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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

菅谷小学校

農村の子等と共に 〈子どもと取り組む青年教師〉

 教職員の異動で予想することもできなかった菅谷小学校へ転任になった。電車でほんの一区間の、さして遠い村ではなかったが、部会が異なり、名前はおろか顔も知らない教師が殆どというほど接触のない村であった。
 何もかもなれないさ中に担任が決まった。四年梅組、以前中学校が使っていたとも言う、一番東の端の教室があてがわれた。一学級増の学年とかで、机椅子はおろか、教壇も何もない教室に紙くずがちらばっていた。天井のはめ板がずれてできたすき間、よごれてぼろぼろ落ちる壁。隣りの教室との境にはめこんである板戸。のぞけば隣りが見通せるふし穴がいくつもあった。少し大きな声を出せば隣りへつつぬけという。以前勤務していた学校では、高学年担任の特権で、近代的な設備の整っている新校舎にはいり続けていた。掲示物一つなくても、さびしさを感じさせない。明るいそんな教室での何年かが、雨戸のようなとりはずしのきく板戸を境にした教室をすっかり忘れさせてしまっていた。かけてなくなった窓から入る風をうけながら、ここでこれからくらすのか……さすがに胸がつまった。しかしこんな私の感傷も、子供の机が四列に並べられてから、すっかり吹き飛んだ。二つ組み合わせの教壇は片方が五糎ほど低いちんばの物であったが、一おうこれで教室の形がととのった。どんな子供がここへはいってくるのだろうか。やがてはいってくる子供たちのために、汚れた壁も模造紙でかくした。痛んだ床から出ているくぎも押さえた。机の上もふいた。そんな準備が、ここで腰をおちつけてやる私の心の準備にもなった。
 四年生は松、竹、梅の三クラスだった。その梅組そうした組の名前も奇妙に聞こえたが、漸次なれて梅組の先生になりました。生徒は三十九人、以前の学校では五十三、四人が平均だったし、随分楽のように感じられた。しかしそれがそんなに楽でないことは、一週間もすればわかった。
 一人としてつながりのない村人の中に、どうして結びつきのきっかけをつくろうか……。受持の子供を通し、受持の母親と先ず仲よしになることだ。担任のあいさつと、つつましやかな教育の抱負をガリ版にすって子供に渡した。「先生はみんなのおかあさんと仲よしになりたいのです」ということばを添えて、そんな一片の紙きれぐらいで反響のあろうはずはない。すぐ家庭環境の調査をしてみた。あまりペンなど持ったことのない母親が書いたのであろうか。たどたどしい文字の「家庭しらべ」が集ってきた。むさぼるようにそれを見た。家庭の構成を見ても殆どが、七人、八人、九人の大世帯、職業別に見ると農業二七、商業五、大工二、会社員二、くず屋一、無職一。「現在の家庭の経済状態はいかがでしょうか、ありのままにお書きいただきたい」この露骨の質問に対して農業の殆どが、「最低のくらしをしています」「耕地面積の割合に支出が多いので、暮しは楽ではありません」「働き手が少ないのに子供が多く経済は困却をきわめています」これらの回答がすべてにあてはまるものではないが、たどたどしい字の「貧困」の二字は私の顔を覆った。「担任への希望がありましたら遠慮なくお書き下さい」の項も、前のに関連しているのが目についた。「別に希望はありませんが、家庭の貧困をお考えに入れておいて下さい」「金銭の徴収はなるべく間をおいてして欲しい」給食も何もないこの学校では集金と言っても、月々集めるものは学級費の二十円か、その他臨時のいくばくの金にすぎないのであるが、こうした訴えをせずにはいられぬ農村の生活が思いやられた。
 わが子をどのように育てるか……より、どうやって毎日を過ごそうか……の方が切実な問題なのであろうか……。その他聞き集めた話のもようからみると、三度目の母親を持つ子、二度目の母親を持つ子、妾の子、生まれた時から父親がなく祖父母に育てられている子、父親が家を出てしまったために、母親が働きに出ている家の子、父親が病気で働き手のない家の子、四十人足らずのこの集りの中にも、さまざまな生活のかげを身につけている子供たちがいるのだった。どうにかしてこの子供たちを明かるく、まっすぐに育ててやりたい。貧しさに卑屈にならない子に。そしてやがてはこの農村の生活の貧しさはどんなところに基因しているか……分析できるまで物を考える子に。そして新しい村つくりにいそしんでくれるような青年に……。窓外に広がる景色を見つめながら、私はあれこれ考えた。ところが現実はそんな考えはまだ遠い夢にすぎなかった。私がすぐに力をいれなくてはならない事がほかにたくさんあるからだ。
 子供たちの学科がまことに遅れているのに気づいた事がその一つ、本を読ませてもろくに読めない。新出文字ならとも角、二、三年で習った漢字もろくに読めない。ひらがなの語群もしどろもどろの子が多かった。九九も満足に言えない子もあった。算数の時間、かんでふくめるようにくり返し説明し「じゃあ一人でやってごらん」と言ってやらせると、ノートにやっと問題をうつしとるのが、せいいっぱいな子が何人もいるのだった。これでいいのだろうか……。私は時々考えこんだ。「町の子供とはだいぶちがうんですよ」同僚のことばも慰めにはならなかった。「それにしても、もっと何か……」こうした焦りが単に学科にとどまらず、いろいろな躾の面にまで、我慢ならないものを感じさせた。弁当の時早く席についた男の子が、級友の揃う一ときを待ちかねて、弁当箱のふたをたたき出すのだった。「腹がへった……。腹がへった……」と歌いながら。「先生くっていい」「いいえ、あと少し待ってましょうね。まだみんなそろわないから」「ちえっ」そのうちこそこそ私の顔を盗み見ながら、二口、三口はしでかきこむのだった。そして弁当箱のふたの穴にはしを立てかけて、遅れて教室に入ってくる級友をどなりに廊下へ出て行く。「おめえたちが来ねえから、飯がくえねんだど……」そんな時私はきまって前の学校を思い出した。四年と六年のちがいはあったが、給食当番が全員に配り終える。かなりの時間を静かに待っていたあの教室、みんなでそろってたべ、全員が食べおわるまで席をはなれるものでないようにしつけられていた町の子供達。そうした礼儀正しさをこの村の子供達にそのまましつけこもうとしたのであった。「おらあ方べー、損なんなー」人のことなどおかまいなしに、どんどん自分勝手に先に食べて、そのまま運動場にかけ出していくことに馴れていた子供達はぶすぶす不平を言った。そうした不平を耳にしながら私はさびしかった。こんな小さな事一つが子供たちにぴったりこないのか。そんな思いにかられている時、はっと脳裡にかすめるものがあった。手を洗うどころか、台所に腰をかけて飯をかきこむ農家のくらし、高学年の子供たちの表現を借りれば、町から来た気どった先生である私には、百姓の子供達の生活環境が全然理解できなかったのである。勉強ができない事だって、本をひろげる机も無い家が多いんだろう。焦っては失敗する。子供達の生活をみつめながら、少しずつ手をつけることだ。
 その後、一緒に「いただきます」をして食事をすることもなれてきた。そろってふたをとった弁当箱のおかずのまずしいこと……。みるからに塩からいこぶのつくだ煮が殆どを占めていた。鶏を飼う家は多いのだろうが卵を持ってくる子は少い。魚などなおのことだ。似たりよったりのお菜のくせに人のおかずのことはとやかく言う。「あやちゃんは年中こうこべえな……」くらしが極度に貧しいこの子供は、ある日、まわりの子供に意地悪く言われて机につつ伏して泣き出してしまった。とうとう一口もはしをつけずに。ところが数日して、この子を泣かせたらんぼうな男の子が、弁当の時どうしても机の上に自分のを出さないのであった。人にみられるのがいやなものを持ってきたのであろう。どう言っても食べようとしないで、全部外へ出してしまった後、一人で食べさせた。こんな事が何回かあって、どうにかしなくては……と思い続けた。学級会をうまく生かせて、子供達自身の問題として考えさせたかった。ところが話す事が下手で、誰がどうした、こうしたの発言をすることがせいいっぱいの学級会は、私が思うような方向になかなかいかないのである。とうとうこうきり出してしまった。「あやちゃんのお弁当のおかずがわるいからって、あやちゃんのせい……」「あやちゃんちがびんぼうだからだんべ」「おとうさんなんかなまけてて働かないの……」「みんな働いているんだいなあ」「みんな働いていてどうしてびんぼうなんだろう……」ここではたと行きづまる。これでいい。四年生ではこの位でたくさん。この疑問がやがて心に育っていく子もあろう。こんな話し合いから、人のおかずをどうこう言いっこなしにしよう。というとりきめもできた。その後ぴったり口にしないところを見ると、子供心にもいくらかわかったようだ。自分のくらしだってたいしたことはないくせに、(それだからこそ)人の不幸は興味をひく。こうした大人どもの心理に似通ったものをここの子供達は持っている。
 人へのいたわりやあたたかさがわりに少いのだった。教具の何もないのを見た一人の母親が「先生がお困りだっておっしゃいましたので……」と言って水槽を贈ってくれた。その水槽を見て、「先生学級費で買ったん」「先生いくら」とやつぎばやに質問がでた。そのほか、花びんや本を持っていくたびに、「先生いくら……」が飛び出した。農民の生活感情の底を流れる勘定高さが子供達にしみこんでいたのだ。「農村の子は思ったより純朴でない」小さな分教場へ勤務した女教師がよく言ったが、そうかも知れない。しかし、そうした純朴さを要求する前に、そんな純朴さがかき消されてしまった、農村の生活の実態をつかまなければなるまい。それが、はじめて村の先生になった私に与えられた課題でもあるわけだ。
 【前略】 「家庭しらべ」をめくってみると、「四月三日父ちゃんが病気でたおれ、大ぜいの子どもをかかえ、とてもとても困っています」十五の長男を頭に六人の子、下は三つ。家庭訪問もしてなかった怠慢を責め、すぐ自転車を走らせた。ひどいところだった。中風で動けない父親がきたないふとんにくるまっていた。【中略】排便一つできない病人の世話と六人の子供を抱え、この母親は言うに言われぬ苦労を味わったらしい。それでも「生活補助がいただけるようになってどうにか息をつなぐことができました」何か言っても私のことばが空々しくなって、自分の胸にかえってくるようで慰めのことばも出なかった。「おかあさんあと少しのしんぼうですよ。この子供たちが大きくなったら……」しかし子供たちが大きくなれば、そのままこの家庭に幸福が到来するのだろうか----。教師としての無力さを痛感させられた。そしてなお「教育」の力を期待せずに居られぬのであった。
 いろいろな環境の子供たちをかかえ、よたよたとよろめきながら私は歩んで言った。子供たちはガサツでこすっこいところはあったが、元気がよく可愛かった。文化の恩恵に浴することの少い子供たちは、暇を見てはしてやる紙芝居をとりわけうれしがった。その紙芝居を見ながら「先生まだあといくつある。いくつ」と心配そうに聞くのである。度々せがまれるたびに、以前の学校から紙芝居を借り出した。本を買って持って行くと、いち早く見つけ、「あ、先生が本買ってきた」と叫び手をたたくのであった。休み時間は私の机をとり囲みいろいろな話をした。そして必ず女の子のだれかが、かがみこんで、「先生のあしすべすべする」と言いながら、ナイロンの靴下をはいた私の脚をさも大切そうにさわるのであった。 村のようすも大体わかってきた。西に東に広がりを見せる九つの字(あざ)、せちがらい世相をよそに、四季折々の自然は美しかった。この山坂を越えて子供たちが学校へ通って来る。勉強は嫌っても、めったに休むことはしない。五十分もかかる遠い字から、橋を渡り河原をよぎり、少しぐらい頭の痛む日も子供たちはやってくる。心にかけながら家庭訪問がなかなかできない。雑事に追われてばかりいることと、自転車も役に立たない。遠い家が多いからだ。それでも今までに三分の二の母親や、父親と話し合う機会を得た。何一つ覚えない学習遅延児の母親とも家庭訪問を通じて仲よしになった。授業参観にこの母親の姿を見ないことは一度もないほどに。
 誰一人として知る人もいない、四月当初のあの孤独感は今は失われかけている。広い山村のあちこちにぽつん、ぽつんではあるが、心の通う母親たちができつつあるからだ。(菅谷小学校)

『埼玉教育』埼玉県教育局, 1956年(昭和31)12月
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