの枕もとにいってみてかわいそうになってしまった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ねこ 一A 長島ちい子

 私の家のねこの名前はコロといいます。六年生の時にもらったねこです。もらって来たばかりの時は、小さくて、とてもかわいいねこでした。大きくなってからは、ネズミをたびたび取って、母に働きものだとほめられます。
 学校から帰って来て、「コロコロ」とよぶと、ニャーオンニャーオンとなきながら、かけつけてきます。そして私が、服をとりかえていると、足の所へ来て、頭をこすりつけます。
 私が学校へ出てしまうと留守勝なので、さびしかったのだと思いました。
 母が夜、あみものをしていると毛糸にじゃれて「こら、こら」とおこられます。おこられると、かないしのか、小さな声で、ニャーオンとなきながらおくの方へ行ってしまいます。コロもおこられるのがわかるのだろうと思います。
 しばらくたってから私がおくへ行って、あかりをつけてみると、まるくなってねていました。きっと母におこられた時に、悲しくなって、そのままねてしまったのだろう、と思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

母の死 三B 内田綾子

 私は三才の時に母に死なれ早十三年の年月がたった。そんな小さい私達を父はずいぶん苦労をして育ててくれたことだろうと私は思う。私は母がどうして、死んだのかさえ知らない。だから私は父に聞いた。そしたら父は、田植の時に、急に腹がいたくなり、いそいで水野病院へ入院したが、手術のかいもなく死んだ。「母の口ぐせは、よくじょうぶになったらばいっしょうけんめいになって働く」といって息をひきとったそうだ。またその時期がいそがしい田植の時だった。「昭和二十四年(1949)の六月二十九日」でもどんな病気かも、さっぱり父は私におしえてくれない。母の死んだ時は、まだおじいさんが生きていて私達兄弟三人をおじいさんにあずけて父は働きにいったそうだ。それからまもなくおじいさんも死に父と兄弟三人の四人暮しとなり、またまた、父の苦労はかさなり、毎日毎日いそがしい日々をすごしたそうだ。それから幾年かたって一番上の兄が小学一年生に入学、兄が三年になったら、私も小学一年生に入学、その時「入学式」に私は父といった。みんな母と来た、どうして母とくるのだろうと不思議に思った。私は一年生。でもその時はぜんぜん悲しくなかった。あまり小さい時に、母をなくしたせいか、顔さえもまったく覚えていない。私、だから母のことを聞かれたり、おそわったりしてもそうかなあと思うくらい。それからまもなく母をもらった。
 来た当時は、恥かしくて母ちゃんと言えなかった。幾日かたってやっと言えるようになった。そうして今日まで育ててくれた父と母、私はこれから卒業して一生懸命働き、いっそう楽にさせてやりたいと思っている。それに私を生んでくれた実母には、卒業して就職してからもわすれないで、墓まいりをしてやりたい。
 今では、毎日を楽しく過ごしている。母はやさしくて、なんでもしてくれる。今の母の子供は二人いる。一人は男で小学三年、その下は宏美、宏美は私の後ばかり追う。姉ちゃん姉ちゃんと私の後についてくる。可愛くて私が何か買ってやると、「これ姉ちゃんに買ってもらった」と母に見せる。だから可愛くてたまらない。
 でも、もう就職してしまうから可愛そうである。でもやさしい母がいるから私は平気である。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

社会人となる心がまえ 三A 八木八代江

 今までも、私達は数々の思い出を残して、小学校、中学校を去って行く。これからの、残り少ない日をどうすごすかは私にとっては重大なことです。難関、難問です。私だけではなく他の人、全部がこれには、同感してくれることであろうと、思って居ります。それから、私は、こうも考えたのです。私達に、とっても、最後の学年でもあり、しかも最後の義務教育でもある、大切な三学期で勉強の方も、大切なことでもあるしこれからは、りっぱな社会人になるそれには、自分自身で自分の心の底に、意識させないといけない、これから世の中に出てりっぱな社会人になるにはどんな心がまえをして世の中に向かったら良いのでしょうか?その第一歩として、こんなこともあった。職業安定所の所長さんや先生方からも、いろいろと、話を聞いた上に、家族会議なども開き、私が進む進路につき、話し合いましたが、兄がふいに私に、こんな話をしてくれました。もう、今まで卒業した人の中にも、もう良いりっぱな、社会人の中からはずれている人もいると、言う様なことを話してくれました。私は、兄の話を聞いて、私はなるほどと言う様にうなずく様なためになる話を聞いて、それを基準として、これからもりっぱな社会人として、向って行きたいと思っています。これが第一歩の社会人として、向う進路である。第二歩としては、自分の気持しだいなので、これを自分の本当の心にして社会に向う。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

比えい山見学 三B 杉田順子

 京都を見学しバスは、比えい山へと登っています。バスの中には、歌や、話し声でにぎやかなこと。窓からジュースのビン、サイダーのビンなどをすてる人がいる。小学生のようにいちいt注意をされなくても、中学生になればそのくらいわかるはずだ。このようなことを考えている内に比えい山の入口についた。みな目を前方へ向けている。私達一年生の旅行のイロハ坂を思いだした。でも日光より比えい山の方が急坂で、風景がよい。みな窓からパチパチと、びわ湖や山の景色を写し始めた。途中までくるとアメリカから輸入したという草があった。うっかりしていたので名はわすれた。バスは頂上へ頂上へと走りつづけている。カーブの急な所がいくつもあり、今年の四月ごろブレーキがきかなく山ぎわにバスが転落したという場所もあった。その転落した所には花輪がかざってあった。頂上につき一時間位見学し、又バスは奈良へと走っていった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

修学旅行 二B 新井陽

 午前十時、ぼくたちは、いろは坂を登って、予定どおり、男体山の山頂へついた。初めに、華厳の滝を見学した。中禅寺湖から、歩いて十分の所にあった。中禅寺湖からの水が大岸壁にかかるもので、ちょっと見た時は、なにがなんだか、さっぱりわからなかった。九十七米という高さから落ちる水は、霧のようになって滝つぼに落ちている。あいにく天候が悪いので、霧がかかり、初めは、滝全体が見え、滝の雄大さを感じされられたが、霧が濃くなるにしたがって滝が霧にかくされて、三分の二ほど見えなくなってしまった。滝の中段にいくつもある小さい滝は小さいながらも実にきれいだ。滝つぼから流れ出る水は、なんともいえないほどきれいな水の色をしていて、急流とともに、川下へ姿を消す。エレベーターで上に上がった。中禅寺湖の湖岸から見た所の男体山は、高山植物におおわれて、実にきれいに見えた。山頂では、中宮祠を見てから、バスに乗ってまた、いろは坂を下った。下へおりてから、急いで昼食をとった。昼食後、案内人と一緒に、三仏堂、金剛桜、相輪棠、石鳥居、五重塔、三神庫、御厩舎、灯籠、飛越の獅子、陽明門、唐門、東照宮、拝殿と見ていったけれど、陽明門は、実にみごとである。一名日暮し門と呼ばれているが、まったくそのとおりで見れば見るほど、その門の美しさや彫刻のすばらしさが感じられる。陽明門の左側には薬師堂の焼けあとが見えた。それから、眠猫のある坂下門前の蟇股中の牡丹にいき、名工左甚五郎の作った猫を見た。午後三時、日光をあとに、三百年ほど前に松平右衛門大夫正綱が奉納した杉並木を通り今市に出た。
 鹿沼、宇都宮、雀宮、小山、古河、栗橋、行田、熊谷、東松山、菅谷というコースで楽しかった修学旅行もついに終った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

日光旅行 二B 木村一枝

 五月二十四日の日光旅行、待ちに待った旅行だったのでその朝雨が降ったのにはすこしがっかりさせられましたが、集合時間ぎりぎりに学校へ行った。
 私たちが学校へ着いた時には、もうバスがきていました。小使室の西に集合して人数を数えると、女子が一人きていなかったのですが、そのまま小島屋旅館のわきにきているバスに乗りこみ、これから、このバスと一緒に日光まで旅行するのかと思うとなんとなく親しみがわいてきました。
 途中いろいろなガイドさんの説明を聞き日光へ行くまでのバスの中でも、とても勉強になりました。
 しばらくして栃木県に入った。とうとう夢にまで見て待ったいろは坂です。私は前にいろは坂の写真をもらったことがあったが、その日はきりがかかっていたせいか、どうかわからないが、その写真は下から見た絵だったが、道がまっ白でとても美しかったが、ぜんぜん想像していたとはちがっていたが、とてもスリルがありました。だんだん上に行くにしたがってきりが深く、とても寒く、耳が変になってきました。頂上に着いてバスからおりると、バスの中にいたよりもまた寒く、はく息が白く見えます。そしてエレベーターに乗り、華厳の滝の下に降りた。さすがに日本一と言われるだけあって、すごい滝でした。すこし上の方へ行くと、もうしぶきが降ってくるようでした。着いたばかりには滝の全景がよく見えていたのですがしばらくたつと、もうすっかり見えなくなってしまいました。見学しおわったので、又エレベーターに乗り、バスに乗っていろは坂を下り、茶店につき昼食をすませ、おみやげを買いました。一時ちょっと前にバスの中に荷物をおき、三仏堂と東照宮、左甚五郎の眠猫にはちょっとびっくりした。ぜんぜん小さく、見のがすほどのものであった。よくあんな小さなものが有名になったものだと思った。五重の塔も絵で見るとまわりが色とりどりにぬってあってとてもきれいだが、実物を見ようものなら、ぬったものははがれていてきたない様にも見えた。
 また三猿は普通でも見られる時があるが大きく色がぬってあったのできれいに見えた。そしてつぎに陽明門、さすがに又の名を日暮門といわれるだけあって、とてもきれいだった。さすがに名高き日光だけあって日本一のものなどがたくさんあった。とうとう日光旅行も終りに近づきました。バスに乗り帰ることになった。バスの中ではよく食べ、よくしゃべりながら帰りのバスをすごしました。今年の旅行はとてもいそがしかったけれど、とてもおもしろく行ってこられた。
 来年の関西旅行はもっと楽しく行ってきたいと思っている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

秩父湖・二瀬ダム 二C 根岸みつ子

 八月十日はそろばんに入っている人達のバス旅行の日だった。七時十分に菅谷を出発して小川駅でほかのそろばん塾の子がまっていた。私たちは二号車です。大河、古寺、竹沢、菅谷が二号車に乗りました。バスの中では、歌を歌ったり、なぞなぞをだしたりおもしろかった。友だちもできて、バスの中は大さわぎだった。しばらくしてガイドさんが秩父市に入りましたといった。まわりはとても高い山ばかりです。セメント工場がたくさんありました。バスから降りてトンネルをくぐり、山道を登ってつりばしをわたり、おべんとうを食べました。食べおわって山道を歩きました。下は湖に山がうつってとてもきれいだった。もう一つ、つり橋をわたっていくと三峰神社へ登って、ダムの上を通りトンネルをくぐってバスに乗りました。秩父湖を出発したのは二時でした。バスの中ではまた歌や、なぞなぞでとてもおもしろかった。玉淀によっておみやげをかい三十分ほど休んで、バスは家に向って走り出した。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

日光 二B 小林益治

 埼玉県を抜けて、茨城から栃木県の小山、雀宮、宇都宮、鹿沼、今市、日光という順序で行った。杉並木などを、バスの中から見学しながら、右の方を見たら山にきりがかかっていた。きっと朝雨が降ったからだろうと思った。神橋を左に見ながら、バスはいよいよいろは坂にさしかかって行った。カーブをするたびに「キャーッ」とか「ウワー」と言ってもみんなにこにこ顔をしていた。バスから降りて、華厳の滝を見学したが、上の方は霧がかかっていて見えなかった。高さは九十七メートルと書いてあった。中禅寺湖を見学して、今度はいろは坂を下るのである。「上がる時よりもあぶないなあ。」と、友達が言った。ぼくもそう思った。いろは坂もあと一曲りで終りと言う。一曲りも曲り終って、今度は待ちに待った弁当である。
 今度は、三仏堂の所に行った。そこで写真をとった。相輪棠、五重の塔を見てから、見ざる、聞かざる、言わざるを見て、「ふーん、これが三猿か」とつくづく眺めた。薬師寺の焼け跡が屋根だけ見えた。あれが鳴滝のあった所だなと思いながら。陽明門の方へ行った。ばかに美しいと思ったら、まだぬりかえが終ったばかりだそうだ。「眠猫、眠猫」と聞いていたが、見るのは始めてだった。これが名工、左甚五郎の作ったものかと思うと、何だか見る目が変わって来そうな気持がした。やがて見学も終り、いよいよ帰りである。時のたつのも忘れ、回り灯のように見て来た日光だが、ぼくの印象として、胸の奥にいつまでも残るだろう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

比叡山ドライブウエイ 三C 小林富美子

 もう最後の見物場所になった。それが比叡山に登る事だけだった。
 今そのドライブウエイの所まできている。「さあ頂上めがけて出発だ。」勢いよくバスは風をきって登り始めた。いろは坂の様だと聞いていたが、なるほど曲りくねっている道だった。途中狭い道で道からくる車を待っている様なありさまだ。少し走るとすぐ曲るので、前の車の人が手を振るその姿が、いかにも先に行くというのを得意としている気持が高い様に感じた。ガイドさんが説明するといっせいに顔がその方向に向く。びわ湖が山の途中で見えた。下から見るより又格別の感じが、いささか感じられるような気がする。みんなそちらばかりにあっけにとられたように見ている。だが、しかしとてもきれいだ。「一生に一度」と念をおして言葉がでてくるのにあの辺の人達は……と思うとうらやましくなってくる。
 前方に展望台が見えた。みなの心ははずんだ。とうとう目的地に到着した。少し気分が悪かったので深呼吸した。胸の中がサーと風に吹かれたように快くなった。少し耳なりがしている。すぐ上の展望台の所へ行った。そこで写真をとったり休んだり二十分ほど遊んだ。さっきの湖から何艘かの船と京都の町が見える。あまり長く見ていると、目がまわりそうである。なお気分が悪くなりそうなので所を変えたりした。風に吹かれているうちにそろそろ出発時刻となった。
 こんどは下り坂だから、なんとなく自分もらくな様な気がしてならない。又もとの道を下り始めた。一人で歌を口ずさみながら長い道をおりた。こんどは宿屋へとバスを走らせた。「今日一日ごくろうさまでした。」バスガイドさんの口調はちょっと京都べんがまじったような形でした。始めはちょっとへんだなと思っていたが、一日もいっしょにいるとすっかりなれてしまった。
 さあ宿屋についた。宿の人がやさしい京都べんでみなの帰りをむかえてくれた。部屋にきていろいろ話し合ったりした。どの人もふらふらするとかいっている。でも一番面白くスリルがあったのは、何といっても比叡山ドライブウエイだった。夜はつかれたので、ぐっすり床についた。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

赤城山へ登って 三B 関根ユキ子

 八月四日、五日、二日間にわたり、赤城山へ全校のレクリエーションとして参加者二十七人と先生方三人が行く事になった。
 武蔵嵐山駅を七時四十分に出発し、松山の駅まで行った。雨が降っていたせいか、二人おくれてしまった。
 松山の駅から赤城行きの急行バスに乗り赤城に向って出発した。
 熊谷の駅と太田の駅で一旦止った。いよいよ山にさしかかった。下は深い谷で、その谷には利根川の上流、渡良瀬川が流れている。四日も雨が降っていたのだというので川はさすが濁っていた。上流だけあって大きな石がたくさんあった。そこにはユリの花、あじさいの花、山いちごなどがあって山をたいへん美しく見せている。海抜六百メートル位の所には松尾芭蕉が「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と歌って通ったと言う道があった。
 バスの終点へ着くと同時に雨が降り出した。ケーブルに乗って行こうか行くまいかと、さんざんまよっていたが、元気のよい先生方ばかりなので歩いて登ることになった。道は二人横に並んでは歩けないように細く、廻りはぼさがおおいかぶさり、道をわけて行くような所もあった。おまけに道には大きな石というよりか岩がたくさんあった。たまには上から石がころがってくる事もある。バスからおりた時は夏だというのに、とても寒く感じられたけど、この坂を登り始めると同時に汗が出てくるしまつである。後の方から「おおい、休んでいかないか」と声が聞える。前へ行った早川先生などは声が聞えないかのようにどんどんちっともくたびれたようすもなく歩いて行く。私などはまん中よりすこし後の方だったから、声がかかると同時に「休んで行こう」と言って止った。後から来た人はみんなそこで休んだ。まだ十一時になるところだというのに弁当を広げる子もいる。「出発」先生から声がかかる。「弁当たべたから元気が出たか」などと言いとても元気よく歩いて行くが、五十メートルも行かないうちに元気が出なくなり「休んで行こう」などと言い始める。途中ロープウエイを横断して行くと石など一つもない、ねば土だけでとてもすべる所があった。おまけにつかまる木もあまりなく、すべりすべりようやく上った。上れないで先生におしりをおしてもらった子もいく人かいた。なにしろ急ですべるときているからどうしようもない。ズボン、靴などはそこでまっ黒にしてしまった。頂上までついた。雨はまだ降り続いている。西の方には大沼という大きな沼がある。そこにはボートが五十ぐらい浮いている。大沼を見ながら昼食を取った。一時間ぐらいしか歩かなかったと言うのに、私には三時間位はゆっくり歩いたように感じられる。「服をよごしたり、よういでない思いをするのだったらケーブルに乗ればよかったな」などと、みんな言っている。そうすると大島先生は「一時間ぐらい歩いてつかれてどうする。山登りは八時間以上歩かないと山登りといえない。一時間位では山登りのうちにならない。」などと言っている。
 昼食をたべて大沼の所まで歩いて行き、キャンプをする事にした。行って見ると四日も雨が降っていると言うので地盤はやわらかくなっている。でもテントがあちこちに見えた。私達もどうしようかと考えた末、夜中に水がしみて来てはしょうがないというのでバンガローを借りることにした。
 そのバンガローは二十人用のバンガローだったが、そのバンガローに二十八人入ったのだからすこしきゅうくつだった。バンガローに入ると雨もだんだんやみ、お日様も出て来た。これではテントをはってもよかったなどと言う人も出て来た。でもお日様もふたたび雲の中にかくれてしまうと、また雨が降って来た。
 それからなおなお雨がはげしく降り、テントをはった人たちもバンガローへ駆けこむしまつである。先生は「だれだ、テントをはった方がいいと言ったのは。」などと言っている。ちょうど石川先生の友達だという秩父の中学の先生という人がこだま高校の生徒をつれて私達のバンガローのじき近くのバンガローにいた。
 石川先生は十五年あわなかったという友達だという先生にあってとても楽しそうに二人で話をしていた。その夜はそのこだま高校の生徒達とキャンプファイヤーを楽しむことにした。みんなで木を山へ行ってすこしずつひろって来て高くつんだ。夕食をたべて木に火をつけようとしたがなかなか燃えつかず、三十分ぐらい燃しつけるまでにかかってしまった。あまり燃えつかなかったのでバンガローへ帰ってしまう人さえいた。
 もえついてみんなが集まると火をかこみ、いろいろな歌を楽しくうたった。大島先生はおどりました。キャンプファイヤーもほたるの光を後にして終りにした。その夜、ふとんをすき横になり、いろいろみんなで話をした。二階があるけどその二階は五人ぐらいきり寝られないのに八人も上ったので上からおちてくる子もいた。さいわいけがもなかったのでよかった。先生から「もう、おそいから寝なさい。」と声がかかるにもかかわらず、どこからか小さな話し声がする。だんだんとねはじめる。でもいっこう話し声はやまない。私もいつのまにかねむりにおちついた。
 よく朝起きて見るとまた雨、前の山へ登るわけだったが登らなかった。でも個人個人で登った人もいる。この日はバンガローの中で昼ねをしたり、いろいろの事をして遊んでいた。雨のやんだのを見て、ボートへ乗りにも行った。昼食をたべると、すぐ山をおりる事にした。おりる時は女はケーブルに乗っておりたが男は歩いておりた。ケーブルと歩いたので五分ぐらいしか、かからなkった。ケーブルはすこし遠まわりをしておりるし、歩きの人は帰りは下りだから駆け足できたのであまり変わらなかった。バスに乗るのに時間があったので近くの山へ花を取りに行った。名もしらないようなのもたくさんあった。いくつか取って来たが、バスの中へさしてしまったので家に持って来る事は出来なかった。
 温度など低いと聞いていたけど思っていたよりは、さむくなかった。でも水だけはさすがにつめたかった。水道になっているけど清水かもしれないが、五分水の中に手をつけていられないくらいだった。こうして一泊の山登りだったが先生方の指導とみんなの協力により、事故なく全校のレクリエーション『赤城山』へ行って来る事が出来た。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

日光修学旅行の思い出 二B 奥平正寿

 五月二十四日といえば菅中二年生、だれでも知っている。日光旅行の前の日である。私はうれしくてその晩は寝むれないくらいだ。母、父は早く寝なと言うが、私はどうしても明日のことでねむれない。時計が十時、十一時刻一刻と夜はふけていく。一時頃になって眠ってしまった。五時頃になったころ、ゆめで妹の幸子が私を起した。目をさましてみると、時計はすでに五時何分か過ぎていた。ベントウも包んであった。外に出ると雨がパラツイていた。一度は気がもめたが、幸子の言葉に雨は朝のうちでやむというので、心はわくわくしてきた。時計は五時二十分、さあ大変と思い、大いそぎで家をとびだした。後で母と幸子が、なにか言葉をかけたが、ふり向かずに家をとびだした。学校は多数の人が来ていた。バスに弱い私は、よいどめの薬をもらいみんなの所に行って見るとみんな楽しいと言わんばかりに、顔をほころばせていた。私はみんなとはなれてバスに弱いので後のことを考えていた。バスは校庭に入ってきず、小島屋の所にとまっていた。バスは早く来ていた。バスの中に入り私は前の方にすわり、バスは出発。私はいままで乗った時は気力敗けしていたが、今後はファイトでぶつかっていくつもりだ。となりの人と話をしながら、そんなことはわすれ、一度もよったけはいは見せなかった。いよいよ日光方面にさしかかり、途中の杉並木は実にりっぱで、ほとんどの杉は菅谷あたりでは見られない。その杉並木も終り、日光最初のいろは坂では、みんなこわそうに「キャーキャー」とさけんでいる。私もこわくてバスが横になる度に体をグッと起し、バスを引っぱろうとするが、さすがは運転手、一つもあぶなげなくスイスイとハンドルを切り、上に上って行く。そのあぶなげな坂も登り終り、二、三分歩き、箱のような所からエレベーターに乗って下におりた。暗い通路を歩き、歩き終らないうちに滝だよと教えんばかりに霧が吹きこんできた。見ると、はるか上の方から「ゴウゴウ」という音を立て、水は滝つぼめがけて落ちてくる。下では水が「ブクブク」とあわをたてている。その滝つぼに落ちたら、きっとひとたまりもなく死んでしまうだろうと想像しながら何分か見て、それから上に登り始めた。又バスは中禅寺湖に向って再度出発した。しばらく行くと、中禅寺湖に着いた。その中禅寺湖はなんとも言いあらわすことのできない美しさなのだ。それから中禅寺湖を後にして、バスはいろは坂へさしかかった。行きとは違って、運転手さんの腕を行きに味わって信じていたから心を落ち着かせて下って行った。休憩所で私達のバスもそこで止まりました。私達もそこでべんとうを食べ始めました。母が作ったすしは特別おいしかった。いや母を心から愛していたからなのかもしれない。
 昼食後何分か歩き、五重の塔を見てから、三猿や相輪棠、眠猫、前から猫の話は聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだ。どんな物かと案内人の指さす方を見ると、なんと横四十センチ、立二十センチ位の小さな猫だった。案内人の言葉をききのがし、見ないできた人も少なくはない。私はその他の物も多数見ましたが、あまり記憶できず今でも残念でたまらない。それから休憩所にあつまり全部そろって、いよいよ帰りに向かうのである。帰りはみんなバスのマイクを通じて歌、あるいは物まね、そんな歌を聞いているうちにもバスは私達の村へ村へと近づいています。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

雑感 藤野

 近頃生活様式や食生活が改善され、精神的にもゆとりが出来、スポーツが愛好されてきたので、従来悪いと云われた日本人の体格がよくなり中でも発育ざかりの中学生の体位が、著しく向上した。これは日本人の将来に大きな希望のもてる明るい話題ですが、本校生徒の体格や運動能力を県平均と比較し、その長短について雑感をのべ参考に供してみたい。
 先ず体格ですが、一、三女の体重を除いては、ほとんどが少しではあるが下まわっている状況です。それはどうしてだろうか。よく小さいのは「親ゆずり」とあきらめている者がいますが、今日では、生活環境によって成長率が左右されるという考え方の者が多くなっていますから、勇気を出して欠陥を除き立派な体格の持ち主になろう。
 その原因と思われる点は沢山あって、簡単にはいえないがいろいろの調査から、心当りを二、三ひろってみると、第一に中学生になっても、まだ食物に好き嫌いのある者が意外に多い事です。食物に好き嫌いがあっては完全な栄養をとる事が出来ません。偏食者の中には案外「食べず嫌い」が多いのではないだろうか。まず食べて好き嫌いをなくそう。学校給食が学童の体位向上に、大いに役立っているのも、偏食が是正されるからだと云われています。その点本校にも給食が、実施されたら栄養問題の一端が解決されるだろう。
 第二に、未処置う歯の所有者が多い事です。特に二年女子に於いては、八十%以上がう歯の所有者です。如何に栄養価の高い食物でも、よくかんで食べなければ消化されない事は今更力説するまでもありません。おっくうがらずに歯科医を、おとづれ、少なくともCの程度の中に治療し一生健康歯をもち続けたいものです。丈夫な歯でよくかむ。簡単なようで仲々実行されていないようです。
 第三に寄生虫の感染者が多い事です。本年、学校では検査が出来なかったが、昨年の結果では約四十%の者から寄生虫卵が検出されています。特に鈎虫寄生者は一時も早く駆虫につとめる事が必要です。蛔虫も油断出来ないし、原因不明の病気が蛔虫の迷入や多数寄生であったりする事が、多いそうです。兎に角、発育ざかりの大切な体を寄生虫に害されては大変です。
 その他姿勢や、身長に合った机や椅子等の問題が沢山あると思いますが、時々自分の体や生活を客観的にながめ、欠陥と思われる点があったら根気強く是正していくよう努めよう。

 次に運動能力ですが、男女共立巾とソフトボール投げが県平均より勝れています。その中でも立巾跳が一番です。最近砂場も改造され投てき場も新設された事だから、大いに利用し、一層向上させたいものです。五十米走は大体同じです。土質も広さも申し分のない運動場をもっているのだから、もっとスピード走に力を入れたらまだまだ進歩すると思います。右の三種目に比して、けんすい、持久走の劣るのはさびしい。けんすい力は二女と三男を除いてはみな平均を下まわっています。これは鉄棒が校舎から遠いために体育の時間以外あまり利用されていないためだと思う。今後は利用方法を工夫したり、増設したりしてこの方面の力を助長したい。
 持久走では仲々優秀な選手が多く、二千米や駅伝等でも立派な成績をおさめるのだが、全体の成績が悪いのはおしい。測定の時期が悪かったのか又は持久走で要求される「頑張り」が足らないのか。よくねばりの不足は本校生徒の欠点だと云われるが、持久走の機会を多くとり頑張りのきく体力をつけたいものです。
 これが本年度の運動基礎能力の概況ですが、最近基礎体力の養成が真剣に考えられて来た事は、非常に結構な事です。
 戦後自由のはき違いから興味本位のスポーツのみ、さかんに行われ、基礎体力をねる事が軽視されたためスポーツが早期に専門化される傾向にあった。そのため体力と技術のバランスが崩れ、折角の素質も頭打ちになってしまった者が多かったのではないだろうか。最近サーキットトレーニングが重視されているのもこのためだと思います。
 以上本年度行われた身体測定と運動能力テストの結果をもとにして雑感の一端をのべましたが、中学時代は第二成長期で、心身共に著しい成長をとげる大切な時代ですからいろいろな資料を参考にして、自己の長短を充分把握して、科学的に検討し体位の向上につとめるよう祈念して筆をおく。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

横浜港とマリンタワー 二C 松本広男

 二十九日の朝横浜港をめざして電車に乗った。終点で自動車にのりかえた。自動車は港をめざして走り出した。着くと見学船にのるため三十分ぐらいまった。いよいよ出発、船はエンジンをかけ、波を立ててさんばしを出た。船はいろいろな外国船のそばを通り、ガイドさんが説明してくれた。内防波堤灯台のそばを通り、アメリカだけが使っているさんばしや、客船、貨物船、キャッチャーボート、捕鯨母船、観測船(宗谷)、天皇陛下がここに来たとき乗る船や、そのほかいろいろな船を見た。そのなかで感じたのはキャッチャーボートが思ったより大きかった。また宗谷があまりにも小さいのでたまげた。よくあの船で南極までいけるものだと思った。そう思っているうちに船はさんばしについた。船から降り、こんどはすこし歩いて海の教室にいった。この海の教室というのは氷川丸のこと、氷川丸という船はもう長い航海を終えて、みんなのために船の中でいろいろな外国のことを学べるようにしたもので、階段を上ってすこし行くと、通路があり、その上に乗ると自然に動くしかけになっている。 中にはサンフランシスコの時間、パリの時間、ニューヨークの時間、ブラジルの時間、ハワイの時間、このほかいろいろなところの時間がわかる時計が備えつけてある。またいろいろな絵や形があった。そのほか船のエンジン、運転室、船長室、いかりを巻きあげる機械、料理室などを見た。
 こんどはマリンタワーに登ることになった。このマリンタワーは一階が無料休憩所、二階はみやげ物売場、三階は海洋科学博物館、四階が大食堂、五階広場、そのつぎはずうっと上にいって展望台、その上は大灯台、そこまでの高さは百三メートル、マリンタワーのいちばん上まで百六メートルもある立派なもの、マリンタワーというのは海の塔という意味だそうだ。いよいよ切符を買ってエレベーターで展望台にあがった。展望台には望遠鏡がいくつもあった。それをのぞくと港をま下に遠く水平線がくっきりと浮ぶ。エレベーターで三階の大人の遊び場に行くといろいろおもしろそうな物がある。自動車の運転もあった。二十点と書いてあるところに入れればよいのだ。ぼくは十円をいれてしてみた。前にした人が出られなくなったままスイッチが切れてしまったので、ぼくは出すのにほねだった。だがやっと出られた。うまく運転をして二十点のところへ二回はいった。そのうちに時間が来てスイッチが切れてしまった。
 間もなく帰りの時間が来たのでマリンタワーを後にした。
 今日はほんとに楽しい一日だった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

模擬テスト 三A 吉野嘉子

 就職や進学に合格しようと、皆、一生懸命である。その時の一つの助けとし、模擬テストがある。自分の実力を知り、又テストの時の態度もだんだんと身について行くだろう。
 模擬テストによって、弱点を補強して行く。その陰には課外授業もあるので、就職、あるいは進学と、自分自身の目標に向って、真っすぐに進んで行く、それには忍耐力はぜがひでも必要であろう。目標に達するまでにはいろいろな苦労困難があるにちがいない。しかし私達は、それにへこたれず明かるく、生きて行かなければならない。
 今までの三年生がして来たように、進路が決まれば、もう何をする気にもならないと言ったような考えをおこさずに最後の勉強だと言う認識を強く自覚し、模擬テスト、あるいは課外などに望みたい。
 一生懸命に学び、自分の力をつけておくことが、これからの社会に入る一員として、ぜひ必要だと思う。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

小ねこ 二C 長島美佐子

 よくはれた文化の日、母と私たち三人は、団地を見にいくついでに、父のワイシャツをクリーニング屋にもっていった。日あたりのよい縁側に大きな大きなねこがのっそりと出て来た。私は動物好きなので、だいてみたが、大きいわりにおとなしかった。すると小ねこがちょろちょろと縁側に出て来た。小ねこをだこうとすると、すばしっこく障子の穴から逃げていってしまった。母はクリーニング屋の人と話をしていた。
 それから二、三分たってからクリーニング屋の人が、「ねこをあげようか。」といった。私はあまり気がすすまなかった。それはいままでいたねこよりも、毛の色が黒とらできたなく、それに、秋のねこは春のねこのように育たないとだれかがいっているのをきいたことがあるからだ。母は私に、「どうする、もらっていくか。」と聞くので、「どっちでもいいや。」といった。それで小ねこをもらうことにした。その家のおばさんが、「しいたけこんぶ」と書いてある箱の中に小ねこを入れて、私にわたした。私たちはクリーニング屋を出て団地を見ながら山道を歩いた。小ねこは出ようとして懸命に頭でボール箱をおしているが、私は力いっぱい箱をもっていた。両側の田畑では大人も子供も牛もみんな働いていた。なんだかのんびりと歩いているのが、はずかしいような気がした。
 家に帰ると、小ねこは本箱のすみや机の下などすみの方へかくれて、出て来なかった。私は菓子がはいっていた、大きなボール箱のはしに穴をあけ、ぼろぬのを箱の中に入れてやった。ちっともなかないので、おしかなあと思っていると、「ニャオン」とかわいらしい声でないたのでおしでなくてよかったと思った。午後クリーニング屋の娘さんが通ったので、母が小ねこをもらったお礼に、「にぼし」をやろうとすると「どうせ、すてようと思っていたんですからいいんですよ。」といった。私は「ねこ名はなんていってたん。」というと「ミー、と呼んでいたんだけどまだ小さいから名前をかえてもだいじょうぶでしょう。」といった。夕ご飯のときもミーの話しばかりで、「なんて名をつけようか。」母は、「こぞ、でもよびよくていいだろう。」といった。私は、「なち、はどう」おいった。「なち」というのは三四年前熊谷の問屋でかっていたねこで、「かす」というわけでかりたねこでしたが、そのねこは、近所の家で死んでしまったねこです。ようやく決定した。名はいままでどうり「ミー」となった。二日目はもうすっかりなついて、ボール箱の中には、はいらなくなった。そしてミーは日々に大きくなっていった。食べ物はなんでも食べた。そしてお店へいってお店の品物を落したり、手にくっついたり足にじゃれたりして、私の手はきずだらけになった。母は「まったくまめなねこだ」とあきれていた。障子はどこもみなやぶれている。母は、「このあいだはったばかりなのに」とおこっていた。ミーはとっても強い小ねこだ。大きな犬がくると、毛をたてておこる。「小さいくせにつよい」と母は感心していた。
 そのねこもいまではずいぶん成長して、あいかわらず悪いことばかりしている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

このごろ感じたこと 三B 関根菊枝

(一)末っ子
 末っ子はいいな、かわいがられて、これはよく言われることばである。たしかに長女よりは責任が軽いかも知れない。真ん中の人より手をかけて育ててもらったかも知れない。私は末っ子である。だから末っ子の立場から言うとあまりおもしろい事ばかりではない。中学三年ともなると、私は私なりにいいたいこともあるのだけれど皆の話相手にはしてもらえない。あまりむずかしい話は、ききたくないのだけれど、ちいさな事、たとえば母の着物を選ぶ事だとか、ご飯のおかずを何にするとか、そうゆう事でいいのだ。誠にささやかな願いだと思うのだが、家の人にしてみれば菊枝になんかいろいろ相談していると日が暮れると、いうのである。特に私は女の姉妹と、年がはなれているので、女の子らしい話をかわしたこともない。話をしたとしても、勉強をしろとかなんとか多いに姉ぶられるのが関の山。兄は兄で、ガンがどうの、何年型の自動の馬力がどうのと、この夢多き少女の気持を理解してくれるような人はいないのである。孤独というほど重々しいことばはぴったりしないけれど、なんとなくつまらないこの頃である。

(二)はっきりものをいうこと
 私が買物にいったときの事である。さしだされた品物をとろうと手をのばしたとき、チョコチョコ入ってきたちいさな女の子にぶつかってしまった。ちょっとそのこのセーターにふれた程度だったけれど、私はアッと声をあげてしまった。すると私の声と同時にその女の子がはっきり「ごめんなさい」といったのだ。私は私をみつめている黒いひとみを、ボカンとみていた。なんということはないかも知れないが、人前でためらわずにサットでたことばに、私の胸はスットさせられた。私は自分の方だって悪いのに、相手にふいにあやまられると、なんといっていいかわからず、帰ってきてしまったけれど「ごめんなさい」くらいはいうべきではなかったかと反省させられたのだ。私はいつもあやまるのはわかっていても反射的に、ことばがでるのはめずらしい。私はその女の子から、はっきりものをいうことを教えられたような気がした。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

朝 一D 田幡順江

 夢かしら「よりい、よりい」と、母の呼ぶ声がする。私は、母の呼ぶ声に対してさほど、関心を持たなかったがこの時ばかりは、母の声がうらめしく聞こえる。
 「はい、今すぐ行く」何でこんなにねむいんだろう。
 おきようとしても、ちっともおきられない。これが私の一日のすべりだしの朝の状態だ。私は、姉たちと、二階にねている。母は、私の事をよく知っていて「母さんはいそがしいから、二階までおこしにいかないから一度呼んだらすぐきてね」と毎ばんのように言われる。その時は、調子よく、返事をしとくが、朝になると、返事のようにそう、調子よく行かない。もともと私は、よいっぱりの朝ねぼうなので、夜ならある程度起きていられるが、その半面、朝はなかなか起きられないたちだ。
 だから、このごろだんだん寒くなって来るのでとてもつらい。めざまし時計もまくらもとにおいてあるが、ベルが鳴ると、わきにねている姉たちの話によると時計をひっくり返したり床の中に入れてしまう事も、少なくないそうだ。それだから時計のベルがなり終ると、日曜日が急にこいしくなる。
 あと十分ぐらい、五分ぐらいと思っているうち母の声が聞えるのだ。けっきょく起きて、のこのこ階段をおりて柱にかかっている時計を見ると、もうそんなに、のんびりしている時刻でもなさそうだ。ざっと時間をはかっても学校へ行くまでは、どうしても三十分ぐらいかかる。とくにそうじはつらい。私がそうじを始める頃、姉たちはもう学校へいくばかりの状態でいるのでなおさら気ずかれがしてなかなかはかどらない。でも、あれや、これやでどうやらそうじが終ると、いそいで仕たくをして学校へ行く。
 これが今の私の毎朝の様子つまり、あわただしい一日の初めなのだ。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

卒業を間近に 三A 斎藤好子

 一歩一歩近づいてくる春。その春と共に、私たちはくる三月十五、六日頃卒業をしなければならない。思い出深い母校を後に実社会へと前進していくのである。
 思いみれば三年間希望に胸をおどらせて、中学生活に飛び込んだ私たちです。それがもはや就職も決まり、いまが就職者にとってはいちばん、のんきな時であろう。けれどその、のんきな時がいつまで続くであろうか。残り少ない卒業までを楽しく有意義にすごしていきたいと思います。
 私たちの目の前には新しい世界が待っている。そうだ、自分たちも大きな希望をもって広い大きな社会へ飛びこもう。
 もし社会へ出て苦しいことや、いやな事があったら、だれにたよろうか。社会にはだれもが親切な人ばかりではない。そんな時にはそうだ「こんなことに負けてなるものか」と気を大きく持って世の中にわたって行くことができなければ、りっぱな人間になることはできないのだ。会社へ入ってからは素直にまじめに、そして上役の人に従い、一生懸命仕事に励みたいと、思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

これからは 三A 西沢久子

 「若い人は、これからたいへんだということは事実かも知れない……」という文面で始まり「生きぬいてきた者の子孫の我々は、また理想を目ざして一歩一歩足を浮かさずに歩いてゆけばいいのである。」という行程で終っている武者小路実篤のつづった文を読んだ・
 現在の私達三年生にとっては最適の内容を持つ文章だと思った。これから社会に出て大人の仲間入りする者も、また進学する者みしても進路は違うが、在学中の心理はまだ両者とも同じにすぎないと私は思う。
 著者は正しく生きるという事に重点をおいて、説明をつけ加えているようだ。ここで著者のいっている、正しく生きるという事を紹介すると、「自分に託された一個の生命を正しく生かすと同時に、他人に託された一個の生命が正しく生きることをじゃましない。」ということになっている。私もこの文章を読んでみて、確かに、うなづかれる個所がずい分あった。
 例えば、人間である以上、誰しもが行いやすい行為、気持を微妙にとらえて人間の有様を描き出している。またこれからの世の中に打ち勝つ力と勇気と能力なども必要とされている。
 それから臆病ということにも著者は述べていた。その結論というか原因というかは「恐るべき事の恐ろしさは知らねばならない。知るのは正しく生きるためで、正しく生きることに臆病になってはならないと同時にすべての人を本来の人間として愛することを忘れてはならない。要するに一個の人間は一個の人間として平気で、元気に完成の道を歩いてゆけばいいのである。」
 これからの社会に出る私にとっては、この文章を恵みの言葉として受けるより他ない。危険な十七才とも言われている年令もあと二年先に至っている。
 これからの私達の世代には危険という言葉が社会をぬりつぶさないように心掛けていきたいものである。そして最後にあったように「……一歩一歩足を浮かさずに理想に向かおう。」

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

初冬の夕 三C 内田匡子

 あたりは煙のもやに包まれ、ひっそりとした村道を一人帰途を急いでいた。
 西に、高く低く連なる山々は、淡い紫に深まり、その間より弱い柔らかな残り日が、ほんのりと、雲をうす桃色に染め、綿菓子のように浮かんでいる。東の空にはどんよりと灰色がかったうろこ雲、厚く空をおおい、山も家も木も黒い固まりに見える。いつの間にか、西の空も明かみを失い、私の囲りは夕闇だけとなった。何故へ飛んで行くのかどんどん道を急ぐ、赤い炎が目に写った。あたりの暗さに反し、そこだけがいやに明るい。三つの黒い影が、炎のように照らし出されゆらぐ、冷たい風が。音もなく、急ぎ足で通り過ぎる。手袋をはめた手が、ほおをかばう。
 田んぼでもみがらやくずわらを燃やしているのであった。静けさを破り、もみが時々、パチパチとはねる。少年が棒をもってそばに立っている。二人の女の子がすうっと炎のそばから離れ、闇の中にのまれていった。二人ともかばんを持っていたから、おそらく学校帰りだろう。一人残った少年は、盛んに燃えるごみをかき廻す。顔が赤くほてり、かんかん帽が少し斜めに頭の上にのり、学生服の上に、はんてんをはおっている。私は、ほのぼのとした気持でそばを通り抜け、家のかいどをまがった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

女というもの 三C 浜野智加子

 女の女たるゆえんとは何か。それは女らしさにある。現代の女性は外面は女として内面はつまり心は女として、はずれている面がある。たとえば外面華やかに着飾ったおじょうさんでも、家庭においては何も出来ず、うわついているような女性も少なくないだろう。又一面おとなしく、つつましやかにみえ、やさしそうな人でも対談してみて、いやにお高くて、なまいきで品の良くない人も少なくない。これも女としての欠点の一つである。外面は貧しくして心豊かな人の方がよほど価値があり、外面は華やかでも心の冷静な冷たい人の方が女としてマイナスであるといえる。女らしさを女から取ったらあとに何が残るか、又みづらくはないか、女が女らしさを失ったら終りであると私は思う。現代において女性らしい女性がいく人いるだろう。多分、大部分がみえで家がよくなくてもわざとらしくしてみせ、無理に自分をよくみせたがるようななさけない、心浅くしてもっともっと人間的な所はどこにあるかとか考えた人はおそらく少なく、みえをはりたがる人の方がどんなに多いことだろう。まして女とはしっとが強く外面ばかりよくみせたがるごく単純な考えのなさけない人の方が多いか、もっと人間的又女性的さはどこにあり、どうすべきかと深く自分をみつめかえすべきではないか。
 では女とはどうあるべきか、外において貴婦人のごとく、家において女中のごとく、又つつましやかで心豊かにして、やさしさのつまり女らしさの満ちあふれた人でありたい。
 ゆえに女の女としてのゆえんは女らしさにあるといえるであろう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

夏休み 三A 深沢和子

 もう夏休みも半ばを過ぎてしまった。今年の夏休みは何となく、夏休みという感じがしない。一、二年生の時はのんびりとゆっくりした気持で、夏休み時間を過ごしてしまったが、三年となっては、そうもしていられない。やがては高校入試、就職試験がひかえている。皆不安とおちつきのない、そわそわした気持のことだろう。私もそんな気持でこの作文を書いている。とくに今年は人数が多いのでのんびりとしていては、自分の希望している所へは行けない。誰もが努力とファイトを燃やして、勉強にはげんでいることだろうと思う。今日は何をしよう明日は何をしようと思っていてもなかなか実行しない。つい熱くてだらけてしまう。そう言ったからと言って、のんびりしてはいられない。もうわずかな夏休みだけれどむだなく有効に使おうと思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

音楽会 一D 大塚芳子

 十一月二十八日は小川の小学校の講堂で音楽会がありました。私たちは勉強を三時間してお弁当を食べました。私と純子ちゃんはお弁当をもってこなかったので三時間目が終るとすぐに家に帰ってしたくをして御飯を食べて駅へ行きました。まだはやいと思って駅へ行ってみると、みんなならんで電車に乗る用意をしていました。小川に着くと音楽の藤井先生が駅へむかえにきていました。小川の学校へついてもなかなか小学校のが終りません。小学校のが終ってこんどは中学校の番になりました。一番初めは小川中学校のすいそう楽をやりました。私達は八番目だった。思い出の高原と、さくらさくら、をうたいました。皆生徒達のが終って特別出演の人達がきました。東京芸術大学の女の人がふたりきました。ひとりの人はピアノをひきました。曲はわかりと行進曲をひきました。もうひとりはバスににたようなものをひきました。
 帰りの電車は四時四分の電車で帰る予定で駅に行き電車に乗って帰りました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ことば 岡本みち子

 「おお寒い。」
と思わず首をすくめるような秩父おろしをついて、暮色をただよう家路をたどる。
 駅に着くとすでに改札が始まっており、数人がホームへと急いでいる。間もなく電車が入るらしくベルがけたたましくなっている。私はパスを手に改札を出て向いのホームへと急いだ。すると、
 「どうも、ご苦労さまでした。」
という声がした。ふと目をあげるとパブロットを手にした駅長さんの姿がとびこんできた。
 「お寒うございます。」
と私もあいさつした。その時、電車がすべるようにホームへ入ったので、かけ足で後の車輌にたどりつき、車中の人となった。運よく席もとれほっと安堵し我にもどった。
 それと同時に私はさっきの駅長さんのあいさつを反すうし始めた。それは私にとってあまりにも感銘の深い一語であったからで、そのあいさつを耳にした時、一日のつかれが一挙にいやされ、今迄の重い足どりも、心のしこりもふっとぬぐい去られたからだ。その人の心の底からにじみ出たその一語が、一瞬にして私の心を明るく和らげてくれたのだ。
 それにつけても、日常のあいさつが、又ふとしたことばが人間関係を円滑にするのに、どんなに役立つものであるかということを知らされた思いだ。そして、煩雑で、あわただしい現代社会に呼吸する人間関係に、必要欠くべからざるものであることも……
 私達は、日常のことばをもっと大切に養い育て、明るくなごやかな、うるおいのある人間関係を培いたいものだと切に思う。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

ある一日 三B 金井悦子

 夏休みも切羽詰ったある日私は川へ魚釣りに行った。私は生れつきと言って良い位に、泳ぎも魚釣りも好かなかった。川そのものを好かないのかも知れない。
 毎年の夏季休業中、川へ遊びに行く事は、こんな近くにいて多くて二〜三回、泳ぎは小さい時やらなかったため全然だめだし、魚もどうも私の針にかかってくれなかった。しかし今年三回の魚釣りは私にしては上々で、前から心を一変し、後で行く気持も生れたりし、川へ近づく様になった。後四〜五日で二学期、ましてや中三ともあろう者が、この日は一日中魚釣りで暮したのだから、後で考えれてみればくたびれもうけで、意味がなかったかも知れない。その内容は大体次の様だった。
 五時起床、八時まで夢中の内に朝飯も食べずに釣っていた。その後、午後一時から三時まで妹達の水泳ぎの水泳ぎの手伝いやら見物やら。ここの二時間は苦しかった。手足がぴりぴりやけるのがわかった。それに水しぶきは見ていても実際つかっているのは膝下だけなので、相当暑かった。でも不思議にちっともあきがこなかった。夕方六時から七時半まで魚釣り。この時間は一番良く釣れるのだが、すぐ暗くなってしまい、どちらかと言えば物足りない感じだった。ちょうど満月で、真赤なまん丸な月が夕暮れの水に影を落とし、何とも言えない誠に絵の様な光景であった。
 本当に月日のたつのは早いものだ。今年の夏程そう感じた事はない。夏休みは私達のような立場の者に取って本当に意義深く過さなければならない。とはわかっているつもりではあるのだが、つかれたとは言え、この一日は、こうあって良かったと思う。私の夏休みは有意義に過せた所の話しではないが結局娯楽も機会のある内に大いに行っておいて良いと思うからだ。これからは、大よそこんなのんびりと過せる一日はめぐってこないであろう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

たまごふき 一B 奥平きく江

 元は、私の家では、たまご屋さんといって東京から五日おきにきました。その人にやるのならたまごふきなどやらなくてもよかったのだ。こんどは東京から自動車できてもっていくので、箱につめてだすので、きれいにふいて箱につめてやらなくてはならなかった。たまごふきも初めはみんな、おもしろがってやったが、いまは、いくらやれといってもなかなかしない。しても、テレビを見ながらやるのでわってしまう。わるたびに父や母は「テレビなど見ながらやるからだ。」と言う。妹は、箱につめるのがおもしろいので、ふくのがおわるのをまっている。箱につめるのは、とてもおもしろい。四角のますがいくつもできていてその中にたまごを一つづつ入っている方をしたにやるのだ。それは上から見ていかにも大きいたまごのように見せかけるためだ。たまごふきも大変な仕事ではあるけれど、いくつも、いくつも、かさねられた箱をみるといい気持になる。このたまごも今週の日曜日には又、車に運ばれていくのだ。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

節子はもういない 二A 高瀬しづ江

 急に節子がいなくなって二十日以上もたった。
 目はパッチリとした可愛い子だった。色は白い方ではないけれど私にとっては、何年たってもわすれることはできない。一晩とめてみたら泣かずにとまったので、それからずっととめた。二階にねているので朝起きるとどしどしとおりてくる。おとうさんは熊谷のヒューム管に仕事に行くのでいつも朝よっては「あぶないから道に出すな」といつも言うことは、きまっていた。
 家の人だって可愛くてよびすてにしたことはない。いつも「せっちゃん」だ。
 節子がいなくなったと聞いた時、とてもへんナ気持だった。私はただかわいそうなだけだった。毎日五、六十人の人がさがしにきてくれた。その人たちもみんな節子をしっていて、かわいそうだ、かわいそうだといって一生懸命さがしてくれた。夜ねても節子のことを思うとねむれない。又あの時分は寒い日がずうっと続いた。台風の日もあった。
 もし親が死んでしまって節子だけ生きていたとする。山の中だったら節子がないていても聞こえない。そんな死に方はさせたくない。
 一番上の姉と台風がやんでからさがしに行った。竹沢でおりて折原まで歩いた。山の中の寺や神社などみんなみながらいくのだ。こわそうな所は私に見てこいというので、いないと、「ああ……」と思う。折原から「玉淀」までも歩いた。いってみたら、台風の後だったので、すごいどろどろの水だった。これじゃあ真中に浮いていても助けることはできないと思った。私はどろどろの水に目を向けていた。ここでいつも十五、六人自殺するがはきものがないのはこれがはじめてだと言った。けいさつでもはきものがないというので十時でうち切った。でもはきものがないといってもはいてはいれば一晩で遠くのほうまで流されて行くといったら、昼までさがしてくれた。水の中にはいると子供は必ず親のあとを追うものだという話をきいた。そうしたら親がみつかって二、三日たったら節子がみつかった。
 水に入った時は苦しかったろうな。水を飲んだろうな、だけど目はつむっているし、口もむすんでいる。だから水に入るのと一緒に死んだのだろうと思う。もう節子のことなんか思いだしたくない。あんな「がんじょう」そうな節子が死ぬなんてゆめにも思ったことはない。
 この世にはもういない節子だが天国に、生きているのだ。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

うさぎ 三B 内田慶子

 現在私の家には、子うさぎ四匹と親うさぎ五匹とがいる。
 一ヶ月前の夕方、私はいつものように、うさぎに夜の餌をやり何の感じもなくふたをしめて、その日はもううさぎを見なかった。なぜならもうこのうさぎは三〜四日後に子が生れる事になっている。翌朝兄が餌をやろうと思ってふたをあけたら高くわらがいっぱい盛り上がっている。兄はなんの気もなくそのわらをつかんで平らにしようとした時、中にまだ赤はだかのねずみの子ぐらいな小さなうさぎが一かたまりになって動いている。兄はあわててわらをかぶせて人に見られないようにまわりをかこんで私に絶対見ないように言った。十日後兄と二人であけてみるともう目はあいて少し白くなりかけている。かぞえてみたら全部で七匹いた。
 あのねずみの子ぐらいだったうさぎが十日後には、こんなに大きくなるものかと思うと兄は目を見張り二十分ぐらいみていた。
 その後一ヶ月たった時もふつうのうさぎと同じくらいになり草も食べた。今いるうさぎはその時のうさぎで三匹は一ヶ月たつと早々近所のおばさんが持って行ってしまった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

行けなかったキャンプ 三B 岩沢完子

 あしたは赤城山へキャンプ、私には始めてのキャンプとあって嬉しかった。心をはずませてザブリックに罐詰、食器、洗面具といろいろな物を詰め始めた。すると雨がぽつぽつと降ってきた。母は「夕立だから、あしたは晴れるだろう。」と言った。でも、このごろ雨がふらないから、あしたも雨かわからないと私は思った。でも用意はすぐにでも行けるように着る物、持つ物、みな自分の机の所へ並べておいた。そのうち、雷が鳴り出し、停電となってしまった。
 でも、父と兄が帰ってきたので、手燭をつけて夕飯を食べた。次の朝起きて見ると、さの通り雨が降っていた。どうしようかと考えていると、母が「これでは、キャンプでなければ行ってもよいが、キャンプでは、下が濡れているから、どうかなあー。」と言われた。その時私は、いやに母の元気がないのに気がついた。でも母は、お弁当を作って「友達の家まで、行って見るだけ行って見れば。」と言ってくれた。私は、初めてのキャンプとあって、行って見たかったけれどもしものことが母にあったらと思った。それに、姉が三日から五日間くらいの予定で軽井沢へ出かけているため、私が行ってしまうと。と思い、家を出るのをやめた。
 母も、まだまだキャンプなんかする機会は、いくらでもあると言ってくれた。
 母は疲れが出たのかなんだか、四日の晩から寝こんでしまった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

おとうさん 二B 吉野なか

 うちのおとうさんはめったに、病気をしたことがない。でもこんどは床についてしまった。床についたのは六月二十三日の夕方だった。その日は「どうもくろうだから医者に行ってくる」と言って家を出て行った。医者から帰ってくると「きもちがいいから二、三ばこいてやるかな。」と言いながら麦をこき始めた。それから約三時間ぐらいすると「なか、アイスを買ってこい。」と言った。
 私はすぐにお金をもらってアイスを買ってきた。お父さんに渡すと「どうも頭がいたい。」と言いながら、アイスを手ぬぐいに包んで頭の上に乗せていた。でもよほど苦ろうだったと見えて「なか、五百円くれるから母ちゃんの手伝いをしてくれいなあ。」と言った。私は「お金なんかいらないから早く寝ろよ。」と言うと、「でも、やるだけやるよ。」と言ってお金を置いて寝てしまった。
 それから一時間位するとお父さんは起きて来た。母ちゃんが急いで家の中に入っていったが、間もなく母ちゃんが青い顔をして私の所にきて「なか、母ちゃんが医者に電話をかけてくるから台所をはいといてくんなあ。」と言う。私は「どうしたん。」と聞くと「熱がうんとあるんだ。それに息づかいもへんだし、体がたいぎだといっているんだよ。」それから母ちゃんが根岸先生に電話をかけて帰ってきた。三十分位たっても根岸先生はこない。すると裏の家に横田先生が来た。私がそれを母ちゃんに話すと母ちゃんは裏の家に行って、横田先生を頼んで来た。みてもらうと「はいしんじんえん」だそうだ。
 いく日が見てもらっていたが、とうとう先生にもわからなくなったのかこなくなってしまった。それからしばらくして夜中に急に悪くなってしまって、こんどは石川先生を頼んだ。石川先生の診断は「ろくまくだ」と言う。いく日が石川先生に見てもらった。それからは石川先生が注射をするたびに熱が出てしまう。そのため見たてがちがうんだろうということで、こんどは唐子の岩田先生に見てもらったところ、じん臓にばいきんが入ったんだと言うことになって、早く入院しなくては、手おくれになってしまうから、明日すぐにでも入院してくれと言われた。おどろいて、すぐにわたしは菅谷に電報をうちに行ったり電話を姉さんにかけたりして、小川の日赤に入院させた。入院するといろいろな検査をした。
 その結果たいした病気ではないということで、十五日目で退院をした。私は早くできてほんとうによかったと思った。自然に胸の方がうきうきしてきた。そして退院してからはだいぶ調子がいいと見えて、菅谷や病院に一人でいっていた。それから、いく日かたって、急に又悪くなって横田先生に見てもらった。先生はなおるとも、なおらないともいわなかった。そしてお父さんに「せがれをよこすように。」と言った。そのばん横田先生の所に行くと、もうなおらない病気だと言われて、それから親類の人と相談した結果、東京の医者に入院させて、できるだけのことはしてやりたいと言うことになって東京の親類の人が自動車でむかえにきた。お父さんはしたくをして、東京の病院に精密検査をしてもらうため東京に向った。なかなかよくならなかった。でもこれで東京のいい先生に見てもらい病名さえはっきりしていっこくも早くよくなってほしいとねがっている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

祖母 二A 柳生寿江

 祖母といても私の家のものではない。母の父の妹である。祖母は七十七才、名前ははな。背は低く腰まがりで耳は大きく鼻は丸い。性格は強性で短気だ。私がのろのろしているとすぐおこる。でもどことなく親しみやすい。手や顔にはしわがあり、足は細く、髪は白くなっている。祖母には子供がない。でも養子が一人います。現在ある事情で一家を二つに分けて別れています。
 ある日、よその人が祖母が病気だと伝えてくれた。しかしだんだん良い方に向っているとのこと。祖母の家は月の輪の木下で自転車では二十分位で行けます。病気だと知らせがあった次の日、つまり八月二十七日に祖母の家に行った。私が行くと床の中でほおえんでくれた。なんとなく弱々しそうな感じのする顔、私はだから祈らずにはいられません。仕事といってもごはんのしたくだけです。ひまがあると祖母は自分の若い頃の思い出を話してくれました。いつのまにか日々がすぎてもう三十一日になってしまった。私は明日は学校なので帰りました。その時祖母はもう何でもできるようになりました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

家の犬 二A 大沢真理子

 家の犬は、ハリーと言って秋田犬です。まだ生まれてから一年たたないのに、私など問題にならないほど大きい。芸もいろいろ知っている。始めはあまり大きくなりそうもないので、小型かな、と言っていたが、だんだん大きくなって来たので中型かなと思っていたら、今では、もう大型になってしまった。つないであるので、昼間はたいていねている。夜になると父が散歩につれていく。するとよその犬はみんな逃げていってしまって、ただほえているだけだ。私がひっぱると反対に私の方がひっぱられてしまう。家の中に入ってくると父は、「やっぱりハリーは大きいねえ。」と自まんばかりしている。でもハリーはちっともくいつかない。この間もくず屋さんが知らないでハリーの所にいったら、とびつかれたけれども食いつかなかった。始めはびっくりしていたけれど、「この犬はずいぶんおとなしい犬だねえ」と言っていた。ときどき近所の男の子が来て、ハリーをかまうと、とても喜ぶ。でもかまっているうちにハリーにどろだらけにされてしまう。「家にいって、お母さんにしかられない。」と聞くと、「しかられたってかまあねえや。」と言っている。よっぽど犬が好きらしい。そしてハリーのとどく所に置くと、みんな、なんでもかみ切られてしまう。よっぽど強いつなでくくっておいてもとき切ってしまう。夜トラックが荷物を持って来ると、「ワン。ワン」ほえて、家の者を起こす。ハリーのおかげで家の人はおお助かり。私が学校から帰って来て「ハリー」と呼ぶと、小屋の中に入っていてもすぐ出て来て、しっぽを振っている。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

夏休みの一日 一D 多田節子

 八月十六日は学校召集日だったので一人て自転車で学校に行った。きょうは漢字のテストがあるのでその練習をした。そしてテストをおえ、便所のそうじをして終りだった。それからすぐ家に帰り学校へきた。そしてそこから内田さんと、きよ子ちゃんと私とで内田さんの家に行った。内田さんの家にいると杉田さんと星野さんが通ったので、いっしょに星野さんの家の方へ行くことにした。星野さんの家から川はすぐそばだというので川に行った。川には小さな子が水あびをしていた。私たちはすこしあそんでまた星野さんの家へいった。帰りの上り坂はあつくてとてもたいへんでしたが、内田さんの家までくるとほっとしたようであった。またあつい所にでるのかと思うといやではあったが出てしまえばあまりあつくはなかった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

我に克つ 内田清秀

 ペンが日常使われていても筆が全然姿をかくしてしまうかというとそうでもない。書道雑誌とか書の展覧会も昔より盛んになって来ている。雑誌とか展覧会とかに出すようになると遂上位に入賞して見たいという気持が起る。これは人間の常である。上手になるということは愉快なことにはちがいない。早く上手になりたいと思うは人情の然らしむる所である。上達するから楽しいと思うはもっともなことである。然しこの心が高じてくると他人に先をこされて不平が出る。不満がつのって来る。とどのつまりは止めてしまう。これは人間として弱点である。書を習って只単に早く上手になろうとばかり考えると中途で何かのつまづきに合って止めてしまうような結果になる。上達のみ望むのでなくて一生楽しみ頼りとして人生の慰安とすべきものである。修業となると命がけの仕事になるが誰しもが死物狂いで習いつづけるわけには行かない。程々でよい。人生は無理が禁物である。私は思うに書は上達云々ではなく一生習いつづけて何かの失意の時不幸の時に当って動ぜざる信念を持つ手段でなくてはならないと思う。五十円の筆は即ち五十円だけの値打ちのものでなく手を合わせて拝む御神体と考えたいのである。自らが御神体の持主であると云うことは偉大なことである。何たる頼もしいことであろう。背中に芸術という光焔を背負っていると考えたらこれ程気丈夫なことはないわけである。この信仰信念を持つか持たぬかによってその人の幸か不幸かの分れ目となる。上達なんのその、不幸何んのその災来たらば来たれとの不退転の信念こそ人間にとって一番大切なことである。人間生身であれば時には病気にもなる。不幸も見舞ってくる。この時こそ平素習っている書からたくましい精神をよび起すべきである。
 何んのための手習いぞや、何のための焦心ぞや。神は我が心中にあり手には御神体光れり。一切の災をはね返す勇気が大切なことである。この勇気この信念を身につけるというところに書を習う目的があると信じる者である。徒らに技巧のみに秀れたとて形姿はととのえど決して人を動かすだけの書にはなるものではない。自分を救う書でもない。影の如く、煙の如く、泡のようなものだけしか身にふりかかるだけに止まってしまう。これでは書は習ったと云っても哀れな結果となる。ザルの中に水を一生けん命汲みこんでいるようなもので一向にたまらない。馬鹿馬鹿しいではないか。鳥居をくぐってお宮へおまいりしたとて御利益にありつけるものではない。よその御神体に手を合わせたとて運はむいて来るわけではない。自分にそなわる御神体をもつことが何より確かなことである。叶わん時の神だのみのような気持では一生エンの下をはい廻るようなものである。沸き出ずる泉になってこそ初めて幸福はおとずれて来る。
 天は自ら助くる者を助く。自分を信じる自分が大黒様になった時に人生の幸福は黙っていても訪れて来るものであることに気ずかねばならない。
 人生の勝利は人に勝つことでなく自分自身に勝つことである。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

捨て犬 一D 田中島純子

 朝ふとめをさますと、「くーん、くーん」と、裏庭から、小犬のなき声らしい声がした。裏庭へ行ってみると、かわいらしい小犬がいました。からだ全体が真白で、目はまるく、口もとは小さく、しっぽはまるくなっていて、とてもかわいらしい小犬でした。すぐ、牛乳をやると、一本のみきってしまった。小犬はそうとう、おなかをへらしてたことなんだろうなと私は思いました。そこへお父さんがきて「その犬は父ちゃんが、朝の五時ごろ、ホームの終りの所まできたら、白いものがちらっとみえたんだよ。行ってみると、その子犬が、くんくんとないてて、寒そうだから家に連れてきてやったのさ、みんなかわいがるんだよ。」といった。まだどこの家の犬ときまったわけではないので授業が終ったら、すぐ私は小犬をつれて、線路はしに近い家に聞きにいったところ、「うちの犬はいます。」とか、「このあたりは、小犬はいませんね。」とのことでした。すぐ家に帰って、そのことを話しますと、このままほっといてもしかたがないから、家でかおうときまりました。けれど、私は犬ぎらいなので、あまりさんせいしませんでした。よく日から、おとうさんが、犬ごやを作って、くさりも買ってきてやりました。私の級友の谷さんに名前をいろいろきめてもらった結果、「エス」となり、今日から「エス、エス」と、よぶとすぐとんできて、顔をなめることもあります。小犬のえさくれは弟がすることになりました。お父さんがつとめの時で、朝、目をさませてくれるのは、小犬です。近所の人も、小犬をかわいがってくれるので、よかったと思いました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

訪れる冬 一B 内田きみ江

 寒さにおおわれた夜空にキラキラと輝く星、数えきれない多数の星を一つ一つ数えていった。遠くの山々は夜の眠りに入ったのか、風もやんだ。静かな夜だ。日光に映る、一本の名のしれぬ木の葉が、一枚、ひらりと風に舞う、月は只だまって、冬の訪れを迎えている。私の立っている影も、ボーとかすんでいる。息をするたびに、白い煙が私を包む、その煙が冷たい空気にふれて氷のように感じる。そばに立つ柿の木に取り残されたいくつかの柿が枝とともに震えている。足元の菊は寒さにまけず、あるったけの力で月の光を浴びてその美しさをほこっている。やがて菊も、北風の吹く真最中に、みだれた姿になってしまうだろう。小池から流れてくる清らな水は、チョロ、チョロと、音をたてて流れ去って行く、明日の朝はうす氷がはって下の水草をうつすだろう。このように四季のうつり変りに、暑い暑いと言っていた夏もすぎて、冬の訪れとなり、又幾日かたつと、白銀の世界になるのもまちこがしい。枯れ木の茶色、又は遠く山々がうす化粧をして私達をよろこばす。その雪の下には、早く芽をだしたくてモグモグして暖かい春を待ちこがれている草花があるだろう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

反省会はなんのためにやるか 二B 山下当雄

 寒さにおおわれた夜空にキラキラと輝く星、数えきれない多数の星を一つ一つ数えていった。遠くの山々は夜の眠りに入ったのか、風もやんだ。静かな夜だ。日光に映る、一本の名のしれぬ木の葉が、一枚、ひらりと風に舞う、月は只だまって、冬の訪れを迎えている。私の立っている影も、ボーとかすんでいる。息をするたびに、白い煙が私を包む、その煙が冷たい空気にふれて氷のように感じる。そばに立つ柿の木に取り残されたいくつかの柿が枝とともに震えている。足元の菊は寒さにまけず、あるったけの力で月の光を浴びてその美しさをほこっている。やがて菊も、北風の吹く真最中に、みだれた姿になってしまうだろう。小池から流れてくる清らな水は、チョロ、チョロと、音をたてて流れ去って行く、明日の朝はうす氷がはって下の水草をうつすだろう。このように四季のうつり変りに、暑い暑いと言っていた夏もすぎて、冬の訪れとなり、又幾日かたつと、白銀の世界になるのもまちこがしい。枯れ木の茶色、又は遠く山々がうす化粧をして私達をよろこばす。その雪の下には、早く芽をだしたくてモグモグして暖かい春を待ちこがれている草花があるだろう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

小鳥 一C 井上賢一

 じゅうしまつを買った。朝早く起きて、えさくれをするのだと父からいわれた。めじろもかっていたので、めじろのえさくれもしなければならないが、あいにくめじろにくれるようなえさは、家にはなかった。そこへもってきて、じゅうしまつをかってしまったから、めじろの方がみきれなくなってしまった。じゅうしまつをかったのは、たまごを生んで、はやけるのが見たかった。じゅうしまつが、たまごを生むようになると、めじろの方がみきれなくなってしまった。
 めじろなど死んでもかまわないという気がおこるようになった。一ヶ月、二ヶ月、じゅうしまつはせいちょうし、これ以上、親のそばにいるわけには、いかなくなった。
 それでは、というので、日曜日に弟と鳥小屋を作った。
 ところが、またまた、大変な事がおきていた。子といっしょにいた親が、たまごを生んでしまった。すぐえさくれ、みずくれなどを買ってきて、親をうつしたが、ひょっとしたひょうしに、たまごを一つわってしまった。だいじょうぶだろうと思って、そのまま巣の中へ入れてやったところ、親の方はちゃんとたまごの数を知っており、ちょうど人間でいえば、肺のあたりで、つぎつぎとたまごを巣から落してしまった。おちていたたまごを見て自分は、やっぱりだめだったかと思った。しょうがなしたまごをかたずけた。
 鳥だって、自分のたまごはかわいいのだ、それを自分のでなくて人のだろうと思ったのだろう。こんな事はあってはならないと思った。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

私の家の子ぶた 二A 西沢八重子

 私の家には、子ぶたが十一頭います。とてもかわいくて、はじめのうちは、ひょろひょろしていて、あぶなげに歩く。数日たつうちに足もじょうぶになってきて、おなかがすくと「キー、キー。」とないて小屋にすきまがあると親ぶたのところへ行き、乳へぶらさがっています。私はよく子ぶたがいてもつぶさないようにねられると思いました。そばへ行って腹をなでてやると気持よさそうに横になっています。そのうち、子ぶたもおなかがいっぱいになってしまう。そんなとき私はいそいでお母さんとべつの部屋にいれます。
 私は子ぶたのかわいさをあらわしたうたを唱ってみました。
子ぶた十一乳はむしゃぶる親ぶたは足をもたげて子をかばい
 横にねた大きな母ちゃんぶたのお腹に十一の子ぶたの乳を呑む様子は実に美しいです。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

冬休み 二B 富岡節子

 冬休みに、私は親類にいっていた。
 いつも、バトミントンばかりしていた。朝起きて一時間もすれば、「バトミントン」と、いつもさわいでいる。だけどすぐにまけてしまう。いつもこんなことをくり返している。バトミントンばかりやっているので、時間のたつのをわすれてしまう。すぐ昼になってしまう。そんなことで、一日はすぐに終る。
 一月三日、それは、ソフト部の初練習だった。十時ごろ集まってから、練習をはじめることにした。一日中練習をした。私はまた親類へいった。すぐに、バトミントンをした。とうとうこんなことをしているうちに、二週間の冬休みがおわってしまった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

子牛 二C 出野かつ子

 私の家では、子牛と親牛でとりかえた。私は学校から帰るのがとても楽しみだ。ときには、家にだれもいないときに私が帰ると、おなかがすいたように「もうもう」となく。私がえさをくれると、おいしそうにたべる。
 それからすこしたつと、家の人が帰って、「えさをやる」といったから私が、「えさはいまくれたよ。」といった。「それならいいけど。」といった。
 私はやっぱり子牛はかわいい。親牛のようにつのはなく、足は普通より長いようにも見え、とてもおもしろい。
 親牛をとりかえて、よかったと思いました。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

牛 二A 根岸トヨ子

 私の家には牛が三頭いる。一頭はまだ子牛だがあとの二頭は親牛だ。その中にガスで手術した牛がいる。その牛はいつも他の牛のえさをとってたべてしまう。かぜをひくとあまりたべないが、かぜがなおるとすぐにたくさんたべてしまう。このためにすぐガスをおこしてしまう。そのたびに家の人をさわがせる。
 二月五日もそれだった。かぜて胃が弱っているところへ、たくさん食べたものだからすこしガスをおこしてしまった。でも獣医さんにみてもらったら「一食ぬかせばなるだろう。」といわれたのであまり心配せずにすんだ。この牛もガスをおこさなかったら、いまよりもずっと乳が出たにちがいない。あと一頭の牛は北海道から買った牛で、この牛はガスをおこしたことがない。でもこのあいだ、かぜをちょっとひいたがもうだいぶよいらしい。
 子牛も、あとすこしで乳がでるようになるのでたのしみだ。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月
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