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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

菅谷小学校

東松山市・滑川村からの越境通学問題

 『嵐山町報道』に7頁にわたって掲載された菅谷小学校、菅谷中学校への東松山市上唐子(かみがらこ)と滑川村六軒(ろっけん)(現・滑川町六軒)からの区域外就学(越境通学)問題特集を掲載する。

現在までの経過

昭和30年(1955)頃
 東松山市上唐子地区、滑川村六軒地区の児童生徒の一部が、嵐山町に寄留の形で菅谷小中学校に通学
昭和34年(1957)2月18日
 菅谷村長、教育委員長と東松山市、滑川村の首長、教育委員長の間で「学齢児童生徒の教育事務委託に関する契約書」を交わし、行政措置で区域外よりの就学が行われることとなる。
昭和45年(1970)
 この頃より、菅谷小学校の就学児童の急激な増加が始まる。昭和50年(1975)までの5年間でおおよそ倍にもなっている。
昭和49年(1974)1月
 嵐山町と滑川村の間で、議会の議決を経る委託に関する協定書作成という方向で、受入の期限も含めて協議を始める。
昭和49年(1974)7月
 東松山市とも協議を開始。
昭和50年(1975)3月1日
 六者(嵐山町、東松山市、滑川村の首長、教育長)会談で、今後のスケジュールについて打合わせ。
昭和50年(1975)3月
 それぞれの議会で協議書を可決。
昭和51年(1976)9月24日
 上唐子地区より嵐山町議会に請願書。この件は30日に文教厚生委員会に付託とされた。
昭和51年(1976)12月17日
 嵐山町議会第四回定例会で前記の請願は期限つきで継続審査となった。また、六軒地区より陳情が出されたが、本会議で不採択となる。
昭和52年(1977)1月19日
 第五回文教厚生委員会。請願者から請願撤回の申し出があり、審議は停止となる。
昭和52年(1977)1月25日
 臨時議会で撤回を承認。
昭和52年(1977)1月26日 東松山地方庁舎で関係市町村の首長、教育長会議。
 町内では、菅谷を中心に、期限延長反対の住民運動が始まる。
昭和52年(1977)2月4日
 東松山市長より期限延長の依頼文書。
昭和52年(1977)2月8日
 六者会談の結果、三市町村長による協議どおりの実施の覚書。
昭和52年(1977)3月2日
 上唐子地区より、一年期限延長の確認要望書出され、翌日嵐山町長の回答がなされた。

『嵐山町報道』265号 1977年(昭和52)3月

区域外就学問題 ——その経過を町長に聞く

  新学期を間近にひかえて、東松山市上唐子、滑川村【現・滑川町】六軒両地域からの、嵐山町菅谷小学校、菅谷中学校への区域外就学問題が焦点になっていま す。長い間、通学していた児童生徒になぜそれぞれの地区内の学校に帰ってもらわねばならないのだろう。三市町村当局や、区域外就学児童や、その父兄との約 束はどうなっていたのだろう。教育についての法律ではどうなっているのだろう。……日刊紙などにはたびたび記事となっていますが、それだけでは、なかなか 経過がつかめず、気になっている方も多いと思います。この問題に対して、報道では、昭和五十年の嵐山町・滑川村・東松山市の間の協定書(後述)に触れた以 外は沈黙してきました。これほどこじれると予想しなかったことと、問題が表面化してからは、微妙な問題であるため、扱いによっては予想せぬ結果を生むとい うことをおそれたためです。しかし、ここでひとつの期限を迎えることと、独自の判断ではありますが、状況の固定化ということで、関根嵐山町長、阿部教育 長、議会の長島文教厚生委員長、井上副委員長に対して、その概要についてインタビューし、それをもとにここに掲載することになったわけです。一方の側から だけの話という弱味はありますが、これに当たった編集委員としては、協定書、議事録などの文書を参考にしながら、客観的事実関係をはずさないように、細心 の注意をはらったつもりです。そのためもあり、ただ、問題の時間的流れと背景についての掲載にとらわれすぎた面はありますが…………。

三月七日(月)
場所 嵐山町役場応接室

——区域外就学のはじまった時期と背景、それからその当時の行政ベースでの了解事項がありましたらまずお聞かせください。

町長 ずっと以前から東松山市及び滑川村からの嵐山の小中学校に、ある程度の数が寄留をして通っておったのですが、ただ寄留では気の毒だということで、まず昭和三十年代から滑川村と協議をして正式に行政ベースに乗せた上で受け入れるようにしたのです。
  そういう際の文書には、いつでも嵐山の施設や設備の都合で受け入れを許すことができない場合にはお断わりしますよという一項がついています。たとえば昭和 四十五年(1970)三月一日に私及び嵐山町教育委員長と滑川村長及び同教育委員長との間で取り交わした協議書には、「甲(嵐山町側)は、就学すべき当該 学校が施設整備、その他の関係で就学させることが困難な場合は、保護者の申し出に対し承諾を拒否できるものとする」−来たいと言っても拒否できますよとい う一項が入っています。
 だから区域外就学の背景となった理由は、こっちが欲しいから来てくれと言ったのじゃないのです。にせ寄留をやって隠れた 形であるから、これを正規の行政ベースに乗せてやっていこうじゃないかということで、学校教育法施行令九条の区域外就学によってやってきたというのが事実 です。

——そうすると、新聞等に昭和三十年ごろの教師の確保や学級増を目的に菅谷村が入学を勧誘したというようなことが出ているのですが、この点についてはどうですか。

文教厚生委員長(以下「委員長」という) 昭和五十年(1975)三月十三日の定例議会で町長は議員の質問に答えて
 「お答えいたします。御指摘になりました問題は、今度の協議の最中にもこのような論法が出てまいりました。嵐山はかつて学級数が足りないときにうちの方か ら引っ張っていって学級編制をしたじゃないか、急にここへきてばっさり切るということは無慈悲であるというお話がありました。
 私の方は、当時、 教育委員会並びにその後の村長、町長としての経験で申しますと、少なくとも行政機関がそのような措置をとったことは一度もありません。これは明言できま す。ただ担任の先生あるいは学校長さんが懇意なところへ行ってひとつ来てくれないかというようなことがあったやに聞いています。その程度でございます」と 述べています。
町長 それが事実です。強いて言えばそういうことがあったのではないかなという程度です。行政ベースじゃ全然ないです。

——そうした経過をたどるうちに二年前に協定書を取り交わして区域外就学者にそれぞれの市と村へ帰ってもらおうということになった理由は何ですか。

教育長 昭和四十五年ごろからの児童生徒数の急激な増加(現在菅小は四十五年の約二倍になっている)で嵐山町の実情が受け入れ困難になってきたということが第一番目です。
 それともう一つは、学校教育法施行令第九条の区域外就学という制度、教育委員会同士の協議書によってずっと受け入れてきたのですが、やはり学校教育法第二十九条に基づいて自治体の責任でもとの姿へ戻そうということが第二番目です。
 この二点で教育委員会とすれば協議を始めたということです。
町長  いまの点がまず基本です。もっと言うと、生徒の急増が見込まれて、適正規模以上の水準になってくると将来学校を分離しなくちゃいかぬ、約百七、八〇名もの 大ぜいの人間を委託を受けてやっていることが、新しい財源を見つけて学校をつくるという行動に対して住民から抵抗がある、これを整理をしてからでなけりゃ 新しい学校もできないのではないかというのが、昭和四十九年ごろの議会の意見だったわけです。
委員長 菅小、菅中ともあらゆる面が飽和状態であるという観点から、よそから来ている方はお断わりするよりほかはないのじゃないかということが議会からも出るし、特に監査委員から指摘されていると思います。

——そこで協定書作成ということになるわけですが、また、それまでにどのような交渉があったのですか。

町長 いま言った考え方を背景に、相手(東松山と滑川)に当たったところ、相手が同意して、三つの教育委員会同士で相当長期にわたって研究がなされたわけです。
 それから、もしかりに多数の児童生徒を受け入れるならば、教委同士の協議による区域外就学の事務の扱いで処理することは好ましくない、これは学校教育法第三十一条の事務委託にして三市町村の議決を必要とする方法にすべきだという主張がうちの議会から出ていたのです。
教育長  そこで、議会の皆さん方もご承知のほうが町民もよく理解していただけるということで五十年(1975)の三月議会で事務委託という議決事項になったわけで す。少し経過を詳しくご説明しますと、それまでの教委同士の協議書の更新時期が二年ごとだったのです。で、ちょうど四十九年(1974)の三月が滑川が更 新時期(東松山は五十年三月が更新時期)だったので、四十九年一月から滑川の教委と協議を始めたのですが、三月が目前だったので協議書の更新時期を一年延 ばして、東松山と更新時期を同じにしたのです。また、東松山の教委にも四十九年の七月に嵐山の実情をご説明して協議を開始したのです。ところが四十九年の 十二月の定例議会において先ほど町長の申した区域外就学については議決事項にすべしとの声が起こり、三市町村の教委である程度煮詰めたものを三首長と三教 育長で最終的に五十年の三月一日に合議して規約をつくり上げたというわけです。そしてそれがそれぞれの議会で議決されていわゆる協定書が作成されたので す。
町長 大事なポイントはそこなのです。何も嵐山が案をつ くって、これでどうだと一方的に通告したのじゃないのです。東松山と滑川がうちの実情と将来展望に同調して、約半年以上にわたって対等な合議をして最終的 に合意に達したのが五十年四月一日から施行されている「滑川村・嵐山町教育に関する事務の委託に関する規約」(東松山市との間にも同趣旨のものがある)で す。この協定書の特色は、五十二年三月三十一日で一応全部それぞれ関係の市と村へ引き揚げる、ただし、中学二年生については受験の都合もあるから卒業まで 結構ですということです。また、この委託事務の実施期間を二年にしたのは、その二年間が受け入れ側の市と村の行政的な準備と当該住民の心理的準備を含めた 準備期間だということなのです。

——協定書があり、また二年間の準備期間というものがおかれたにもかかわらず、なぜ理解が得られなかったのですか。
町長  ですから、両方の市と村がそれぞれに努力をなさったと私は思っているわけです。特に滑川などは何千万もかけて歩道をつくっている。そのように対応策を、よそのことですからあまりくわしくはわかりませんが、努力をしていらっしゃると思います。東松山については議会で調べてあるのでは。
委員長 調べてありますから、のちほど委員会の経過のときに。

——東松山や滑川の父兄の働きかけはどのような形でなされましたか。

町長 結局、請願ということですが、これは議会の方から。
委員長 五十一年九月二十四日の受付で、上唐子地区より嵐山地区への地域外通学に関する請願が来ております。(資料参照)

——これに対して、東松山・滑川両当局の動きというものはありましたか。

町長  議会が請願書を委員会に付託したわけです。その間に、滑川も東松山もこの問題が協定とちがう形になればよろしくお願しますということはいわれていますが、 議会で審議中であり口を出すべきことではないという考えを持っていたわけですから、何も申し上げられないということでした。

——請願の審議過程についてお話を願いたいのですが。

委員長 東松山市上唐子地区の父兄からの請願に対しまして、昭和五十一年第三回定例会の最終日の九月三十日に、本会議で当委員会に調査が付託されました。
 そこで、十月二十一日第一回委員会を開き、紹介議員から趣旨説明を受け、これに対する質疑を行うとともに、教育長の経過説明を受けました。
 十一月十三日には、別の件で委員会を開いたあと協議会を開きました。
 十一月二十九日は、午前中、学校施設調査特別委員会と連合審査を行い、午後第二回委員会を、協議会にきりかえたあと東松山市教育長、担当課長の出席を得て話を伺いました。
 十二月七日第三回委員会、十二月十日第四回委員会を開き、結論をすぐ出すかどうか長時間協議した結果、継続審査とすることに決定し、十二月十七日開かれた町議会第四回定例会にその旨を申し出ました。
 本会議では、次の議会までという条件づきで当委員会に再び付託となったわけです。
 また、この議会では、滑川村六軒地区より、区域外就学を認めて欲しい旨の陳情があったわけですが、本会議で不採択となっています。
  五十二年(1977)一月十九日、この件についての第五回委員会を開き、教育長、そして町長への質疑が終了した段階で、請願撤回の申し出があり、同時に上 唐子地区区域外通学対策協議会名で町議会議長あてに要望書が出されました。そこで当委員会としては審議を停止したわけです。
 この撤回申し出は一月二十五日に開かれた臨時議会で正式に承認されました。
(この一月十九日の委員会の様子は資料を参照ください。)
委員長 また、十一月十三日の協議会で決定しました事にしたがいまして、東松山市の当局者の出席を求めますために、正副委員長で東松山市を訪ねた時に伺ったんですが、先ほどの、地元の理解を得るということで、東松山当局の対応は次のようであったということです。
  昭和四十九年(1974)五月十八日、五月二十一日、六月十八日、八月十日、八月十四日、八月三十日に地元代表者との会談、十二月四日には全体との会談を 行い、昭和五十年(1975)には三月十九日に地元代表者との会談一回を行っています。昭和五十一年(1976)に入って、三月二十六日、五月二十七日、 八月二十一日、八月二十二日、九月九日、九月十七日に地元代表者との会談を行っているという話でした。

—— 一月二十五日の臨時議会で請願撤回が承認された後、嵐山町と東松山市並びに滑川村との間で何か交渉が持たれたのですか。

町長  五十二年一月二十六日、二月一日、二月八日の三回にわたって、東松山市の教育事務所で、教育事務所長の立ち会いのもとに区域外就学問題に関する三市町村長 並びに同教育長による六者会談が持たれ、そこでいろいろ話し合ったわけです。特にその第一回目の会談で東松山市より受け入れ態勢(校舎整備、通学路整備 等)が不十分だから区域外就学期間を一年延長してほしいとの要望があったのです。(なお二月四日には東松山市長から嵐山町長あてに「区域外就学期間延長に ついて」の依頼書がいる)それに対してうちとしては、協定書の変更は議決事項だから、議会に提案するには上唐子の父兄の一年後には東松山市に児童生徒を送 り込むという誓約書か何かをつけてもらわなければ議会に提案できないと言ったのですが、第二回目の会談のときに東松山市としては努力したが誓約書はとれな かったということだったわけです。また、嵐山町内でも住民運動が起こってきている。それから一年延期することによってまじめに準備した自治体が非常な混乱 を起こすということも言ったのです。
 それから二月二日にうちの議長並びに常任委員長が集って全議員の区域外就学に対する考えをまとめた結果、約 七割の議員が協定書どおりにやれとの意向であったという報告を私は二月三日の朝に受けています。また二月七日にうちの議会の全員協議会を開いて、前期の東 松山市長からの依頼文の説明とそれまでの経過報告を行ったわけです。そして最後の六者会談に臨んで、うちとしては前述のような諸種の条件を考えると、せっ かくの東松山市のご要望ではあるが、受け入れるわけにはいかないといくことを言ったわけです。それに対していろいろな意見を出し合った末、これ以上嵐山を 苦しめることはないだろう、協定書どおりにいくべきだという結論に達して、それを三者の覚書という形で文書化したのです。それでこの問題については各自治 体とも相当どろもかぶるしきずもつくが、とにかく協定書の方向で努力しようということを誓い合って別れたのです。

——それから三月二日に上唐子地区地域外通学対策協議会から区域外通学一年延長の確認を求める要望書が提出されたということが新聞に出ていたのですが、町長はそれにどのように対応されたのですか。

町長 私は、要望書に指摘されているようなことはなかったのですが、とにかくそれに対して三月三日に、指摘されるような合意は成立してないので確約する根拠がないという回答書を出したわけです。
(確認要望書及びそれに対する町長の回答は資料を参照ください。)

——嵐山町内で起こっている住民運動の動きを知っておりますか、その動きと東松山の運動に影響をされることはありましたか。

町長 そのような動きは具体的にはわからないが、それによって嵐山をこれ以上混乱させてはならないということが私の決定に影響したろうと思います。
  それから、いわゆる両サイドの動きにはどっちにしても影響されたということですね。同時にまた、うちの議会の皆さんの非公式な意見だけれども、約七割の議 員が協定書どおりにやれという意向であるということも影響したと思います。そういう動きがあってなお混乱するなら原則どおりだと、物事というのは混乱して くれば決まったことをやるしかないだろう。この上に変化を求めることはできないだろうということです。

——この問題に対する町長の基本的な考え方と今後の対応について、最後にお聞かせください。

町長 第一に、私にとっては全てが正しく伝えられているとは思っていない。しかし、新聞等を通じ何回も報道されて、住民の皆さんが不愉快な思いとご心配をなさっているであろうと想像して、この点は本当に申しわけないと思います。
 それから第二に、しかしながらこのような事態に対して今後の進め方としては、議決された協定書に盛られた内容を一貫して実現することに向けていく以外にないと、まあ何が起こってくるかわからないことでありますが、まずそれが基本線です。
  それと第三には、これは決して嵐山が一方的な通告をしたというものじゃありません。すべてが三者、三市町村の合意事項で行政ベースでは今日まできておりま すので、ぜひとも合意された事項については東松山市も滑川村も全力を挙げて対応するようにご努力を願いたい。私の方も応援——応援というか、なすべきことが あればなしてまいります。
 それと第四は何といっても長い間の歴史、流れをここでその方向を変えるわけです。二年の準備期間があったといっても、 長い間の歴史といいますか、通学という流れを変えることでありますから。住民の方々、特にこの区域外就学の児童や生徒並びにその父兄も大変だと思います が、手順を踏んで今日まで積み重ねてきたことでありますから、ぜひ決められてあることをお守りいただけるようご努力を願いたいと思います。
 ぜひ町民としては正しく実態を知っていただいて、正しいご理解をいただきたいということだけは申し添えておきます。

——本日は、どうも長時間ありがとうございました。


区域外修学関係資料の部

東松山市嵐山町教育に関する事務の委託に関する規約

委託事務の範囲
第一条 東松山市(以下「甲市」という。)は甲市上唐子(上北原地区、西原地区及び上原屋敷地区の一部)に住所を有する小学校及び中学校の学齢児童生徒のうち、嵐山町(以下「乙町」という。)の小学校及び中学校に入学を希望する者の教育に関する事務(就学に関する事務を除く、以下「委託事務」という。)を乙町に委託する。
管理及び執行の方法
第二条 前条に掲げる委託事務の管理及び執行については、法令に別段の定めがあるものを除くほか、乙町の条例並びに乙町教育委員会の規則及び規定の定めるところによるものとする。
経費の負担
第三条 委託事務の管理及び執行に要する経費は、甲市の負担とし、乙町にこれを交付するものとする。
2、前項の経費の額は小学生一人年額一万円、中学生は一人年額二万円とする。
連絡会議
第四条 乙町長は、委託事務の管理及び執行について連絡調整を図るため、必要に応じ甲市長と連絡会議を開くものとする。
委託事務の実施期間
第五条 委託事務を実施する期間は、昭和五十二年三月三十一日までとする。但し昭和五十二年四月一日に中学校三学年に進級する生徒に係る委託事務に限っては昭和五十三年三月三十一日までとする。
その他
第六条 甲市及び乙町は、委託事務の実施に当って、偽りの住民登録等による不正な就学の防止に努めなければならない。
第七条 前条の趣旨に反してその事実が発生した場合には、直ちにその者に係る委託事務を中止するものとする。
   附則
 この規約は、昭和五十年四月一日から施行する

『嵐山町報道』265号 1977年(昭和52)3月20日
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