第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
『青嵐』
一九五五年を省みて 三年一組 中島祥吉
この年をふり返って見ると、楽しかった出来事、うれしかった出来事、又は、楽しかった出来事等色々と思い出されるが、政治方面では、自由民主党と社会党の二大政党が出来上がり「鳩山内閣が成立した事」、日本の国がおしくも「国際連合に加盟出来なかった事」が頭に浮かび上がる。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
まだこの他かずかずの小さな出来事は、沢山ありますが、政治方面の大きなニュースとしては、この二つでしょう。
特に、二大政党の対立的存在ということは、日本の政治にとって、今後、大いに期待がかけられるが、国際連合に加盟させてもらえなかった事は、非常に残念なことであります。
来年こそ必ず加盟させたいものです。この他今年度のニュースとしては、新潟の大火事、紫雲丸の転覆、九州をおそった台風等悲しむべきことが数々あります。又、うれしいニュースでは、佐久間ダムの完成、更に私達の身近には、新校舎が出来上がったという何よりの喜びがあります。
今迄にのべたように思い出すと、沢山の出来事が数えられるが、今後の問題としては、現在各国で最も研究され、利用化されつつある原子力の利用であります。
この原子力を使って造り上げた爆弾(原子爆弾)が、戦争の為の兵器として使われ、今迄に多くの人間を殺したり、多くの犠牲者を出しておりますが、このような悪い方面に利用されることなく、平和の為の原子力として、発電、農業品種の改良、生活改善に役立たせ、世の中を幸福にし、豊かな国家を造り上げなくてはならないと感じるのであります。
そしてこの年におきたような悪い事、悲しい出来事を再び起さぬように、日本国民全体が心からちかい、協力し合って、来年からは、誰も皆楽しい月日がおくれるような世の中を実現させたいものであります。
わがままな私 二年一組 中村都喜子
ラジオでもお正月まであと五日、とかあと四日、などといっているうちに、いそがしく大晦日となり、その晩はラジオ放送もおもしろい番組で一ぱいだった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
家中こたつに入って聞くのはほんとうにたのしいと思った。いつもの年なら除夜の鐘をきこうと思いながら寝てしまったり聞きながら途中で眠くなってしまったのが、ことしはめずらしくこたつの中でみんなして聞いた。百八つの鐘の音もまだ半分ぐらい聞いたところかなと思っていると鳴り終ってしまった。
終ってしまうとうとうとしてとても眠くなったので、ふとんを敷こうと思ったがこたつからでるのがおっくうなので、ふしていた。そうしていれば母が敷いてくれるだろうと想像していると、やっぱり母が敷いてくれたらしく、私をゆすって「そんなかっこうして寝ているとかぜをひくよ」といった。しかたなく起きてねまきをきて、ふとんにもぐると、いつの間にかみんなは、寝てしまっていて、起きているのは母だけでなにか台所で、かたずけてから電燈を消してふとんに入った。
私もやっとおちついて眠ろうとしたら、なぜかこんどは目がさえてどうしても眠れないので、ふとんの中で今日までのことを反省するとなしに思い返えしてみると、よいことは一つとしてうかんできないで、悪いことばかり思いうかんでくる。その中でもとくに感じるのは、母にしかられた時などたいがい、すなおに聞いていたことはなかったように思う。それからおこるようなことでもないのに腹を立てたりしたが、そんな時母はいつでも「すなおにしないとみんなに何もかまってもらえないよ」と、決まったように何度もいわれたが,私はいつも「なんにもしてくんなくたっていいや」と口答えした。
母はしかたないと思ったのか後はなんにもいわないことが多かった。私は今ごろ悪かったと思っても何にもならないだろうが、せめて来年こそはもっともっとすなおな子にならなくてはいけないとしみじみ感じた。と、ともに時間がそうとう過ぎたらしく、私の目はしぜんに閉じられ深いねむりに入っていった。
最後まで 二年一組 須磨道子
「物事をし始めたら最後までやりとおそう」
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
兄さんが何か仕事をすると、いつでも最後までしないで途中でやりっぱなしにしてある。お父さんがそれを見ていつも兄さんに「仕事をし始めたらおしまいまできちんんとかたせよ」といっている。私はいつも兄さんがいわれているのを聞いているから仕事をした時は終りまできちんとかたしておくように心がけています。そうしておくと自分でも気持がいいし、人が見ても感じがいいものです。何か一つ仕事をするのに途中までしか出来ないようでは、りっぱな人間になれないと思います。兄さんは「僕はここまでしたのだからあとは誰かがしてくれるだろう」という考えで最後までしないのかもしれない。もし、そうだとしたら充分に反省してみる必要があると思う。特に「あとは誰かがしてくれるだろう」の「あとは誰かが」ということを考えなおさなければいけないと思う。
もし、数学にむずかしい問題があって、途中までは、出来たのだけれども、あとがわからない、といって、そのままにしてしまってはいけない。
二時間、三時間といくら考えてもほんとうにわからない時はしかたがないから知っている人に聞くなり、参考書を見るなりして「この問題はこれがこうで、あれがこうなるから、答はこうなるんだな」と、はっきりのみこめるようにすることが大切である。
学校を卒業して、就職する人、或いは家に残る人などは「私はもう学校を卒業したのだから、もう勉強なんかしなくてもいいんだ」と、とかく考えやすい人が多いということであるが、けっして、そうではないと思う。学校を卒業して職場で働いている時も、店で働いている時でも、暇な時はいつでも勉強することだ。
偉人のいった言葉に「人間は一生勉強してくらせ」「生れてから死ぬまで勉強をしなければいけない」ということだ。私はほうんとうに、そうだと思った。学校だけが勉強する所ではない。学校の勉強を一通りおえたというだけではまだ途中である。
死ぬまぎわまで勉強して初めて勉強が最後まで出来たといえるのだと思います。実際に、そういう人はたくさんいます。「何事もやり始めたら最後までやりとおす」ということをよく頭に入れておこう。
私はエンピツである 二年二組 杉田信代
私は一本五円のエンピツです。体には金文字でHBとかいてある。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
私の持主であるNちゃんがブツブツ文句を言いながら私の体をだんだん短かくけずる。Nちゃんはそれを筆入れに並べて入れながら「このエンピツはしんがすぐおれるから大きらい。今度もっと良いエンピツを買ってもいい」とNちゃんの父にきくと「自分でいいのをえらばないのが悪いじゃないか」といわれてべそをかいている。
私は「いいきみだ。人の悪口ばかり言うからよ」と思い、私の家であり、夜はね床である筆入れの中で目をつむり静かに流れるラジオの音楽をきいていた。うとうとして目をさまして見ると、Nちゃんは時間表をしらべていた。かばんの中に本をいれ終ると、私を家である筆入れごとかばんのかたすみにおしこんだ。
私はつぶれそうなのをがまんしていた。するとNちゃんはかばんをさげて学校に出かける。自転車を出してかばんを荷かけにつけてひもでぎゅっとしばった。私はいきが切れそうになった。でも自転車がガタンと言って動きだした。
道はデコボコであるからがたがたゆれる。私は苦しいのをがまんしてとなりのエンピツを見た。みんな苦しそうに顔をしかめていた。私は気のどくに思った。そのうちひどくガタンとゆれたかと思うと私の体は屋根である筆入れのふたにいやというほどぶつかって私の骨であるしんがおれてしまった。
私は又Nちゃんが学校についてから、私のしんのおれたのを見て、きっと又ぐちを言うだろうと思うと、自分のまわりのしんのおれていないエンピツがうらやましかった。
やがて自転車がキーというブレーキと共にとまった。Nちゃんはかばんをらんぼうにかかえると教室に入っていった。自習の時間におしゃべりもあきたらしく、筆入れのふたをあけてエンピツを見た。あんのじょう私を見つけて「又おれちゃった。いやだなあこのえんぴつは」と言った。
Nちゃんは又私の体をけずり始めた。けれどしんはポキポキおれてしまったので、Nちゃんはプンプンおこってしまって、私をごみ箱に捨ててしまった。私はごみ箱の中で泣いていた。
Nちゃんがもうすこし大切にエンピツを使えたらと、Nちゃんをうらめしく思うと共に、Nちゃんの役に役にたたずに一生を終った自分をあわれに思った。
姉 一年二組 内田スミ枝
いよいよ、姉の結婚式が近づいて来ました。その日が近づくにつれて、淋しくてたまりません。今までは、私のセーターや、洋服を作ってくれたり、勉強を教えてくれたり、なんでも私のことなら、ほんとにやさしくしてくれたお姉さんがお嫁にいってしまうのです。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
でも、いくら淋しがってもどうにもすることができない。けれど、姉がいなくなってしまうと夜休む時、一人ぼっちで休まなければならない。それが、私にとって、一番淋しく、かなしいことです。今まで三年生の時からずっといっしょに休んでいました。床の中に入ってから、私の学校の出来事や、一日の反省をしたり、姉にいろいろ、話を聞きながら、眠りつくのがなによりの楽しみでした。
それも、あますところ数日でもうできなくなってしまうかと思うと、淋しさは、より一層迫る思いが感じられます。
でも、こんなことを考えてよいのだろうか。本当は姉の幸福を心に願っているものの、今の私の気持は、どうすることも出来ない。此の様に淋しく思っているのは私一人だけではないと思っています。
お母さんをはじめ、家中の人はきっと私のように、口にださなくても心の中では喜び、反面私の様に淋しく思っているのだろう。
このことについてお母さんにいつか話しかけ、本当の心持をきいてみたいと思っていますが、まだ一度もその機会にぶつかったことがありません。だからといって、いつまでも、いつまでも、この淋しいとか、かなしいとか、ということを考えていたくない。姉さんが私の姉さんが、大人になって、お嫁に行けるのは、家中そろって、嬉しく祝ってやらなければならないと、心の中で、自分で自分に話すのだった。
今までやっていた、おせんたくやお掃除、おかっての仕事等一さいを今度は姉にかわってやり、姉に家の事など、心配することなく、幸福な日々を送ってもらわなければならない。
私はもう中学一年の三学期を迎えるのですから、気持を大人にして、母の仕事を手伝って、たとえ少しでも、姉の代理をつとめていかなければならないと思っています。
それと並んでいちばん下の、妹のめんどうをよく見、勉強を教えたり、身のまわりのことなどもよくやってやらなければならないと私は心の中でかんがえていますが、その様に、姉としての役目がはたせられるかどうか不安な気持でいっぱいです。
私の弟 三年二組 米良聖子
けんかをする時の弟は、まったくにくらしいと思う。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
げんこつで頭をぽかぽかぶってやりたいが、近所の人に小さい子を相手に、けんかをしていると、言われるのがいやなので、がまんしている。
そういう時はいつも、男に生まれなかった事をつくづくうらめしく思う。
昼間では近所の人になんとか言われるので、夜眠っている時、鼻でもつまんでやろうと思うが、お父さんに怒られるので、よしてしまう。
勉強なんか教えてやらにと思うが、やっぱり自分が分からない時には、お兄さんに教えてもらうのだからと思うと、私も弟に教えないのは、いくらけんかする相手でも、かわいそうだと思う。それは、やっぱり兄弟だからであろう。
弟は私より、七つ年下で末っ子だから、わがままで生意気なのである。私とのけんかの原因も、多くはそんな所にあるのです。その弟も「にいちゃん」と呼ばれるのが、よほどうれしいらしいのです。親類へ行って、小さい子供達に、にいちゃんと言われたことを家に帰って来て、得意そうに話すのです。
けんかをする時の弟は、にくらしいと思うが、そして男に生まれなかったことを、うらめしく思ってみても「ねえちゃんこれなあに」「これはね」と答えている姉の姿を見ていると、私も弟の為に良い姉として生れたことに、幸福も感じます。弟には、末っ子としての何か物足りなさがあるのにちがいない。親類の子供達から「にいちゃん」「にいちゃん」と言われた時の弟の顔といったら、それはそれは、うれしそうで、母の方にむいてにこにこしている。
そんな姿を見る私はなんとなく、明るくほほえましい気持になります。そして弟の幸福が心から喜んでやれます。
母の病気 三年一組 吉野喜美子
「先生ここの所はどの様にするのですか」「ここの所はね、こういう風にするのではないの。」先生が教えて下さる。この時間は職業の時間で、スラックスの原型を取っている時である。すると、ガラッと、ドアが開き校医さんが入って来た。私達は手を休めて、皆、前を見た。「私はなにをしに来たのだろう」と思った。すると校医さんは「千手堂の……」と言ったので、私はびっくりした。千手堂と言えば私一人である。私は何だろうと、校医さんの口元を見つめた。すると「吉野喜美子さんの、お母さんが、盲腸なのですぐ入院するから」と言ったので、私は二度びっくりした。それと同時に、皆が私の顔を見た。私は何だかさっぱりわからなく、ただぼう然としてしまった。すると、先生が「吉野さん、早く家へ行って上げなさい」といったので気を取りもどした。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
「ああそうだ、母が病気なのだ。」私は思った。皆も仕事に手をつけず「喜美ちゃん、早く行ってやりなよ。」口々に言ってくれた。私は、カバンを手に持ち、学校を後に、いっさんにかけ出した。まだ何が何だか良くわからなかった。今朝まで元気な母だったのに……。
考えて見ると、母は今朝「お腹が痛い、痛い。」といっていたっけ。すると、盲腸の始まりだったのかな。早く気が付けばよかったのに……。
母はきっと痛かったのに、皆に心配をかけない為に、我慢していたのだなと私は思った。そんな事を考えている中に家に着いた。母は床にふして眠っていた。私は、すぐ母の所に行き「母ちゃん。うんと痛い。」と聞いたら「ううん、痛い」といった。母が痛いと言う程だから、よほど痛いのだろう。今迄病気などをした事もない母なので、私は急に悲しくなって次から次へと、涙が、あふれてくる。
「母ちゃん、もう少しで、病院に行けるから我慢してね。」私は泣き声で言った。母は目を閉じ、かすかに返事をしたようだった。近所の人達に頼んで、リヤカーで村内の病院に母を運んでもらった。私も、付添いに行った。そしてすぐ手術と云う事になった。
母はぐったりとなって、お医者さん達の、なすがままに、身をまかせ手術室へと連れて行かれた。私は外にいた。何故かというと手術を見るなんて恐しい様な、気がして中へは入れなかったからだ。私は祈った。「無事に手術が出来る様にと……。」私は又、涙があふれる。
私達の室の隣の人の話によると、母は普通の人よりも、手術の時間が長いとの事。どうしてだろう。きっと母は年をとっているので、手術がしにくいのだろうと思った。すると、ドアが開き、ベットに寝た母が、静かに運ばれてきた。
「母ちゃん?」と呼んでも、返事はなかった。
マスイをかけられているのだ。お医者さんの話によると、もう二時間遅くなると、化膿してしまったということであった。「ああ、よかった。母の命は助かった。」
それから、二週間というもの、私は学校からヒマをもらって来ては、全力を尽くして母の看護に当った。私はその時こそ、何事にも全力を尽くしてやることが、やがて良い結果になるのだなと、しみじみ思った。
楽しかった日 三年一組 前田田美子
私は時計を見ながらつぶやいた。「ああもう十一時近いのにどうしたのだろう。今日は来ないのかなあ」今日は壽子ちゃんの来る日なのだ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
壽子ちゃんとは、久野壽子ちゃんの事で、あだ名を「チャコ」という、私とは小学校時代からの親友。ところが去年の三月中学の三年になる時、川越へ行ってしまったのだった。私はチャコが来るのを一番の悲しみにしていた。
「あ!来たかな」私は直感的に思った。でも良く考えて見るとおかしい。チャコ一人なのにあんなにさわがしいとは「ははん、さてはしいちゃんが来たかな」思った通りそうだった。
しいちゃんとは持田静子さん。名前は静子だが性質は正反対。うるさいので学校でも有名だった。
「ああチャコ良く来たな、随分まっていたんだよ」私はうれしくて大きい声でいった。チャコもうれしそうだった。
「ああそうだ。チャコはまだ新校舎見ていないんだな。それじゃお昼を食べて見に行こう。きれいだよ」
学校へつくと「タコ(私のあだな)の方の学校、明るくていいな」といった。私はよけい得意になってかぎをがちゃがちゃならして校舎を見せた。音楽室に来た時、後に人の気配がしたのでふりむくと、篠原庸子ちゃんと原田敏子さんだった。チャコとしいちゃんは気がつかなかった。二人は二本の指を口にあてて「シーツ」といった。だから私もだまっていた。「ワッ!」その声とともに大にぎわい。
女の子が二人ふえて五人になったのだから、うるさいのうるさくないの、ペチャペチャたいへんだった。
又私の家へ帰った。帰り道の途中から変な人がついて来た。私達はいやだから早く家の中に入った。けれどまだ門の所にいたので、お父さんにいって帰ってもらった。でもなんとなくあとまでいやな気がした。
それから後、時間の過ぎるのもわすれ、霧中になって遊んだ。チャコが帰る時「チャコまたおいでぇね」「うん、タコもね」といった。
楽しい一日が過ぎると、私はなんだか気のぬけたようだった。
跳べた跳び箱 三年二組 山下進
小学校四年の時に初めて僕は跳び箱が跳べるようになったのである。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
それは四年、二学期の或る体操の時間であったと思う。今こうして考えて見てもよく跳べたものだと感心する外はない。その時間はM教師が担当して下さっていた。初め、男子が砂場を万能でうなってから、皆で跳び箱を運び出した。準備体操をした後で先生は「未だ跳べない人はこっちへ列らんでこの三段の方を使って練習し、跳べる人はそっちでけがをしない様に自由に跳んでなさい」といって先生は三段の方の跳べない組の指導をして下さることになった。その時、僕は未だ跳べなかったので三段の方に列らんだ。
皆、元気良く走って行くが跳び台の前まで行くと急に止ってしまって、箱の上に手をついて馬乗りになってしまう。
「もっと手を前について、台を力いっぱい踏みきるんだ」
言われた通りやって見るが、やはり台の上までくるとこわくなってすくんでしまうのである。
「恐がっていては、何時になっても跳べるようにはなりっこないぞ」
先生は箱の傍でいろいろと注意を与える。僕も元気を振って跳んで見た。しかし、跳べたことは跳べたが、臀が跳び箱の隅にかかって、臀をすりながら、前へ転がり落ちる様になってやっと跳び越すだけは出来た。しかし又、それから一度も跳べなくなってしまった。N君が僕がしたように、臀を跳び箱につつかけたので片方が持ち上って、どすんと音がした。
こんな事をくりかえして一生懸命練習しているにもかかわらずなかなか、跳べる様にならない。その中、先生が直接手をとって教えてくれる様になった。一人一人悪い所を注意して跳べる様に教えている。
僕の番が来た。僕は思い切って跳んで見たがやはり、今まで跳べなかったものが一度に跳べるわけがない。又、馬乗りになってしまった。
「君は未だてのつつぱりがとれていないんだよ。もう一度やって見な。僕が後から臀をおしてやるからな」
そこで再び走り出した。そして、僕が跳び上った拍子に、急に先生が後からおしたので砂場の中に顔をつつこんで砂をいやと云う程、食ってしまった。砂をはらって立上ると「今度はたぶん勇気をつけて跳べば跳べるかも知れないよ」云われた通りである。次に力を腕にこめて思い切って跳んだ。ふわりと体が宙に浮いたと思ったら、次の瞬間は砂の上に立っていた。
「跳べた!」
跳べたんだ。ついに僕は今まで跳べないでもてあましていた跳び箱を跳びこすことが出来たのだ。先生もにこにこ笑っていた。それからと云うものはきらいだったのが大好きになってしまった。
今では六段から七段ぐらいまでは楽に跳び越せるまで上達した。こうして僕が跳び箱が跳べる様になったのは、M先生があの時、後から、つついて教えて下さったお蔭だ。実にうれしい事で先生と話をする時はたいがいこの話が出てくる。僕にとってM先生は跳び箱恩人としても勉強の先生としても一生忘れがたい人物である。
我等の朝 三年一組 中島章吉
「バシッ」
ビリッビリッと室内の空気をふるわせて、我等の腹の底まで響くような警策*1のたたみを打つ音。私ははっとして姿勢を正した。目を薄く開き自分の呼吸だけに全神経を集中させる。
しかし、知らぬまに姿勢がくずれている。すると又
「バシッ」とゆう警策の音にはっとして姿勢を正し「ジイーッ」と坐禅をしつづける。これは、私達の朝の修行のようすです。しかし私達数名はこの前にしなければならない事があります。
「章ちゃあん」
「おーう」
寝具をはねのけて「ガバッ」と飛び起きた。ズボン、服、足袋、手早く身につけてちらっと時計を見た。三時四十分ちょうど。「ガラガラピッシャン」と飛び出る。外気は身を切る様な寒気だ。しかし、それにもまけずさっきの呼声の主、村上君はさっそうと立っている。
「お早うございます」
「お早うございます」
「ジャーいってくるよ」
言葉もそこそこに分かれて、山岸君の家までかけ足だ。大きく息をすって、
「専ちゃーん」
「おうい」
山岸君は気にしながら寝ていると見えて、たいがい一度で起きる。二人でつぎは、平沢まで行ってくる。行く時は二人だけど、帰りには七人くらいになる。しかしその間実に寒い。いく時はまだ温まっているのでどうやらがまんできるが、帰りときたらもう寒いのなんのって、たとえようがないほどだ。手足の指は冷えきって痛くなってくる。鼻はこうってしまうくらい。しかしその様な寒気にも負けず、
「Eーさーん」
「オーイ」
「寒いなあ」
なんていいながらも元気に出てくる。だが寒いのは私達だけではない。さっきの村上君と川をわたって大蔵までいってくる。このあいだ川の水がふえた時だったかもしれない。橋の所まで靴をぬいでジャブジャブだったそうだ。まだいる。
米山君は川島までいってくる途中、大きな犬にほえられとんだ災難だったそうだ。こうして三十数名は、東光書院に集まる。書院内にはいったらまずi亜神社に参拝して大覺堂にはいる。堂内にはいる前には、はきものをきちんとそろえ、足袋、靴下をぬいでしずかにはいる。はいったなら最後、絶対にむだぐち等はきけないのである。
坐禅をし、心を鎮め論語の勉強をする。坐禅と論語で約一時間の業を積み大体六時頃までで、おそい家などはまだねている。人通りの少ない道を朝の行を終って帰る気持は何んとも言えぬ。「おお我等の朝よ」と大声でさけびたくなる。*1:警策(けいさく)…警覚策励(けいかくさくれい)の略。策はむちうつの意。坐禅の時に修行者の肩や背中を打つための細長い板状のもの。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
愉快な相撲 三年二組 山岸専一
一月の四日に番付発表が行われいよいよ、八日から大相撲初場所の初日が幕を開けた。
私は正月休みで一番楽しいのはこの相撲放送の実況を聞きながら、天竜(てんりゅう)さんや、神風(かみかぜ)さんらの解説を聞くことです。
テレビがあればテレビの方がよいのだが、あいにくないので家のラジオを聞くことにしました。
正月も三日頃から早く始まらないかなあと何度も思ったり、初場所の優勝候補は誰だろうかなどど、新聞屋雑誌の記事などから色々想像してみたりしながら八日を待った。
ついに八日の午後五時になった。私はさっそくラジオを第二に廻した。そうすると平幕中頃で清恵波(きよえなみ)と鶴ヶ嶺(つるがみね)との対戦であった。こうなると私の相撲熱も上って行きます。
ラジオを耳から一寸はなして昨日の夕刊にのっていた取組の所を見ながら、解説の天竜さんの予想が気に入って、できるなら私もやって見たいような気になっていると、清恵波と鶴ヶ嶺の一戦は鶴ヶ嶺が堂々と赤房下へ寄切って白星をあげた。私は千代の山(ちよのやま)ファンだから千代の属している出羽海(でわのうみ)部屋の人は好きです。初日の番組も取り進んでいよいよ三役あたりに入った。こうなると他のことはもう何も考えず、ただ夢中でラジオにしがみついて聞いている。呼出しが「ひがーし、わかのはーな」「にーし、みつねやーま」と大声で云う。すると天竜さんはそれにつけくわえて、ラジオを聞いている諸君と云って「東、新大関若ノ花*1に対して、西一時大関まで行ったが不調のため平幕三枚目に転落した三根山(みつねやま)の一番は今日きっての好番組の一つですから」とよく説明してくれる。そのいいかたがまったく気に入った。私もちょくちょくまねをして見る。さてこの一番は、軽量若ノ花(わかのはな)の荒投げが機先を制するかそれとも重量の三根の寄りか。時間一杯立ち上がるや、右四つ、三根寄れば、若力を利用して強引に上手投げをうてば、四十貫の巨体が土俵上四つんばいになる。こういう時、テレビがあればなあとも思った。以後、土俵上では星の奪い合いが続いて、初日結びの一番となった。又これもなかなかおもしろい。東より東正横綱の鏡里(かがみさと)が相撲界随一の太鼓腹と四十三貫という巨体を土俵上に運ぶ。それに対して西は相撲界きっての重量で四十七貫を誇る大起(おおだち)。両方合わせて九十貫が土俵中をあばれまわるわけです。
こういうことは私達にはとても想像出来ない。巨体相うつ肉弾戦はまことに壮観であろうが、残念ながらラジオでは見られません。観衆のどよめきも私の心を引き立てる。横綱が土俵に現れるや「ワー」「ワー」と上る歓声も、聞いているだけでもわくわくさせます。結びの一番は鏡里の勝ちで今日の相撲は終ったが、又明日の待ち遠しさをさそうようにラジオはざわめいております。*1:若ノ花は、1957年(昭和32)秋場所から四股名を「若乃花」に改名。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
我等の朝 三年二組 村上安
けたたましく枕元の目覚し時計が鳴る。「パッ」と飛びおきる。朝三時半だ。これから吾輩の一日の活動が始まる。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
まず井戸端で顔を洗う。冬の井戸水は温いわけだが一番初めのはポンプの上の方にある水だから氷の様につめたい。まず欣ちゃんの所へ行く。寒い所を駈けて来たのだからすぐには声が出ない。深呼吸を一つして出来るだけ大きな声で呼ぶ。
欣ちゃんは一回で目を覚ますなんて事は一週間にいっぺんあるかないかである。
「欣一や、欣一や」小母さんが二、三回呼んで初めて返事をする。
「村上さんが来たよ」すると蚊のなくような返事をするがまだ寝床の中でモゾモゾして居るらしい。
そこで今度はこっちから声をかける。
「欣ちゃんたのむぜ」そうすると今度は「オウー」と少し景気の良い声を出す。欣ちゃんはこれから川島へみんなをおこしに行くのである。
その次にはあっちゃんである。あっちゃんは眠り足りない様な声を出すがすぐ飛び出して来る。そこから二人で専ちゃんをおこしに行く。専ちゃんは一番起きっぷりが良い。
あっちゃんと専ちゃんが菅谷から平沢を起こす。吾輩はそこから又ひき返してへび坂を通って大蔵へ行く。へび坂の所は全然人気が無くまっ暗である。昔は夜は便所にさへ一人で行けなかったのに……。それにくらべると吾輩もずい分えらくなったものである。
大蔵の人はおそくまで勉強して居る人がないとみえて、たちまち起きて、そこで鎌形から来た人といっしょになって大覚堂に行く。
四時半五時まで坐禅をする。この頃は欣ちゃんもあっちゃんも野村もすわり方がうまくなって、大分姿勢が良くなった。
それから三十分間論語の勉強をする。こうして我々は人々がまだ眠って居る内にりっぱな日本国民となる為修行して居るのである。
真の新生日本であり、完全独立国としての日本は民主主義だからと云っていくらデモをしてもストライキをしても或いは政治家がえらそうな顔をして自家用車を乗りまわしてみてもだめなのである。
新生日本は一人一人の国民の人格によって作り上げられ、出来あがるのである。
「我等の朝」はやがてよい国を導く朝としたい。
新年祝賀式 一年一組 見目行雄
お正月です。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
今朝は、とても寒い日でした。元旦の式をしに、学校へ行くのでその仕度をしていると、洋一郎君の他に伸雄さんや正治君が、来ました。今日は、お正月なので、みんな、ぴんとした服を着ていました。みんなとてもうれしそうでした。僕たちは、いろいろな事を話ながら行きました。学校へ近づくとみんなのさわぐ声が聞こえました。僕達は友達の方へ走って行きました。そこでも、みんなが、でんでに、かってなことを、話していました。一時間位たったころベルが鳴りました。今日は、ベルまで、たのしそうに聞こえます。僕は、二年生や三年生が入っている新校舎の方へ走って行きました。
一年生や二年生は、早くならんだのに三年生が、ならばないので、気持が悪いでした。そのうち先生方も、出て来ましたが、なんとなくうれしそうでした。
最後に校長先生と、父兄の方が、見えました。校長先生や他の人もいろいろ話しましたが、僕の一番頭に入ったのは、田幡先生のお話でした。「『一』と云う事は良いことだ。今年は、三十一年で一がつくからおめでたい。みなさんも、何でも、一番になる様に」と言うお話でした。
そのあと「一月一日」の歌を歌って、最後に、紅白のおかしをもらって解散しました。
僕は、それを家へ持って帰り、勲ちゃんとわけて食べました。
つまらなかったお正月 一年三組 簾藤昭子
今年も、又お正月を、迎えました。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
今年のお正月こそは、思う存分遊び、たのしいお正月を、過ごそうと、思っていました。
元日は、祝賀式に、行ってきてから、近所の友達の家や(鎌形)小学校の庭などで、たのしく遊んでいました。夕方遊びから帰った、私の耳には、こんな事が、聞えた。それは「愛さんが、口がきけなくなっちゃった」と、言う事であった。そのしゅん間、私の心は、暗い気持に、おおわれてしまった。
親類から、帰った。父にも、すぐ様母は、その事を話した。父も、たまげたらしかった。父は、親類から、帰ったままの服装で、すぐ愛さんの家へ行った。なにしろ父も、たまげるはずである。元日のお昼前にも、家へ着て、お茶を飲んだり菓子を食べたりして、冗談を言って、いたし、お昼を食べてからも、八幡様へ、行くとかで、家へ寄って、お茶を飲んでいて、それから、八幡様へ行ったのですから。
八幡様から帰って、話をしていたら、話が出来なくなってしまったのだそうです。それから、何時間かたつと、医者が来ました。医者は、少したつと、帰りました。父と、母は、毎日のように、行ったり来たりして、愛さんの病気の様子をうかがった。一人の医者は「もうだめだ」と言うので、もう一人の外の医者に、見てもらいました。が、その効果がなかったのか、五日の十一時十分前頃、息を引き取ったとの事でした。それから、葬式の相談や、用意などをしました。私もつかいに行きました。愛さんの事なら、なんでも、喜んでしようと、自転車に乗っていて、心の中で、そう思うのだった。
葬式は六日であった。家では、父と母と姉の三人が、行きました。母は、家へ、何回か来て、いろいろな、道具を持って行ったりした。父は、あお木と、なんてんと、水仙を取って行って、愛さんの為にお花を作りました。
去年の一月一日には、親類のおじいさんがなくなり、今年は、近所の愛さんがなくなりましたので、もう、この二年のお正月は、気が、はればれしないようで、とってもつまらないような気がして、なりませんでした。
子供を、可愛がっていたせいか、となりの史ちゃんの家の子や、私の家の子は、花を取って、墓まいりに、行きました。私は、花がなかったので、米だけを持って行きました。
愛さんの家の人は、墓まいりに、行って見たら、花が、きれいに、さしてあったのを見て「『おとっつさんもいいなあ。死んでまでああにしてもらうんだから』と家へ帰ってゆったんさあ」って家の母と、話をしていた。
今でも、愛さんの姿が、目に浮かんでくるような気がしてなりません。
毎日四回も、五回も来た人が、今はないのでつまらない。
父や母も「なんだか、まがぬけたようだな」と、何回も言った。
私は、墓まいりに行って、心の中でこう言ったのである。「愛さん、春になって、きれいな花が、咲いたら、又、私が花を持ってここへ墓まいりにきますよ」と。
一月四日 三年三組 大野トク
いつものくせで今日もつい朝寝坊をしてしまった。ふすまの間から射しこんでくる光で目がさめた。床に少し入っていたが、ふと「そうだ、今日は天神講だったっけ」と思いついたので、はね起きた。そして隣りの部屋に行って見ると、川口から来たお客と、小岩と、高坂から来たお客と一緒に妹はもう目をさましたまま、まだ床に入っていた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
「幸子、今日は天神講だから、早く起きないとおくれるよ、もう七時だよ」といって、急がせて起こしてしまった。
顔を洗いに行くと、もう太陽は東の空に気持よく上っていた。
「今日も又、良い天気でありますように」朝日はお祈りしながら、歯をみがいていた。朝飯をすましてから又も妹を急がせた。
「早く半紙を三枚出して、半分に切ってくれよ」妹に云ったら母が「どうせ幸子が切ったんじゃだめになってしまうから、自分で切った方が早いよ」といわれたので、しかたなく、「じゃあ、すずり箱を出してみ」といったら妹はすぐもって来た。
「そうだ、母ちゃん重箱は?」
「母ちゃんは手伝いに行くんだから、忙しいからおばあちゃんに出してもらいな」といって出かけてしまった。
私はもうおそいと思って気が気でなかった。でもすぐ出してくれたのでよかった。これで大体仕度がそろったので、私と妹は出かけた。宿の家に行くと、もう男の子が五、六人女子が三人で、たき火をしていたので「もう篠は取った?」と聞くと「もうとっくだよ!」と云われたので安心した。
「たけおさん、もう八時になった?」
「もう八時はすぎたよ」との答えだったが、まだ幾人も集っていなかった。でも少したったら大体集合した。
そこで天神様に供える習字を書いて、八幡様に納めにいって来た。それからは遊んだりお茶を飲んだり、トランプなどをしたりして楽しく過した。そして最後に、
「私達三年生は、もう最後だから『螢の光』を歌おう」といって、全員(三十一名)で歌った。
このようにして最後の天神講を楽しく、ほがらかにすごしたのである。
川越の大師様 一年一組 田幡喜子
「川越市」「川越市」と言う駅員の声を、背に聞き駅の外に出た。私達が乗って来た電車からも、随分、多勢の人がおりた。その大勢の人達も、大たい大師様に行くらしい。父と妹と私も大師様に向かって歩いた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
父が、いろいろと川越の事について話してくれた。ふと前方を見ると、大きな、いく本もの、杉の木が茂っていた。私は、あの木の中に行けばいいのだ。もうすぐだ。と内心ほっとしたのだが、だまって歩いた。杉の木の下を通って見ると、遠くで見たより、ずっとどっしりしていた……。
だんだんと大師様に近づくのだろう。一だんと、にぎやかさが、増して来たようである。その内、木の間から、大勢の人が見えて来た。妹が、かけだして「早く、早く」と手まねきしている。大師様の前の方の広い所に、沢山のお店が並らび、大師様にお参りに、くる人を相手に、声をからして説明し、品物を売っていた。売物で目立ったのは、だるまである。沢山のだるまでお店が、おしつぶされそうな感じ。買っている人も、お参りしている人も、皆んな、お正月なので、のんびりとしているらしい。しばらく私も、あまりにぎやかなので、ぼうぜんとしていたのだが、父に「さあ、お参りしよう」といわれたので、はっとした。そして、お参りに行くと、そこも、大勢の人で、いっぱいなので、後から、ゆっくりついていった。おさい銭を入れて、おがんで、おりる時、帰る道の方を、なんの気なしに見おろすと、道は人の波である。どこを向いても人ばかり。それに、お正月で着かざった人々で、うずまっているのだから、美しくいえば、花模様であるが、せっかくの花模様も、ほこりがひどくて、だいなしである。
私達は、あまりお参りに来る人が多いので、自由に歩けないので、お参りして帰る人々の後をついていった。ほこりのすごい所を通りぬけて、やっと、曲がり角まで来た。ここまでくればと思ったが、やっぱり、大勢の人出、まったく、うんざりしてしまった。でも大師様をはなれるにしたがって、人出が、少なくなって行くような気がした。
なくなったカバン 一年三組 吉田秀夫
僕が六年生の時だった。放課後、かばんを学校において、友達の家に、竹をもらいに行った。そして、ちょっと遊んでから、学校に行った。もうその時は、いく人かの者が、校庭で遊んでいただけだった。教室へ行って、かばんを持って帰えろうとしたところが、かばんがない。いくらみつけてもみつからない。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
だれかが、かくしてしまったにちがいないと思った。かくした者をみつけたら、ぶっとばしてやりたいが、だれだかさっぱりわからない。
しかたがないので家に帰ったら母に「もう一度学校に行ってよくさがして来なさい」ときつく言われた。僕はしかたなしにしょぼしょぼ歩いて行った。「もう一度よくみつけてなかったら、あしたどうしよう。弁当も勉強道具も持っていけないし、家に帰れば父や母にしかられる」と思うと、泣きたくなってしまった。そして「もしなかったら、家に帰らないで学校でねよう」と思った。学校に着いた時はもう暗かった。校庭はしーんと静まって暗く、きびがわるい。校舎には、職員室の電気だけがついている。もう先生がたは、みんな帰ってしまったらしく、学校はしーんと静かだった。僕は宿ちょく室の先生にどろぼうだと思われたらいやだなとおそるおそる教室へ入ってさがしても、いっこうにみつからない。
僕は机の上につつぷせてないてしまった。そしてしばらく泣いていたが、泣いていたって見つからないと思って、もう一度すみからすみまでよく見つけてみた。するとろうかの古い水道の所にちらっと白い物がみえた。僕は「かばんだ」と思って走っていったが、それは僕のかばんではなかった。白い紙だったのです。
僕はがっかりしてしまってなんともいえないへんな気持だった。僕は教室の後にぼっとどうかと思って行ってみたら、そこにちゃんとかくしてあった。僕はその時ことばに出して言いあらわせないくらい、うれしかった。
僕は、帰り道うれしくって走って行った。
犬の怪我 三年一組 関根しげ子
私が二階で勉強していると、いきなり「キャンキャン」と云う鳴声と一緒に、自動車のタイヤのずる音が聞こえた。さては!と思いながらいそいで雨戸を開けて見るとその通りだった。下駄屋の少し向うに自動車が止まっていた。犬が、みだれた鳴声を上げながら、道路を、くるいまわっていた。暗くてどこの犬だか見分けがつかない。階段をドタバタさせながらおりてくると、家の者は丁度夕飯を食べている所だった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
外へ出て見ると、皆が集って見ていた。ほうぼうで表に出ている。私が犬を見に行こうとすると、弟と妹が走って来て「姉ちゃん、典子ちゃんちの犬だよ」と二人ともはだかのままでさわいでいる。
妹は「ああおっかねえ」と体をちぢこませて「兄ちゃん、もう一回見てくる?」「うん」と云いながら、手をつないで走って行ってしまった。
私も傍まで行って見た。皆が黒山をつくって見ている中へわり込んで行って、首を伸ばして見ると、典子ちゃんのお父さんが、懐中電灯を照らして見ていた。まわりの人達は皆自分勝手にそれぞれの話をしている。
その話によると、運転手は犬が、ぢゃれているのを見て、反対側の方へよけて通ったそうです。だがその時に犬は何かのはずみでいきなりとび出し、走っていた自動車の下へスーと入り込んでしまったのだそうです。
そして、ブレーキのかかった時にすでに遅かった。タイヤの下に右前足がはさまってしまい、そのまま引きずられたからたまらない。砂利のために足の皮は破れ、ぶら下っていた。血にそまった赤い肉が見え、そこからは血がしたたり落ちている。ブラブラになった足をちぢこめ、あえいでいる姿などとても見ていられるものではない。足の骨はくるりの上が折れて、ただ血管と皮が少しつながっているばかり。おじさんが犬をだき上げると皆は道を空けた。犬は小島屋の獣医さんに見せてもらうためつれ込まれた。幾人か後へついて行ったが、下駄屋の前に集ってきた人達は、何か話しながら帰って行った。
私はいづみやで話をしたり、新聞を見たりしていたが、間もなく帰って来た兄にその後の状態を聞いて見ると、血管がつながっているから、切断しなくても大丈夫だろうと云うので、まず。ますいをかけ、足にぶら下がっていた皮をはがして、そこを良く消毒し、又皮をかぶせて足の両側に、おりのふたをわったようなものをあてがっておいたそうです。
しかし、ここでちょっと心配な事は、もし怪我がなおっても、びっこだという事が明らかである事。この犬は前にも一度自動車に引かれそうになった事があります。よほど、運が悪いにちがいない。
悲しみが教えた 三年三組 米山典子
「クロ」が自動車にひかれた。私の目の前で、私は、はっとして「クロ、クロ」と叫んで思わずかけよろうとした。すると自動車の主らしい人が「こういう時はそばへ行ってはいけない」と教えた。でも私にはクロの狂ってる姿を見て近づかないわけにはいかなかった。「貴方の家の犬ですか」って言われて気がついて「そうです」と答えたが夢中で家の人に知らせにかけていった。父ちゃんは「犬のことだから」と言いながらもせかせかと自転車ですぐに来てくれた。私も心配なのでその後からついて行く。行って見たら「クロ」は、下駄屋の軒下で黙って悲しそうな目を四方に配ってた。私はその目を見ると何とも云えぬ悲しさに心は乱れた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
「クロの手を切らなくては」という獣医の言葉なのですが、でも父は「それではあまりかわいそうだからくっつかなくても良いから合わせておいてくれ」と言ってほうたいをしてもらったのだそうだ。犬のことだからと言いながらも父は悲しかったに違いない。父は案外「クロ」をかわいがっていたから……。犬を家へ運んで来たが私はかくれてしまった。でも土間へおいたので見ないわけにはいかなかった。父の話では一番太い骨が折れてしまって白い筋も皆切れてしまって血管だけがやっとつながっていただけだと云うことだ。だからとても元のようにはならない。そして今は気候が気候なので腐ってしまうだろうということでした。クロはますいが切れて来るとやたらにうなった。私にはその声がとてもこわかった。きっと痛くて痛くてたまらないのだろう。狂って縁の下へもぐりそうになったり、土間からお勝手の方迄もはいまわって苦しがっていた。
皆近所の人が帰った後、私は家中の写真をとり出して見た。一つの写真にはクロの前のチビが写ってた。その犬も夜中に自動車にひかれて即死したのです。私はこの時つくづく「生物を飼うということは大きな悲しみが伴なうこと。」を感じた。次には父母の写真があった。その写真を見て父か母かどちらでも亡くなって片親になったら犬の時の悲しみどころか、もっと大きな悲しみにつつまれるにちがいない。同じ悲しむにしても今から両親にうんと孝行しておけばその悲しみも和らげられるだろうと思うと、これからは父や母に心配をかけないようにしようとしみじみ感じました。
私に欠けている「はい」の一言が言えるように心掛けよう。クロのけがで私にとっては大事なことが教えられました。
うさぎ 三年一組 長島孝一
僕は、家畜や小鳥を飼う事が好きで気に入れば何匹でも飼ってみたくなる。まあこんなちょうしさ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
「母ちゃん!羊かって見たいんだけどいい?……色々考えてみたんだけど羊は大きくなれば毛糸も取れるし、子も生まれ、なん匹にでもふやす事が出来る羊がいいなあ。」
「ねえ孝一、他人の飼っているのを。」
「だって、飼ってみたいんだよ。」
「見たいのは、それはだれでも良いと思う。その人じしんにとって見れば他人の見たのよりも、二倍も三倍もよけいに働かなければならないんだよ。夏になれば冬の家畜の食料とする芝草を刈らなければならない。冬にもお前達が寒いといって、こたつに入っている間にも家畜小屋にいれる落葉もかかなければならないんだよ。孝一には出来ると思うかもしらない。今のお前の様子では出来る事ではないよ。いいね。」
「ハイ。」
もうなにも飼うまいと思った。その日はそのままにすごしてしまった。翌日考えてみた。やっぱり飼ってみたい。弟も家畜を飼うのが好きなので僕が聞いたら、
「兎いいだんべえ。兄ちゃん、母ちゃんに良く話したら賛成してくれた。」
「薫、どこの家にいる。」
「えいこちゃんちにいらあ。」
「どこの家だい。」
「本家んちだよ。」
「何匹いる。」
「四ツいらあ。」
弟二人。父にお金をいただいて買いにいった。リンゴ箱に金網を張った中で元気良くはね廻っていた。長い耳、赤い目をのぞかせている姿は実に可愛らしい。
「一ヶ月ぐらい経っている」とおばあさんは言っていた。それにしては割合に大きかった。
朝はまだうす暗いうちから餌をあたえていた。日ましに大きくなって行くようだった。翌日の昼すぎ頃から、ふつうとは様子がちがう。見ていた弟も心配そうである。
「死んじまあん?」
「ううん大丈夫だよ?」
その日はそのまますごしてしまった。翌日また、うす暗いうちに母に「孝一、起きろ。」と言われた。
「ううん……。」と返事だけして又眠ってしまった。
弟がふとんをはぎに来たのでしかたなく起きた。兎の事を思い出してすぐに行ってみた。と、様子がおかしい。白い毛は泥にまみれ、赤い目は見えず固くまぶたをとじている。きのうよりも固く冷たく感じられた。さわってみたが動かない。死んだ。
弟は傍(かたわら)で涙ぐんでいる。母が来て、「さっき起した時に来て見てやればよかったのに。かわいそうな事をした。」と横たわっている兎を見てつぶやいた。
「墓でも作って花でもあげてやりな。」
でもその時の僕の耳には入らなかった。
「兄ちゃん、兎の墓だとよ。」
弟が手を引っ張っていった。自分の服の古着といっしょに裏の塚のそばに餌箱と共に埋めた。板に「白兎の墓」と下手な自筆ながらも書き、立てた。遠くの方で小鳥が鳴いていた。いつか太陽は高く上り、雨水のたまった道路は光っていた。
好きで飼って、こんな不幸な死に方をさせるようでは、まだまだ知恵というか、研究心がたらないと思いました。
子うし 一年一組 長島幸雄
家には生まれて三月ばかりの牝牛(めすうし)がいる。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
小屋の中にいる時には、あまりあばれないが外に出すと、とても元気がよい。この間は、親をつないでおいて、子牛だけをはなしておいたら、家の庭をばらばらかけて廻っていた。家の人は、この子牛は家においておくと言っている。
小屋の中にいる時、手を出すとぺろぺろなめるので気持が悪いが、とてもかわいい。親がかいばをたべる時、子牛には別の桶に少し入れてやると、もうとてもよくたべるようになった。そして特に「かぶ」をひろってたべる。それなのにまだ親の乳もよく飲む。
此の間は、ぼくが追ったら駈けて行って牛のたずなにひっかかって、ころりところんでしまった。家の者はみんな笑っている。そして兄が「幸雄につかまるんかい?」と言うから「つかまえられるさあ」と言ってつかまえようと思ったら、前庭の方へ逃げられてしまった。また戻って来たからまた追ったら、今度は隣の庭の方へ行ってしまった。ぼくが遠周りをして行ったら隣のおばさんが「もう牛は行ちゃったよ」と言うので来てみたら、もう小屋の中にちゃんと入っていた。ぼくはくやしかったので、小屋の中でつかまえた。
家の子牛はとてもかわいい。
めじろ 一年二組 山岸勝代
私の家では「めじろ」を弟が飼っていて、何時も、弟がえさをやったり、水をかけてやったりして、かわいがっています。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
めじろは、いつも、暖い所につるして置き、夜になると家の中へ入れ、朝になると又外へ出してやる。朝、めじろはとてもいい声で「ピーピー」となきます。えさはりんごや、みかんで、さかきの実とぬかをまぜた物をよく食べます。
めじろは、さしこの中をあっちへ行ったり、こっちへ、きたりしてかったるくならないかと、思うほど動いている。
見ていると、実にいじらしく、感ずるのでした。
目白よ、目白
山の古巣が
こいしかないか
友と別れて、ただ一人
さしこの中で
鳴いている
この間、めじろのさしこを、きれいにしてやろうと思ってふたをあけたら、めじろににげられてしまった。翌日、かきねの所で、めじろが鳴いているのを見つけたのでいそいで、母にしらせた。母は床屋のおじさんにいってめじろをとってもらった。ふたたびわが家に帰ってきた時、
めじろよ、めじろ
よくぞ、我家に帰ってきた
と心の中で言った。めじろがさしこの中へ、入った時、冬はあまりえさがないので、よろこんで、みかんや、りんごや、さかきの実などを食べていた。食べてからは、いつもあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、動いていて、時に、りんごや、みかんをつっついて食べていた。
その食べかたといい、りんごを見てみると、皮だけ残して、後は全部食べてしまう。その食べ方はとてもきれいです。人間にまねの出来ないようなたべ方です。皆んなも、見たらきっとこれはだれが食べたんだろうかと、聞くと思います。
鳩 一年三組 小林勝夫
僕は鳩が、飼いたくてたまりません。近所の友達のほとんどが飼っている。それを見ると、うらやましくてたまりません。特に、気にさわる点【?】は、どこへ飛んでいっても、又帰ってくるということです。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
この間も川島の友達に「とうもろこし一斗位と、鳩二羽でとりかえてやる。」といわれました。
どうも、その場では、即答、することが、出来ないので「家に帰って、よく家の人と相談してみる」と云って、その場はすごした。
家に帰って、夕食後、みんなでコタツの中で、楽しく話し合っている時、鳩のことを思いきって、家の人に話すと、どうもみんなが反対し、その中に口の中でぶつぶついって、仲中「飼ってもいい」と返事をしない。もう一度ねんをいれて「鳩を飼ってもいい」ときくと、父は「おまえには、長く世話なんか出来ないしそれに、いれ物もないからだめだ」と云った。僕は、その夜は、がっかりしてしまい、勉強など手につかず、すぐ床にもぐってしまった。さてその次の日、昨日の友達が、学校で僕の所に来て「おい鳩のことなんだけれどどうする」といわれ、どうも、はっきり「いらない」とことわることも出来ず、だまっていたが、父にことわられたので、仕方なしに「いらない」といった。するとその人はとうもろこしがほしいのか、さびしい顔をしていた。父に「だめだ」といわれたのでどうも、気まずくてしょうがないが、ことわってから友達にいきあうのが、変でいく日か学校にいくのさえも、少々いやな気持になる。
でも僕は、心の中でこう思った。自分の思う通り物事がいかなければ、すぐに腹をたてて、学校にいくのも、やになってしまう。でもそんな人間ではしょうがないと反省した。このように、考えると、学校へ行くのも、平気になり、元気も出て平気で学校へ、行ける。でもやっぱり僕は、鳩が飼いたい。友達には「いらない」とことわっておいても、本当はどんな鳩でもよいのだ。僕の望んでいる鳩はニュースをはこんだり、色々の通信の役立ちをするような立派な、鳩でなくてもよい。
普通の人のもっているような、鳩でいいのだ。かわいい鳩、美しい鳩、今朝も近所の鳩が大空に大きな弧をえがいて、二羽並んでいる。
さかなつき 一年三組 山口順一郎
冬休み中なので、朝おそくまで寝ていた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
起きて見ると、すっかり太陽は昇り、かんかんと、照って、まぶしい。
風もなく、いい天気だ。「さかなとりにいけるぞ」と、早速ごはんを食べ、びくと、やすと、なみよけを持って、商売人のはくような長靴をはいて、川に向って、かけるように急いだ。
この長ぐつは、僕が「さかなとりが上手で、その上、好きだから」と、いうので、母が千五百円もの、大金を出し、買ってくれた。その時、母は「順ちゃんに、たくさんさかなを取ってもらって、家中のものが、ようじょうするのだ」と、いっていました。
そんなわけだから、僕は、魚を取りに、いかないわけにはいかない。
八幡橋の下から、上にあがり、上のせきの所まで見ていった。そして又、橋の下に、くだってきた。すると、近所の友だちが、二人きたので「今日は、明覚の方に行ってみよう」と、三人できめ、川をさかのぼり、知らず知らずの中に、玉川の学校のそばの橋まで来たので、大分時間が、すぎたのかも知れない。はらが、へってきたが、みんなは、夢中になって魚を追っている。
そのうちに正午を知らせるサイレンが、鳴ったからたまらない。急に、はらが、へってきた様に思われ、はらのむしも「ぐうぐう」と、なる。でもそんなことも、感じないのか二人は、一生懸命である。僕は、仕方がないので皆に話しかけた。「明覚まで行くのは止そう」「おらあ、はらがへっちゃった。」というと、「うんもう昼か」「よそう」と云う事で、明覚までいくのをあきらめて帰ることにきめた。帰る途中、川ずたいに下ったが、はらがへって仕方がない。
がまんが出来なくなり「パンをかってたべようか」と、いったが一人も、お金をもっているものがないので、パンを、かって、食べることも出来ない。
仕方がないので清水を見つけ「水でも飲むか」と、いって、三人で、代る代る飲みましたが、もう魚を取る勇気もなくなってしまい、口をきく人もいなくなってしまう有様で、川土手に上り、だらだらと、歩いて来たが、自分の長靴は、普通のより長いので重い。時間がたつにしたがい、長ぐつの目方が、倍の目方の長靴にでもなって行くように、おもわれて来る。
いつも、だったら、こんなに、遠くの方へは、来ないのに、なんでこんな遠くの方まで来てしまったんだろう。もう、二度と、こんな方まで来ないようにしようと、つくづく感じた。
歩くと、踏みつける足は、力もなく体のだるさまでが、身に感じて来る。とった、魚もすてたい位だ。
冬の午后の風は三人の心も知らず、相変らず強くふいている。
その中、やっと、家が見えて来た。
皆が「一休みしよう」と、いったので、まるで家へでも来た様な気持で、風の来ない土手の日向に腰をおろした。
麦かり 一年二組 高瀬和子
農繁休業も終っての、ある日曜日、麦刈りをしました。麦刈りといっても、たいしたことはなく、私の家では、元々、農家ではないので、麦刈りといっても、約四畝位のところである。四畝位のところでは、一日でゆっくり終ってもよい位だが、何しろ働く人は、二人、母と私だけで、私は働くといっても、とても一人前の仕事などできやしない。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
でも、母と共に、色々の話をしながら、麦を刈るのはとても楽しい。学校の事や、お友達のことなどの話をしつつ仕事をしていると、道草をよじらすような暑さをも、忘れてしまう。
麦はとても悪いので、刈るのに非常に刈りにくい。畠の麦の大部分が、ひっくりかえってしまった。かえらないのは畑のはじの方と、真中に、ほんの少ししか、見受けられない。じっと見つめていると、六年生の時に行った、あの楽しかった修学旅行を思い出し、江ノ島でみた波のようにも、思えてくる。そんな事を考え、思い浮かべながら、半分くらい刈ってしまった。そのうち、私は、だんだんつかれてきた。
つかれたというより、むしろあきたのかもしれない。「かったるくって」と私はいった。母は「つかれたら休んでいいよ」といったので、待ったましたとばかり家の中に入り、あがりはなに、ごろりとねころんでじっと、天井を眺めていた。でも、休んでばかりいてはと思い、又、刈りはじめた。
少し刈ったら母は「もうまるくからはこんでおくれ」といったので、私は「うん」といって、母のまるめた麦たばを肩にした。たばをかついで、こんなに軽いのなら二たば位、運べると思い、母に「今年の麦はとても軽いよ」といったら、「やっぱりほんとうのお百姓でないと、よい物はとれないよ」といって笑った。
こんな事を話しながら、かついだ。ふと西の空をみると、真赤な夕焼けだ。「明日もよい天気だろう」と、手拭で顔の汗をふきながら、母は空を見上げていた。
麦は刈りきれなかったが、美しい夕焼けが今日も、となりの家のかべをうつしていた。
水のない田植 三年一組 山下ふじ子
冬物をしまう時母から「田植時分に寒くなるから着る物を出しときな」といわれたが、なんと寒いどころか暑い暑い毎日だった。なにしろ、昼休みをして田に足を入れると「あっ」といわずにはいられなかった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
このような上天気だから水を引くのに苦労した。少したまったかと思えば、どんどん蒸発していってしまうようなわけで、どこでも水には困った。
早くから手を尽くしているのはどうやら、植えることは出来たが、かまわずにいた田は、からっぴいになってしまった。植えた田でも水はなく稲は松葉のようになっている。
私の家では、小さいのから手をつけていったので三分の一まではどうやら植ったが、あとは手のつけられない有様になってしまった。
毎朝毎晩ラジオの天気予報はかかさず聞いているが、いつになっても降りそうな様子はないので、おじいさんなんかは、しゃくにさわったのか「なあにみんなが苦労して水のない田植をしてやっとおわって一安心しているころには、しょうがねえほど降らあ」と出まかせをいってみんなをわらわせた。
この間の新聞では、秋田、山形地方では、大水に見舞われ、田畑は荒らされ、家は流され、人が死んだような事件があったが、その水をこっちにも少しわけてくれないか、とつくづく思う。
方々で川から消防ポンプで水を上げて、それでなんとか植えているようだが、ポンプの力がたりなくて、あまり遠くまでは出来なかった。
こうなると最後は「雨が降るように」と拝みたくなってくる。
麦刈り 三年一組 金井靖一
今日は朝からとなりの家の手伝にいった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
畑にいってまわりを見るとどこの家でもみんな働いている。
朝のすがすがしい空気の中できょうの麦刈りは始った。
「ザクザク」と気持のよい鎌の切味、みるまにかれていく。研修所のサイレンが十時をしらせる。「もう休むべえ」と、となりの人がいった。清水で手を洗い手で汲みとり、のんだら、つめたくてとてもうまかった。
土手に上ってみんなといっしょに食べた。さんどいもが「ホクホク」してとてもうまい。いもを食いながら、麦を刈った後をみるともう四畝ぐらい刈れたようだ。倒された麦は、かわいて「パチパチ」とはじけるような音を立てている。
きょう麦刈りにきた人は僕と妹と、となりの家の人が二人で合計四人なのでどんどん、能率が上る。「ザクザク」と刈り急ぐ。みんなの顔から大つぶのあせが「たらたら」とおちる。みんないっしょうけんめいだ。ぼくもいっしょうけんめい皆にまけまいとがんばった。
三時休みがすぎ四時ごろには一反の畑が刈り終った。四時からは、麦上げをした。麦を上げる時は、リヤカーを使った。リヤカーの四倍か五倍ぐらいつけている。妹などは「運送車は一っぺんにうんとつけていけるからいいなあ」とつぶやいたのでみんな大笑をした。
翌日は脱穀をした。あまりいい天気ではなかった。「ダダダ……」と大きな音がして発動機が廻りだす。「ジャー」という音とともに、麦ははじけとぶ。僕はからまるきや、たばはこびをしたが大へんいそがしかった。
手伝い 一年三組 中島芳子
初夏の日ざしが、かんかんと照りつける。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
ちゃおけを持って田へ急ぐ。やかんの中のお湯が、歩くたびに「ボコンボコン」と鳴っている。この音を聞いていると、リズムをとっているようだ。私もこのリズムに乗って足どり軽く前へ進む。田んぼのあぜ道には、可愛らしい小さな花が咲いている。小川の水はさらさらと流れて行く。蛙が、足音にびっくりして小川にとびこむ。どこの人も、かんかん照りつける日光を浴びて、一生懸命仕事に精を出している。
やっと私の家の田が、見えはじめた。家の人は、豆粒よりも、すこし大きいくらいだ。田が近づくにつれて、足は、どんどん軽く前へ進む。
「おーい。」と呼んで見たけれど解らないらしく、一生懸命に仕事をしていた。もう一度呼んで見た。すると母が、こちらをふりむいて、手を高く上げた。私は、思い切り手ぬぐいを振った。
田に行っている弟が「あっ姉ちゃんが来た」とさもうれしそうに言った。きっと、待ちこがれていたにちがいない。田につくと同時に、弟は、ふろしき包みを早速もって行ってしまった。弟が「おじいちゃんお茶だよ」と言った。おじいさんが弟に「あいよ」とにこにこしながら言った。
そのうちにみんなが、田から上がって来た。おじいさんはふやけた足をほうり出してすわった。弟は、まっ先に茶おけに手をつけた。母が「博は、食べる時となると、早いね」と言ったのでみんな大笑いをした。
手伝い 二年三組 大沢幸子
学校も農繁休暇に入ったので私は親戚の家へ四日ほど手伝に行きました。その時の様子を書きたいと思います。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
第一日目は麦刈りをした。おばさんと輝男さんと私の三人でした。麦刈りは体をまげるのでとても腰がいたい。おばさんは「休み休みでいいよ」といいながらせっせと刈って行く。私は中学一年の時少ししたことがあるので、どうやらおばさんの後をついていけた。輝男さんはまだ六年なので後の方から休み休みついてくる。時々おもしろいことをいってはみんなを笑わせる。畠をしている時は特別お茶休みがまちどうしい。畠は駅の近くなので電車が通るのもたのしみだ。
十時休みをして、また畠に出る。梅雨期だというのにこの二、三日は日照りが続く。ズボンをはいている私はあせでびっしょりだ。時間はだんだんすぎ、まもなく三時休みになった。三時になると女学校へ行っている菊江さんが帰ってきたのでこんどは四人である。
おばさんと菊江さんと私が二本ずつ刈って六本、輝男さんが一本、合計七本づつ刈って行くので早いこと、見る見るうちに半分以上刈ってしまった。五時ごろになって、おじさんが工場からかえって来た。そのころは三分の二ぐらい刈ってしまったので、おばさんがたばにして、おじさんがリヤカーではこび出す。もう、あと少しなので菊江さんと私と輝男さんで刈ることにした。
うねが長いのでとてもつかれる。終りの五行あたりまでくるともううすぐらくなっていた。七時ごろようやく刈り終った。まだはこびきれないのでみんなではこびだし、終った時はもうまっ暗だった。
それから夕飯を食べ、家に帰ったのが九時頃だった。とまって行けといわれたが家が近いので帰ることにしたのだ。家に帰るとまだみんなおきていた。それから家の人に今日のことを話すと、父は百姓をしている家は毎日そうだといった。よくみんなが「ねこの手もかりたい」というが、ほんとうにそうだと思いながらおふろに入った。手が日に焼けてひりひりする。おふろから出てすぐ床についた。そのつぎの朝つかれたのか母におこされるまで目がさめなかった。
二日目は草むしり。今日もうだるような暑さ。三日目も草むしり。四日目は、じゃがいもほりをした。田を作っていないのでこれでだいたい終った。手が日に焼けてまっ黒になった。そのつぎの日はなれなかったせいか、半日頭がふらふらしていた。
田植 三年三組 田幡文子
田植と言えば、前々からぜひ、一度は、して見たいと思っていた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
それがこんど生徒会で、非農家の人々は、農家に手伝いに行く事に決定したのだ。
二十二日その日は、大変によく晴れ渡っていた。その朝、私は。休みだとはいえ、早起きして、一路鎌形へ向って、自転車を飛ばせた。すごい急坂も物ともせず、鎌形まで、ただまっしぐらに走った。
行く途中知っている人達にもたくさん会ったが、今日はあいさつどころではない。
行く先は、私の友達の中島さんの家だけでども、まだ初めてなのでどの辺か全然見当もつかない。途中で友達に教わりながら、やっと中島さんの家にたどりついた。まだ六時頃なのに皆田へ出かけたとの事、すぐ田へ案内していただいた。「わあ!」思わず私は感嘆の声を上げてしまった。みのや笠をかぶった人達がまるで、お祭のように、あの広い田んぼもせまい程にせわしく働いていた。私もすぐ田に入り苗をもったが、植え方が分らず困ってしまった。すると、辰江さんやおばさんが、もち方から植える時の手の使い方までよく教えて下さった。わずか三十糎位の所を植えて行くのだが、仲々うまく行かず、幾度も植えかえるやら、全く苦心した。
ぐずぐずしているとなわを、後へ後へと送られて、とり残されてしまう。ちょっと植えて来た所を見ると、なんと、倒れたり、浮び上っていたりしたので、思わずふき出してしまった。そばにいたおばさんは「初めてだからね」と言った。辰江さんのおじさんだ「誰でも一番初めはそんなもんだよ」と言った。その言葉に励まされて活気づいて来た。
しかし、くやしいとか、はずかしいとかいう事より、辰江さんの家に対して気の毒になってしまったのは、私より二つ年下の男の子が上手に、植えていることだった。田植とは苗を育てて、きちんとうえるという事が大切である。
そういう点からみると、私のようなまだなれない下手な植え方をしたのでは、苗の為にもよくないのではないかと色々心配しながらも、植えている間は楽しかった。これがやがては実って食べられるようになるのだ思うと、つい一生懸命にならざるを得ない。お米を作るという事は、遠い昔からの大事な仕事でした。千五百年も前の歌を集めた万葉集という本の中にも田植歌があります。その頃から田植が行われていたのです。初めての田植で……
今日の田植は、いろいろの点から私は大変勉強になったとうれしく、夕日の沈みかけた道を、家へと自転車を走らせた。
農繁休業のある日 三年三組 中島辰江
農繁休みにはいってまもないある日、私はふと植木場を見るとかんじんの植木場が草でおいしげってまるで草の山のようでした。それもそのはず私は毎日の様に田仕事で忙がしくて、草などむしっているひまがないのですが、あまりにも植木場を草の山にしておくのもなんとなく気もちがよくないので、私は朝でも、昼休みでもいいからと思って少しづつむしる様にした。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
むしり始めるとおもしろくなってやめられなくなって、つい夢中で仕事をつづけていると、そこへ兄がきて「辰は何をしているのだ。今さらそんなことなんかしなくてもいいのだ。早く田に行って苗をちらして、植える様にしておきなよ」といわれたのだけれど、やめられないのでむしっていると、今度は母がきてまたよんだので、私は「はい」と返事をして「後はお昼休みにむしろう」と思って草をむしるのをやめて田にいって見たら、もうどこの家からも朝早く出てきたらしく、苗をとる人、植える人、かく人、うなう人、それぞれに田の中が一ぱいなので、私は道をとおるのがはずかしくなってしまった。そこで私はかけ足で通りぬけて行った。
今日は田植なので苗をはこんでから植えはじめました。いくらもたたないうちに四畝の田なので始めたと思ったら終ってしまいました。それもそのはずです。四畝の田に五人もはいって植えたのですから早いわけです。兄が「苗田があ植え終ったらお昼にしよう」というので一生懸命に植えてお昼に上りました。
空は生きている 一年三組 原田義達
空は生きている。ある日、僕達が畠で、草をむしっていると、西の山の上の方から曇りだした。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
雲はみるみるうちに空一面に、おおいかぶさって頭をおしつけるように、たれて物凄い勢いで、雲は宙を西から東へと灰色や黒い雲が馳(は)せるように飛んで行く。
そのうちに空はおこり出し、うなりだした。それから急に風が出て雨が落ちてきた。雨は次第に小粒から大粒にはげしくふって来る。空は一時としてとどまることなく、絶えず動き、変化しつつ雨は降り続く。そうなると田畠で仕事をしていた人々は、近くの家の軒を目がけて飛びこんで行く。
そしてぬれた体を、手拭いでふきふき、生きている空をじっとながめ、雲の行方をみつめている。僕の家の軒下にも知らない人がかけこんできた。
僕はお茶をわかしていた。わかしながらとびこんできた人の話をきいていた。するとこじきのおばさんがでっかい声ではなしている。「わたしゃかみなりがこわくてしょうがないですよ。去年の夏、ゆうだちのとき、あたしゃこわくてこわくて夢中で、よその軒下にかけこんだんだけど、父さんはぬれても、雷がなっても、こわくなさそうにおちついているのな、あたしゃぶるぶるふるえていたよ」などと話ししているうちに、湯がわいたので、ぼくはきゅうすについで、もっていった。
外は、さっきと変って小雨になっている。「こさめになっていらあ」と思わず大きな声でいった。
すると「そうかい、そんじゃそろそろでかける」といってこじきのおばさんがたちあがって玄関の前にたって空を見上げて「ずいぶんふったものだねえ」といっていた。
でも仲々話は終らず、空をみながら立ったままはなし続けていた。雨はやんでみんなで田畠に向かってでていく人の姿があちこちに見え始めた。
空は少しづつ晴れていく。空をながめながら、空は生きているのだなあとおもった。
草刈り 三年二組 藤井成子
ミーンミーンというせみの鳴き声に目がさめた。目をこすりこすり床をたたみ、庭に出て見ると、もうあたりは明かるかった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
だが近所の家ではまだおきていないらしい。ただせみの鳴き声と米を「ザクザク」といでいる音しか聞えない。おそらく母だろうと思いながら時計のある方へと足先がむいた。
時計の針は五時十分ぐらいのところをさしていた。顔を洗い服をとりかえて、かごとかまをもって裏山の方へいった。いよいよ草刈りだ。
去年のほしぐさは二貫目だったのであまりいそがなくてもまにあった。だが今年は修学旅行にいけない人にいってもらうために私達の級だけは、三貫目にきめたのだ。だから一生懸命にからないと間にあわない。といってもべつにいやな気もしないし、かえって楽しいようだ。
去年の草かりの時は兄におこしてもらって二人でよくいったものだが、今年はだれにもおこしてもらわないで、自分でおきて兄のねている間にこっそり家を出て来たのだから、ちょっとじまんするような気もちだ。
そんなことを考えながら草を刈っていると、お寺でたいこがなりだした。一人なのでちょっと気もちがわるい。なんとなく帰りたくなった。けれどまだかごに入っている草は半分位だ。こんなことではだめだと思ってこんどは山の方の中へ入った。そこで草をかごいっぱいにして帰ろうと思っているところへ、近所の子が二人きたので修学旅行の話が出た。
まで早いような気がしたけれどやっぱり楽しい。旅行の話をしているうちに近所の子のかごもいっぱいになったので家にかえることにした。
今年の草かりが毎日このように楽しく出来るといいなあと一人で考えながらもときた道をいそいだ。
働く人 三年一組 松田典清
朝早くから、前の道を行ったり来たり、人の通りが激しい。自転車にのり、おべんとうを持って行く人、カバンをさげて歩いて行く人、夜が明けるといっしょに、人々は働きはじめる。或いは一晩中、ねずに働き、家にも帰って来ない人もあるのだ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
世の中に生きている者は、皆働いている。自分自分のきめられたことを通して自分のために、人々のために仕事をするのだ。ぼくは働く人ほどりっぱな人はないと思います。ぼくの家ではおとうさんは、毎日汽車で立川の駐留軍の部隊へ通っています。
あつい日でも寒い日でも、一日じゅう、くたくたになるまで、しごとをしていることでしょう。おかあさんも又家でせんたくをしたり、ぬいものをしたりして一日じゅう働くので、よういじゃあないなあとぼくはいつもしんぱいしています。ぼくも水を汲んだり、こもりをしたり、にわなどをはいたりして、少しでも家の役に立つよう心がけています。
そんなことをしているうちに夜になって、間もなくおとうさんもかえってくるだろうと、ごはんのしたくをしてまっていると、自転車の音がしたので「おかえんなさい」といったら、おとうさんが元気にただいまとへんじをした。そして、お茶をいれてからごはんをたべました。
花火 三年三組 飯塚恵美子
暗くなってから洗濯を始めた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
ブラウスや下着を洗っていると、隣のおばさんが来て「今夜は熊谷の花火だけど行かないか」と云われた。
母に聞くと「体が疲れなければ」と云うので行くことにした。
隣の人の運転する自動車に十余名乗って出発した。私は立っていた。風がほおを、頭を、なでつけて行く。何もかも、後へ後へと飛んで行く。暗くなった村には電燈だけがかがやいている。七郷の学校を通り過ぎると、なれぬ所ばかりだ。私達を乗せた自動車は熊谷へ熊谷へと走った。やがて大沼公園を通り過ぎ、熊谷へ近くなった。しばらくすると花火が見え始めた。美しい!どんより曇った空の一方で「ドーン」となって「パッ」と開く。「アッ上った」「きれいだな」皆感嘆の声を一せいにあげた。
やがて車からおりて歩き始めた。何千人いるかちょっと見当がつかない。
熊谷の花火は生まれて初めて見るのだが、毎年こんなに人が出るものかと感心してしまった。花火を見ながら橋の所まで来た。又ここも大変だ。暗くて良く見えないが、ものすごく混み合っている。川の土手は人々の顔々!ただ白布を一面に敷いた様だった。この白布はどこまで続くやら。
「ドーン」アッ上った。「パッ」と大きな花火が頭上で開いた。まぶしい。上から光がそのまま伸びてきて頭から包まれてしまいそうだ。同じのが幾つか続けざまに上ったので、急に明るくなったと思うとまもなく空はたちまち又もとの真暗な空と化してしまう。そして次の花火を待っている。その待っている時間は全く長い。又次のが上った。又次の次のと美しい花火は夜空を彩り、まるで夢の世界に誘われて来たようだ。
と又上る。きれいな花火。「シュー」と上って行き、皆んなを感嘆させ、すぐに散ってしまう。そんな花火を見ているうちに、ふと桜を思い出した。桜と花火。変だと云えば変だ。しかし共通する所もある。「パッ」と咲き、すぐ散ってしまう。実にあっけない。
そんな事を考えていると又上った。「シュー」と上ったが今度は何も出ずに落ちてくる。「変だな」と思いながら見ていると、次に上った照明でさっきの煙がなんと柳の姿になって、夜空にくっきりと浮いている。もう一つ上って同じ様な姿を大空に描いた。明りが消えた。又前の暗さにもどってしまった。
そこで幾つか見ていると「ここでは仕掛けは見られないだろうから自動車の所へもどろう」と云うわけで、自動車からおりた所へ行ったが自動車がない。捜した。一つ一つ見たが中々見当たらないので四辻の所まで引返すと雨が「ぽつりぽつり」と降って来た。
これは困ったなと思いながら、きょろきょろしていると、それらしい自動車が来た。止った、やはりそうだった。雨が降って来たので屋根をつけた。
花火はまだ上っているが、人々はどんどん帰りを急ぎはじめた。その人波を見てふたたび驚いた。広い道いっぱいに人が行く。この人々の波がどこまで続くか、次から次へと絶え間がない。
雨が降って来たので、あわてだしたように、花火は増々良いのを上げだした。二つに離れるのや、おたまじゃくしの様なのや珍らしいのばかりだ。最後に二尺花火を見た。高くに大きな菊の花ができ、色が次々と変る。これが見おさめで出発した。
来る時より四人ふえたのできゅうくつだ。屋根を付けたからなおさらだ。やがて車は走り出した。初めてで最後になるかも知れない。この花火見物もこれで終った。走り出しても暑いので屋根を取ってしまった。しめっぽくなった夜風を切って、車は快く家路へついた。
夏の夕 三年三組 小林光子
空一面に赤く染まってくると、お日様は深紅な大円を描いて、連山の彼方に落ちようとしています。それはちょうど赤い折り紙を丸く切ってはりつけた絵のようです。その赤は朱色がかった実に美しい色です。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
夕焼けの空を鳥が東の方から何十羽となく群をなして飛んで行きます。きっと寝ぐらに帰るのでしょう。鳥の群れを見ていると自分でもわからない程おおらかな、何とも言えない気持になってくるのです。
河原では山羊を連れた子供やおとなたちが土手で草を食べさせています。魚釣りの人もいます。長いさおを持った人、短いさおの子供など。又小さい子供たちの水遊びのキャーキャー騒ぐ声もにぎやかです。うちわを持って、夕涼みに来た人たちでしょう。橋の下もずい分にぎやかです。まだ鳴き止まぬせみの声に暑さを感じるが、あちこちから聞こえてくる虫の音が快い。とうもろこしの歯を鳴らす風もさわやかに、やがて夕闇みの迫る頃、牛を引いて大きなタワシを持った人が二、三人、川の中に入って行くのを見るといかにも田舎らしいのどかさが感じられます。
日中の暑さはとこへ行ったやら、川はすっかり涼しくなり、あたりの木もはっきりと見分けがつかないようになってくると、人も牛も山羊も皆帰って、後に水の音だけがただ「ゴオーゴオー」とうるさい程はっきり聞こえるだけです。
遠くの家の灯りが、ぼんやりかすんで見え、あたりは静かに暮れて行きます。これで今日一日が終るのかと思うと、なんだかあっけないような気がしました。
静かな夕暮 三年三組 関根昌昭
西の空は、真赤に染っていた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
僕は自転車の乗って裏の門からでかけた。日中の猛暑はどこへやら、自転車に乗って風を切ると肌寒い程の心地よさである。
あたりではまだ「にいにいぜみ」がジージーとうるさくないている。しかしその威勢のいい声にくらべると、道の両がわの陸稲はカサカサになってすじばっている。だがそれもそのはず、このところ連日の暑さに草木はなおのこと、、人間さえもまいってしまうくらいであって、「雨が降ってくれればいいなあ」というのはだれでもの望みである。しかし降るとしてもボツボツぐらいで土の表面をしめすのがせいぜい。ちょっと照ればすぐ乾いてしまう。
こんなわけで夕方はあらゆる生物にとって気持のよい時であると思う。
そんなことを思いながら進んでいった。自転車のタイヤは道の砂をかんでプスプスと音をたてた。
やがて学校の門にきた。シーンとしてしずまりかえり、門の所にたつと、吸いこまれるようでもあり、周囲からおされるようでもあった。でも僕は真っすぐにおもいっきりつっぱしってみたくなったので、二つのサッカーのゴールをくぐり、運動場を一周した。ふと見上げると神社の御神木のてっぺんにからすが一羽絵に書いたようにとまっていた。こんどはゆっくり門まできた。
ひぐらしは遠くまで響きわたる声で遠くの山と、近くの山で気持よさそうに鳴きあっていた。僕はそろそろ空腹を感じたので帰り始めた。いろいろの虫が道ばたの畑の中で鳴いていた。
緑一色にそよぐ稲も、すでに穂の出ているものもいくらか見うけられる。それらが夕風に気持よさそうに身体をうごかしていた。その向うの道を真白な服をきた女の人がゆっくりと乳母車をおしていった。
そろそろ家々の灯がつきはじめた。ふと上を見ると頭の真上をからすが飛んでいく。だんだん暗くなってきた。
あいかわらずタイヤは砂をかんでプスプス音をたてている。
生物はこれから気持よく眠りにはいるのである。じつに静かな夕暮であった。しかしまたあすも暑さがきびしいことだろう。
雷雨 二年二組 内田すみ子
昼寝をしておきて、空を見たら南の方に一寸黒雲が見えていた。が、気にもかけず、夏休みの友を始めた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
三十分もしない内に「ゴロゴロ」となり始めたので縁側に出て見ると、空は一面の黒雲におおわれていた。急いで、干してあったせんたく物をしまったり、表に干してあったささぎ等をしまっている中に「ザーザー」と降ってきた。
縁側までふっ込んでくるので雨戸をしめた。閉めおわると同時に「ピカピカ」と大きく光った。
すると「ゴロゴロゴロ」とどこかへ落ちたかと思うくらい大きく鳴った。雷の音と雨の音が入りまざって「ゴロゴロザーザー」と、ものすごい。
今にもおちそうだ。にごった土水がほりを流れ、どかんはのみきれないようだ。物置のとよからは、雨水がどうどう流れ出ている。その内に雨は小ぶりになったが、雷は今まで通り大きな音で鳴っている。西の山の方はもうだいぶ明るくなってきた。田まわりに行くのか、二、三人田んぼの方へ行く。雨もやみ、雷も、もうならなくなったので、近所の子供達は庭でキャッチボールをして遊んでいる。
雨やどりしていたのか、五、六人自転車で通る。父も「よかったなあ、これで少しは作物も息をつくことが出来たよ」とうれしそうだった。
もうさっきの雷雨は忘れたように、すっかり晴れ上って青空も見えて来た。
たなばたの日 三年二組 斉藤富子
今日は、たなばただ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
朝起きると空を見た。空はうす暗く小雨が降っていた。今日は、これじゃあ小川のたなばたも台なしだ。と家で「つまんないなあ、行けなくて」と、しなびっつらをして私が言ったら「いいきび、いいきび。行けなくて」と、うらめしそうにおばあちゃんが言った。
私は少し腹がたった。そのうち雨がやんだ。けれど少したつと又、ぽつぽつ降って来た。私はもう行けない物と、あきらめ、家でたなばたをしていようと決心した。
そのうち朝飯になった。その時も、たなばたの事を考えていた。朝飯がすむと、皆ごろごろと、ねころがって今日はいいおしめりだ、と言い合っていた。おしめりもいいけれど、たなばたも、見に行きたい。どっちがいいかわからないけれど、おしめりの方が皆のためになる。
天気予報を聞くと、今日は「降ったりやんだりで晴れ間が出る」と言う。おしめりの方はそっちのけで、今日は、たなばたなんだから、やんでんくれなくちゃあこまる。「おしめりはもうしたんだから、又今度はたなばたが終わってから降ってくれれば」と思っていた。
そのうちに、いやに沼の方が、にぎやかになって来た。「そうだ、今日は、魚取りだっけ」「こんな寒い日に、まあ、魚を取るなんて」と思い、沼の方に行って見た。
すると、もう取る仕度をして、待ち遠しいと言わんばかりに、沼に幾人か入っていた。人はだんだんふえて来た。少したつと取り始めた。皆すくい網をもち、腰に入れ物をぶらさげている。そして皆シャツ一枚でいさましいかっこうだったが、寒そうだった。
私は見ていても、なんだか、自分が入って入る様な気持がして、寒気がする様だった。
皆こしから下はずぶぬれになって、いっしょうけんめい「一つ取った」「二つ取った」と、もう大さわぎ。沼のまわりには、まだ見物人がいっぱいだった。
らい魚の大きいのが、いっぱいいて、らい魚を取るやら、こいを取るやら、あっちに行って見たり、こっちに行って見たりして、面白かった。だれかが「このらいぎょにゃあ、魚を皆くわれてしまうんだ。だから、たまには、魚取りもした方がいい」などど、らい魚をいじって見たり、こいの大きいのをいじって見たりしていた。
私は、なるほどと、そばに、よって見た。ひげのすごいのがはえて、口は大きい。一寸見ただけでは、へびとまちがえる様な大きな口をして、こけらは、つるつるとうなぎに似ていて、ばけ物の様だとその時ようく見た。
そのうちに、もう空は晴れ上っていた。皆は、まだ盛んに取っていた。
私は沼を離れて家に来た。家でも、魚取りを見に行ってしまって、おばあちゃんが一人だった。
水泳 三年二組 高橋隆次
六月二十日、僕にとっては今年はじめての水泳だった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
なんだか川の深い浅いがわからないので、どのへんで泳いでよいのか見当もつかなかった。ちょうどその時、既に泳ぎでは経験ずみのS君もいっしょだったので、泳ぎよい場所に案内してもらった。
「おーい、どの変が深いのだ!」
「この蛇篭(じゃかご)のすこし前の方だよ」
「あっほんとだ。ほんとだ」
こんな会話も時々起った。そのうちだんだんなれてきた。
「おーいヘちゃん、ここにでっかい魚がいるよ。きてみ」
「おーい、そんなに大きいかい」
「どれ、水中メガネを貸してみな」
「うん」
「ああほんとだ。ひっかけをかしてみ」
「かしてもいいけど、おめいつけるかい」
「つけるかつけないか見ていろ」とはいったものの、なかなかつけない。
「ほれみろ、つけやしねいじゃねいか」
「なかなかむづかしいもんだなあ。ひっかけをだすとみんなにげてしまやがら」
「やっぱりひっかけはおれでなくちゃあだめだな」
「なにいってるんだい。そのうちおれだってつけるようになるだんべ」
などと、いいあったりした。
「おい次ちゃん、そんなにひっかけべいやんないで、たまには泳げよ」
「うん、だけどおもしれいんだよ」
「次ちゃんは魚をとることが好きなんだなあ。だけど『すきこそものの上手なり』とよくゆうけど、次ちゃんはうめえなあ。おれなんか魚とりにあんまり関心を持たねいからてんで下手だ」
「あんまりけんそんするなよ」
などと話をしていると、むこうの方からぶち網をするどこかの小父さんがやってきた。
「君達寒くないかね」
「小父さん寒くないよ、今ぶち網で魚がとれるかい」
「大したことはないが、少しとれるようだよ」
「ふーん」
「おい次ちゃん、もう帰るべいや」
「うん、今日はすこし遊びすぎたかな」
「大したことはねいよ。さ、かえるべ」
今日の水泳は僕にとってはとても楽しかった。
「おい次ちゃん、明日もすべいな」
「うん」…………
遠足について 一年二組 金井キクエ
十一日の夜のことです。母から「明日は、遠足ですから、お風呂に入ってよく洗いなさい」といわれ、私が、一番先にお風呂に入ってよく体中を洗った。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
風呂から出て、明日のために母がそろえてくれた下着を着てすぐ庭に出た。
空は大変よく晴れて、空一杯に星が見えて居る。私の心はおどり、そしてはずむ。「明日の遠足は、よい天気だ」と思いながら……早速、寝床に就く。
しばらくねて目をさます。するともう母は起きて、今日の遠足の準備をしているらしい。私はいたたまれなくなり、床をけってはね起き母の所へ早速ゆきました。
すると、母は「まあ、早い事。遠足って、よく目がさめるものねえ」といわれたので時計をのぞいて見た。
まだ三時半だ。外はまだまっ暗で、雨がたくさんふっています。「こまったなあ」と思いながら、あがりはなでぼんやり腰をかけていた。「そのうちやむだろう」と母は、はげますように、やさしくいってくれる。
その内に外は明るくなり、雨も小降りになって来ました。大喜びです。それからお母さんからいろいろと、おいしい物をいただいて、リュックに入れ、出発の用意をしました。
弟に「海へ行ったら、貝をおみやげにね」とたのまれ、私の遠足のために、家中が大喜びです。
私は「行って参ります」と、元気な声でいうと「気をつけていってくるんだよ」と、家中がかどの所まで、見おくってくれたりしてくれた。
私はうれしくて、うれしくて仕方がない。お友達をさそい、いっしょに落ちつかないまに学校にいそぎました。
すると、もう学校には大ぜいの人が来て、あちらに、こちらにとかたまり話している。だれの顔を見ても、みんな、うれしそうに、にこにこしています。
ただにくらしいのは雨です。「一日ぐらいのことなのに、どうしてよい天気でないのだろう」と心の中で思いながら、空をにらむ。
その内にバスが二台来た。私はバスの姿を見るや、うれしくて、雨などのことは心の中から消えうせてしまって、心は稲毛に飛んでいた。
やがて、五台のバスも来ました。きれいな大きいバスです。「私達はどのバスにのるのだろう」と心の中でさけぶ。「二ばんめのだ」と誰ともなく云ったので、早速どやどやととびのり、いよいよ出発だ。
学校の門を出る。先生も、生徒も皆うれしそうに、にこにこしている。大声でみんな、歌ったり、さわいだり、元気のよいバスの旅。村を去り、山をはなれて、町を通り、バスは走る。何を見ても、私は、ただ、もう、めずらしくうれしく感じるよりほかはありません。幾時間かすると、千葉県に入った。大きな町、大きな川をすぎて、早いバスのおかげで海がちかづく。
だれか、バスの中で「あっ海が見える」と大声でさけんだ。其時のバスの中の人達のよろこびは、たといようもありません。
まるで、バスがはりさけんばかりである。唯もう、うれしくて、むねをおどらせ、広い広い海を右に見てしばらくのり、バスは目的地稲毛の海岸の、休み場所に止った。すると、バス入口からはき出されるように、皆おりた。
皆んなはにこにこして、元気に、そしてめずらし顔で、海の方をながめていた。
先生からいろいろな注意をいただき、おいしいお弁当を食べ、それから貝ひろいの仕たくをした。
ふくろと、ほるものを買い、それをもって海の中へ入って行きました。きれいな砂できもちのよいこと。
「かいがあるか」とほる時のうれしさ。
だれもが夢中になって、ほっています。
あたりは、大声で、うれしそうに、なにやら話あいながらほっている。まるでお祭りの様に、にぎやかです。
私は貝をひろってあみに入れ、弟の約束のおみやげと、大切に、ナイロンのふろしきにつつみ、リュックに入れました。だれを見ても、たいせつにして、もっています。
おもしろくて、時間のたつのも忘れるようです。しばらく遊んで、休み場所に帰ってきました。
それぞれ、みんなの思うことを話し合っている。私は、いつまでもいつまでも遊んでいたいような気がしましたが、仕方がない、帰るのだ。
まもなく、仕たくをしてバスに乗り、家に向って出発です。帰路、大宮公園を見せてもらい、みずらしい動物と、緑したたる公園の美しさをしばらく楽しみ、それから、菅谷へと向った。
しばらくすると、学校に近づいてきた。私は、学校が見えはじまった時の感じ、その心持は、稲毛海岸を初めてみた時と、同じうれしさになって来るのでした。
バスと先生のおかげで、ぶじに私達は学校につき、バスからおりて、先生から「一年から三年まで、いっしょに帰るように」とのお言葉をいただき、みんな、いっしょにいそいで家に帰りました。
もうあたりは、ま暗でした。私は「いってまいりました」と元気よく家に帰る。
大喜で急ににぎやかになり、家の中が明るくなって来る様な気までした。一番喜んだのは、何より、貝を頼んだ弟です。それから私は、おいしい、おみやげを、家中にわけてやりました。その時、母は「そんなに楽しい旅行が出来たのも、先生と、親達のおかげですよ」とにこにこしながら、いろいろ話をしてくれた。
又父は「みんな無事で帰って何より幸せだ。しかし、先生はいろいろと心配して下さって、すいぶんつかれたことだろう」と話ていた。
バスの中 三年三組 笠原弘子
心配していた天候もどうやら持つらしく、霧が深かった学校へ着いて、楽しそうな皆の顔を見ると、私の心を一そう浮きたたせた。十五分ぐらいたつだろうか、東の方から太陽が昇ってきた。霧が深いので月のように見えた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
ラジオが天気予報を知らせている。六時十五分頃だと思う。いよいよ甲府、富士五湖方面へ出発した。バスの中ではみんな今までの夢が今こそ達せられたように、生き生きとした顔にはずむ心をおさえ切れぬような喜びが輝いていた。
よいはしないかと、ちょっと心配だった。でもそんなことは、気持しだいでだいじょうぶだと思ったので、そんなことは考えないことにした。この楽しい旅行があるばっかりに今までの苦しい勉強にも張合いがあったのだ。といっても過言ではないだろう。その楽しい旅行(甲府富士五湖行き)が、今日の今から始ったのだ。私は夢の中へ今からはいって行くのだ。
バスの中には生徒の他に、運転手さんはもちろん、校長先生、担任の堤先生、つきそいの茗先生、それに写真屋さんも乗っている。バスは快いエンジンの響きを立てて朝霧の中を走って行く。はじめの中は、私も心配するほど皆が静かに行儀よく乗っていたが、バスがだんだん進むにつれてなれてきたのか皆も元気を出してきた。歌を唄っている人もあるし、自分自分ですきなおしゃべりをしている者等いろいろである。
私は移り変わる景色を窓から眺めながらすきな歌を唄っていた。なんともいえないような気持である。なんの気なしに傍を見た。すると自分の顔が大きく浮び出たいた。「おや」と、おもったら鏡があったのだ。
私は今までちっとも知らなかった。鏡があるのがわかってからは傍をむくのがいやになってしまった。自分の顔が写るのがいやだからである。校長先生がいろいろマイクで説明して下さった。私は「バスガールがいてくれたらなあ」と思った。だれかが「校長先生はバスボーイだ」といったのでみんな大笑いをした。
何時間位たったろう。もう皆がさわぎきって疲れ静かになった頃、やっと見たこともないようなけわしい山の道へさしかかった。この山を越えれば、甲府盆地へはいるのだそうだ。朝とは違って、天気はあまりよろしくない。道路が数えきれないほど曲り曲って、バスは山の上へ上へと進んで行く。去年行った日幸の「いろは坂」を思い出した。
去年はいろは坂を歩きでおりたのだ。その時は、雨が降っていたのでバスが通るたびに乗りたいと思ったけど、今度はバスに乗ってゆうゆうと登って行くので何とも云えない。とうとう雨が降ってきた。皆の顔を見たら、ちょっとがっかりしたような顔をしていた。
私も同じような顔をしていたのだろう。「雨が降ってきてはつまらないね」と、話しかけた人があったからである。上からバスがおりてくる。トラックがくる。そしてすれちがうたびに、まさかとは思うが、崖へ落ちはしないかと思ってひやひやしていた。
やがて山を上りつめ、急な下りにかかる。甲府盆地が見えてきた。私はぶどう園はどこにあるのだろうと思って、きょろきょろしていると、「あっぶどう畑が見えた」とだれかが叫んだ。
私は、どこにあるのかさっぱりわからない。だれかが「さつま畑そっくりだ」といったのでようやっとわかった。なるほどさつま畑そっくりだ。上から見おろしているからであろう。ずいぶん低いぶどう棚だな、と思っているうちにだんだん下って、そのそばを通ると、私の手がとどかないぐらいの高さに、見事な房がずらりと下っていた。
甲府も近い。目につくのは、ぶどうばかり、どの家にもひさしには、きっとぶどう棚がある。
家の中には、もぎとったぶどうが、くじらの背中のように積んである。私は思わず目を見はった。やっぱり「甲州ぶどう」の名があるだけにたいしたものだと思った。
バスはやがてにぎやかな町の中へはいって行った。ここが私達の泊る旅館がある甲府の街だ。
旅行 三年二組 田幡茂子
八王子市もすぎ、そろそろ笹子峠にさしかかるらしい。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
道も細くなって来たのでバスも非常にゆれる。小さな橋をいくつも越えて、だらだら坂を登り始めた。右からごつごつした岩がつき出ていて、左は絶壁の中を急カーブで登る。
中腹ぐらいからポツポツ雨が降って来た。
見晴があまりきかなくなった。下の方に見える山は雲におおわれている。下りにかかる頃は、又太陽の光が雲の切れめから見えるようになった。下りもゆるやかになる頃には、すでに甲府の近くに来た事を思わせる。
あたりにはぶどう畑が一面に拡がっている。見なれないものだから初めはなんだかわからなかったくらいだ。この辺の家は皆ぶどうを作っている。おいしそうな実が所きらわず、屋根からのきへ又家一軒埋めるようにきれいに列を作ってさがっている。
何千、何万、数えきれないほど沢山さがっている。その中を通り抜けて甲府市内に入った。私達は市内の宿屋に泊るのは初めてである。駅前の宿屋で昼食をすまして、又バスに揺られて、昇仙峡に向った。
長潭橋(ながとろばし)の前で降りて川にそって歩いた。きれいに澄んだ水、前方に被いかぶさる山々、人面岩、猿岩、大砲岩など数えきれないほどのすばらしい眺めに一つ一つ感心しながら歩いて行く。三十分も歩いたので足が痛くなって来た。
前と後の人の間がだんだん開いて行く。私は中間より少しか遅った。何軒かある店にはどこにも水晶が沢山並べてある。
ようようの事で昇仙橋についた。岩が被いかぶさったトンネルの様な道を行くと前方に滝が見えた。
皆、滝つぼにおりて行った。私達も急いで下りて行った。ゴーゴーとうなりを上げて滝はいきおい良く流れおち、私の方まで水しぶきを浴びせて洋服がしめっぽくなるほどだ。
皆水の中で水晶のかけらを拾っていた。私も手を入れて見たらとても水が冷たかった。滝を背景に記念写真を撮って一路宿屋へと向った。
修学旅行 一年一組 簾藤史子
待ちに待った、楽しい修学旅行の日がきた。
前夜からいろいろ用意しておいたお菓子等をリュックにつめた。みんな入れたようでも何か忘れ物があるような気がしてならない。こんな気持は、家を出る前によくあることだ。あれこれと考えすえた上、何も忘れ物はないようなので、服の方のしたくをして、着はじめた。まだ九月なので夏じたくで大丈夫だ。朝夕さむいので長そでもきた。
修学旅行や遠足の時には、一ばん心配なのは天気です。私は庭へ出て天気をみた。まだ雨上りの色は濃いが雨は降っていない。少しは安心した。家の中に入って朝ごはんをたべようと思ったらそこへ友達がよびに来たので、先にでかけてもらった。いそいで朝ごはんを食べ、べんとうなどを入れて家を出た。
今日は割に天気がよい。昨日の二年生の旅行はあいにくと雨が一日ふり続いたが、今日はもう雲の間に空がみえた。もう私の出かける時はおそかったので、いそいで歩いた。
学校に着くともう皆きていた。楽しそうに話し合っている。私も話をしている人の中に入った。先ざきのこと、天気のことなど、又バスの中での話など話は、はずんだ。
バスがくると、みなうれしそうにさわいだ。皆、先を争ってバスに乗った。受持の先生のほかに見送りの先生もいた。「いってきます」のあいさつをした。私は新藤さんと並んで腰を掛けた。四十五人乗りのバスなのでらくにすわれた。新藤さんの話は、とんとんと進んだ。そのうちマイクが渡され、皆歌をうたうことになった。皆、思い思いの歌を歌う。
そんな楽しい話や歌とともに、目的地の相模湖についた。うすにごりに大きくひろがっている湖、この中で私たちの友達の命が数十と消された*1とは思われないほど静かだった。
近くの土産屋へ行っていろいろ土産をかった。いく分間かの休みだったので、すぐ時間がきてしまった。バスに乗りこみ、山間を大分走ってから高尾山についた。山の下で休んでから、地上ケーブルで山に登った。
おどろいたことには頂上で水をコップ二はい五円で売っていた。
下りは歩き、急な坂道を走るようにしておりるので、すっかりつかれてしまい、バスに入ってようやく安心した程だった。それからバスで数分間。ユネスコ村についた。
ユネスコ村とは、世界の国々の家が、山のような小さな場所に立っているのです。とてもきれいなよい家ばっかりだった。一とうり見終ってから又バスにのった。あとはもう学校に帰るだけ。男の子は、これが最後とばっかりにふざけたりさわいだりした。学校についたのは予定より早いという話しだった。
今日はほんとうに楽しくおもしろかった。*1:1954年(昭和29)10月8日、相模湖で遊覧船内郷丸に乗船した東京の麻布学園中学二年生68人の内22人が死亡した水難事故。定員オーバーが沈没の原因だった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
おじばがえり 三年二組 米山欣一
「おじばがえり」とは「おじば」に帰ることをいいます。又「おじば」とは天理教でいう天理教の本部のことで、そこは神が人類最初に生み下された聖地で、甘露台があり、信仰の中心となっています。天理教では本部へ行くことを「おじばに帰らせていただく」といいます。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
なぜ本部へ行くことを「帰る」というかというと「おじば」は人類の最初に生まれた所、即ち生まれ故郷へ帰ると云う意味です。そこで僕は第二回子供ひのきしん団体で「おじば」に帰らせていただきました。
八月一日熊谷から天臨四号に乗る(天臨四号とは何ぞや? 天臨四号とは天理教臨時列車第四号なり)
汽車に乗ると座席と座席の間や通路に全部ござを敷いた。夜になったらこの上に寝られるのである。
八月二日午前八時頃丹波市(天理市)着。汽車から下りると拡声器から流れ出る「ひのきしんの歌」に迎えられ、この暑いのに黒地のハッピを着た人達が大勢旗を持って「お帰りなさい」といって歓迎してくれる。
この人達の着ているハッピは背中に大きく白い字で天理教と書いてある。
駅前の広場は十一輌連結の列車に乗って来た人達でお祭りのようなにぎやかさだ。各詰所からリヤカーや大八車などを持って迎えに来ている。僕達も秩父の詰所が三輪車で迎えにきていただいた。汽車から下りた人達は皆その出迎えの人達に荷物をあずける。するとその人達は人の波をぬっていせいよくでていく。そういうわけで僕達は手ぶらでどこへでも行ける。
僕達が神殿に行くために広場に並ぶと、拡声器から太い声が聞えた。
「皆さまそのまま回れ右をして下さい。」
僕達はその声で一せいに後を向いた。するとマイクロフォンを前にして一人の男の人が立っていた。その人もやはりハッピを着ていた。えりには天理教青年会と書いてある。
一同その方を見ると、その人と入れ代りに現われたのは一人の御婦人。そしてその人も例のハッピを着ている。そのえりには「天理教婦人会」と書いてあった。御婦人は、
「皆さま遠路はるばるお帰り下さいまして御苦労様です。これから神殿を参拝さしていただきましょう。」
という様な挨拶をされた。ここでは決して、
「良くいらっしゃいました」とはいわない。いつも、
「お帰りなさい」というのである。
挨拶が終ると鼓笛隊を先頭に神殿へ出発。
鼓笛隊の後を行く僕達は「埼玉教区」とか「秩父大教会」という様な旗を持ってぞろぞろと長い行列を作る。何しろ十一輌連結の汽車に乗って来た人々が全部ならんだにぎやかな行列が、にぎやかな通りを行くのだからいっそうにぎやかだ。
神殿につくと神殿前の広場を他の鼓笛隊が演奏しながら行進していた。帽子、シャツ、半ズボンの全部が青ずくめのものや、巾の広い白いえりに黒い線の入った白いシャツに水色の半ズボンをはいたもの。白い帽子、白いシャツ、白いズボンに白い婦人用みたいなレースの手袋をつけたものなど、多種多様の鼓笛隊が広い広い南礼拝場広場を縦横無尽にねり歩く。にぎやかなこと極まりなし、である。
しばらくその様な風景を見ていたが、やがて南礼拝場より神殿に入る。この神殿の大きさは南北両礼拝場合せて七百二十六坪、畳数九百八十八畳敷、高さは七十九尺もあるそうだ。中には円い柱が沢山あり、その太さは直径二尺三寸〜二尺五寸で七〇センチメートル余り、周囲は二、三メートル余りである。造りは、総檜造りで入母屋式の模範建築である。
神殿に入るとあまり大勢なので五百七十六畳敷の広い南礼拝場もいっぱいになるほどだ。神殿で参拝してから、北側にある玉砂利の美しい中庭をへだて教祖殿やその西の祖霊殿に参拝するのであるがそれらの所に行くには、長さ丁度四町(町:一〇八メートル余)もある長い廻廊をまわって行くのである。その廊下は長いだけではない。巾も七、八尺もあろうかと思われる。参拝が終ると大きな黒門をくぐって、自分達の詰所へ行く。
僕達十三班はにぎやかな通りを強い日光にてらされながら、てくてく歩いていくと、やがて「秩父大教会信徒詰所」と書いてある看板みたいな大きな標札のある門の所へ来た。ここが僕達の宿泊所である。ここで土田先生や土田君達ともお別れである。ばだ土田君とは仲良くなったばかりなのに別れるのは一寸寂しいものである。
これからは僕達の教会の米山昌訓先生と西部町の小宮山道男先生のおせわになるのだ。僕達は十畳敷の外が良く見える部屋へ案内された。
「ここへ来たらもう自分の家だと思ってゆっくり休めよ。」
先生がこういわれたので、僕は行儀よくかしこまっていた足を遠慮なしに投げ出した。それでもまだ気がすまず、押入れから枕を引っぱり出して来てごろっと横になった。何しろ疲れているから、どのように体を休めてよいかわからない。
先生がお茶を持って来て下さった。
「茶菓子が何もないなあ。何か買って来るか?」
と先生がお茶を注ぎながらいうと、
「いや、ありますよ。」
高校生の川口さんが大きなボストンバッグの中からカリントウを沢山出して来た。皆(八人)でお茶をのみながらお話をしていると、真柱室からいただいたといって、「おやさと」と「おじば」の絵葉書を一人一人に下さった。
「おやさと」とは天理教の様子を写真で表わした写真帳の様なものだ。お茶を飲み、カリントウを食べながら、この「おやさと」を見ておじばの様子を説明してもらった。
「ここまで来て奈良を見物して行かないんじゃ話にならないな。これから昼まで昼寝して体を休めて奈良まで行こうか。どうだみんな。」皆んなの望むところ。僕なんかこれが目的で来たようなものだ。誰が反対するものか。早速僕は井戸へ行き、体のあせをふいてきて昼寝をした。
午後こんだ電車に乗り奈良についた。日光強く、のどが非常にかわく。水道の水を飲んでみたら生ぬるく、市内のアスファルトの上は焼けつく様な暑さだ。
にぎやかな通りを通りすぎてはじめて見たのは「澄まず濁らず出ず入らず、魚が七分に水三分」といわれる猿沢池だ。東に五重の塔、西に南円堂をひかえてた池。まわりには、しだれ柳が深く頭を垂れている池だ。その池の中央では、僕の水筒ぐらいの大きさの亀が首を出して「暑いですねえ」と云わんばかりにぼくの方をむいた。そこで僕達は五重塔と池を背景に写真をとってもらった。
池の縁をぐるっと一廻りして奈良公園へ来た。ここは全部芝生でおおわれている。松の木陰で鹿が十五、六頭静かに遊んでいた。座っているのや立っていこっちを見ているのや、又のそりのそり歩いている大きな奴もいた。僕達はそこへ行って見た。近づいても逃げようとしない。僕はここではじめて鹿にさわった。犬や馬は鼻すじをなでると喜ぶというので、鹿にも試みにしてみたら、何だか鹿が笑った様な気がした。
「鹿と一緒に写真とるから一所に集って。」
僕達が写真機の方を向いたら、さっきの子鹿が「こっち向いてよ。」といわんばかりに可愛い鼻面で僕のひじをつっついた。
山登り 二年二組 柴崎実
家を出発してから電車で小川へ行き、そこから皆谷(かいや)行きのバスにのり切り通し橋という停留所でおりた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
それから二時間、笠山の頂上についた。笠山は海抜八百何メートルかで、あまり高い山ではない。頂上から見下すと小川町の家々が小さくかすんで見える。また最近これほどお腹のすいたことはなかった。
もっとも、朝ねぼうしてしまって朝飯をたべてこなかったせいもあるが、早くお弁当がたべたくてしょうがなかった。ようやく昼食時になった。二本の木を一メートルくらいはなして立て、その上に棒をとうし、その棒にハンゴーをつるしてご飯をたいた。ハンゴーのふたのすき間から湯気がふき出ている。
また石を積かさねたかまどの上の肉とねぎをいれた鍋もグツグツと音をたててにえている。英治さんと宗生君、お兄さん、それにぼく、とみな男ばかりなので味のつけ方もよくわからなかったのは愉快である。
それから笠山をぬけて堂平へ行った。笠山と堂平の間には白樺があってとてもきれいだ。堂平では、みみずくにであった。木の上からまわるい目で見ていたが、ぼく達がちかづくとにげてしまった。が、木をよけてとんでいったから、昼間でも目が見えるらしい。帰りは防火線づたいにおりてきたが、すこしいくと、その防火線がきれてしまった。
しかたがないので道のないところをおりてくると、ようやく町らしいところへでた。
道であった人にきいてみると、ここは平(たいら)だという。はじめの計画だと、また小川へ帰るはずだったのだが、とんでもないほうへおりてきてしまった。しかたがないので平から松山行きのバスで帰ってきた。
家についたときはうすぐらかった。
定峰峠 三年三組 内田昌眞
新しい太陽が東の空に上り、輝き始めた頃、兄と共に定峰峠(さだみねとうげ)を目指して家を出発した。早朝のすがすがしい空気のあふれる中を、我々はいきおいよくペダルを踏んだ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
小川の町は人通りは少なく、昨日のお祭りの賑やかさの面影もどこへやら、なんとなくさびれた様な物淋しい町となっていた。
小川町を過ぎると、大河、大河原村方面からの学生、サラリーマン、その他の人達にぼつぼつ出逢いはじめる。大河、大河原との境にアーチがあり「祝定峰峠開通」と記されていた。ここの槻川の橋で一休み。太陽が上って来たので、多少暑さを感ずる。
再び出発。少しではあるが道路の勾配が増して来る。学校の横を通り、なおも行くと三辻がある。道標には槻川村を経て秩父市に至る「二十二キロメートル」と記されていた。ここより一層勾配も大きくなる。槻川村役場の前にも杉で作られたアーチがある。このアーチも我々を歓迎しているかの様に思われた。青白いせせらぎの槻川に沿ってだんだん奥へ行く。すると右へ行く橋がある。この橋こそ本当の峠の入口なのであって、ここからは傾斜が一段とひどくなる。
だんだん自転車も荷になった。幾重にも折り重なるように延びている大路は、丁度S字型を上から押しつぶした様に山腹を這い上っている。自転車をころがし、時には乗って山から山へ連なる道を汗をふきふき登った。大半登りつめた。ふと気がつくと山を崩した傾斜の土壁に「沙羅の花の峠ロケ近づく」と小石で刻んであった。我々も休みながら「定峰峠」「スガヤ」と小石で刻んだ。大汗も止ったので又登りにかかる。谷間、谷間に水が「チョロチョロ」と流れていた。そこでタオルをひたし汗をふく。谷間の橋はコンクリートで造られていて美しく又橋名も品が良い。頂上が見えた時の喜びは又格別である。あと一歩あと一歩と心はあせる。つかれも忘れて頂上に着く。ここは道路がカーブしているので大分広くなっている。この広場のすみに箱があったので腰をおろして休んだ。下方を見おろすと、今登ってきた曲りくねった白い道路が所々に姿を現わし、後は緑の中に消えている。前方にそびえ立っている高い山の頂は、薄黒い雲でおおわれている。その山に連なって高い山が見わたす限り続いている。
自分の家はどの方角にあるのか見当もつかない。後方に「定峰峠開通記念」の碑があって、その碑の裏面には着工以来「十五ヶ年」の努力と心労した有様が書かれている。「総工費(七三六二八〇〇〇円)費年(十五ヶ年)延長(一〇八七七米)標高(六一七米)」これだけの工事ではあるが、その間戦争等で不自由したにもかかわらず、やりぬいた事はやはり政治力が、しからしめたものであろう。こう考える、日本にはこの様な自然美がまだまだ沢山開発されずにあるのだから、政治力でもっともっとうまくきり拓いていったら良いとつくづく感じた。
大晦日 三年三組 篠原庸子
今日はいよいよ本年最後の日、大晦日である。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
朝早く起きた。外はすがすがしいほどに良い日である。今朝はとりわけ暖かく霜も下りていないようだ。氷も張っていない。平年に比べてとても暖かい。弟や妹はもう前から起きて、母の仕事の邪魔をしている。私は下駄をひっかけて、顔を洗いに出た。。するといつものように、ジョンがクンクン言いながら足下へじゃれてくる。いつもの様に尾を振りながら足下へ飛びついてくる。
流しへ行くと母は明日の御料理の用意をしている。その中に母が、昨日父がとても良くきくそうだからと云って買って来たジョンの虫下しを、飲ませようと、一生懸命にジョンの口をあけようとしている。それはあめ色のすきとおった玉子形で見るからにおいしそうに見えるが、ジョンは少し臭(にお)いがするのか、一向に飲もうとはしない。無理に口をあけようとすれば家人にでも噛みつくしまつ、よその人が来よう物ならワンワンほえたて、うっかり近くに寄っていくと噛みつかれてしまう。
母はとうとうあきらめたらしかった。その時急に頭の中が明かるくなったように「そうだジョンはお芋が好きなのだ」と、ふと気がついた。私はお芋を持って来て薬の廻りを包んでやった。するとジョンはおいしそうに食べてしまった。次から次へジョンは全部食べてしまった。私は母と顔を見合わせてしまい、同時にどちらからともなく大笑いを、してしまった。
母は荷物、私は掃除に取りかかった。掃除といってもついこの間大掃除しておいたのでごく簡単であるが、あれやこれやとかたずけている中に一室の掃除に半日もかかってしまった。
母のいいつけで高山迄買物に出た。皆忙しいらしく買物かごを持って行ったり来たりしている。門松はほとんどの家々に飾られてあった。中でも共和会の門松は目立って大きかった。
「ごめん下さい」と聞きなれた声が玄関の方で聞こえた。「お姉ちゃんがきた」といって弟が息をきらせて入って来た。私は急いで出て見た。すると、お兄ちゃんとお姉さんが、にこにこしながら入ってきた。私は嬉しくて何も手につかなくてお姉さんの傍(そば)にばかりいたので「早く片づけてしまいなさい」と母にいわれてしまった。
もう今年もあと何時間かで終る。そして、平和の鐘と共に一九五六年は、輝かしく、明けて行くでしょう。
大晦日から元旦 三年三組 宮田廣美
今年はもう今夜限りである。いやもう数分で終ろうとしているのだ。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
ラジオは、君が代を歌い終り、ちょっとの間、静かになる。やがて最初の除夜の鐘が鳴り始めた。一つ……二つ…… 三つ、ラジオが十二時をしらせる。
兄と僕は十二時になったらすぐに神社にお詣りに行くと友達に約束をしていたので、したくをして家を出た。外は月夜だから明かるい。外に出るとひんやりして気持が良いほどだ。途中で友達を呼んで、神社に急ぐ。どこの家でもまだあかりがついている。
どの家でもまだ除夜の鐘を聞いているのだろう。すこし行って根岸病院の角を曲がると、神社の森が黒ずんで見えた。
沼の所を通ると、ひんやりした風が吹いて来る。神社の段を昇って鳥居の所まで来ると、参拝を終った三人の人に行きあった。
あたりは真暗だが所々に月の光がもれて白く影をおとしている。お詣りをすませて元来た道をひっかえす。犬一匹あるいていない。家につくと、除夜の鐘も鳴り終っていた。床がしいてあって、父母はねていた。僕達もこたつに入って身をあたためて、今年こそはと思いながら床についた。
朝起きるともう八時であった。いそいで仕度をして学校へ急いだ。じきに式が始まった。先生、来賓のあいさつが終ってから、君が代、元旦の歌、バンザイを三唱して式を終った。家に帰ると手紙が来ていたので、いそいで返事を書いて郵便局へ出しに行った。ついでに親類に年始に行った。
十二時になって昼食を出してくれたのでもらって食べた。しばらくして親類の家を出た時は、もう外はうす暗かった。家に帰る途中、友達の家に寄って「百人一首」をした。
夢中でしているうちに八時になってしまったので、急いで友達の家を出て自分の家に夜食を食べにかけてもどった。みんなで、一しょに食べた。食べ終って、すこし休んでまた遊びに行った。遊んで居るうちに、またたくまに十時になってしまったので、急いで家に帰った。
元旦の朝 一年一組 山下晴枝
「皆様!明けましておめでとうございます」というラジオの声に、はっと目をさました。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
隣を見ると、そこに寝ていたはずの姉の姿はない。「しまった」と思った。『夕べ、あしたの四時頃になったら八幡様へ行って、初もうでをしよう』と姉と約束をしたからだ。飛びおきてみたら、姉も、今起きたらしくねむそうな顔をしている。私が「八幡様へいかなかった?」と、聞くより早く母が「晴枝初もうでをしに行ったか?」と、ニコニコしながら言う。私は、しゃくにさわったので「もうとっくに行って来たよ」と、言うと、母は又「寝ごやの観音様へか?」と、いう。私も、元旦から計画が、実行できないのではと、自分の事ながらあきれてしまった。
顔を洗いに外へ出た。ひんやりと、一月の寒さが、みにしみる。思わず背を丸くした。心配された天気も南の方に、雲があるだけだ。井戸の水も、冷たくて、とても気持がよい。顔を洗ってそのまま庭へ廻った。自分の歩くげたの足音も、新しい年、昭和三十一年(1956)のすがすがしい空気の中で、いかにも心よい。今まで気のつかなかった庭のなんてんも、ほかの木々は、みな葉を落としているのにこの木だけ、真青(まっさお)な葉に、真赤な実がなっていて、実に美しい。梅の木には、もうつぼみが、なっている。
遠くの方で、カーンカーンと、羽根つきの音が、している。前の道を小学校の子が「年の始めのためしとて!」と、歌いながら行った。ふと南の方を見ると、いつのまに出たのか、雲があってよく見えないが、むこうの山の松の木の所が、真赤だ。「初日の出だよ」と、いいながら、えんがわへ、すわって手を合わせた。今日は、新年の祝賀式があるので、早くしたくをして家を出た。新しい上着、新しいズボン、ひとりでに胸が、はずんでくる。「おーい」と、いう声がしたので、ふり返ると、友達が、ニコニコ走って来る。みんなうれしそうだ。大通りに出ると、お互に、新年のあいさつを、かわしている大人の人達の姿も、見られる。もう友達は、来ているだろうかと、思いながら、松林を、通りぬけると、小学校の庭には、国旗が、風にゆれていた。今年は、どんな年なのだろうか。
運動と読書を主として、一生懸命やろうと、こんな事を思いながら学校の門を入った。
年の始め 三年二組 野沢廣枝
「廣枝ちゃん」と頭の上で呼ぶ声に目がさめた。「皆が神社へお詣りに行くそうだけれど行くかい」私ははねおきた。「今幾時」「一時頃だよ」皆はもう仕度をして靴まではいていた。私もす早く仕度をし、スカーフをかぶって外へ出た。冷たい風が、ほおをなで下した。お詣りに行くのは今年で二年目です。街燈の光で明かるい、大通りを足早に歩いた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
駅通りの家は、ほとんどおきていた。校医さんのわきの道を入ると急に暗くなるが、それでも去年よりは明かるいような気がした。ちょっと行くと、街燈がないので、暗くなった。暗くなると皆は、お化けの話をして、私を驚かす。でもこわいと思わなかった。いま時お化けがいるはずがないから。門を入って、左側のおひな様のこわれたのをおさめる所へ私も去年のだるま三つを、おさめた。さすがに森の中なので、真暗だ。木々の間から、月の光が所々を照らしているだけである。
こまいぬさんの上に手袋やスカーフをのせて、お詣りをした。おさいせんを入れて手をたたいた。皆が健康であるよう、進学のこと、私の希望あれこれと心から神にいのった。
四人の中で一番お詣りが長かったので「廣ちゃんはどんなことを、願ったんだい」ときかれた。「Sさんは」と問うと、「帰りに電車から、おちないように願った」と言ったので、みんな大笑いをした。「皆どっちから帰る」「こん度は向こうの道から帰ろう」と言うので小学校の庭を通って帰ることにした。
今年は、どんな年だろう……不安のような、楽しような心持であった。新校舎の二むねに、うす暗い、電気がついていた。今日はあの校庭で元旦の式が行われるのだと思いながら、口もきかずに歩いた。
市川先生の近くで「今一時二十八分だよ」とKさんは言った。出かけてから、二十八分かかったのだろうか。冬空の東の方に北斗七星が明かるく、どうどうと、かがやいている。昭和三十一年の新しい年に、新しい希望をいだいて、家へといそいだ。
元旦の朝 一年二組 小沢タマ江
私は朝起きて、朝霧の庭に立ち、先ず元旦の空模様を見た。雲は、東西の空のかなたの所々にあるが。あまり悪い天気でもなさそうだ。
ふと表の方を見ると、うす暗い中を、もう初参りに行って来た人が見える。今年こそ私にとって、よい年になるように初参りをしようと思いながら、顔を洗い、頭をとかし、初参りに行こうと思ったが、寒さのためか火ばちのそばで、みんなと話をしていた。
するとラジオで新潟県の惨事についてのニュースをいっていた*1。元旦早々、本当に気の毒な事です。そして一昨年の皇居前広場の事件*2を思いおこした。間もなく朝飯となった。皆と新潟県の惨事の話をしながら食事をした。
食べ終ってから、初日の出をみようと、思って外へ出たが、まだ上りそうもなかった。只東の空は、白く、明るく見えるだけだ。そこで鎮守様へお参りに行く仕たくをし「初参りに行く」といったら弟も「俺も行く」といって後をついて来た。弟と一しょに清々(すがすが)しき心で出かけた。私は、あたりの目に入るものきこえるものが、皆新しいものでも見るように感じられる。
弟と二人で細いたんぼ道を急いだ。少し行くと、弟は小学生が、学校へ行くしたくをして、三年生のナカちゃんの家の庭に集まっているのを見て「もう、みんな集まっているからいがねえ」といった。私は「まだおそくならないからへいきだよ」といったが「みんながいるからいやだ」といってきかない。仕方がないので、私はかけあしで、お参りに行って来た。下駄をはいていったので、途中石につまずいて、ころびそうになったりして、石段を上ってお参りしてきた。やがて東の空を真赤にして、太陽が上り始めた。しかし山の上には雲が横にたなびいていたので、上った一瞬はまぶしくて、まともに見られなかった。太陽は雲のきれ間から、顔を出した。この時の太陽の輝きは、いつもよりとても美しく新しく感じた。皆の集まっている方を見ると、もう大体集まったらしかった。時計を見ると、八時少し過ぎていた。
そこで仕度をして家を出かけようとすると、母にカレンダーをはるのだから「画びょうを買って来て」とたのまれたが、返事はしたもののあまりあわてて、お金をもらって行くのをわすれてしまった。「さては、今年も物忘れの年かな」と思いつつ家へもどり、お金をもらって又出かけた。小学生は何もしないでいるのはつまらないそうで、ボールの投げっこなどして楽しそうに、遊んでいた。そのうち全部が集まったので、学校へ出かけた。友達と色々話をしながら学校につく。するともう皆んな来て、門や庭にかたまって皆んな、楽しそうににこにこしながら話をしていた。*1:1956年(昭和31)1月1日、新潟県の弥彦神社(やひこじんじゃ)で、餅まきに初詣の参拝客が殺到し、124人が圧死した事件。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
*2:1954年(昭和29)1月2日、参賀者であふれる皇居二重橋で将棋倒し事故が起き、死傷者79人(死者16人、重軽傷者63人)の惨事となった。「二重橋事件」。
新春の一日 二年一組 娚杉和子
除夜の鐘がラジオを通して、名所と各地の思い出多い年の終りを告げ終ると、新春の挨拶が聞かれる。静かな一九五六年の初春は訪れてきた。その頃からめいめい床についた様だった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
朝、四時姉さんは起きて、初水をそなへ、朝食の準備にとりかかり、兄さんは朝の行事をしていた。五時半頃一家揃って新春お目出度うの挨拶をかわしつつそこでお祝をした。
ご馳走も多い。一家の人気者、坊やもかぞえて三才、お膳の上のご馳走に手を出してあれこれと取る。それはそれは大変なさわぎで新春早々大変にぎやかであった。
食後はこたつでしばらく話をしていたが、七時頃からそれぞれの行動をとった。兄さんは年始受けの準備、姉さんは二三ヶ所年始廻り、私は学校へと。静かなお正月、そして楽しいお正月。学校の式が終って家に帰ると、家は年始客が次から次へと来るので忙しそう。姉さんも接待で忙しいので、私が坊やの子守り役。兄さんが年始客のとぎれた時、お昼にしようと云うので、一同膳に付く。その時、お年玉として兄さん、姉さんからお小遣いを頂く。金沢の母からもお年玉が来た。皆の家はお正月と云えば遊べるのに、私の所は皆さんの年始受に夕方迄忙しいので、私も一日中子守をして手伝った。
そのかわり三日からは遊べることになっている。夕食後、こたつでラジオを聞きながら、ミカンを食べたり、お茶やお菓子で楽しんだ。忙しい元旦の一日ではあったが、やはりお正月と云うとなんとなく楽しい。それに年賀状が沢山きた。私の所も二十枚、兄さんの分迄となると大変な数。誰もが待っている年賀状、一時も見たいのが引っぱりだこで読む。それが夜の話題にもなって、一層お正月気分を楽しくした。
星の輝く夜空を見上げながら、明日は晴天だろう、もうおそいからお休み、良い初夢でもみておくれ。ではお休み、兄さんの床に入る言葉で元旦の一日は過ぎて行く。
新年を迎えて 二年一組 岩沢邦江
除夜の鐘と共に、すぎ去った一九五五年、そして今朝はもう一九五六年、たくさんの思い出を残して去っていった一九五五年をふりかえると、なつかしい事、おもしろかった事が次々と思い出されます。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
私は目をさまして時計を見たら五時すぎていたので、いそいで起きました。まだおとうさんとおかあさんしか起きていない。父は神だなにあかりをつけたりして、とてもいそがしそうだった。
私は台所をそうじしてから、縁側をふきました。まだ外はうす暗く前にある門松だけが目をひきます。どの位たったか、そのうちに、近所の子がさそいに来たので、「神社そうじ」だなと思っていそいでほうきを持って出かけました。神社にいったら、だいたいきれいになっていたので、御参りをして帰ってきました。何人か神社に御参りに来る人もいました。家に帰ったら、食事は皆そろっており、私をまっていました。
一家そろって、食事をすると今年もたのしくすごせるような気がしました。食事がすむとすぐ妹が羽根をつきはじめたので、一しょに羽根つきをしました。しばらくして急にあたりがあかるくなったので、空を見ると太陽が雲間から顔を出していました。
それを見ると、何ともはればれした気持で大きな息をしました。もう去年のことはすっかりわすれてしまったように晴れあがっている空に太陽が輝いているのを見ると「今年も元気で勉強にはげめますよう」と祈らずにはいられませんでした。ラジオからは「君が代」の歌や年頭のあいさつが聞こえます。ニュースの時間には方々の神社やかんのんさまの参拝人が「何万人」もいるとかいっているのにおどろきました。庭には門松が元気そうに青々とした葉を風にゆられています。門松はいつもこのように風雨、寒さ、暑さにもまけずに一年中青々とした葉をもっています。
人間もこのような困難をのりこえていく人がりっぱな人々になれるのだなあと心の中で思いました。
心配されていた天気もよくてなぜかうれしかった。去年は菅谷村だけでも大きなことがあった。第一に七郷村と合併して新しい「菅谷村」が出来上った事、第二に、私たちの中学校が新築された事、まだその他にもありましたが、国内にもたくさんの事がありました。去年は日本に初めて原子ばくだんが落とされてから早、十周年目でした。国会でも二大政党の確立などがあり、砂川町などでは土地の測量などで非常に困難なありさまなどが新聞等にものっていました。
今年も又、大きな出来事がまっているような気がしました。外へ出ると近所で羽根つきの音がよくひびいてきます。家でもみんなで羽根つきをしたり、夜はトランプをしました。勝つことも負けることもありましたが、とてもおもしろかったです。
楽しみにまっていたお正月ももう来てしまったのかと思うとつまらない気もしました。私は今年も今日のように楽しく毎日がすごせればよいと思いました。
元旦 一年一組 山下修二
六時だ。ぼくはパッととび起きた。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
一九五六年元旦というとぼくの心はおどった。いや、胸がワクワクして来るようだった。昨日まで一九五五年だったのに、わずか六時間余りで一九五六年が来てしまったのだ。初日の出をおがんでからぞうにをたべた。今年のぞうには、いつもの年よりおいしかったので、何かよい年ではないかと思った。
今日は、学校で新年の祝賀式があるので新しい服を着た。友だちの家に行ってみると、やはりぼくと同じように新しい服を着ていた。学校へ来てみると、もうみんなが来ていた。
どの人も、新しい服に輝かしい顔をしていた。朝礼のベルがなるとみんな集まった。ぼくはいつもよりきちんと並んだ。しかし、校長先生や来賓の方々がお話をしている時、うしろの方でガヤガヤしていたので、よくきこえなかった。祝賀式が終ってから友だちと家へ帰って来たら、もうみんなで羽根つきをしていた。
かるた取り 二年 新藤雅子
八畳のへやから、ほがらかな笑い声が聞えて来た。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
かるた取りをしているのだ。私は、小説を読んでいたのだけれど本をおいて八畳の間へいった。私は、途中だったので、終るまで待っていた。待っていると、みんなのしているのがとても楽しそうなので途中に「入っていい」と聞いたら「途中だから終るまで待っていろよ」と言われてしまった。
まもなく終った。私を入れてちょうど五人なので二十枚づつわけた。母は、二、三文字読むと、たいがいのは取ってしまう。私の十八番(おはこ)は「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」【清原深養父(きよはらのふかやぶ)】と言うのです。これはまだみんなとしても取られたことがありません。私は二十四枚取りました。一番はお母さん、二番はお兄さん、三番が私で、四番が妹で、五番が弟です。
こんどは、げんぺいをすることになりました。二組に分かれるので、ジャンケンできめることにしました。お兄さんとお姉さん、姉さんと私、妹と弟です。弟は負けてお姉さんの方になったら「やだいお兄さんの方じゃなくちゃあいやだい」というと妹も同じようなことをいうのでこまってしまいました。結局、弟がお兄さんの方に行くことになりました。
妹がぶすぶすおこっています。私は「早くよめよ。そうせばみんな静かになるから」と言ってやった。
読みはじめるとみんなおとなしくなりました。読んでいくうちにみんながさわがしくなりました。妹は「みんなはこっちを見ていろい。おれはむこうを見るから」と言っています。弟もいく枚か取りました。
妹はむこうの人が取ると「ちっともとれやしねえ」と怒っています。私は自分の十八番(おはこ)をひざの中にかくそうとすると、妹にみつかってしまいました。
私は妹に小声で「ゆっちゃあだめだよ」と言いました。そのうちに十八番が出てきました。みんな夢中で見つけています。私と妹は顔を見合せて「くすくす」と笑ってしまいました。
私が「はあい」と言うと妹もまけずに「はあい」といって、二人で取りっこをしてしまいました。
妹は「あたしが取ったんだい」というので、私も「詔子が取ったんぢゃあない」と言いました。結局、私が取ったことになりました。
妹は「私が取ったんに」と言ったので、私は「いいがな、同じ組なんだから」といってやりました。
妹は「同じ組だってやだがな」といっています。そんなことを言っているうちに終ってかんじょうすることになりました。お兄さんの方は五十二枚取ったといったら、妹が「うそだい、こっちの方が勝った」というので、私は「そんなことを言うなら自分でかんじょうしてみればいいのに」と言ってやりました。
けれどお兄さんの方が勝ってしまいました。弟は「やあい、こっちが勝つにきまっているがな」といったので、みんな笑ってしまいました。
お正月 一年一組 木村経廣
朝、目をこすりながらおきてみると、まだ外は暗かった。顔を洗ったり歯をみがいたりしていると、東の方がだんだん明るくなってきました。一月元旦の太陽がしょうじのすきまからざしきの方まで入っていました。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
朝ごはんは、おぞうにでした。朝ごはんをいっぱいたべて学校にいきました。学校にきてみたら、もうみんながきていました。いよいよ祝賀式がはじまります。新校舎の前にならびました。はじめに、校長先生が、祝の言葉をおっしゃいました。
それから、らいひんのかたがたが、いろいろのお話をしてくださいました。もう、その時は足が、つめたくて、ようやっと、立っているようでした。
そしてもう終るか、もう終るかとそればかりでした。ようやっとしまいのお正月の歌が終って教室にはいりました。教室にはいってかえる時に、先生がみんなに「お正月なのでたべすぎたり、風邪をひかないように」とおっしゃいました。ぼくは寒いので、すぐ家に帰りました。
家に帰ったら郵便屋さんが、年賀状を三十枚くらいもって来ました。だけどぼくにはたったの五枚きり来ませんでした。
ぼくはさっそくださなかった人に、ハガキを買って来て出しました。ちょうど家の庭まできたら、役場のサイレンがなりました。ぼくはいそいで、牛のえさくれを手つだいました。
お客 一年一組 長島春子
一月二日の事である。私たちは前々から、二日か三日には小川の家へお客に行こうと話し合っていたが、いよいよその朝がやって来た。私たちはうれしいような、はずかしいような不安な気持ちだった。けれどもただ一人淋しそうな顔をしているのは一番下の「とく」だった。
菅谷中学校生徒会誌『青嵐』7号 菅谷中学校生徒会報道部, 1956年(昭和31)3月
私たちがお客に行くのだと話すと「おれも行くんだ」とがんばり、私たち三人が服をとりかえていると、とくも着物を出して来てうれしそうにとりかえているのである。けれどもとくは行かないのだ。
勿論母は行かない。下から二番目に小さい一年生の子は、父と自転車で行く事になり、私と妹はあとから電車で行く事に決った。もう時計は九時をさそうとしている。父は庭へ自転車を出し、空気を入れ仕度をととのえた。そして父と一年生の子が外へ出ると、とくも後へついて出た。そしてとくはちょっと「おれは?」と父に聞いた。父は「とうちゃんとねえちゃんは先に行くからあとから来い」と言ってから「じゃあ先に行くぞ」と言うと「うん」と良い返事はしたものの、私がちょっと顔を見ると、急にかなしくなったものか「わあっ」と顔を手を当て、母の後に行って泣いてしまった。
母は「泣くんじゃないよ。いい物くれるから」と言ったが、母の言うことではちっともきかない。私は、一番小さいのにつれて行かないんじゃ、かわいそうだと思った。
私は、とくをだます良い方法はないかと一心に考えた。そして「そうだ、とくの好きなミカンがあるから、これでだましてやれ」と思いついた。
「とくやァー」と呼ぶと「アァー」と言った。「ねえちゃんと、とくは行かないんだから、とうちゃんの留守にミカンを食べちゃってやれえ。だからとく、ミカン持って来い」と言うと「うん」と言って、七つも箱の中から出してかかえて来た。そして縁側の暖い所で食べ始めた。
とくは、みかんを食べるのに夢中になり、さっきのことは忘れたようだった。でも、こんなにうれしそうな顔をしていても、私たちが行ってしまったら、また泣くに違いないと思うと、かわいそうでならなかった。
するとちょうどそこへ、近所のおばさんが「うさぎの子がほしい」と言ってやって来た。とくは早速、庭に出してあるうさぎの箱をあけて「白いのが三つに、黒いのが三つに、山うさぎみたいのが一つできたん」といっしょうけんめいに説明を始めたので、そっと裏口から出て来たしまった。しかし何となくかわいそうで、後髪をひかれる思いだった。