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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

『青嵐』

初秋の夕日  三年二組 井上春男

今、夕日が沈まんとしている
林の木々を縫うように
鈍い金色の帯となって
灌木を葉から巻くように
幾すじも光がしのび込む
大木の頭は夕日を浴びて
色づいたその葉と共に
赤々と輝いている
ああ
林が燃えている

たき火  三年二組 田幡茂子

木々の葉を落して
冬が来た
うんと燃せ
うんとくべろ
冬こそ私達のものだ
皆な来い、皆な来い
皆んな来てあたれ

ほおずきと弟  三年三組 飯塚恵美子

真赤な洋服を着たほおずきを
弟に一つやったら
つるつる坊主の赤い実を
まるい鼻の頭に
くりくりとおしつける
次はほっぺたに移して
くるくる廻し
いつまでも仲良く遊んでる

糸ほごし  三年二組 藤井成子

うすぐらい電燈の下で
母と私で糸をほごしている
私の手から、母の手へ
機械のようにからみついていく糸
影絵のようにあ畳の上を動いて
たえず、踊りまわっている
母は昼間の仕事につかれてか
ときどきいねむりをしては
「ハッ」と驚いたように
目をさましてまたつづける

朝の散歩  持田静子

けさは早起きをして散歩にいった
空が赤い
私の服まで赤くそめて
太陽が真赤な、大きな円盤のように上る
畑と林の間を通る
畑はおき忘られたように眠っている
おかぼの穂が真先に目ざめて
早起きのすずめにあいさつを送っている
澄んだ空気を大きく吸って
あてもなく歩いて行った

夜  三年一組 小林隆治

雨あがりの夜だ
コホロギやクツワ虫が
声をそろえ鳴き出した
空は暗く沈んでいるが
心をはげますようなその声に
じっと読書の目をやすめた

菊  三年三組 米山典子

初霜に
益々その美を誇る
何と強い何と美しい菊の花よ
誰がさしたのか
霜除けの傘に
菊は活き活きとそのいたわりに
感謝するよう
その温かい屋根の下で
まだいつまでも
皆の目を楽しませて
くれるだろう

風  三年二組 山岸専一

風はいたづらが大好だ
家からしのびこんで
私の読んでいる本を
ペラペラとめくり
どこを読んだのか
満足したげに
机の上をなでまわして
どこともなく行ってしまった

雲  三年一組 長島孝一

風に飛ぶ一ひらの雲
湧いては消える雲
いつも思う
ああ僕もあの雲のように
自由に考えたり
悲しみを忘れたり出来たらと
夕日に映える
美しい雲よ
あああれが僕の心に
いつもいつもほしいものだ

夜のコオロギ  三年一組 関根しげ子

勉強に疲れて
天井を見つめていると
コオロギの声が耳にしみ入る
ただ淋しさをさそうような
コオロギの世界へ
遠くから近くから
さそい込まれるようだ
あの声を聞いていると
そのもの淋しさから
私の知っている昼間のコオロギの
あのおどけたような
物影からごそごそと
這い出してくるあの虫の
どこにこんな淋しさを持っているのか
ただふしぎでならない

ジョン  篠原庸子

体の小さいジョン
人並はずれて小粒だが
目はクルクルと愛らしく
いつも小屋の廻りで
飛んだりはねたり
とても利口なジョンだ
毛並のきれいなジョン
しっぽの毛をふさふささせて
いつもチョコチョコ気ぜわしい
とても可愛いジョンだ
私の大好きなジョンよ

朝の教室  三年二組 新井タミ子

「サツーツ」と開けるカーテンの音に
教室も眠りからさめたようだ
窓をあけると陽の光りが
「パッ」と机の上にすがすがしい光をなげる
だれもいない
やがて一人二人と集ると
明るい声が満ち満ちて
又活気ある一日がはじまる
心はずむ朝だろうよ

ゆれるバス  三年二組 山下進

がたんと音がして
バスが大きくゆれた
みんな思いたったように
こしかけからはね上った
ふんわりと浮いたからだが
夢からさめたように
こしかけの中へおちて行った

光  三年一組 杉田安子

雨戸を開けた
とたんに
明かるいまぶしい光が
家の中へとび込んで来た
なにか
よいことの前触れのような
楽しい一日へさそってくれるような
明かるい光だ

峠の風  三年二組 杉田嶽雄

峠を走る疾風が
落葉松(からまつ)の林をゆする
落葉松は身をひきしめるように
ハラハラと枯葉をこぼす
こうして白樺の林をゆすり
うすっぺらな皮をはたき
次から次へと
冬を告げて行く

アカシヤ

アカシヤの花が咲いたよ
甘い香りを微風(そよかぜ)にのせて
蝶をさそうよ
蜂を呼ぶよ
川辺にのどかな春が来たよ

花びら  三年一組 長島もよ子

春風に乗って
ひらひらと花びらが
高くお空に舞い上る
いったいどこまでいく気だろう
きっとのどかな春の日に
うかれて花見をする気だろう

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

短歌

三年一組 吉野喜美子

ピアノ弾く音の洩れくる新校舎
    ペンキの香さえなつかしきかな

真夜中にふと目ざむれば姉の踏む
    ミシンの音の響きて聞こゆ

三年二組 長島敏子

ミシン踏む疲れし姉の横顔に
    ふと目がしらの熱くなり来る

三年二組 関根トセ子

野良仕事草の匂いもなつかしく
    ひねもす母の草取りにけり

三年二組 高橋隆次

いい降りと喜び合いし夕立も
    崩れて今朝はうらめしきかな

三年三組 田幡文子

母さんの白き前かけ手にとれば
    ほのぼの匂うねぎの香りよ

流し場でコップをかいた悲しさに
    不器用な手よとじっと手を見る

三年三組 大野トク

蝉の音に耳をふさぎて寝がえりを
    いくたび打てど眠られもせず

井戸端に一日近くも咲き誇り
    花の香あせぬみそはぎの花

三年三組 米山典子

秋空に光る相模の湖(うみ)なれど
    去りにし友の悲しみの影

三年三組 高橋美津子

学校で習いし歌を口ずさみ
    楽しく戻る草刈りの朝

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

俳句

春風にそよそよゆれるゆりの花 二年一組大島輝男
コスモスにきらきら光る朝のつゆ 二年三組内田とみ子
雨だれの音に目がさめ春の朝 二年二組内田邦子
けんざんに葉ぼたん一つささりけり 〃 斉藤恵美子
夕日みて家路にいそぐわれと祖母 〃 水野聖之
霜柱ふみくだきつつかよう道 二年一組 中村都喜子
かごを背に朝つゆふんで草刈りに 〃 岩沢邦江
夜半分除夜の鐘待つかるたとり 〃 大野誉年児
夕立にほっと息つく稲穂かな 三年一組山下ふじ子
せせらぎに魚のはねいて暮近し 〃 山下みや子
ほおずきを飾り終りて盆を待つ 〃 前田田美子
朝草を友をさそって刈りに行く 〃 大久保スヱ
ほし草に影をおとして赤トンボ 〃 根岸昌美
夕立の後はからりと青き空 〃 権田喜久子
そよ風に柿の若葉のゆれにけり 〃 小峰幸子
秋空にキラキラ光る星の数 〃 高橋良通
夕やけの森にぎわしてカナカナ蝉 松田典清
夕月やさざ波のあり池の面 〃 中島祥吉
ぶどう棚おおうが如く入道雲 〃 杉田安子
百日草上向きに咲く日照りかな 〃 原田敏子
教室に香りをこぼし菊の花 〃 長島孝一
ボート漕ぐ叔父の背中に日の強し 〃 〃
秋晴れや雲一つなく吾が校舎 〃 〃
稲の穂の重く垂れいる雨上り 〃 吉野喜美子
はあはあと手を吹きぬくめ大根干す 〃 〃
蓮の葉に釋迦の如くに座る水 〃 〃
鈴虫の声ききながら星を見る 三年二組権田勝信
朝顔の一輪ふえて今朝楽し 〃 山下進
暮れる空大凧一つうなりおり 〃和田則重
忘れかけし友の賀状に胸打たる 〃 〃
昼顔の咲き続いたる土手を行く 〃 杉田嶽雄
吾が取りし鮎の腹さく心地よさ 〃 〃
夕映の空を染めぬく鷲(わし ママ)の群 〃 〃
露天風呂ゆがみし月のおもしろさ 〃 〃
吾が帯にじゃれろや弱きからす猫 〃 〃
縁側を包みて垂れるつるし柿 〃 〃
湯上りあはやし太鼓に耳すます 〃 米良聖子
炎天の畑仕事や風うれし 〃 関根トセ子
草花できげん取りつつ子守する 〃 藤井成子
夕暮の森をゆすって蝉の声 〃 中島雪江
うめもどきあからむ山のしぐれかな 長島愛子
窓越しに雪を眺めるこたつかな 〃 田幡茂子
夏菊の夜霧も重く花開く 〃 斉藤富子
風ひどき畑に麦踏む子供かな 〃 新井タミ子
寒空を親子のように鴨の行く 〃 関口一枝
夕立のたちまち上り虹かかる 〃 佐々木幸子
新校舎落成近く秋日和 〃 杉田フジ子
夕日うけ入道雲のもり上る 秋山とめ
秋の川夕焼け映し流れ行く 三年三組田幡文子
鈴虫の声に聞き入る夕涼み 〃 内田峯子
豊作を楽しみながら草むしる 〃 飯塚恵美子
朝の霧かげ絵のように人の行く 〃 米山典子
霧深き湖辺に並ぶ舟の数 〃 〃
初雪の秩父の山を望み見る 〃 大野トク
夕立の名残り止めて虹の橋 〃 〃
ぽたぽたとどんぐりおちる寺の庭 〃 山岸しげ子
朝風にもくすいの花匂いおり 〃 内田幸江
雪の夜やだんろを囲むなごやかさ 〃 篠原庸子
田んぼ道一人で歩く夏の暮 〃 大野晴子
夕涼みくらい野末の流れ星 〃 高橋美津子
寒空に平和をえがく鳩の群 一年二組金井清
雀鳴く屋根にのどかな初日影 〃 新井収
カレンダー眺めて楽し元旦の朝 〃 浜野喜代志
つまずいて石白々と霜の朝 〃 松本泰枝
うす白くもや立ちのぼる春の川 〃 中西トヨ子
ふるえつつ見上げし空や雪模様 〃 米山幸代
雪の日に飛んでよろこぶ子犬かな 一年一組 岡野久子
七草にひびふかくなる残りもち 〃 高木桂子
春の声小川の水も流れ出し 〃 〃
見渡せば麦青すじに春近し 〃 富岡こう
さきがけて川原に咲ける猫柳 〃 〃
母さんのよなべ何時しか冬じたく 〃 能見勝子
   新校舎によせて
学ぶ日を待ちつつみがく廊下かな 〃 〃
霜柱踏みたおされし登校路 一年三組吉野桂司
夕立やあわてて帰る農夫かな 〃 高崎ミツ子
大掃除畳の下に五円あり 三年一組金井靖一
麦踏みや母に負けじと後を追う 〃 長島孝一
雷の鳴るや早くも蚊帳の中 〃 大久保スヱ
すいか切りでかい切り身に手が伸びる 三年二組権田勝信
餅に明け餅に暮れ行く三が日 〃 和田則重
夕涼み気合をかけて蚊を叩き 〃 杉田嶽雄
雨蛙ひさごに跳びつきぶらりんこ 〃 〃
この暑さ猫もしゃくしも皆のびる 〃 高橋隆次
書初や畳驚かす書っぷり 三年三組小林恒彦
新校舎珍しがってよごすなり 〃 〃
宿題におじぎをしてる夜更けかな 〃 虎走守次
スイッチョンと鳴くたびごとに暑くなり 〃 大野トク
ほおかぶりひとり麦ふむ楽しげに 〃 高橋好江

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

生徒会報

昭和三十年ソフトボールの歩み  三年 吉野喜美子

 生来、福田中学校に敵する者のないソフトボール、毎年、当校菅谷中学校も福田中学校には歯がたたなかった。
 昨年二十九年来打倒福田の合言葉、よろしく猛練習を続けること、数ヶ月に及ぶ。春季郡市民大会部会予選を目指して、四月新学期早々、加わえる猛練習を続け、必勝を部員一同固く誓ってやまないものがある。練習にも又、時には涙を流すこと数度。かかる練習の結果、四月三十日春季体育大会部会予選には、目出度宿敵、福田中学チームに楽勝の栄を得、ここに部会代表チームとして松山に遠征の迄が開かれたわけであります。
 振りかえって当予選会の模様を想起して見ようと思う。春の日を校庭にくまなく受ける、絶好の運動日和である。早朝より各校チーム、物々しく来場するを、ここに迎える。特に一際目立つ福田中学チーム、これが昨年来の宿敵なのだ。来るべきものは来たのだ。
 九時開会、菅谷中学の先攻である。夢中で打つことが我々を優位に導くことなのだ。打つこと、これのみである。初回より、よく打つことが出来る。e中内野陣はすぐにくづれて来た。三点の先取得点をあげ得た。守ること又よく守る。しかし、同点、又リードをうばわれた。又同点、五回に大量、五点を打ち出した。ここで守ればよいのだ。まさに息のつまる思いだ。菅中十六点、e中六点、十点のひらきを持ってリードを取っているのだ。六回、七回、我が方〇点、守備は万点なる。よくおさえて最後まで、にげきった。これが当日の模様である。かくして、宿願は達成されたのだ。残る宮前中学、これを軽く十七対一で勝ち得たのだ。
 一週間おいて、五月六日、晴れの松山女子高校校庭に出場権を得て出場する。伊草中学だ。これは昨年、菅谷中学が敗れたチームだ。部会予選会の如くやる熱意にあふれて対戦となる。追いつ追われつの熱戦が続く。敵もさるものである。口のうるさい伊草中学の指導先生に、我が方の先生は、じっと見まもっているのみ。スポーツをたしなむ者の心か。しかし、先生も熱意を決したらしい。痛い所を時々ついて行く。敵のボークを今が今まで見のがしてはいたが、逆に口を切った。先生は、我が方の正しいことを通すようになって来た。しかし、やはりじっと見入っている。
 「あまり相手方に文句は言わない。」といっている。最終回、逆に我が方の追いこみ、戦いは始まった。伊草はいらいらし始めたことがはっきり見えて来た。一点、一点を着実に点を入れて行く道をとって来た。思い切り打った。よく飛んだ。よしと思って走った者がある。これぞホープの中島部員である。走ることをあやまってしまった。逆に一点の差を持って、伊草に敗れ去ったのである。残念の余り、皆が涙を流した。来るべき秋にはと、又心を新たにしたものである。まことに残念でならなかった。
 こんな風にして、今年の当部の活躍はうぬぼれながら、目ざましいものがあったといってよいと思う。他数回の対戦は残念ながらメンバーの不揃いや、体の不調を持って、少点数の開きを持って敗れ去っている。
 八月六日の秋季予選会は、メンバーの不足で新人を多く出した。この新人もよく働いてくれたが、e中のメンバー揃いに対して、前述の如くなので、やむなく敗れ去ったのである。
 本年のこの成績を来年度にももたせて、二年生以下に忠告を申し上げておきたいものである。こんなに輝いたのも涙の出るような、練習と、チーム間の親しみ、時にはお互いがどなり合いまでしても進む迄のためと思い、心よく注意を受けた結果なのだと思っています。これにも増して、指導者の、小菅、岩田両先生始め、諸先生方のよろしき指導を忘れることは出来ない。運動着に身をつつみ、常に先頭に立って指導されたあの姿は、今量【?】に争いを走らせていながら眼前に迫りたたえることがありません。ここに失礼ながら、紙上より厚く御礼申上げる次第であります。誠に有難う御座居ました。
 最後に本年活躍したレギュラーメンバーを記しておきます。
   P 中島辰江
  1B 権田しげ
  LF 杉田フジ子
   P 内田けい子
  2B 関根しげ子
  CF 関口一枝
   C 長島敏子
  3B 山下ふじ子
  RF 杉田勝子
   C 内田トミ子
  SS 吉野喜美子
 尚本年度対外戦の他の出場者を記します。
  山下シマ  山下晴枝  宮内光代
  菅野ヒデ子 内田けい子 内田サカエ
  内田とみ子

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

図書部  三年 笠原弘子・内田ヤス

 読書というものは、勉強したり、仕事をしたりする以外に暇な時こそ、最も必要とする物だと思います。(勉強の役に立つ本もある。)本のきらいな人はおそらく無いと思います。たとえ、マンガや少女小説にしろみんな読んでいる。
 学校図書館も今年はずいぶん発展しました。図書費として一ヶ月二十円を出していただいたり、図書館でも買ったりしたので、大分本もそろってきました。私達図書委員はみなはりきっています。せっかく本をそろえたのですから、皆さんに利用していただかないと、なんにもなりません。皆さん大いにこれから勉強に役立せたり、いろいろな知識を得たり健全な余暇を送るために利用して下さい。以上の発展をとげるよう、一、二年生にお願いします。

 図書委員
 一年
  見目行雄  木村守一 小林勝夫
  内田さわ子 松本泰枝 簾藤昭子
 二年
  岩沢勝   内田智司 長島竜則
  権田好美  山下シマ
 三年
  松本静昭  米山欣一 内田昌
  前田田美子 内田ヤス 笠原弘子

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

野球部  三年 金井良太郎

 今年の野球部は、七勝五敗という成績でありました。昨年と比べると、先生並に先輩の指導により、よく練習をした。しかし私達の希望した程の成績は、残念なことに修められなかった。
 考えて見ると、先づチームワークがなかった。次にねばりが足りなかった。次にコーチャアの言う通りに、選手が動かなかった。
 以上三つの点に注意して、試合にのぞんだならば、必らずもっともっと好成績を修めることが出来たと信じます。一人一人が先づ自分の守備位置を守り、素直な気持で、最後まで、責任をはたし、そして、指導者の手となり足の様に働くことが出来るよう、部員の諸兄にお願いする。
 では今年のメンバーを紹介する。
  P 小林隆治
  C 内田幸雄
 1B 細井千昭
 2B 岩沢勝
 3B 恒木恒雄
 SS 高橋弘昭
 LF 小林恒彦
 CF 金井良太郎
 RF 奥平義男

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

蹴球部 三年 根岸喬

 今年の蹴球部は、選手もそろい、ユニホームを作ったり、其の上種々の道具がそろいましたので、部員は勿論、選手は大喜びで、練習に励みました。
 放課後や、夏休みの時、先輩の方や、先生には、お忙しい中をさいて、練習に、指導にと、尽力して頂きました。
 試合になると、選手一同あがってしまって、思う様に活躍出来ませんでした。回を重ねる毎に試合になれ、選手も存分に動き、活躍するようになって来ました。
 部会内には、蹴球部があるのは、菅谷中学だけにしかありませんので、試合数は、わずかでしたが、その結果は次の如くです。

  郡予選決勝
 松山対菅谷 5−0
   (郡で菅谷チーム準優勝す)

  西武地区予選
 飯能対菅谷 7−0
  (第二回戦)
 狭山対菅谷 1−0
   (おしくも西武地区予選で敗れる)

 本年度を通しての試合成績は、二勝四敗でした。来年こそは今年以上の成績をおさめて下さることを祈る。
  本年度の選手
 CK 馬場
 BB 根岸
 LB 柳生
 RH 村田
 CH 金井
 LH 金井
 RW 多田
 RI 根岸
 CF 深沢
 LI 海保
 LW 根岸

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

音楽部 米山欣一

音楽の嫌いな人達へ

 音楽と我々の生活は水魚の交わりをしています。人間がこの世に現われてから今に至る迄ずっと仲の良い交際を続けて来ました。人間の中に音楽をきらいという人は一人もおりません。それが証拠には「おれは音楽なんか大嫌いだ。」といつも言っている人達が、何の気なしに歌を口ずさんでいるのをよく見かけます。このようにしているのを見ると、その人が「本当に音楽が嫌い」というのではない事は誰が見てもわかるでしょう。ただ音楽が嫌いという人達は音楽のこまかい理論がいやなのだと思います。そういう人達はそんな事を気にせず、先ず自分の好きな歌を歌いなさい。そして次にそれらの歌の楽譜を見ながら歌ってごらんなさい。すると音が高くなったり低くなったりするにつれて、色々なオタマジャクシ(音符)が上へ行ったり下へ行ったりするのに気がつくでしょう。又長くなったりする所は、白いのや黒いの、又鈎のあるのやらつながっているのやら色々と形の違った音符が沢山あるのがわかりますね。こうして歌っている中に音楽のイロハを覚えてしまいます。こうなると不思議なもので、妹や弟の音楽の教科書の楽譜を見ていると、自然に「ドミソー」などの長さを考えながら音符をたどり行くと、さっきまで弟や妹が近所の子といっしょに歌っていたメロデーと同じ様なメロデーが出て来ることもあります。
 すると「ははーん。あの子達はこの歌を歌っていたんだな」てな事がないとも限りません。そしてだんだんおもしろくなってきます。ここまでくればしめたものです。今度はその楽譜についているフォルテ(強く)やピアノ(弱く)などの記号を覚えて、曲にいろいろな感情をもりこんで歌っていくわけです。こうなって来ると歌を自分でわかって歌う事が好きになり多くの楽譜を見ます。するとそこんはまた違った記号が沢山でてきます。
 これらがわからないと歌えないので、覚えようとします。覚えないと試験ができないから覚えるんだ、といういやいやで覚えるのではなくて自分から覚えようとするのですから、よく覚えられるし早く覚えられるのです。こうして多くの音楽の記号を覚えると多くの歌が歌える様になります。自分一人で左思右想*1して覚えた歌がラジオなどから聞こえてくると、一層うれしさがまし、音楽が好きになれます。
 こんな具合に誰でも音楽が好きになれるのですから「おれは、音楽のことは何もわからない。」と嘆く必要はありません。せいぜい好きな歌をうたい、ラジオの名曲を聞いて音楽に親しむことです。
 そして音楽が好きになったら皆んな音楽部に入って、いっしょうけんめい働いて立派な音楽部にして下さい。本当に好きでやるのだから、きっと立派な音楽部になるでしょう。

*1:左思右量(さしうりょう)…左思右想(さしうそう)に同じ。いろいろ考えること。思いをめぐらすこと。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

生徒会保健部 三年三組 米山典子

 又今年も計画が達せられない内に中学校を出るのかと思うと、ほんとうに皆さんに申訳ないと思います。まだなりたての保健部が本年ようやっと活動し始めたが、初めのうちだけで、だんだん影が薄いで行くって云うことは、皆さんにとってはたまらないことだと思います。保健部がこのままもとのように消極的にならぬよう、私達の後を背負って立つ一年、二年の人の御活躍を期待します。
 本年の保健部を反省して見ると、身体検査の件は途中で駄目になってしまった。これも良く反省して見ると、実行力が足りなかったことと、生徒会員の協力が少し足りなかったように思います。又実行予定項目が自分達の力を考えずに欲張ったからだと思います。来年こそは先に立つ人に協力してほしい。もし始めなければこちらからうながすぐらいに、又実行力を考えて計画して欲しい。来年こそ頑張って下さい。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

卓球部 三年 山岸専一

 今年こそはと、意気込んで居た私達も、実際試合の時になると、普段の様な力が出ず、惜敗してしまった。
 相変らず狭い昇降口の卓球場は、部員の練習に満足させてはくれなかったが、一同一生懸命頑張った。例え場所がなくとも、卓球部は先輩の築いた伝統を継いで、恥かしくない成績をあげなければならないと、互に励まし合いつつ、春の郡予選を迎えたのであった。
 選手は全部三年生であったが、善戦空しく、遂に優勝は阻まれ、秋の大会を待たなければならなかった。
 しかし準決勝戦に菅中から三名の選手を送ることが出来た事は、何よりも嬉しかった。準決勝戦は大会当日最後の同時プレーであり、あの松女高講堂内四コートのうち、三コートまで菅中の選手が出場し、その場を占めているその有様こそ、正に卓球菅谷の姿そのものであった。其の時応援の中の一人として誰が全部敗退すると予想したのであろうか。しかし勝運終に吾に無く、涙を流し引上げなければならない事になったのであった。
◎準々決勝戦 山岸専一
◎準決勝戦 井上春男・米山典子・笠原弘子
 やがて部会大会であるが、女子は堂々と優勝の栄を得ることができた。しかし乍ら男子は優勝今一歩の段階まで行き惜敗してしまった。
 男子 山岸専一・井上春男・山下進・坂口憲一、新藤藤男・中島祥吉
 女子 米山典子・笠原弘子・飯塚恵美子・大野トク・内田峯子
 以上の様な成績から見て、秋は勿論春の大会位まではと予想して、予選会に臨んだが、練習不足の為に好成績が得られなかった。でも二年生、一年生の人々の力によって、必らず私達が達せられなかった望を達して下さると信じつつ筆を置く。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

柔道部 三年 村上安

 柔道部が生れて早一年。
 この柔道部創設には、吾々は随分と骨を折った。なにしろ柔道部を、中学校生徒会に属させようというのは、比企郡では最初なので、種々考え、幾回か会議を持ち、研究討議を行いましたが、幸いにも、吾々中学校には、柔道の先生として決して恥かしくない先生が二人もいらっしゃったので極めてスムーズに事は運ばれ、新学期早々、柔道部誕生を見ることができた。
 しかし、部員の中には、単に一時的の興味で、或は柔道映画の影響等で入った人もあったが、一般に三年生諸君の、熱と意気は、昂揚し、日々熱心なる練習に練習を、積んだ。
 陽春五月、誕生一ヶ月たらずにして県民体育大会に、菅谷中学柔道部として出場したのであったが、第一回戦は堂々と勝ち、第二回戦に臨んだが、敗退の止むなきに終った。
 その時、互に秋季大会には、もう一度大宮まで来よう、そして勝って帰るのだと、誓った。それからというものは、五時起きで猛稽古に励んだ。それは単に選手だけではなかった。部員一同一丸となって、心身の練磨と共に行われた。
 夏休みの暑中稽古には、ほとんど皆勤の成果を収めた。この事実こそ、柔道部員の一人一人の熱意であり、やろうとする意欲に燃えるものでなくて、なんでありましょう。
 やがて秋が訪れ、初段一名、実力一級位の人が数名出来、大会こそと、待っていたが、残念なことに、学校行事と大会がぶぶっつかってしまい出場することが出来なかった。然し柔道部員はそれからも決して稽古をやめることなく続けた。
 明日の己をつくる為に、そして後輩の指導の為にと……。
 最後に柔道部の愈々発展することを祈ると共に、立派な人間養成の部となることを後輩諸君に頼む。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

排球部(バレー部) 野沢孝子

 やがて、母校を去るに当り、排球部の皆さんに代って、一言思いついた事を申し述べたい思います。
 さて桜花咲き乱れる四月、校庭にて新メンバーを決定し、あるいは暑い日、寒い日、秩父の山々に日の没する頃まで、連日猛練習を重ね、特に、清水、茗先生の御懇切なる御指導と、御鞭撻とにより、又、諸先輩の皆さんの御力ぞへによるも、ついに優勝は獲得出来なかったので、非常に残念でしたが、やはり団体競技は個人の技倆がいかに優れていても、それは各個ばらばらな、まとまらない「烏合の衆」になってはいけません。
 何時も何時も親密なるチームワーク、団結が無くてはならない。チームワークが良くとれて、お互に上手にパスして球を相手の穴に放つ事が勝を得る近道であると思います。
 先ず団結!そして猛練習です。
 今後、下級生の皆さんの絶大なる御活躍を期待し、併せて我が排球部のますます御発展と、御健闘の程を切に御祈り致し、終りに臨み、あのやさしい我が部の先輩、浅沼あや子さんが炎天下に突如として急去なさったので、ここに謹んで哀悼の意をささげ、御冥福をお祈り致す次第で御座居ます。
 次の本年中の主なる記録を誌します。

 五月四日 郡予選 於・松山女子高
  西吉見対菅谷 2−0
 五月三十一日 菅谷部会体育大会 於・宮前
  七郷対菅谷 0−2
  宮前対菅谷 2−0
 八月二十七日 郡市民体育大会 於・小川高校
  試合中、俄雨に逢い、二十九日に延期となった。
  八和田対菅谷 2−0

 以上のような経過でありました。次に本校の選手名を左に誌す。
 FL 内田幸江
 FC 野沢孝子
 FR 大久保すえ
 HL 高松弘子
 HC 小沢ナカ
 HR 内田ヤス
 BL 長島愛子
 BC 高橋好江
 BR 長島もよ子
            (昭和三十一年一月十日)

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

庭球部 篠原庸子

 今年の庭球部は昨年と比べ非常に悪い成績で終ってしまった。きっと今迄にこんな悪い成績を取った事はないかもしれない。しかし私達は一生懸命に内田先生御指導の元で練習を続けた。日曜日、夏休み、そして放課後、先生もお忙しい所を、いつも熱心に御指導下さった。コートも無く、ただ庭の真中で打っていた私達だった。コートは新しい学校を建てる為につぶされ、作る場所もなかった。けれど、皆の協力によって、バレー部のコートを一面かり、そこへかりのコートを作った。その様な事をしている内に部会の大会が近づいてくる。私達は優勝の希望を失った。コートは一面で三年男子チーム、あとは皆二年、三年の女はいても練習がたりない。
 その結果、男子が全部敗れたけれども、女子の方は成績が良かった。一回戦で皆、宮前に勝ってしまって、あとは菅谷同士の戦。春の郡市民大会の時は、男はおしくも敗れた。篠原田幡組は準決勝で敗れた。
 秋の郡市民大会の時は中島宮田組が準決勝迄進み出て、おしくも敗れた。この時の女はだめだった。
 試合に出場したのはこの三回だけだったけれど、思い出の深い試合であった。出場者は次のとおりである。
 三年、中島宮田組、関根ト見目組、森田杉田安組、中島根岸昌組、根岸ハ原田組、篠原田幡組。二年、内田昌大野組、福島昭中島組、浅沼前田組、大沢福島組。そして来年はもっと、もっと一生懸命やって良い成績をおさめて菅谷中学校にはじない様、練習して下さい。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

あいさつ

独立新校舎の落成を祝す

               中学校長 吉田熊吉

 青嵐第二号の頁をめくると「新校舎の落成にあたって」なる私の文章が目についた。それは昭和二十五年(1950)七月二十一日に行はれた落成式の感激を綴ったものであった。
 あれから満五ヶ年経った昭和三十年(1955)八月二十二日奇(く)しくも私は再び新校舎の落成式典に学校長として感激の挨拶を述べる光栄を担ったのであった。思うに新しき酒は新しき器の諺の示すとほり新しき教育は新しき校舎での理想に向って精進した過去九ヶ年の苦闘を顧みる時また、感慨無量なものがある。独立校舎敷地の合言葉は昭和二十七年(1952)十一月地方教育委員発足以来急激に強く打出されその方針は村当局の考えと一致し議会の決議となり昭和二十九年(1954)一月十六日建築準備委員会を開催し二月六日建築委員会結成こゝに建築への第一歩はふみ出されたのであった。
 爾来幾度かの会議の後同年(1954)十二月十六日地鎮祭執行村民の熱烈なる勤労奉仕により整地作業は進行し、三十年(1955)一月二十九日起工式、四月三十日上棟式執行し、八月二十日竣工、二十二日落成式挙行と極めて順調に工事が進められた。かくて建築決定後一ヶ年半着工以来約半歳余、遂に村民待望の菅谷中学校は絢爛たる偉容を菅谷原頭に現わしたのであった。校地は小学校に接して東に広ぼう七〇二六坪紫匂う秩父連嶺を指呼の間に望み、槻川の清流は南数丁の断崖下をめぐる景勝の地、然も小学校、中学校、菅谷農校、興農研修所等あり自ら菅谷村の文教地区を形成している。
 こゝに今回落成の四八八坪は第一期計画分で、完成は第二期工事終了をまたなければならないが、然しこの第一期工事こそ現代学校建築としては県下否全国的に見ても最も漸進を極めた近代的建築であることは、その後県下各地から学校建築のモデル校として参観人の陸続たるを見ても証明出来よう。建築の概要は後記するがとにかく、かくも偉容を誇る新校舎の出現の裏に村民各位の学校建築に対する伝統的熱意と、村百年の将来を思う愛郷心の発露のあることに思いを及ぼす時、こゝに学ぶ者も教へる者も共に共に再思三省この村民の熱情に応えねばならない。今後に課せられた課題は如何に近き将来第二期工事を完了するか、内部設備の拡充はどうあるべきか、それに伴う教授内容の充実こそ最大の課題であろう。職員生徒打って一丸となり今後の課題解決への努力を捧げよう。
 因に事業概要は次の通りである。
一、校地   七〇二六坪
  校舎敷地 三二三一坪
  運動場  三七九五坪
二、校舎
  三棟 四八八坪
   A棟 普通教室 五  クラブ室 一
   B棟 管理部(玄関、宿直室、応接室、印刷室、職員室放送室校長室、更衣室、教具室、保健室、使丁室、便所等)
   C棟 特別教室(図書室音楽室、社会科教室、家庭科教室、同準備室、理科教室、同準備室、天体観測室、図工教室、機械室、同準備室)
三、建築費総予算額
    一九五九万七三〇〇円
   工事請負金額
    一五一二万五〇〇〇円
四、設計管理
   北足立郡草加町住吉町五二番地
    一級建築士 大川光英
五、請負者
   東京都台東区上野桜木町二
    勝村建設株式会社 勝村幾之助

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

回顧 清水栄一

 青嵐も第七号まで成長してきた。創刊号が出された時果たして何号まで続くだろうかといった懸念もないではなかったがもうここまで来れば大丈夫だろう。堂々たる一つの伝統が作り上げられたのである。
 但し現在の青嵐そのものの姿に全然満足しているわけではない。編集に当る一員としてこんなことを云うのもおかしいが生徒会の機関紙としての面目が発揮されているかどうかである。生徒会のものであるなら、もっと生徒自身の積極的な協力が、企画と材料提供の面に於いてなされなければならない。何事に於いても先生に委せっぱなしと云った傾向が非常に強く感じられ、残念であるが、この弊風と消極さの打破こそ今後に残された大きな課題ではないだろうか。青嵐が益々発展し、皆に愛される雑誌となるよう生徒諸君の努力と漸新なる企画のもとにマンネリズムに陥ることのなき常に伸びのある菅中の面目躍如たる姿にしてもらいたいものである。
 青嵐第一号から第六号までそして此処に発行されんとしている第七号に至る過去九ヶ年を顧るに、青嵐それ自身が語ってくれるように何一つとしてなつかしくないものはない。
 校舎の建築も二回行われ、他に類を見ない程の立派な偉容を誇る近代的な感覚豊かに生まれ変り、校庭の整備と相俟って益々発展途上の菅中に輝きを与え頼もしさの限りを感じさせておりますが、都幾川畔の旧青年学校に集いて開校式をあげた九年前に比して、僅か九ヶ年の間に「よくもまあ」と思わせる程の長足の進歩をしたものだと、つくづく感心せざるを得ない。
 学習環境が整い、何不自由なく勉強出来る境遇におかれると、とかくそれに反比例した結果になる傾向が見られるのであるが、要するにそれは甘やかされて育てられた子供と同じことで、知らず知らずの中に環境のとりことなり、安心しすぎてしまうからではないだろうか。此の学校に於いても、幾分そんな感じが見えるので敢て警告するわけだが、学習にも社会的人物としての訓練にも常に自覚をもて正しく、公平に、しっかりした友愛精神をもってお互に頑張ってもらいたいものである。
 三年間直接的に相触れ、導きし生徒達をそれぞれの目的に向け送り出し、何とも云えぬ淋しさとか、まだ導き足りなかったような後悔とか云ったような何か漠然としたものが心に澱んでいる時、又も思いもかけぬ転任の内令に接し、ただ呆然と取るものも手につかぬ思いで、懐しかった九ヶ年を顧みて、在校生の諸君や卒業生の諸君を一人一人眼に浮べながらとりとめのない文を弄した次第だが、懐しい菅中を去るに当り、ひとえに諸君の健康と発展を祈る許りであります。
 さきにも述べた通り、もっと自分達一人一人の尊厳を自覚し、生徒としてなさねばならぬことは敢然として行うだけの気力をもってすべて事に励んで下さい。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月

読書によって人格を高める  生徒会長 米山欣一

 皆さん!
 皆さんは人格ということを考えたことがありますか。又教養ということを何と思っていますか。おそらく皆さんはまだそういうことを考えたことがないと思います。私も十五才になる今までは考えたことがなかった様に思われます。今の私は人格についてこう考えています。
 「我々の日本国は面積が狭く、経済も豊かでない。他の国に勝るものと云っては何物もない。だから我々日本人は人格に於いてこそ、世界一となり、他国の範となる様に心掛けなければならない。我々の人格は我々自からの手によって創り上げられるべきものである。」人格とは教養によって培われるものである。そこで教養を養う一つの方法として良い文学作品を読むことを奨める。といっても皆さんの中には読書の好きな人ばかりいるわけではありません。嫌いな人の方が多いかも知れません。読書の好きな人でもくだらない本ばかり読んでいる人が大部分なのではないでしょうか。そういう人達から一日でも早く文学作品に親しむように心掛けるべきであって一方読書の嫌いな人も早く好きになるようにしなければなりません。
 読書の嫌いな人と云うと本なんかおもしろくないやと一口にかたづけてしまいますが、読んでも見ないでおもしろくない等と云っていないで何でもよいから手近なものから読んでみることです。習慣と云うものは、一つことをくり返し、くり返し練習する処から得られることを思う時、読書についてもそのことは言えるものではないだろうか、読みつけると何か読まずにはいられなくなるものです。何か読みたくてたまらぬ時、少しでも有益な文学作品に親しむよう、やさしいものからそれ等に対する興味をひき起こし、次第に立派な文学といわれるものに入っていくのです。そうすれば、本当の文学作品を読んでもわかる様になるでしょう。
 立派な文学作品を読むことがなぜ必要なのだろうか。良い文学によって人間社会の真実の状態、理想、色々な人に触れされ物を見る目を養ってくれます。それから私達は自分で正しく判断して、はっきりした考えをもてるようになります。又知識も豊かになります。自分の考えが定まり、知識が豊かになるということから教養が高められ人格が養われて行くことになります。
 我々は人格者にならなければならない。その為にも大いに良い文学に親しみ、読書の習慣をつくって行きたいものである。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
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