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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

七郷中学校

 筆者の小沢禄郎氏は1927年(昭和2)、小川町飯田生まれ。機械・鋳物の製作所で10年間勤務。その後、小学校教員、埼玉県教育局社会教育課・社会教育主事。1972年(昭和47)4月〜1974年(昭和49)3月まで、嵐山町立七郷中学校教頭。七郷中学校一、二年目の体験回想部分を筆者の自分史『すべってころんで 職工から校長へ』(1990年3月)より転載した。

教頭として

 昭和四十七年(1972)三月末のこと、中学校の教頭に転出するとの話である。
 社会教育でずっとやりたいと言う考えであったから、学校現場へ出ると言うことはまったく予期しない話にあわてて、課長から所長へと順序を立てて異動の取りやめを願った。
 かつて中学校にいた頃、教頭職にある者がどんな適性を持たなければならないのかは充分に心得ていた。
 またある時は、それなりに批判したこともあって、それを思い出しても私には決して適職ではないと思ったのである。
 教頭になって見たいなど考えた事もない。それだけに強く辞退をした。
 奈良所長は、将来のためにもさけて通れないもので、教頭職の経験は巾広い視野と社会教育をすすめる点においても大切であると。 ……
 そこで私は、心の準備としてそうした気持の上でいましばらく現状にとどまりたいと申し入れたが、所長個人の判断でした事でなく、新たな環境の中で持ち味を活かす事を諭された。
…… いよいよ全力でやるのみと決心した。

 事務の整理も手つけずであったため、何かとせわしかったが一応の取りまとめと、それぞれも先生方に挨拶をすませた。
 四月一日嵐山町役場で辞令交付式を終え、学校長に付添われて七郷中学校へ行った。
 小高い丘の上にあるので県道からは、いきなりの坂道になり運転にこわさを感じた。
 登りつめた台地は展望がよく、学校環境としての申し分のなさが第一印象であった。
 ……
 あわただしく一週間がすぎて、教頭としての初めての始業式である。
 かつては指示にそってやる立場での気楽さが、指示を与える関係の中で、何ごとも先から先へと考えてやることのむずかしさが、ひしひしと感じられた。
 思えば四年間、学校現場をはなれて行政職ですごし、その間において再び学校へとは夢にもなかった事が、学校現場の関心を乏しくするなどあって、始業式からはじめ時間数の割ふり、そして職員構成による事務分掌など、とまどいの連続が重なるばかりであった。
 当面する学校課題など過去の経緯がそれぞれあった中では、うかつな発言をすれば恥をかくだけである。しかし意見を求められれば、ただ解らないではすまされない立場の苦しさがある。
 しかし四年間の社会教育で得たものを無意味にしない事を念頭において構想をもった。
 他の職員の経験のない社会教育行政を唯一の自信とし、学社連携の相互補完に意欲をかけた。
 七郷中学校は木造の平屋校舎であったが、小高い丘の上で緑をたたえ、二階建に見える偉容があった。
 鉄筋校舎の多い中で、木造の良さを活かす教育は何か、日本建築の歴史性を考え、日常生活の中には木材の性質を家庭生活と連動して見ること。木の味を清掃活動の充実によって、鉄筋建との比較もよいと考えた。
 道徳教育が言々される中で、校舎内外を見た時、はたして事実はどうか。生活指導の基本としてまずこの点を目標にしながら、生徒の中に飛び込んで一緒に取組む方法をはじめた。
 気軽に生徒との対話を試みたところ、意外に功を奏する事を得た。
 図書室で本を読む機会をとらえたり、放課後の校庭で部活の休けい時に腰をおろした輪に入っての雑談から、生徒の心情をとらえるなど。 ……

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

七郷スポーツ少年団

 校庭のせまさはいち早く感じられた。
 野球部が校庭の六割を占めると、陸上部の練習は野球部と交差する。
 球を追う生徒と、一直線に走る生徒でぶつかりあう事故が目に見えてならない。
 校庭の東側は境界にそって、ひばの生垣がある。これもかなり大きくなっていて枝をのばし、根本からは、一・五米も校庭にはみ出しせまい校庭をさらに不都合にしている面もあった。
 生徒に聞くと、このひばがボール除けになると言う。サッカーボールやバレーボールであればそれも言えるが、野球ボールでは役に立たない。
 ボールがひばの下をくぐれば、その次は切り立った斜面が桑畑になっているから、ボールはかなり下まで転がり落ちていく。
 一年生の野球部員は、このボール拾いが大変だと言う。また畑の中を見つける際に桑が茂って葉のある季節であると、ボールの位置についての見当もつかないそうだ。
 所有者も桑や作物を痛める事があっても、学校の生徒であるからとしているようだが、それは本来ではない。
 生徒はボールを見つけるのに懸命になると作物への心使いはしない。生徒指導の面でこうした事の対策こそ重視しなければである。
 耕作者の心情になってボールをさがす態度と、最小限に防ぐ方法をどうするかである。
 しばらく経ってからの事であった。
 PTA会長は学校のすぐ下で自営業をする福島和氏であった。
 たまたま社会教育のことが話題になって、考える事が共通し、社会教育としての実践活動のいろいろに話題がはずんでいった。
 その中で青少年の地域活動として、少年スポーツを推進したいとの意向であった。
 嵐山町においてはまだ少年スポーツに対する組織は設置されてなかった。
 単なる地域有志によるスポーツグループでは、対外的な面において困る事が多いので、これを改善したいと言う。
 私の少年教育の実態的な経験から、福島会長の提唱する組織化に賛同した。
 福島会長が率先して父兄への呼びかけや会合を持ったのに対し、私は通知などの作成にあたって協力をした。
 福島会長がすすめる少年スポーツ団体は、小学生のみでなく、中学生が一部加入をしていた事に特色があった。
 中学生が小学生に対しての練習には常に指導していくと言う姿勢があったため、小学生等にとっては得がたい練習の機会である。
 責任者と言えば福島会長がただ一人では時には都合もあったりするが、この中学生たちが福島会長の代行となってくれたが、これは平素における指導の成果が、いざと言う事態につながる人柄のあらわれと言ってよい。
 私はもっぱら保護者会の通知とか、少年団の名簿の作成に当った。
 通知による周知、名簿による子どもたちの責任と構成員の一人である責任と自覚が、常によい方面に生かされた。
 少年スポーツの会員は小学校四年生を基準に置いたが、低学年においても加入の希望や、親が先だって加入を希望するなど、七郷小学校全児童を対象とした広域の少年スポーツ団体が、日を追って充実していったのである。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

越畑子ども会 福島和氏が推進

 一方では福島会長の地元、越畑(おっぱた)地区に子ども会の結成も進められていった。
 越畑地区の小学生を中心にし、中学生(二年生まで)も対象としての組織化が盛りあがった。
 従来、夏休みになると家族旅行をどうするか、親にとっては頭の痛いものがあったが、子ども会の結成により、地域における社会参加と、子ども会としての日帰り旅行を計画し、子どもたちの相互の親睦を図りたいとの趣旨に対しては、対象となる全家庭の賛成が得られ、小、中学校の地区PTA理事を役員として、あっという間に子ども会が成り立ってしまったのである。
 勿論、この越畑子ども会の初代会長は、福島和氏であった。
 第一回の子ども会の夏の旅行は、群馬県の妙義山に出かけた。
 上毛の三山の一つで、奇岩奇岩に富む妙義山の第一石門から第四石門まで、楽しい山歩きである。
 子どもたちは自然の雄大さと、そそり立つ岩を眺めながら、第三石門になると鎖を使った。カニの横ばいなどのスリル満足などに、妙義の山が子どもたちの歓声でうずまくようだった。
 付添いに参加した育成会の大人も同様で、石門の偉容にはうなった。
 大砲岩で逆立ちをしたいとか、冗談まじりでも役員をはらはらさせた。
 第四石門を背にした記念写真はなつかしい思い出である。
 中の岳神社では、轟岩のいわれを聞き、岩石がえぐられている部分を利用して建てられた神社など驚きの連続で終始した企画は、家庭旅行を充分に代替出来たもので、福島会長の発案は大成功であった。
 また地区の保護者からは、この企画に対し多面的な協力体制と、今後の継続に大いなる期待が寄せられるなど、嬉しい悲鳴につながっていった。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

写真(詳細不明)

少年野球のネット購入

 少年スポーツの定期練習会は、毎日曜日となっていたが、通常日でも中学校に部活がなく校庭が空いていると、どこからともなく子どもたちが集って来て野球の練習がはじまる。
 福島会長はノックをしたり試合の審判でいそがしい。
 高学年になると技術面もよくなるため、ユニホームを着るようになるが、低学年では見習いと言う事もあり服装は様々である。
 ジーパンもいれば半ズボン、運動靴もいれば、草履ばきがいて、裸足もいるからおもしろい。
 ユーモラスな屯田兵である。
 せまい校庭を二面に使用すると、他の一面にはバックネットがない。
 おまけにそのコートのホームは坂道につながって、エラーでもすれば、ボールは坂道を転がり落ちていく。
 はるか下まで落ちると五〇米から六〇米の所までボールを拾いにいくのでゲームにならない。
 福島会長と相談して、移動用として使えるネットを購入することにした。
 すくない予算の中では、ボールとバットを充足するだけで精いっぱいの中からのネットの購入である。
 事後報告であっても保護者は心よくこの事に賛意を表してくれた。
 キャッチャーがエラーをすれば自分で拾いに行く時もあるし、周りの者が拾いに行く時もある。
 いずれにしても坂の下までボールが転がっていくのであるから、この拾い役も並のことではない。
 一度か二度位ならなんとか我慢も出来るが、ピッチャーもキャッチャーも、それほどの技術もないから、投げる度にボールは坂を転がり落ちていくのだから、だんだんと拾いに行く者が居なくなってしまう。
 そのあげくにはエラーでお互い同士が感情的になってしまう。……それがネットによってわずかながら解消へ前進したのである。
 逆にネットがある上でエラーをすることは、技術面での上手、下手がはっきりと問われるので、一生懸命にやるという姿勢に変って、子どもの真剣さが顔にそして目に輝きとなったのである。
 町内にある他のチームにも呼びかけて、交流の試合をもつようになってから、大人よりも子どもの方が広域における人間関係をつくるなどの好結果を生みだした。
 また「よい映画を見る会」を企画し、野球練習のあと旧役場を公民館としている二階の広間で、いろいろの映画を上映してみせた。
 福島会長は自からも熊谷図書館に行って映画を選定してフィルムを借りる熱心さである。
 なかでも「片足のエース」は、子どもたちに大きな感動を与えるなど、子どもの社会参加における役割を、ごく自然の中から育成した事は、福島氏の指導力とボランティアにあった。
 私はこうした民間人のかけがえのない活力を大事にするため、映画会における映写機や上映技術の提供をもって、一端の支えになる努力をした。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

子ども会と学校との連携

 教頭職一年が、さまざまな体験をふくんで終った。やればいくらでもある教育という仕事の中で立て前と本音が、淋しいほど身に迫る時もあった。
 生徒の学習指導等は職員が全力で当ってくれるので、私は地域社会との交流につとめた。
 とくにこの事については、福島和氏が中学校のPTA会長であり、子ども会の会長であった事が、何事にも幸いして、企画する一つ一つが順調に進められた。
 県社会教育課に勤務していた頃、子ども会と学校との連携を強調したが、手だての実態については具体性がなく、指導に迫力が乏しかったが、いまその現実に立って試行錯誤はあるものの、学校教育と社会教育における相互補完の事例の一つ一つが、たとえ細い糸のようでも、着々とたぐられて骨から肉づけへのたとえが、自分のものになっていった。
 越畑子ども会は、小学生と中学生(二年生まで)の組織をもっていた関係と、私自身が中学校で教頭という立場にあったため、連絡事項についてはきわめて敏速に出来たり、内容、方法の手順もよく徹底された事である。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

 前年度(1972)に八宮神社の奉納獅子舞を見た時であった。用番の仕事の中で子どもたちに出来る事は体験させることであった。
 越畑地区の氏神様としてある以上、大人も子どもも一緒になって協力する意味での社会参加には最たる機会とし、福島会長も同感で、早速万燈につける「花」の部分を担当することにした。
 万燈かざりの花は、大人の用番が六、七人で竹ひごにつけるのであるが、なかなか手間のかかる仕事である。
 福島氏から保存会に申し入れをして了承をとりつけ、七月二十五日の本番に先だって一週間前の日曜日を予定にし、関連する準備について細かい計画を練ることにした。
 花を染めることについては、私が中学校で放課後の仕事とした。
 京紙を四等分に切断し、およその厚さで四方のふちを、食紅をとかした水にひたして乾かした。
 わずか五分位で出来たので、事前の話とは大分ちがうのも体験したからの結果である。
 染めた紙を二枚から三枚を重ねて花にする軸の役割をするのが、こよりである。
 障子紙を二センチ巾の短冊に切って、こよりを作ってみたがとてもうまくはいかない。
 加えてその数が二百本から三百本は必要になると気が遠くなる。
 「用番に分担させて作ってもらうか」
 「子どもにやらせるのも、よい体験ではないか」
 それぞれ理にかなった考えではあったが、物理的に不可能であった。
 従来は用番がやる仕事だから、用番に頼むのが至当とも思ったが、子ども会がやると言った以上、そうした事もふくめられた判断もしているだろうから、意地でも子ども会としてやる方法を練った。
 福島会長の奥さんが、
 「私がひまを見て作りましょう」
 しかし日中はそれなりの忙しさの中に、暇を見つけるのも容易ではない。
 思い立った日からなんぼ言っても時間のない事なので、こよりを買ってみてはと考えたが、越畑の獅子舞は、泥くさい素朴さに価値があると言うので、手づくりの手段以外には策がない。
 「先生、各家庭にお願いして、十本から二十本ならばやってくれるかも知れない。……」
 この福島会長の考えは見事に的中した。
 材料を子ども会員の家に優先して配り、会員外の家にも無理のない範囲でお願いをしたところ、またたく間にこよりが福島会長の宅へ届けられたのであった。
 「今年は、子どもが花づくりをすると聞いて、こより位なら簡単だから。……」
 年寄りの方々をふくめ、家族ぐるみの協力と子どもの花づくりが、用番にとってどんなにありがたい事だと、かつて経験された人たちは、その苦労を他人ごとでなくほめ言葉まで添えてくれた。
 予定された本数よりはるかに多く、こよりが集まった時は言い知れぬ喜びを感じた。

万燈花を子ども会でつくる

 日曜日は午前九時に集合し、花づくりの作業にとりかかった。
 まずそめた京紙を一枚ずつはがす事からである。
 三十人余りの子どもが一斉に開始し、十分足らずで花びらの紙が小山のように盛りあがった。
 子どもたちにとっても楽しくゆかいに出来る仕事の幕あけとなった。
 次には、三枚または四枚を適当にずらして重ね、中心を竹ひごで孔をあけ、こよりを通しこよりの余りの部分に軽く糊をつけると、これで万燈花の出来あがりと言うのである。
 中学生がリーダーとなって、グループの小学生をよく指導するなど、手際よく花がまとまって一人で三十本はらくに出来た。
 グループによっては分業式をとり、紙を重ねる役、まん中に孔をあける役、こよりを通して糊をつけるなどの方法もあって、一時間もかからぬうちに花びらの部分が完成をした。
 保存会の市川さんが見えて、いよいよ竹ひごに花をつける段取りと方法の指導がはじまった。
 「竹ひごを引張り合うと、ひごのふちで手を切るから、まず引張り合いは絶対にやらない事」
 その外に、ひごを振り廻したりして、相手の顔や目をつかないようにと、学校の先生でも気のつかない細々とした注意をしながら、慣れた手さばきは見事なほどに、ひと花ひと花を飾りモールをだき合せながら見本を作ってみせた。
 万燈花のひごにも、それぞれの寸法があって、長さによる花の数や、色紙でこよりの元をひごに締つける場合も、いろいろな色をつかいわけてきれいにするなど、往年の経験から話すことに、子どもたちも納得しつつ、まねながら花づけをする。
 万燈花を作るのは私をはじめ、子どもたちもまったく初めての経験であったが、なんとか花かざりが出来た。
 「みんながやがて大人になって、万燈花をつくる時がある。その時にきょうの体験を活かしてもらいたい」
 福島会長が子どもたちに対し、労をねぎらいながらこう話した事が印象に残る。
 子どもたちには、ジュースが用意された。
 約二時間半、用番(七人位)がやったら一日かかる仕事を子どもたちで、しかも短時間にやってのけたのである。
 「花づくりは、大人がやっても、子どもがやっても出来る仕事である。これからは子どもの分担も大切な経験として大事にしたい」
 福島会長は機会あるごとにこの事を強調した。

 通常では竹ひごに花をつける際、染めた紙も充分に乾かない中にするため、紙に腰がなくやぶけたりして思うままの花も出来なかったと言うが、子どもが一本一本をていねいに時間をかけて作るので、大人よりも出来がよいと言った。
 たしかに人数の多い子どもたちだから、一人が一本あてにしても三十本が一度に出来る。
 極端な技術を要しなければ、人海戦術ではどうにもならない【ママ。人海戦術でどうにでもなるカ?】
 しかしこうした方法の協力は用番のみでなく、多くの人の納得が得られた事であった。
 例祭の夏まつり、獅子舞行事も無事に出来た。
 その中で、子ども会の協力は用番も大いに助かった事など、話題の中に子ども会の存在が、価値が高く評価された事は確かであった。
 私もこの事にかかわりをもった一人であったが、福島和氏を会長とする、越畑子ども会および育成会の協力に対し心から感謝をするばかりである。
 子ども会員の一人一人も、単なるあそびの活動でなく、地域の大人がやる仕事を手伝ったというほこりと、そのことがどれだけ価値のあるものかを知った喜びこそ高い評価と言える。
 思いつきの万燈花づくりだったが、大きなハードルを一つ越せた事はやっぱり嬉しかった。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

後継者の育成をめざして

 地域を生かした教育とかがさけばれても、学校教育の中にからませるの事は決して容易ではない。
 しかし考えてみれば何かがあるはずとした一つに、郷土芸能の獅子舞に対する後継者育成があった。
 全校生徒には関係しないが、広義に考えればその中にふくまれる事であり、関心をもてばそれなりの研究も出来るし、郷土文化に対する伝承の価値も理解される事になる。
 逆に言えば郷土芸能があるからするのでなく、新しい地域に伝承文化なるものを創設していく事も必要になってくるかもしれない。
 そうした観点からせっかくある伝承文化を継承する役割を子ども会に呼びかけてみた。
 県でも子ども郷土芸能大会があるはずであるからそうした機会に出演し、はずみをつける事も不可能ではないと考えた。
 早速この事で県に問合せをしたところ、現在出演団体への交渉中で、まだ決定はされていないとの返事であった。
 ぜひ出演団体の候補にあげて置く事を約束し、関係者との話しあいをどうすすめるかなど、福島会長と相談をした。
 話の内容については互いに共感をしたが、獅子舞は保存会の管轄で、部外の者が勝手にとやかくは出来ない性格のものであった。
 子どもが獅子舞に参加をしているのは、ささらっ子と呼ばれる役に小学校の四、五年生が四人ほど参加している。
 獅子舞は現在のところ大人だけで、子どもの舞い子はいない。
 十二月の中旬を目ざして、子どもたちにどう獅子舞の踊りを教えるかである。
 神社にかかわる事は、一つのきまりがあって、はたから考えるほど簡単ではない。
 神様のことだからと言われれば、もう理くつでどうこう出来るすじはない。
 幸いにして福島会長の親戚に当たる、福島市平氏が獅子舞における大師匠であることが解ったので、まず内々に福島市平氏に事の次第と郷土芸能大会に出演をする前提に立って懇願をした。
 市平氏は後継者の育成は願ってもない事で、ぜひ実現させる方向で努力すべきだといわれた。
 しかし獅子舞を基本からやって行くと言うならよいが、芸能大会の出るために、伝統ある獅子舞を勝手に創作(アレンジ)することはどうかと思うと言う意見をつけた賛成であった。
 さらに付け加えて、神様に奉納するものだけに、その場で万一のような事でも起ったら大へんになるので、無条件での賛成は駄目だと言うのである。

 芸能大会に出演するかどうかの報告にも時間的に迫られる。一方では、内容の変更に対するわだかまりが根強くあって、らちもあかず諦らめる外はないと思うようになった。
 入退場をふくめて十五分、中心の踊りを七分位にしてあとは舞台を中心に円形の動きで四分位、入退場をゆっくりとすればと言う演出時間を考えて見たが、どうやら机上のプランで終るかに見えた時、福島会長が関係方面と協議し、若干の異論があっても、後継者育成の機会を逃がしては獅子舞の保存は出来ない。後継者あっての獅子舞保存であると強調し、遂に保存会関係の役員【会】開催にこぎつける事が出来た。
 私は福島会長と共に夜、宝薬寺に出向いて、説明と依頼に懸命につとめたのであった。
 後継者の育成事業は保存会の悲願であることから大いに賛成し、子どもたちの指導に当るとの事になったが、後継者育成と芸能大会の出演は別であると言う意見がまたまた繰返えされた。
 一、伝統ある獅子舞を勝手(亜流)になおすべきではない。
 二、経験ある者がやるならばよいが、最初から勝手な流を覚えると、そのくせが矯正できないで、今後に差支える。
 三、笛を吹く者にとっては、勝手な踊りに合せて吹く事は出来ない。
 四、獅子等をやたら無法に外に出したりする事は出来ない。毎年の夏まつりと決っている。
 五、子どもだけでは出来ない。当日においてもかなりの大人が協力しなければならない。
 六、参加費用はどうするのか、保存会としての予算には限度がある。
 七、子どもの行事とは言え、従来の夏まつりと同じ規模になるので、関係者の協力が必要である。
 ※ 十二月九日は暮れの師走に入って忙しい時期になるので、大人側の努力にも無理が出来る。
以上の外にまだまだ意見はたくさんあったが、ひたすらお願いに廻り、今後の後継者育成に責任をもって児童や生徒の参加をする事で、子ども版に修正したもので、郷土芸能大会への出演が決定された。

 師匠格の人たちが特訓の形で指導に当る事になった時は思わずほっとする思いであった。
 会議の終了後、福島会長とこんな話をした。
 地域に伝わる伝統行事は、保存会に一任すればよいのではなく、氏子の一人としてあるいは保存に関心を持つ一人として意見をのべる事や、それを聞き入れる保存会でなければ進歩がないこと。……
 さらに町からの補助金についても、現状を維持する事も大切だし、新しい事業のために増額を申請するためにも巾広い意見を聴取すべきが得策である。要するに立場がなんであれ、協力する事に変りのないことを確認し合うべきだと。……
 保存会の中でも若干は意見を異にした言い分では、形式などにとらわれると墓穴を掘ることになるので、程度には方法を変えてやるのもいい。まったく後継者がいなくなった時の事を考えたい。
 小、中学生がやってくれることは、千載一遇のチャンスであるから、受入体制を持つべきだと言う。
 さまざまな討議の繰り返しはあったが、一つの方向に動き出したことはありがたいことであった。

 練習を開始してみると、子どもたちが意外に関心をもって熱中してくれたのは嬉しかった。
 獅子舞の踊り子は、中学一年の男子三人を充て、その外は関係の役割についた。
 師匠の方も熱が入り一対一の指導をされたので、上達は予期しないほどに進んでいった。
 子どもの親も、獅子舞に参加できる事に誇りをもって協力され、関係者とともに物心両面の心くばりをしてくれた。
 大うちわの張替をやったり、万燈花を新しく作るに当っては、本番よりすこしひごを短かくしないと舞台では動きがとれないだろうと適宜の寸法に配慮するなど、当初あれほど物議をかもした頃とはまったく想像もつかない指導と面倒を見るにいたった。
 一番の問題点は、踊りの部分をどのように組立てるかである。私の注文は単調の動作の繰り返しでは観客席からあきが起るとまずいから、変化を充分に入れてもらいたいと申し入れたので、踊りの師匠と笛吹き役が協議をして、場面の展開を程よく構成をしてくれたのが、実に見事な舞となり従来のものより見ごたえを感じる位であった。
 教わる中学生は従来の形式を知らないので、師匠が教えた事を忠実に守るのに対し、師匠の方が長い伝統に手や身体が覚えているため、新しい形に馴染めずしばしば間違いをするなどの場面にあって苦笑することがあった。
 私はそうした一連を見ていた時、間違いを笑うことより伝統として持つ技の誇りを芸能大会のためにゆがめた事を申訳なく思った。
 笛吹きも同じである。
 長い間(数十年)踊りとともに笛を合せてきたのである。
 踊りの順序がすっかり頭の中に入っている。それが突然に変るのである。
 踊りの動きが大きく小さく、そして速くおそく、それは笛でなく踊りでなく、両者のおもいやりがリズムを作っていくのだと聞いたが、まったくその通りである。
 獅子をかぶって舞うことになると、動作もまた変っていった。
 道化といって踊りのリードをする仲立ちは、踊り大師匠と言われる福島市平氏がしてくれた。
 大師匠とは師匠の師匠である呼称である。
 小柄な福島市平氏が舞うと、身体全体にしなやかさが溢れ、男の節くれだった硬さなど、どこにも感じられない。
 出演のためのにわか振り付けにも、まどう事なく中学生の舞い子三人を、惜しみなくあやつり廻わす所など、ただ敬服をするばかりであった。

 本番を十日ばかりに残す日に突然な事が起った。
 獅子の踊り子である持田明久君が、学校の鉄棒から落ちて腕を骨折してしまったのである。
 私は出張していた時の留守の事で、内容の程度はさだかではなかったが、練習仲間の判断ではギブスをかけたので、最低でも二ヶ月はかかると言うのであった。
 ともかく練習日になっているので、みんなが集まった時に対策を立てる事にした。
 ともかく私は早速けがをした持田君の家を尋ねた。
 車の音がしたので多分私であろうと家族は思ったようだった。
 玄関を入るなり両親が出てきて、まったく申訳ない事をしてしまったと深々と頭を下げるのであった。
 あいさつをほどほどにし、本人と会う事にした。持田君はすっかりまいったような顔をして元気がなく、今晩はとあいさつをした。
 右うでがほうたいですっかり包まれて、一見して重傷だと感じた。
 ギブスが一ヶ月はかかると、両親はひたすら弁解とわびるばかりであった。
 私は急いで練習会場の宝薬寺へ戻った。師匠たちはすでに来ていたが、一人欠けては踊りにならないと相談をしている所であった。
 一人一人がかけがえのない役割をもって練習をしてきただけに、誰をもってそこに充てると言う余裕はない。
 獅子は三人が一組となって踊るもので、一人欠けたままでは獅子舞にならない。
 すでに全県下にプログラムの案内もされてある以上、安易な取消しは出来ないことだ。
 その時私の顔に浮んだのは、笛を練習している市川昌則君であった。
 笛の練習をするかたわら、同級生がやっている獅子の踊りを見ているだけに、市川君ならば代役が出来ると思った。
 師匠とも相談をしたが、無理であってもそうしなければならないだろうと言う結論になって、市川昌則君を持田君の代りとして指導にあたる事を師匠に頼んだ。
 約二ヶ月の期間をかけて練習をしたものを、ここ十日間でその役をこなすのは、師匠より本人が大変であろうと言うのが異口同音であった。
 私は最悪の場合として、大人の中で一番背丈の低い人を代役に充てる事も考えていたが、それは最後の最後とする事にした。
 ともかく市川君を特訓して、この急場をしのぐ以外にないので、市川君の近くに住居をもつ師匠で船戸久行氏に依頼したところ、心よく引受けて、毎晩のように市川君の家に行って指導に当ってくれたのであった。
 市川昌則君が全力を出してこの事に努力されたので、予定どおり郷土芸能子ども大会に出場することにした時は、なんとも言えないものがぐっとこみ上げてくるようであった。

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月

第五回郷土芸能子ども大会へ出演

 当日は晴天に恵まれた日であった。
 県立熊谷会館が会場である。獅子や万燈などの大きな道具類は別の車で会場へ搬入することにし、他の者はバスで行く事にした。
 獅子舞は子ども中心であったが、笛などはまだ子ども同士では無理があるので、大人の笛吹きが参加をすることにした。
 当日の子どもたちは次の者たちであった。

  出演団体  嵐山町越畑子ども会
           代表 (会長 福島和)
  大頭獅子   田島勉君(十三才 中一)
  雄獅子    市川昌則君(十三才 中一)
  雌獅子    青木勇君(十三才 中一)
  棒司     市川務君(十四才 中ニ)
  棒司     馬場徹君(十四才 中ニ)
  お供     強瀬達男君外
  花笠っ子   小学生四名
  ナレーション 強瀬晴美さん(十四才 中ニ)
  指導者    越畑八宮神社獅子舞保存会々員

 当日は越畑子ども会の獅子舞がはじまる前に、強瀬晴美さんが解説をした。
 解説のバックに笛と太鼓を流したのが実に調和してすばらしい案内となった。

 人から人へ……語り、言い伝えられて数百年、平安朝の名残りをとどめる横笛の音、歴史そのものを自から示すほら貝など、越畑八宮神社のいわれは多い。
 なかでも、獅子舞の一つ一つは、味わいのあるリズムである。……
 ことの起りを尋ねて見れば、数百年の昔、この地方に起った日照りで、大切な稲は枯れる。悪い病気は流行する。それが数年も続き、里の人たちの尊い生命がうばわれるなど、不安は日増しに重なるばかりであったという。……
 時の人々は、この難をはらうため、神や仏に願いをかけて、八宮の森に神をまつったのである。
 三頭の獅子に託して舞う。手ぶり素ぶりは世の中にみられる人と人、心と心のつながりをあらわしている。
 何百年の間、泥にまみれ、汗にまみれながら人々の生活の中に受け継がれた獅子舞が、今ここに郷土芸能として残されている。……
 田植えがすんで、野良の仕事がひと区切りする頃、この笛や太鼓によびまねかれて、嫁ごは親の所に帰れるという。年に一度のめぐりあいが、いつとはなしにこの地方のならわしになったのも、獅子舞がもたらした大きな役割である。
 私たちの祖先は限りなく平和を愛した。
 これからの人たちもずっとこれを守り続けて次の時代に伝えていく事であろう。……
 八宮の森からほら貝が遠い昔をしのばせて鳴り、笛や太鼓が、
 「おいで、おいで……」と鳴りひびく。この伝統のある限り、ふるさとは幸福なのである。
 祖先から愛し続けられた獅子舞をよりすばらしいものとして守り続けていくのが、私たち越畑子ども会の大きな役割なのである。……

 ※この解説は、昭和四十八年(1973)十二月九日、熊谷市にある埼玉県熊谷会館における、第五回埼玉県郷土芸能子ども大会に出演をした時に作成をしたものである。(文責 小沢禄郎)

小沢禄郎『すべってころんで 職工から校長へ』 1990年3月
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