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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

七郷中学校

廃校文集発刊にあたり 七中生徒会長・松本達也

 七郷中学校は、三月三十一日において、廃校することになりました。
 七中は、昭和二十二年創立から現在にいたるまで、三十五年間の歴史をもち、その間に、男子千三百三十七人、女子千二百九十五人、総数二千六百三十二人の卒業生を送り出しています。その中には、遠く郷土を離れている人、又は、地元で活躍している人など、さまざまです。そうして人達の、廃校に関する感想等を記録にとどめ、七中を巣立った人達の、永久の故郷として、永く心にとどめていただくことを切望し、ここに七郷中学校廃校についての文集を、作成することとした次第です。
 この文集は、昭和五十八年度在学生(二年生編集)が、主となり、編集いたしました。作成にあたっては、在住の卒業生をはじめとし、在任された先生方等多くの皆様の御協力をいただき発刊することができました。
 私達は、この七中を愛し、いつまでも七中が存続することを願っていましたが、時代の流れと共に廃校となり、新たに玉ノ岡中学校として新しい歴史の一ページをかざることになりました。
 私達二年生は、七中最後の在学生であると共に、生まれ変わる玉ノ岡中学校の第一期卒業生となるわけです。私達は、七郷中学校のよき伝統を生かし、生まれ変わった玉ノ岡中学校のいしずえを築くために、全力で頑張りたいと思いますので、なにとぞ諸先輩方のお力添えをお願い申し上げます。そして、終りにこの文集発刊に際し、御協力いただきました多くの皆様に、厚くお礼申し上げます。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 1頁〜2頁

雑感 小室開弘

 私が新米校長として七中にお世話になったのは、昭和四十五年(1970)の四月から五十一年(1976)の三月までの六年間である。住所が都幾川村【ときがわ町】で、学校までは十二キロの道程。それまでは同じ郡内でありながら一度も行ったことのないところであった。高台にある学校を目当てに急な坂道を登った。第一印象は、今でもはっきり脳裏に残っている。自動車から降りると、「おはようございます。」という元気なあいさつの声。心あたたかい歓迎だった。記録が残してないので、思い出すままに幾つか書いてみた。
 桜の花のトンネルをくぐり高台の職員室へと歩をはこぶ。磨かれた廊下や教室の床板、いつ見ても気持のよいものだ。周囲の山の木々も芽をふくらませ、やがて萌え出づる季節。登校途中の田んぼでは苗代作り。やがて田植えも始まる。蝉時雨の声が一段とにぎやかに。夏と共にプールでの水泳も又楽し。
 草むらに鳴くかんたんの声もすがすがしい頃、きのこの王様である一本しめじが出始める。この味は今も忘れられない。木々の紅葉、そして落葉。積もった坂道の雪掃きと自然は移り変わる。どれをとっても風物詩になるような事ばかりだ。
 じゅんぼくで真面目な生徒達。学校に対して協力的である保護者の方々。授業熱心でいつも生徒達の心をつかんでいる先生方。誠に自然も人間関係も学習するのに好環境の郷(さと)である。着任の四月にPTAが独立して一本になり、七郷中学校PTAとして発足。初代会長に正門隣の福島和氏がなり、二人心を一にしてよき伝統をつくるべく張りきったものだ。
 一年生の諸君は間もなく菅中の一年生との親善を兼ねての長瀞青年の家での宿泊訓練が始まる。日数は二日間である。三年位続いたが、人数制限もあって中止の已(や)む無きにおわった。三年生の三日間の林間学校も又楽しい行事の一つだ。全校あげての秋のバス遠足を兼ねての写生大会、全校マラソン大会……。
 二月から三月にかけての進路については、工場や訓練校、そして高校へと、とび廻ったものだ。三月卒業間近かの二日間位、卒業生諸君の勤労作業が始まり、校舎内外が整うのも気持のよいものだ。
 待望久しかった校庭拡張も地主さん方の協力があって実現したのは大変うれしかった。大きな山が見る間に形を変えて平らにされていく様子、勇ましい限りであった。小学校の校舎へ自衛隊員が泊っての作業であった。すっかり出来あがったのは、五十一年(1976)三月だと思っている。思い出はいろいろつきないがこれで筆を止める。
 よい企画をし、よい思い出を残すべく努力しておる諸君の前途に幸多からんことを祈る。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 17頁〜18頁

七郷中学校の思い出 島野克一

 私が七郷中学校に勤務したのは、昭和40年(1965)4月から昭和48年(1973)3月までの8年間でした。
 当時既に七中は比企郡内の各中学校の中でも最も規模の小さな学校でした。私にとっては七中は三校目の勤務校でしたが、七中のように小高い丘の上にある学校は初めてで、校門に続くかなり急な坂道を登っていくと、そこに赤い屋根のこぢんまりした三棟の校舎が立ち並んでいました。もちろんその前に何度か七中を訪れたことはあったのですが、着任した日に見た校舎のたたずまいは妙に印象的だったのを覚えています。管理棟より特別教室がいちだんと低い所にあって、そこへ行くのに階段を下りるのも珍しく、丘の上から見下した風景のすばらしさとともに、学校というよりも何か「高原の療養所」といった感じを受けたものでした。
 校舎は当時まだ比較的新しかったのですが、体育館はバラック建てで満足に窓もなく、床は穴だらけというひどいものでしたが、これはまもなく取りこわされて、現在の体育館に建てかえられました。グランドも今よりは大分狭く、しかも石や岩がいたる所に頭をのぞかせていて、危険きわまりなく、うっかり転ぶとたちまち手足にけがをするという状態で、危険防止のため、時々「岩掘り」と称して、全校生徒で校庭に顔をのぞかせている岩石をコップやつるはしで掘り出すのが大事な行事になっていました。
 行事といえば、もう一つ私にとって珍しかったのは、これも全校生徒による「茶摘み」でした。今はあるかどうかわかりませんが、グランド下の斜面には当時お茶の木がかなりたくさん植えてあって、初夏の頃になると全校生徒で「茶摘み」をやったことなど、いかにも牧歌的でのんびりした古きよき時代といった感じで懐かしく思い出されます。
 生徒数も現在よりはずっと多かったと思いますが、それでも全校で百数十名。そのかわり先生方も皆、全校生徒の名前を覚えることができ、いつも家族的で和やかな雰囲気に包まれた学校だったと思います。
 生徒の自主的活動が盛んだったことも七中の特色の一つで、朝会や体育祭等の運営も殆ど生徒の自主的運営が中心で、私たち職員は側面からアドバイスしていればよいという場合が多かったように思います。
 クラブ活動もなかなか活発でしたが、何といっても生徒数が少ない悲しさで、運動部の対外試合等もいつもほとんど「出ると負け」という結果が多かったのは、今考えても残念です。
 とにかく当時の七中の特色は、小さいながらも職員と生徒ががっちりと一つにまとまった学校といった感じで、こうしたよい伝統は、恐らくその後も現在まで受けつがれてきたことと思います。たとえ学校は廃校になっても、よい伝統はいつまでも続くよう努力してもらいたいと思います。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 23頁〜24頁

美しい桜の坂道をのぼって十年 高橋信安

 昭和四十五年(1970)赴任。かわいい子ども達を吉村先生と二人で担任。私もいわば“七中一年生”。吉村先生はすごく面倒みのいい先輩で、生徒指導にすぐれ、自分も早くこうした教師になりたいとひそかに憧れていた。
 当時の七中のグランドは、とても狭く、表面は岩がごろごろしていて、野球部や陸上部は大変だった。左中間はなんとかとれていたものの、右中間は一塁の後方はすぐ境界の垣根で、ライトはまず定位置につくということはできなかった。右翼線に打球が飛ぶと、あっという間に隣の桑畑に消えてしまうため、一年生はいつも、垣根の外に二、三名待機し、球拾いであった。あまりボールがなくなると、練習を中断して全員で球拾いをしたことも時々あったが、その度、毛虫や蜂にさされる者など気の毒だった。しかし、そうした練習の苦労もやがて実を結ぶ時がやってきた。それはまさに、七中野球部の“黄金時代”を迎えたのである。
 それは昭和四十六、七年代(1971〜1972)、強瀬、高橋君のバッテリーを中心とするチームの誕生で、強瀬君には制球力があり、その剛速球には比企郡下でも定評があった。夏の最後の大会では遂に決勝戦まで進み、惜しくも四対〇で小川東中に敗れ、県体出場はするものの、輝かしい成績を残した。あの暑い日ざしに、この年、できたばかりの小川東中のあのかわききったグランドの土が今でも忘れられない。
 やがて、狭かった校庭も、隣接の地主のご理解と町当局の配慮で拡張される運びとなり、自衛隊が小学校泊まりこみで工事に当った。頑固な岩盤をくだくたび、大型のブルドーザーも、しばしば立ち往生という難工事であった。A棟の軒下まであった校庭の高さが、土砂を東側に押し出したため、約十メートルも低くなり、面積もこれまでの約三倍、目を見はるような広さに、七郷の子どもの心が、それだけで大きく広がる思いであった。
 校庭がようやく拡張された秋、生徒会が中心となって体育祭の準備に当ったが、あいにく雨ばかりで、まだ排水も悪く、止むなく体育祭を断念した年でもあった。しかし、この年、待ちこがれていた七中第一回の文化祭の開催に成功した。なお、翌年からだと思うが、広がったグランドで小中学校仲よく、合同の体育祭が催され、多くの父母でにぎわった。
 昭和五十二、三年(1977〜1978)と文部省及び県教委より同和教育の研究指定を受け、人権尊重と人間本来のあり方を問うこの研究から多くのものを学んだ。また、この五十二年(1977)、当時の生徒会本部役員だった安藤雅美、千野靖子さんによって“七中生徒会の歌”が作成されたことも記念すべきことであった。
 七郷中の十年間、お世話になって、教師として感動したことは、七郷の純朴さとやはり卒業式で、人生で何が美しく、また尊いものであるか教えてくれた子供達に感謝している。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 33頁〜34頁

山の上のグランド 29年度卒業・杉田延秋

 七郷中学校、それは、一口で言うと「山の上の学校」というイメージが強い。当時も今の位置とあまり変らないのだが、当時は校舎より高い所にグランドがあった。今も昔も変らない思うが、私達が在学した頃は特に、「グランド」と共に過した時間が多かった気がする。朝早く行って授業が始まる前にサッカーをやったり、放課後はグランドで部活をやった。その他でも何かにつけてグランドに出たがったものだ。それは、言い換えると、机に向かって勉強するのがいやだったことも手伝っているのだ。二十九年度の卒業生【1955年3月卒業生】は、女性は頭の良い人が多かったが、男性は頭が悪くて勉強嫌いの人が多かった気がする。もちろん私もその一人だった。そんなことから「山の上のグランド」が特に印象深いのかもしれない。当時のグランドはまわりにヒバが植えてあったが、ネットは張ってなかったから、エラーをすると大変だった。ヒバの間をくぐって谷底に落ちたボールを拾いに行った事を今でも良く覚えている。谷底まで落ちて小さく見えるボールがとてもうらめしく思えたものである。
 私達の頃は、一学年二学級だったので、今の二倍位の生徒がいた。だから部活も盛んだった。私はバスケットボールをやっていた。私が三年生の時(当時部長)、菅谷部会(菅中、七中、宮前中、福田中の四校)で優勝した。苦戦の末の勝利だったので良く覚えている。今でも優勝旗を受けとった時の光景が脳裏に浮かんでくる。グランドの北側角っこに、ポツンと立っているゴールとともに、私が終世忘れないであろう懐かしい思い出である。
 今の七郷中学校は、私達が学んだ時とは、グランドも校舎も違う。しかし、山の上にあることは変らない。又昔の面影を残している所もあるので、やはり学校に行くと当時が偲ばれて心暖まる思いがするのだが、それも廃校となっては……。時代の変革とともに変って行くことは良いことであり、七中が新しく「玉ノ岡中学」として生れ変るのだから大変喜ばしいことではあるが、反面一抹の淋しさを禁じえない思いもする。やはり私達の脳裏には、あの山の上のグランドでほこりまみれになってボールを追っかけた思い出そのものが七中であり、そのことは終世変わらないであろう。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 35頁〜36頁

中学校の分離統合事業について 30年度卒業・小林峰久

 このたび二学年の皆さんが七郷中学校の思い出を残すために文集を発行されるということですが、七郷中学校の名がなくなることは私的にはある種の寂しさを感ずる卒業生の一人としてこの企画に大きな拍手をおくります。
 しかし、私は今携わっている仕事の関係から或は発行の趣旨に添わないかとも思いますが立場を変えてこの事業の必要性等を中心に書かせていただきたいと思います。
 申までもなく町には七郷中学校と菅谷中学校の二校がありますが、六・三制の施行によって昭和二十二年(1947)に同時に創立されたもので、当時を見ると七郷中学校は六学級・二二六人、菅谷中学校は七学級・三一一人で、村は違いましたが菅谷部会内でまあまあバランスのとれた学校規模でありました。
 ところがその後の社会情勢の変化等によってこのバランスはくずれ、今年度には七郷中学校が四学級・一一八人、菅谷中学校が二〇学級・八一五人で余りにも規模格差が大きくなっておりますし、この傾向は今後もますます進行することが予想されるのであります。
 これは規模的なことでありまして、七郷中学校は生徒の皆さんも先生方も一生懸命頑張っておられますから学業面での格差は全くないのでありますが、学校を設置し管理する町及び教育委員会、町民の代表である議員の皆さんの立場からすると同じ町にありながらこんなに規模が違うことは誠に不合理なことでありまして、二つの中学校が同じような条件の中で勉強してもらいなお一層教育効果の向上を願うのも当然のことであります。
 これが今回の分離統合の目的であり文部省が示す適正規模(一二学級〜一八学級)に正に該当し、開弘当初玉ノ岡中学校が一二学級・四三二人、菅谷中学校が一三学級・五一三人でスタートする予定であります。
 今玉ノ岡中学校と書きましたが新しい学校の名前はすでにそう決まっております。これは教育委員会で原案を作り議会の議決を経たもので、杉山城跡の東側に位置する「玉ノ岡」という地名の小高い丘の上に建設されることから命名されました。人によっては切磋琢磨(せっさたくま)の琢磨にちなみ、中学生の皆さんが心身の玉を磨く岡だと意義付ける方もおられます。
 新しい校舎の建築は、四月開校に備えて順調に進んでおります。
 二年生の皆さんは、この学校の最上級生になるわけですから七郷中学校で先輩達から学んだ良い校風を反映して、玉ノ岡中学校の礎(いしずえ)をつくるよう努力して下さい。
 私たちの学んだ七郷中学校は、時代に合ったかたちで玉ノ岡中学校に続くのです。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 37頁〜38頁

七郷中学校の思い出 31年度卒業・高木正好

 私が入学した昭和29年(1954)当時は、一年生二クラスと二年生一クラスが小学校の旧校舎の二階を使用し、二年生一クラスと三年生ニクラスが今の特別教室の所にあった旧校舎を使用していました。現在体育館がある所には講堂があり、その前から旧校舎までは飛び石が連絡路としてありました。雨や雪が降ると先生も生徒も濡れながら渡ったものです。
 しかし、設備は不備でも生徒達は学業にスポーツに全力を発揮したものです。
 勉強においては、皆、優秀な成績で進学率が低いにもかかわらず、川越高校をはじめ、松山高校、小川高校、松山女子高校、川越商業高校や川越農業高校菅谷分校に進学した生徒はたくさん居ります。
 クラブ活動では、野球部、陸上競技部、卓球部、バリーボール部、バスケットボール部等があり、特に陸上競技部の活躍は素晴らしいもので、学徒総体、郡体、菅谷部会、比企中部一周駅伝等で優秀な成績をおさめました。
 今の校舎が出来たのは昭和31年(1956)の夏だったと思いますが、四月から八月までは講堂を三つに区切りそこを教室として使用しました。不便ではありましたが、新校舎が出来た時の喜びは今でも忘れません。木の香も新しく、採光もよく、旧校舎と比べようもありませんでした。
 今では考えられませんが、当時は中々ユニークな授業がありました。それは職業という課目で、生徒は農家の子供が多いので農業を習いました。春先に種籾(たねもみ)を蒔き、田植えをして、秋には取り入れをしましたが、その間には肥料を与え、草取りをし、害虫退治もしました。夏休みの宿題に干し草を作り、二学期にはそれを持って登校し、堆肥を作ったものです。又、さつまいもや小豆、麦作りもしました。そして、収穫した農産物を皆んなで分けて食べました。自然に親しみながら、皆んなで力を合わせ生産の喜びを味わうという良い授業だったと思います。
 現在は、進学率が高くほとんどの生徒が高校へ行くようになり、勉強が大変でしょうが、私たちの頃は、遊びが主で授業の方は従だったように思います。各地区(大字)毎に中学生から小学生までが一緒になって、色々な行事をしながら遊びました。−今の子供会のようなものです。−春には、おとしよりをまねきミニ学芸会を開き、夏休みには寺や神社に集まり「夏休みの友」等の宿題をしたり、又、秋の運動会の後、各生徒が料理を作って慰労会を開いたりしました。
 自然に囲まれ、環境に恵まれた七中が三月には廃校になり、四月より玉ノ岡中学校となって新しい歴史が始まりますが、純朴で素直な心を持ち続けてほしいものです。
 最後に、在校生の諸君、先生方、益々の御発展をお祈りいたします。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 39頁〜40頁

思い出と感想 26年度卒業・加藤明弘

 戦争のため、物資もない、人もいないの、ないないづくしの時代の二十四年(1949)の入学である。校舎は、小学校の一部と、開校直後に作った新校舎で、一年、二年は、裏校舎二階の四教室を使い、三年と職員室は、新校舎だ。先生は一年の時松本先生で、二、三年は高橋先生だった。校長先生は、安藤先生だ。私は、野球部に入った。七中は出ると敗(ま)けの学校だった。しかし一年生チームが八和田中学に試合に行き、初めて勝った。エースは初雁正彦君だ。私はレフトを守った。グローブは布製で中央に、皮が丸く縫いつけてある。グランドも狭く、岩が突き出ていて悪い。野球部の先生は高橋先生である。七中は卓球が強かった。田島先生が部の先生で、初雁静夫君や、市川谷乙君が郡で有名だった。
 馬場先生の理科で元素記号の暗記が大変だった。とにかく勉強をしなかった。手伝いをする方が大事な時だったからである。体育館はなく、今の所に講堂があった。床は板張りであちこちに穴があき、天井には雨もりのシミがいくつもあった。思い出せばきりがない程いろいろなことがあった。そういう時代なので進学する人は四分の一ぐらいだったろうか。私も、昼間農業を手伝い、定時制に四年間通い、よい体験をしたと思う。このように数々の思い出をつくってくれた母校が途中増築され、体育館が出来て又、グランドも広く整備され、現在の立派な七中が七郷の多数の人の力で、きづき上げられたのです。今日、世の中が繁栄し、人口が増え、私達は贅沢になり■■では、あんなに立派な、しかもあたたかい感じの校舎が危険校舎なのだそうです。もったいない話です。
 今、玉ノ岡中学が四月を目指して工事音をひびかせており、開校を目前にして生徒達も父兄も又先生方も夢と不安があると思います。しかし、それは今までの固定的な考えや先入観をもっているからです。玉ノ岡中学が二つの小学校を一つの学区として開校するのですから、むしろ前向きの考えで対応する必要があります。先日も七小PTAの六年の委員会で制服等の相談があり、いろいろな意見が出ました。しかし、全く新しく生れる学校であり、服装からはじめて通学道や方法、校歌や校章、校旗等々、又PTAの運営にしてもそうですが、新しい考えで取り組み、七郷だとか、ちさん【地産団地】だとかの意識は出来るだけ控え目にし、玉ノ岡中学校のカラーを皆んなしてだんだんつくり上げて行かないといけないと思います。特に今の二年生は最上級生となるのですから、早く志賀の人達と友達になって、二年生、一年生を指導して下さい。一年間では大変だと思いますが、私達父兄も協力しますので頑張って下さい。そして、玉ノ岡中学校がすばらしい学校となり、卒業して五年、十年、二十年と過ぎて楽しく思い出せるように努力しましょう。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 43頁〜44頁

七郷中学校の思い出 32年度卒業・金子敏雄

 私が、七郷中学校を卒業したのは、もう二十年も前の事です。当時は、菅谷村立七郷中学校といっていました。
 私達が進学した時は、まだ現在の校舎が、全部完成したかどうかだと思います。ペンキの香りもまだ残る、真新しい校舎で学べる喜びに、感激した記憶があります。しかし、体育館はなく、古びた木造の講堂が現在の体育館の場所にあり、そこで、入学式を行い、最後の卒業式の思い出も残してきました。
 私は、クラブ活動は卓球部でしたので、その講堂で、部員の皆さんと、一所懸命汗を流した事がありました。
 その他のクラブに、野球部・陸上部・バスケット部・バレー部がありました。グラウンドは、現在の半分位しかなくて、野球部はいつも球ひろいに泣かされていたようでした。ライトの守備は、垣根いっぱいに立ち、平凡なライトフライでも、場外ホーマーです。
 運動会には、グラウンドいっぱいに白線を引き、応援席もあまり無い有様でした。百メートル競走のゴールは、鶴巻の方へ行く所で、最後は畑の中へとび込んで行った事もありました。今のグラウンドからは、とても想像もつかない事ばかりでした。
三年間を通じて、一番印象に残っているのは、理科の準備室の天井のしみです。
 その部屋には、天体観測ができるように、天窓がありますが、その天窓を締め忘れてしまって、雨で天井に大きなしみがついてしまいこまった事です。大変なお目玉を受けたのは言うまでもありません。
 当時は、給食はなく、おふくろの弁当を持ち登校していました。おかずの汁は出てしまうし、紙はしみだらけで、弁当箱にくっついてしまい、こまった事もありました。しかし、一番楽しい時間だったように思い出されます。
 生徒数は、現在の二倍位いたのではないかと思います。私達の学年は、三学年の中で、常に一番多く、百名近くいました。一クラス五〇名近くいたので、教室の前から後まで、びっしり机が並んでおり、父兄会等では、後へ人の入る余地はない位でした。
 最近、私の子供の授業参観に行き、生徒数の少ないのに驚きました。私達の頃より、少数で、よく勉強を教われるという利点はあると思いますが、生徒数がだんだん減少するという事には、さびしさを感じずにはいられません。
この思い出の母校も、もう今年で廃校になってしまうかと思うと、何とも言いようのない、むなしく、さびしい気持になってきました。
 さようなら、七郷中学校……

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 45頁〜46頁

自然の中で 34年度卒業・大塚洋一

 周囲の緑によく映える屋根のモダン(当時では)な七郷中学校に入学したのが、もう二十七年も前のことになる。
 現在では運動場もかなり広く確保、整備されているが、当時は一周二百メートルのトラックをとるとほとんど余裕がなかったように思う。百メートルコースは東側の南から北へ向けてとっていたが、ゴール後はさつま畑の中だった。そんなグランドも町当局の理解や地主の協力で現在のような素晴らしい夢の運動場に生まれ変わった。以前は校舎の屋根よりも幾分低い程度のところにあったのだから、今では想像もできない。
 思いっきり運動をしてもビクともしない体育館も、あの頃は床材として幅広の板が使われていた。講堂≠ニ呼ばれる建物だったので、思いきった運動はできなかった。それだけでなく、休み時間などに大勢が一緒に跳びはねると床が抜けるということで、先生にこっぴどく叱られたものだ。でも大勢で気持を一つにして協力?すると、床のゆったりとした大きな揺れがあってすごく気持がよくて満足したことを思いだす。
 自然環境抜群なごの七郷地区であっても、現在では農業の近代化ということも手伝ってか、小中学生達が家庭において、農作業を手伝う機会から遠ざかっている。このような時代背景の中だからこそ、七郷小学校の稲作りがかなりの意味をもつ訳であるが、今では残念ながら七郷中学校ではそれがないので、自分のことのようにちょっぴり寂しい気がする。あの頃は、中学校の職業(今の技術家庭科)の時間にさつま作り≠竍稲作り≠フ実習が行なわれ、教室外での友達や先生との触合いも多く、楽しかった。本物の教育は、その気になって求めれば、教室外にもいっぱいあるような気がする。
 ある時、学校田への水引き当番が割当てられたが、自分一人だったのでつい……。この時も先生に厳しく叱られたが、自分がやったことがどういう意味をもっていたのか、その時は、充分には理解できなかった。しかし後になってあの事件≠ゥら、いろいろなものを得た気がする。
 冬の厳しい季節から、水ぬるむ春の頃ともなると、楽しい山弁当≠ェ待っていた。「おい、弁当を持って外に集まれ。」−毎日心待ちにしていた言葉だ。教室での勉強が嫌いだったので、この時ばかりは鬼先生が、優しい仏様に見えたものだ。
 秋も楽しかった。やはり山弁当≠セ。弁当を食べ終ると、山中かけずり廻ってのキノコ採り。そして皆が何本かづつ採ったキノコも、全部集めるとかなりの数になったが、どうしたことかその行く方は、未だに定かでない。
 これからの中学生のためにも、新しく誕生する玉ノ岡中学校で、自然に触れながらの教育の場も、是非設定して戴きたいと思う。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 51頁〜52頁

我中学生活 41年度卒業・水島英夫

 豊かな自然の高台にある三校舎、七郷中学校は、僕の家からだいぶ遠い場所にあった。当時、自転車などの乗り物は、事情のない限り乗って行く事もできず、歩いて通わなければならなかった。それなりに朝も早く起きて行かないと学校に遅刻してしまう。雨や雪の降る日など時々学校に、行くのがいやになる事もあった。しかし、考えると良く通ったと思う。今の都会の学校などでは、とても考えられない事だと信じている。
 でも学校に行ってしまえば楽しい仲間が沢山いて面白い生活が始まるのである。僕たちの学年だけでも一〇七人もの仲間がいた。いつも同じようなパターンでの勉強ではあるが、そうした中にも毎日ちょっとした変化があり楽しかった。勉強と言えば、教える先生の中にも色々個性のある先生もいました。面白い先生、恐い先生など沢山いたように思える。先生も当時は、生徒も多かったので、大変だったと思う。その為か生徒の僕らから見ると、先生が恐い人に見えた。これも時代の流れだったのかも知れない。中でも授業で山に出かけて、弁当など食べる事もあった。こんな事が生徒には、一番楽しかったと思う。良い思い出になった。運動会なども生徒が多いので非常に盛大で、楽しかった。七郷の分団対抗で行なわれ、勝負を決めるのが、何んとも言えない面白さだった。ただグランドが狭いのが、残念であった。
 グランドと言えば、僕が野球部で練習をする時なども、ネットからライト方向など、少し打つとグランドの下に落ちてしまう。一方では、ソフトボールなどの部活が混入してしまい、非常に練習もやりにくかった。石や岩も多く運動の前にみんなで、石や岩を拾った事などもあったりした。当時の七郷中学の箭弓も一生懸命練習をしたけれど、あまり強くなかったように思う。
 それにしても、あの木造の横に長い三つの校舎がなつかしい。たしか、一番上の方が教室、真ん中には職員室などが有り、下の方は音楽室、理科室、美術室などがあったと記憶している。多分今も、その当時と変っていないのではないかと思う。いや変ってしまっているかも知れない。
 こうして、この文章を書いていると、もう一度あの頃に返って、七郷中学に通いたくなるような気がしてならない。今廃校という事を知ると、非常に淋しいような残念な気持でなりません。しかし、これも時代の流れの中で防ぐことのできない事かもしれません。今後もこの郷の良さをいつまでも守りつつ、より良い発展を祈ります。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 53頁〜54頁

中学時代を振り返って 41年度卒業・田畑茂夫

 私が入学したのは、あの忘れもしない東京オリンピックが開催された年(1964)でした。マラソンで故円谷選手が永光の三着で国立競技場のテープを切ったのが強烈な印象として脳裏にやきついております。また同年に東海道新幹線が開通され、私達の胸を感動させたものでした。あらから丁度二十年の月日が、まるで走馬燈のごとく過ぎ去り、本年限りで七郷中学校が廃校のはこびとなることで驚嘆と時代の変遷を感じる思いであります。四十年代の前半高度成長の幕あけと同時に我々家庭においてもテレビ、冷蔵庫等の電化製品、また、乗用車の普及と共に至るところで、産業化、機械化がされ近代化が押し進められた頃のようであった。こんな社会情勢で中学時代を送れたことは、諸先輩方に比較すると幸せなような気が致します。
 当時を振り返ると、現在は立派な体育館が建築されましたが、我々の頃は講堂といって平屋の床の落ちそうな、雨もりする所で、雨の日の体育、諸行事を行なったものでした。そしてグランドは狭く、私は野球部に所属してましたので、ボールはすぐに、土手のはるか下へ落ちてしまし紛失し、先輩に見つかるまで拾わされた事もなつかしく思います。
 諸先生方についても一人一人思い出はありますが、私達は一年から三年まで同じ先生が担任でしたので、より親近感がある反面、叱られた事、廊下に立たされた事や大きな声を出された事は、私にとっては日常茶飯事でした。しかし、初めて経験する高校受験では、合格すると親より以上に喜んでくれたのも担任の先生であった。当時はそれ程気になりませんでしたが、今になると恩師のありがたさ、思いやりに痛感させられる思いです。
 また杉山地区から越畑を通り正門まで走るマラソン大会が冬に開かれ、現在は舗装されていますが、当時は砂利道で埃りの中を夢中で走った思い出、開通間もない新幹線で京都方面へ修学旅行に行き、小遣いは、たしか今では想像もつかない千円ぐらいだったように記憶し、旅館で枕の投げ合いをし、先生に強く叱られた事など印象に残っております。
 また同級生の女の子に淡い恋心をいだかせたのも、二、三年生の頃で、アルバムを広げて見ては不思議にも忘れられません。そしてまた、当時は農繁休暇という制度がありまして、半日勉強して家に帰り田植作業等手伝う主旨のもので、その半日で帰れるうれしさは、勉強の嫌いだった私はよく、いまだに覚えております。こんな素朴感の強かった我々の時代は、最近マスコミ等で社会問題化されている校内非行暴力事件などは、想像のつかない世界でありました。
 思いつくままに述べましたが、諸先生方、先輩によって磨かれた七郷中学校の伝統、遺産は廃校になりましても、永遠に受けつがれていくと確信しています。

嵐山町立七郷中学校廃校文集『終止符』 1984年(昭和59)3月 57頁〜58頁
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