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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

七郷中学校

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号

発行責任者:好田勇 1955年(昭和30)5月21日

目次

新村菅谷村誕生に際して 安藤専一

新聞発刊を祝して PTA会長・安藤義雄

生徒会長に小林君選ばる

小林峰久生徒会長挨拶

遠足

花まつり

募金状況の報告

部会球技祭決る!

運動部の活躍
 排球部準優勝す 学徒総合体育大会郡予選
 野球部 ソフト部 排球部 篭球部 卓球部

開校記念日球技大会
 越畑・杉山優勝す

各運動部の本年度の希望
 野球部 排球部 篭球部 卓球部 競技部 ソフト部

玉淀 三の二 権田秀雄

俳句
 千野ケイ子 小林久子 千野紀代子 安藤哲男 市川とく
 栗原明子  内田昭三 小沢勝

嵐山 二年 新井のぶ

岩殿 一年 権田ちか子

俳句
 奥田宝作 荒井直久 永島敏男 安藤常子 金子大作
 田中幸男 千野紀代子 内田慶子 永島重信 飯野波征
 田中巻子 永島三子 権田みよ子 小久保一徳 馬場治子
 前田天津子 栗原明子 田村伊勢治 藤野和子 島田一義
 権田秀雄 田島光男 千野ケイ子 金子房恵


 三の一 高田徳江
 三の二 飯島俊枝
 三の一 早川愛子
 二年  松本秀子

笑話
 三年 小林喜美子
 二年 高木正好

おわび
 みなさまからたくさんの原稿を、いただきましたが、紙面のつごうで、全部のせられないことを、深くおわび申し上げます。 係り

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

新村菅谷村誕生に際して

                  安藤専一

 去る四月十五日からは七郷村及び旧菅谷村が合併して、新しい菅谷村が生れた。新村名が「菅谷村」となっているため少しも新鮮味がない点は残念であるが、新村計画をよく検討すると、将来大きな希望と期待が持てるように思う。学校は菅谷村立に変り、旧役場は支所となり、本役場は両村の吏員が一所になって活気に満ちて事務を執行している。村内には東上線の鉄路が東西に横断し、嵐山駅、郵便局、銀行、商店街、工場等もあって、大字、宿を中心に将来ますます発展の可能性が強い。新村は南北に三里余に及ぶ、まるで帯のように細長い村であるが、現在人口九三六三人、世帯数は一五八二戸で、規模としてはあまり大きい方ではないが、とにかく旧村当時よりははるかに整備された町村となった。
 学校も県立興農研修所(旧農士学校)を持ち、新しく川越農高菅谷分校も開校となり、中学校二校、小学校三校を持つ村と変った。
 将来、菅谷分校が菅谷農高として独立することになれば、郡内唯一の農業高校の所在地となり、教育面でも郡内の一中心地となれるわけである。生徒会の仕事の一つとして広報部が設けられ、学校新聞を作り、全校生にいろいろの情報をしらせることは大切な仕事で、人間個々が人間らしい【印刷が悪く不明】教養を高めるために、不断の努力をつづけているわけではあるが、広報部はその助力ともなる。よい資料をあつめて、これを全校生に呼びかけるよう心がけてもらいたい。
 全国、全中学校に生徒会はあって、それぞれ自分の学校にふさわしい仕事を計画して、他校に負けぬよう努力している。生徒会は生徒の自発的な会合であって、自分たち自ら修養し、学校の課外教育活動の機会である。友愛の精神も協同の心掛も生徒会活動の中に自然と湧出されるものに育てあげたい。学校が【印刷が悪く不明】され楽しく勉強し、運動する所にするのは、実に生徒会の力である。新村誕生に際し、以上希望を述べて筆をおく。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

新聞発刊を祝して

             PTA会長・安藤義雄

 今回、七郷中学校広報部の事業として、学校新聞を発行するとの話を聞き、誠に結構な企でありますので謹んでお悦びを申上げます。それと同時にこの好い企を是非とも永く継続していただきたいと思います。世の中には何か仕事を始める時は実に遠大な計画をたて、これにたずさわる方でも張り切って居られ、準備万端調えて何度かは計画通り実行いたしますが、何かの事情で企て通りに行かず延期でもすると、心境の変化を起して、以後は全く打ち忘れた様に休業、停止という情態のものが、たまたま見受けられます。
 何事でも継続するという事は並大抵な努力ではありませんが、樹立した計画に基いて、必ず実行していただきたいと存じます。
 次に、此学校新聞を一字残らず読みつくすという事を希望いたします。
 どんなつまらないと思う様な詩歌、文章でも読めば必ず何か得るものがありますが、面白い、つまらないとか、上手だ、下手だと感じただけでも、毒にはなりません。
 尚、これを批評鑑賞したり、内容を読み耽って自己の知識とすることも出来ます。一枚のポスター広告にも教えられるものはたくさんあるものです。
 この意味におきまして、新聞全面を全校の皆さんが、全部読み残すことのない様お願い致します。
 以上、二点を申し上げて学校新聞創刊の御挨拶といたします。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

生徒会長に小林君選ばる

去る四月十六日、総会の席上、会長及び各部役員、左【下】記のようにえらばれた。
  会長 小林峰久
  副会長 安藤昌夫 甘楽八重子
  書記 永島重信 小林久子
  会計 永島牧男 馬場ウメ子

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

小林峰久生徒会長挨拶

 私が本年度、皆様のおかげで生徒会長に選ばれました小林です。
 生徒会は、もうすでに出発しているわけですが、今年は一つ大きな希望があります。それは昨年度の反省をし、本年度の計画も立てて、最も良い生徒会らしい生徒会にして行きたいということです。これは私達、本部役員も大いに努力していかなければならないことだと思います。生徒会の仕事はもうすでに御承知だと思いますが、生徒が校規を良くまもり、協力し合って、良い校風を作って行く様につとめる会です。その良い生徒会にして行くには、私達本部役員だけ一生懸命でも、皆様方会員一人一人が協力してくれなければ、どうにもならないのであります。そこで、今年は良い生徒会を作って行くという点で、生徒会の運営に大いに協力してもらいたいと思います。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

遠足

 四月二十七日、七中一同は遠足に出かけました。目的地は、一年生…岩殿山、二年生…嵐山、三年生…玉淀。少しばかり雨も降りましたが、楽しくすごせてよかったと思います。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

花まつり

 子供の日と母の日にちなんで去る五月八日、各字毎に多数の観覧者を集め盛大に行われた。特に全員が日頃練習した歌、楽器の演奏、踊り等を十分に発揮したので、観覧者は大へん喜んでいたようでした。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

募金状況の報告

 諸君のお骨折りにより赤十字募金及びカーネーション代金が左【下】の通りまとまりましたから報告します。
  赤十字募金 二五三人分 一二六五円
  カーネーション 一四二人分 一一三六円
  合計 二四〇一円也

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

部会球技祭決る!!

 部会球技祭は来る五月三十一日宮前中学校校庭で行われることに決りました。各運動部とも、それにそなえ猛練習を行っているようですが、当日は日頃練習した技術を十分に発揮するよう努力して下さい。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

排球部準優勝す
     学徒総合体育大会郡予選

 四月下旬から五月上旬にかけて、各運動部は学徒総合体育大会予選に出場し、大いに活躍した。
 特に排球部は、他の強敵を破り準優勝をとげた。

 四月三十日
野球部
 七中0−8菅中

ソフト部
 七中4−6宮中
 七中2−19福中

排球部
 一回戦 不戦勝
 二回戦
  七中2−1中山中
 準決勝
  七中2−1吉見北中
 決勝
  七中0−2吉見西中
 主将談:はじめての参加に、みんなが一生懸命やったのか、あるいは練習が良く出来ていたのか、さいわいにも準優勝することが出来ました。今後もより一そうがんばるつもりです。

篭球部
 七中0−20鳩山中

卓球部
 一回戦
  藤野知己1−2山岸専一
  飯野2−0(不明)
  内田0−2(不明)
  田畑0−2落合
 二回戦
  飯野0−細井2

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

越畑・杉山優勝す
     開校記念日球技大会

男子
 二十日
  古里13−吉田19
 二十一日
  越畑3−勝田1
 二十二日午前 第一試合
  広太12−1杉山
 二十二日午前 第二試合
  越畑9−3吉田
 二十二日午後 決勝
  越畑9A−4広太

女子
 二十日
  杉山9A−8吉田
 二十一日
  越畑15−5勝田
 二十二日
  広太16−4古里
 二十二日午前
  杉山4A−3越畑
 二十二日午後
  杉山11−9広太

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

各運動部の本年度の希望

野球部
 本年は前から希望していた名前入りのユニホームがそろい、グローブもミットも大体まに合うようになり、まことにうれしく思っています。ただボールが少なく、ベースがいたんだのしかないことは残念です。
 先月の二十八日に学徒総合体育大会の部会予選がありましたが、その時は遠足に続いたためか、練習がたらないためか、体の調子の悪い人が多く、思うように戦えず、菅谷中学に敗れましたが、今後の試合には力いっぱい戦い、良い成績を上げたいと思います。
 いずれにしても、昨年にまけない良い成績をおさめたいと思います。

排球部
 スポーツシーズンとなりました。いづれの部でもチームを作り、猛練習をしていると思います。排球部もチームを作り部員の皆様と共に一生懸命練習して行きたいと思います。
 疲れた身体に青葉の風はそよぐ。この青葉の風を便りに【?】この良い季節を忘れず、部員の皆様と一生懸命頑張ましょう。

篭球部
 一、本年度は練習中にまじめに、又一生懸命やって、又全員練習するようにしたい。
 一、練習試合も多くやってみたい。又よその村ともやってみたい。
 一、チームワークをもっとよくして行きたい。

卓球部
 運動の季節となりました。卓球は今年は部員が非常に多く、二台の卓球台では練習も十分に出来ず、組を二つにわけて、練習を十分にやり、部会球技大会には良い成績をあげたい思います。
 又、菅谷、宮前等と練習試合を行い、他の学校と親善を深めたいと思います。又、夏休みにはコーチをたのみ、よくしこんで強くしてもらいたいと思います。

競技部
 私たち競技部は秋にそなえていっしょうけんめいに練習し、良い成績を収めようと努力します。
 今年の新人大会には期待出来ると思うので、今年の夏休みには、大いに練習したいと思います。
 駅伝は二年連続優勝しているので、今年も引続き優勝したいと努力したいと思います。

ソフト部
 木の葉もきれいに芽生え、今年も運動のシーズンとなりました。
 今年度も昨年に引続き頑張りたいと思っておりますが、特に、基礎練習に重点をおいて、しっかりやろうと思います。運動練習は放課後、庭に出て、大勢の人にやっていただきたいと思います。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

玉淀

        三の二 権田秀雄
 遠足、ことに玉淀と聞くと、僕は懐しい。それは、僕の生まれ故郷であり、母の実家だからである。玉淀は母の実家より、一キロぐらいの所にある。小さい時は、母につれられてバスで寄居まで買物に行ったり、花見などにも来たそうだが、小さかった僕には、今は何の記憶ものこっていない。
 終戦後、満洲から引き揚げて来てから、母と妹が母の実家に世話になっていたので、試験休みにはよく妹や兄と一緒に、母に会いに行ったものだ。その中で最もうれしいのは、電車にのることであり、あの鉄橋を渡る事だ。玉淀は遠くからよくながめたが、あらためて来たのは、三年生になってから、皆と遠足した時だけなので、初めて来た様な気がしてならなかった。
 遠足の前の晩、母はこんな事を僕に話した。「今見るとなかなか立派な橋だが、その昔は、東上線の鉄橋のちょっと上にかけられたせまい橋で、寄居小川間の馬車が『ガタゴト』と渡った。」と言うことである。今から三十四、五年前に造られたそうだ。しかし、毎年の大水でいつも押し流されてしまい、次に橋が出来るまでは、渡し船で船頭さんが長い竿を立てて、舟唄を歌いながら、渡してくれたそうである。しかし、こんなことをいつまでもくり返していては、不便であるというので、折原とか鉢形とか(母も記憶がない)の人が、個人で造ったとかいう事である。渡り初めの御祝には、花火などより、無料という事で、大した人出で、母も渡りに行ったそうである。何としても大正時代の事なので、物めずらしく、わざわざ二銭払って渡りに行ったとか。その後しばらくしてから、県で買い上げて、今もって便利であるが、大水が出ると正喜橋が危ないというので、母の実家の前の工夫さんは、よく出かけたと言うことである。「便利になったが、やはり馬車で渡ったり、船にのったりして、鉢形の呑龍様へ連れて行かれた頃の時代がなつかしい。」と母は昔のことをなつかしそうに話した。僕は今、遠足に来て、母の思い出話を思い出しながら、友達と一緒につりばしを渡った。雨に降られたが、若葉の玉淀は、やはり楽しかった。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

俳句

葉ざくらの色こくなりて初夏に入る 千野ケイ子

白いバラ学校園に微風来る 小林久子

にごり水ちらして父と朝田かく 千野紀代子

晴々と心明るし入学日 安藤哲男

にぎやかに小鳥もまじる吹流し 市川とく

朝のまどみなあけはなち新樹かな 栗原明子

夜の田によぼりのかすむ灯が見える 内田昭三

池の面やつつじをつつんだ若葉かな 小沢勝

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

嵐山

       二年 新井のぶ
 だんだん山が高くなってくる。ほそい山道をわらびを取りながら、登って行った。大門さんといっしょにつつじを取ったりした。向こうの方に菅谷の学校がぼんやりと見えた。「きゃあきゃあ」いいながら、登って行く内に下り坂になった。足が「ガクンガクン」と音がするようだ。なかなか坂を下りきれないので、走り出してしまった。道が曲っているので、なかなか走りにくい。やっと下までおりて来た。「ああ、つかれた」と何の気なしに口にもれてしまった。
 嵐山へ入る門の所には、番をしているらしいおじいさんが立っていた。おじいさんのゆるしを受けてから門の中に入って行った。緑の若葉の下を通ったら、菅谷の生徒も来ていて、松の木の下でお弁当を食べていた。私は松の木がもさもさしている所に腰をおろした。「何を食べようかな」と言いながら、袋の中から菓子を取り出して食べた。せっかくの遠足が雨でつまらないなあと思った。昨日あんなに「天気になれ」と言ったのに。そんな事を思いながら、まだ早いのに弁当をたべて、川におりて行った。川の中に入りたい位にきれいな水だ。石がゴロゴロしていて、ころんでしまいそうだ。手に大きな石を持って来ては、川の中に投げ始めた。私が砂を水の上にさらさらとこぼすと、しずかにしずむ。雨がいっそうふってきたので、屋根とかべが少しついた粗末な家の中で雨やどりをした。二十分ほど立つと、小降りになったので、又川原におりて行った。十二時になったら集まれと言うので、近い所で遊んでいた。
 笛がなった。集合場所へ飛んで行った。雨もやんだので帰りは良いなと思った。先生が「今度は鎌形の八幡様へ行くから」と言った。嵐山の細い橋を渡って山の中へ入っていった。山の中にはつつじがうす赤い色をしてさいていて、とてもきれいだ。今度ここへ来るのはいつだろう。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

岩殿

       一年 権田ちか子
 空はどんよりと曇っていた。それでも遠足に行く朝かと思うと、私はうきうきしていつもより早くおき、母の牛乳をとりに行って来た。お弁当が出来ると母は私のために髪をとかして新しい桃色のリボンを結んで下さった。私はうれしくて胸がいっぱいになった。
 母に見送られて元気よく家を出ると気持よい若葉の香りが朝風に送られてきた。やがて県道に出ると後から動物園行きのバスが勢いよく走ってきた。小さな窓から隣の恵ちゃんがうれしそうに首を出したので、私は思わず手を上げて、見送った。集合地の場所まで来ると友達も大勢来ており、店開きした露店で男の人が色眼鏡を買って得意になっている者もいた。
 八時には、校長先生のお見送りを受けて私達一年生は集合地を元気に出発した。緑の山々につつまれた野道を進んでゆくと、美しい茶の花やれんげ草の畠が次々とくりひろげられて、私達はその度毎(たびごと)に喜びの歓声をあげた。
 一時間許りの後、都幾川について川原の芝地で休むことになった。皆んな「わー」と水ぎわに走って行ったが、その中、永島さんが大きなうなぎをつかまえて皆んなを「あっ」と驚かせた。うれしそうな永島さんの姿を早速、先生がカメラにおさめた。
 集合の笛が鳴ると再び歩きだした。神戸(ごうど)の部落を通りすぎると雲行きが悪くなり。ぼつぼつと雨が降って来た。皆んな用意してきたナイロンのふろしきをかぶった。曲った山道を登って行く。色とりどりのナイロンの姿は美しい。
 愈々岩殿に入った。百三十の石段を登りつめると、母からおききした仁王様が左右に立っていた。身体中至る所に小さくまるめた紙がぶつけてあった。真っ赤な仁王様はほんとに恐ろしい顔をしていた。それから何軒もの茶屋の前を通り頂上に登った。霧が深くて見通しがきかないのが残念だった。解散後、真下さんと雨のかからない松の下にふろしきを広げてお弁当にした。お母さんにつくっていただいたおすしがペチャンコになっていたが、ずい分おいしかった。

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

俳句

つばくろがえさをさがして麦の上 奥田宝作

雨あがり静かになびく麦の顔 荒井直久

桑の木のかげにくわつむ母はおり 永島敏男

そよ風が葉うら返す五月晴れ 安藤常子

太陽はなぜこんなにまぶしいか 金子大作

麦青し葉の下影に雨蛙 田中幸男

田んぼ中水にうつるは牛の影 千野紀代子

夕やみにかえるの声もたからかと 内田慶子

朝つゆにぬれて草かる気持よさ 永島重信

空晴れてゆらりゆらりとこいのぼり 飯野波征

にわとりを犬がおってくけけけけけ 田中巻子

すいすいと川ばたとんでるつばめかな 永島三子

朝の沼明るく咲や花しょうぶ 権田みよ子

夏の夜田んぼにぎわすかへるかな 小久保一徳

うららかなさつきの空の鯉のぼり 馬場治子

青々と野道をそめた若葉かな 前田天津子

大きな農家にゆったりゆれる吹き流し 栗原明子

野に山にとんぼすいすいきらめかし 田村伊勢治

花まつり子供にこにこ甘茶のみ 藤野和子

みんみんとねむりをさそうせんみ達 島田一義

道そうじ終りて休み春の風 権田秀雄

麦の穂に波うちよせる丘の上 田島光男

葉ざくらの色濃くなりて初夏になる 千野ケイ子

ひばりなく広い空には雲一つ 金子房恵

にごり水ちらして父と朝田かく

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

       三の一 高田徳江
すずしい風がサーッとほほをなでる
一人でたんぼ道を歩いた
なんとなくサクサクと
草をかるような音がする
音の方へ足を向けた
草の中から名も知らぬ鳥が
鳴きながら
向こうの茂みに消えて行った

       三の二 飯島俊枝
   朝
さわやかな朝風にのって
ラジオの音楽が聞こえる
新鮮な空気と明るい朝のひざしが
庭や室内にいっぱいあふれている
朝のひととき

       三の一 早川愛子
初夏の風がどこからとなくやって来た
青葉をそっとゆすってみる
葉はこっそりとゆれる
風はどこかへ消えうせる
私達は夏を感じる
来年もやって来るこの風

       二年 松本秀子
   五月の朝
若葉がかおる五月の朝
すがすがしい朝
空気をいっぱいすって
空を見上げると
すんだ青い空に
つばめがすいすいと
とんで行った
朝、朝、五月の朝
さわやかな五月の空に
こいのぼり
山ぐみを見知らぬ馬が
食べている

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日

笑話

   泣く子はバカ 三年 小林喜美子
母「泣く子はばかだよ。」
幼子「となりの子は泣いたからばかだね。」
母「どうして泣いたの。」
幼子「ぼくがあめとったら泣いちゃった。」
母「…………」

   ゆめ 二年 高木正好
A「ぼく夕夜、飛行機にのったゆめみたよ。」
B「どんな気持だった。」
A「ゆめみたいだったよ。」
B「……? !!」

   あべこべ 二年 高木正好
兄「ばかやろう」
弟「あっ、そうだ!!。」
兄「なんだ。」
弟「ばかと言った方がばかだって、お父ちゃんが言ったい。ざまあみろ。兄ちゃんのばか。」
兄「まいったあ。」

   泣く子は良い子 二年 高木正好
花子「お母さん、泣く子はいい子なの?。」
母「どうして?。」
花子「だって、となりの子が泣いていたら、おばさんはいい子だといって、お菓子あげたわ。」
母「?。」

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号 1955年(昭和30)5月21日
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