第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
旧制中学校・高等女学校
軍隊見学の感想
三乙十八号 栗原正敏
あこがれてゐた軍隊を見学した僕の心には何が一番深くきざみこまれたらう。
感想とは一がいに言ひないが兵隊と一しょに宿泊したのでまあ感じたこといろいろを記す。
初め隊に入った時にはどこを見てもカーキー服の兵隊さんばかりが目に着く。会ふ度毎に先生に敬礼する。なんだか僕等が敬礼されてゐるような気がして妙にむづかゆいような気がする。これだけでももはや得るところはあった。
上官に対する礼儀。まったく規律正しいものだ。僕等は学校で先生に会ってもなるべくならば礼をもうけようとする。まったくもってはづべき次第だ。至ってもってにぶい僕の頭にもこれだけは残った。残ったから得る所はあったのだ。
庭で各中隊に分けられていよいよ兵舎に入る。まだ各班には分れない中にまた庭に集合し機関銃教練見学に向ふ。広い所で教練をやるのかと思ったならまったく広くないところだ。ここで感じたのは兵隊の手の振り方の面白い事だ。後には少しも振らないで前にばかり振って丁度玩具の人形の手の振り方見たいだ。
然し兵隊さんは真じめだ。本気だ。そして汗みどろになって練習してゐる。僕等も笑ふわけにはいかない。一生懸命見てゐた。すると教練をやらせてゐた眼鏡をかけた軍曹ぐらいの兵隊がどうしたのか知らんが矢庭に一人の兵隊を列中よりずりだした。どうするのかと見てゐると大きな声で今のあるき様はどうしたのだといってつゝついた。兵隊は足がゐたいでありますといった。軍曹は足がゐたければ事務室に行けといってつつついた。兵隊は行って参りますと云って出掛けた。目には涙をためてゐる。
僕の頭には釜のしりにすすがついた如くに此の事はきざみ込まれた。軍曹の奴生意気だ。
あんなにまでしなくても良いだらう。僕は軍曹の仕打がにくくてたまらない。後で少尉殿の機関銃の説明があったがにくくてまらない軍曹の方にばかり気を取られて又伝書鳩がゐたのでそれにも気を取られて半分以上聞き落したかも知れぬ。何にしても一番忘れられないのは此の一事だ。○○少尉の説明終って、誰かかついで見たいものはないかと云った。僕は早速かついで見た。とても重い。肩が折れてしまひそうだ。下そうと思ったらかけ足前といふ号令が下った。命令かしこまってかけ足したがずいぶんと重かった。 次に軽機関銃の教練を見た。別に何も感じなかった。ただ服のよごれたのを着てゐたといふことが目に残っただけだ。
各中隊に帰って昼食を食った。弁当を食ひ終ったならそこに昼食が運ばれた。
可笑しい、可笑しいと思ってゐる中に伍長が来て早く食ひといふわけだ。いくら食ひといったって今弁当を食ったばかりだ。然し軍隊に往ったら何でも命令を聞けといはれたので食った。然しほんの手をつけたに過ぎなかった。
一人軍曹が来てこの位食ひなければ教練をしてゐる甲斐がない。兵隊になれないなぞと云った。僕は軍隊では昼食を二度食ふのかと思ったらば命令のあやまりだそうな。なんだ僕だって弁当を食はなければ此の位の飯は二人分位食へると思ったが弁当を食ったので食ひきれなかった。然し腹一ぱいの上に少しでも余分に兵隊の飯を食ったので腹をこはしてしまった。其のために目指してゐた夜の飯はこれ又ほんの手を付けたのに過ぎなかった。夕食後入浴にゐった。浴室には数人の兵隊さんがはだかになってゐた。僕も兵隊の気になって共に湯に入った。話をしてもいつも兵隊は気持のよいものである。
班に帰って寝てよいのか悪いのかもぢもぢしてゐると中隊長代理だといふ伍長が来ていろいろの事を話してくれた。なかなか親切な人であった。そして終に寝台のね方を説明してくれた。誰かねて見る者はないかといったので僕は早速入って見た。きうくつなものである。
時間が来て点呼を受けて寝台にもぎり込んだ。すると班長が来て兵隊を全部起していろいろと学課の試問をやった。なかなか元気のあるものである。できなければできませんと答へる。僕等の様にぐつぐつはして居ない。
成程ああゆうにやれば三年生は意気地がない、元気がないなどといはれなくもよいと思った。其の中に寝てしまった。朝の起床時間前十分ばかりに目がさめた。六時一分前位の時に起きろと大きな声で兵隊さんが廊下をどなってあるいた。僕は飛び起きた。いつも家にゐては起されてから一時間もぐつぐつしてゐるのであるが其の朝は自分も兵隊の気でゐたから起きられた。点呼を受けてから顔を洗ひ湯に入った。
七時に朝食。朝食後一時間ばかりして軍隊の各部を見学した。靴屋もゐれば服屋もゐる。なるほどこうゆうにやれば戦時に便利だと感じた。
十時別れをしき第二聯隊を去った。
全体ヲ通シテノ感ジ
一、規律正シイ
二、厳格デアル
三、上官ニ対スル礼儀厚イ
四、元気デアル
五、器具ヲ大切ニスル
健康は成功の基なり
昭和4年(1929)6月5日
第4学年乙組14番 栗原正敏
頭のよい秀才が体の弱いために学校を卒業すると病気になって国家のためにつくすべき務を果さずに、又希望をいだいたまま死んでしまふというのはよく聞くことである。此のやうな秀才が若し健康な体の持主であったなら、国家のため、いな人類社会のためにいかにか役立つことをするであらう。死んで行く身になっても、いかに残念なことであらう。それにひきかへ、学校はやっと卒業しても、成功するものは少くない。それらは皆健康な体の所有者である。
総理大臣田中義一を見よ。彼は健康なるがために実に今日をきづきあげたとしても過言ではあるまい。彼が運がよかったとしても、彼にあの体がなかったなら、今日の位置は得ることは出来なかったらう。
又、彼の伊太利首相のムッソリニを見よ。彼は十幾つかの大臣を一人で兼任してゐるではないか。そして事務の急がしいために、僅か四時間とかきり寝ないといふ。若し彼の身体が弱ければ、彼の命は一月もつづくまい。彼は健康なるがために伊太利を一人で背ってゐるのである。
又、我が県出身の渋沢栄一にしても、あれだけの体に、無理をしても病気にならぬといふは、彼の体の健康の然らしむるところである。体が弱くて出世したといふものは、まだ僕は聞いたことがない。健康なればたとひ失敗してもまだ望はある。死んでから成功したものは、まだ僕は聞いたことがない。先づ健康、健康は成功の基。実によく言い表はした言葉である。評:体が弱くても成功した、貝原益軒先生の如き、或は高山樗牛の如き人もあるが、これは例外とすべきであらう。
緊縮
昭和4年(1929)9月18日
第4学年乙組14番 栗原正敏
時、現代。場所、中学校の蹴球部脱衣場。登場人物、部員数名。
なんだかこう書くと、劇みたいになってしまふが、何んにしても数名が雑巾の切れ端みたようなものの固りを前に置いて話し合ってゐる。よくよく見るとユニホームらしい。らしいではない。歴史あるユニホームである。破れた仲にもあの〈中〉だけはさんぜんとして光り輝いてゐる。して其の論題は如何。論題は言はずとも知れたる緊縮である。
或者曰ク。「ずいぶん破れたなあ。これでは改造の時期にあるな。」此の言も無理はない。ユニホームとは名だけ。ずゐぶんとよく破れてゐるのである。又或者曰ク。「馬鹿言ひ。今は緊縮の世の中ではないか。」「然しいくら緊縮でもこれではなあ。」亦一人言ふ。「これでは試合が出来ないや。」亦言ふ。「なあにかまふもんか。その敗れたユニホームを着て、胸に緊縮中学とでも書いた布をはれば大したもんだぞ。」こう言ふ馬鹿にえらい君子もある。
以上は少し軌道をはづれてゐるかも知れぬ。然しだ。世の中の人、皆此の君子の如き心掛けを持ったならば、今日の「経済問題」などは早速解決出来得ると思ふ。緊縮、緊縮。私が此の語について今更説明する迄もないと思ふ。現内閣もモートウとして進んで居られる。私は真に現内閣の緊縮政策に同意する。
私は最後に言ふ。諸氏よ緊縮せよ。
我が癖
昭和4年(1929)10月23日
第4学年乙組14番 栗原正敏*1
或日曜日であった。私は友人の家に遊びに行った。
「今日は」帽子を取って座敷に上った。友は感心にも勉強してゐた。「やあよくきたなあ」「おい馬鹿に勉強家だなあ」のあいさつの後、私は机の本を見た。いつもににずよく勉強してゐると思ったから。
私の考は適中した。その本は、その題目は「曽呂利新左衛門一代記」。あはははは。私のいつものあの笑はたへることは出来なかった。友も笑った。私は自分が初めに笑って他の者がそれに同意すると、後はなんでもないのに大きな声であははは、あはははと笑ふのが得意である。学校では得意になってあはははを連発するが、その時はそれはいやな悪い癖となって私の面目をつぶしたのであった。
「おい静かにしろ」それは友の父であった。何かの要談で一生懸命に談じあってゐる最中だったのださうだ。はっと思ったら又出た。他から聞いたらいかにも馬鹿にするげに聞えたにちがいない、すると今度はすぐとなりの室で赤ん坊の泣き声が聞えた。「だめぢゃないのお前」とこういったのは友の母らしい。赤ん坊は泣く。友の父の室では「お茶をもってこい」と友人の母にいふ声が聞える。が、よけいに赤ん坊が泣く。
此の時には、はっとして顔の赤くなるのを禁じ得なかった。*1:1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。四年乙組在学中の作文である。
小品集
昭和4年(1929)11月6日
第4学年乙組14番 栗原正敏秋の夕暮
「うまいなあ」とどなる声が頭の上でした。仰向いて見ると柿の葉がちらちらと落ちて来た。「兄ちゃんにも取っておくれよ」と下から兄は言ふ。「いぢめるからいやよ」といふ声も淋しげである。と仰向いた口には柿の種が落ちた。
「かんにんしてよ」といふ声はつづいて淋しげに寒そうにひびいた。附近の寺の入相の鐘は淋しげに夕闇をぬってひびいた。小春日和
ぽかぽかといふひづめの音があたりの静けさを破って聞えた.騎兵が二、三人かけ去った。斥候らしい。
突然、後の山からぽかぽかといふ銃声がひびいた。
二、三の兵隊さんが鉄炮をかついで歩いてきた。ぱかぱかと煙草をすってゐる。と、どこからともなく「兵隊さん何処へ行くの、兵隊さんは知らぬ顔」といふかはいらしい声がした。
運動競技所感
昭和4年(1929)11月20日
第4学年乙組14番 栗原正敏
近年各種の運動競技は非常な勢で発達した。我が国の体育上から見ても喜ぶべき現象ではあらう。然し運動競技の末は試合の結果に走りすぎはしないであらうか。体をねるべき運動競技に於て体をこはす様なことはないであらうか。こう考へるとなんとなくうたがひを起さずにはをられない。運動を過度にやったために体をこはすのならやらない方がよい。然し何も運動せずに勉強ばかりしてゐる者が果して丈夫であらうか。私はすぐに青い顔を予想する。
して見るとやった方がよいらしい。もっともやった方がよいから運動競技が発達するのであらう。
私は運動競技は大いにやった方がよいと思ふ。此の中学にして見ればまだまだ運動がたりないと思ふ。学校の授業が終れば皆急いで帰ってしまふ。そして勉強する。運動をしようと思ふ感心な人がゐても運動して居れば成績が下るからよす。だから自然に体の弱い人が多くなるのであらう。
そして学校を休む。だから出席率が悪い。ほんたうに運動して体を丈夫にしようと思うなら学校では運動時間をもっと多くした方がよいと思ふ。そして選手にばかり運動させずに皆同じにやらしたがよいと思ふ。そうでないと選手ばかいる運動競技となり、運動の健全な発達は望まれないであらう。※評点は「乙上」。「学校、特に我が校【松山中学校】の運動について論じてゐるが偏してゐると思ふ」との講評が朱書してある。
つはもの漫画「ほまれ」の煙*1を読みて
第4学年乙組14番 栗原正敏
題からして面白さうだ。面白さうだから読んだ。何程(なるほど)面白い。一流の漫画家が書いたのであるから全く面白い。読んでゐて一人でくすくすと笑い出した。誰も居まいかと思ふてまはりを見まはした。誰も気がつかなくてよかった。
全く一人でも笑い出す位面白かった。此の本を読んで一番感じたのは面白かったといふことだ。
然し面白いばかりではなかった。まったくよく兵舎の様や兵隊のさまがよく書き出されてゐる。兵隊の面白味、愉快味のあほるるような又男らしい快活な而もユーモアに富んだ生活を鋭い観察と軽妙なる筆とによってよく描き上げられてゐる。何んだか読んでゐると自分が兵隊さんになってあたかも軍隊生活をやってゐるやうな気がする。
春が来た。兵隊さんにも春が来た。銃剣をよく御覧。輝き渡る剣にも春の青空がうつって居るでせう。靴の爪先を御覧。陽炎(かげろう)が躍ってゐる。目廂に近く黄白い蝶々が舞ってゐる。醜(みにく)い馬糞からもあんな美しい陽炎があがってゐる。
兵隊さんにも春が来た。兵隊さんの生活にも詩がある、歌もある。何も兵隊さんはおそろしいものじゃない。自分は[原稿がちぎれていて一字不明]のような詩もあり、歌もあるようなのどかな練兵場に[二字不明]からあがる美しい陽炎を見つめて可憐なる草の上に寝【二字不明。「そべ」カ】ってゐるやうな気になった。赤いシャッポの兵隊さんが【二字不明】い。何だか今にも兵隊さんになりたい気がする。*1:兵隊漫画。一平・千帆・しげを他絵。織田書店。
*2:目廂(まびさし)…目庇。帽子のひさし。
卒業生諸君を送る
昭和4年(ママ)1月22日
第4学年乙組14番 栗原正敏
我々は茲に光栄ある第三回卒業生諸兄を送ることになりました。かへり見ますれば過去四年間我々入学以来今日まで唯一の上級生として我々をお導き下さいましたのは兄等であります。我々は中学といふと上級生は恐ろしい者とばかり思って居りました。然し入学して見ますと上級生は恐しくなんともありませんでした。かへって実の兄よりも親切に我々をみちびいてくれたのであります。
然しながら最早諸兄とお別れせねばならぬこととなりました。今茲にて兄等とお別れするといふことは淋しく名残をしく不安でたまりません。然しながら之は私情であります。行って下さい。国家のために。
我等は足らざるながらも兄等の後を受けつぎ兄等によってきづき上げられたる我が松中の歴史を校風をきづつけません。否より以上向上せんことに努力します。
而して兄等をして後顧のうれひなからしめんとちかひます。
今後兄等の進む道には険しき山そびえ怒濤さかまく海が横はって行路はすこぶる多難であると聞いてをります。そは平和なる中学生活にくらべてずいぶんと苦しいことでせう。然しながら兄等の胸にはかっこたる自信がついて居ると信じます。どうか其の精神をもって目的地に向って進んで下さい。
荒海何者ぞ、険山何者ぞであります。
成功の頂、目的の彼岸は双手を上げて兄等を歓迎するでせう。かくして我が松山中学の名が世に大いなる権威を持つに至る時それは確かに諸兄に対する讃辞であります。どうか諸兄よ第三回卒業生としての栄誉を十分擔うて下さい、我々は諸兄とお別することを心淋しく思ひます。
併しそれは私情であります。行って下さい。国家のために。我々は兄等の門出を祝福します。
兄等御自愛下さい。而して成功の彼岸に達し我が松山中学の名声を否日本国の名声を高めて下さい。
兄等の身に幸あれと我々一同お祈りしてやみません。
一言もってお別れの辞といたします。