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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

旧制中学校・高等女学校

請願書

顧ふに欧州の戦乱は各国共に女子の実力を認め女子教育の普及徹底を期せんか為大なる努力を傾注するに至り我国に於ても時代の要求に応して女子教育に対する自覚を促し従って女子の向学心非常に高まり尋常小学校以上の教育を受くるもの漸く多く特に県立高等女学校入学志望者も逐年増加し或は遠く東都に遊学するものあり然れとも静に之を考ふるに女子をして遠く父母の膝下を離れて修学せしむるは子女の訓育上考慮を要するものあるは勿論家庭の実情に伴はさるの憾(うらみ)あり是に於てか小川町当局者並有志は深く之に鑑み女子教育の振興は現時の急務にして延(ひ)いては地方開発に貢献すへきものあるを感し奮然之か計画を建て修業年限四ヶ年実科高等女学校を小川尋常高等小学校に併設し以て温良質実なる女子養成機関とし一面女子教育の為憂慮しつつある地方人士の希望に副はんことに努めたり而して本年四月に於ける同校入学志願者を調査するに比企郡菅谷村以西は勿論外秩父及大里郡の西部に亘(わた)り実に一町十七ヶ村に達せるの状況にして之即当地方に女子中等教育機関の必要なるを証明するものなり抑〃(そもそも)小川町たるや戸数一四〇〇人口七千余に過きさる小都会なりと雖(いえども)鉄道開通以来煩に進展の気運を示し近く八王子高崎間敷設鉄道交叉する暁に於ては生徒通学上更に大なる利便を来たし通学の範囲は益々拡張せらるへくと存候 就ては敷地及び校舎建築に要する費用は寄付可致候に付小川実科高等女学校を昇格して県費移管の儀特別の御詮議に頂度関係町村連署の上此段奉願候也

菅谷村役場『昭和2年学務部』綴

 県立中学校開設について、松山町と小川町との間で熾烈な招致合戦が展開されたが、1922年(大正11)3月、松山町設置と決定され、翌年4月県立松山中学校が開校した。続いて、県立高等女学校設立についても松山町と小川町で招致運動が繰り広げられた。
 小川町では1925年(大正14)4月、小川尋常高等小学校内に小川実修女学校を、松山町では翌1926年(大正15)、松山実科高等女学校を開校した。小川町では同年11月、県に実科高等女学校設置申請を提出し、翌年2月5日に認可されたので実修女学校を廃止し、埼玉県小川実科高等女学校が小川尋常高等小学校の三教室を使用して4月開校した。
 実科高等女学校開校に続いて県立高等女学校への昇格運動が展開された。近隣の村々を引き入れ、小川町は8月6日、県に昇格を陳情し、11月には町会で県立高等女学校が認可された場合、1927年度・校地8000坪、28年度・7万2000円、29年度・2万5000円を校舎建築費、運営費として寄付することを可決した。「請願書」は、1927年(昭和2)7月27日に小川町から菅谷村役場が受け取ったものである。
 同年12月、県会で設置が可決され、翌28年1月から新校舎建築を開始、4月1日、埼玉県立小川高等女学校が小学校を間借りして発足した。女学校が新校地・新校舎に独立したのは1929年(昭和4)9月だったが、敷地の他に校舎建築費など工事費の70%近くを負担した小川町をあげての県立高等女学校誘致運動はここに結実した。

参考文献・資料
 『小川小学校誌』(1989年11月)190頁〜195頁
 『小川町の歴史 通史編』下巻(2003年7月)438頁〜440頁

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