ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

七郷小学校

皇太子殿下の御誕生を祝し奉る 木村計
 「ああよく晴れてゐるな。」と、僕は朝の新鮮な空気を呼吸しつつ空を仰ぎながらつぶやいた。
 今日は二学期の終業式だ。明日から冬季休業だ。「今日は教育手帳*1と試験答案がかへるのだ。」こう思ふと、うれしい様な気がし、又乙がなければ、と不安に胸を戦かせて登校の途についた。急な坂を登り門をくぐると玄関の処に国旗が掲揚してあった。「今日は何の日だらう。」と不思議に思ったが、ああ、これは皇太子様がお生れになったのだとすぐ感じた。
 果して職員室の大黒板に
 「皇太子殿下十二月廿三日午前六時三十九分御降誕遊ばさる。」と書いてあった。
 「ああ皇太子様だ。確かに御生れ遊ばされたのだ。我が国運も益々発展するのだ。」と思ふと僕は全身に緊張を覚え非常にうれしかった。そして皇太子殿下の御壮健にて御成長なさる様東の空をおがんだ。
 あたりの空気はすがすがしさに満ち雲一つなき快晴。さながら皇室の繁栄、日本の発展を祝してゐるやうだ。やがて玄関の前に全校児童は整列した。校長先生が台上にて、皇太子殿下の御誕生と、御身体の模様をお話し下さった。一同しんとして静かに静かに注目してお話しを聞いておった。が皆の顔につつみきれぬ喜びが浮んだことは感じられた。先生方の御顔もよろこびで一ぱいの様子がありありと見えた。我等はそこで万世一系の皇室及び日本国の前途の幸福を祈って力一ぱい万歳を叫んだ。
 歓喜に満ちた山野は太陽の温い光を一面に浴して今日の幸福にひたってゐる。

*1:教育手帳:通信簿。


博愛心 木村
 すがすがしい秋、透徹せる空、すいすい飛ぶ蜻蛉の群。秋は純真そのものである。
 兄と僕は優しく差込む陽に浴して棚の新聞を次々と読んでいった。
 「関東大地震の為、同胞の同情泉の如く湧起り、食料品、被服、学用品等続出。義捐金四千万円以上に達す。」と大々的に報道されてあるのが、強く目に止った。
 「兄さん、大正十二年(1923)の大地震の時、こんなに義捐金が集ったの。」
 僕は尋ねた。
 「その此の時、災害にあった人達を愛し助けるといふ博愛の心が日本各地の国民の間に起り、東京市民は此の為、どんなに救はれたったか。」と説明された。
 ああ此の博愛心があってこそ、今の如き立派に帝都復興が完成されたのだと強く感じた。
 「米国大統領、日本の関東大地震に同情し、義捐金募集に着手」との報道に至って、現時の建艦競争、其他色々の国際間の問題などが次々と思ひ浮んだ。
 世界指導の立場にある日本国民こそ燃ゆる祖国愛の精神を遠く及ぼして各国民に対して博愛の心を以て接し、人類の繁栄、平和の為に働かねばならぬ。これこそ吾等第二の国民の任務であることを決意し、兄さんと共に非常時の祖国を担ひ、そして博愛の心を以て、国交親善にまで努力せねばならぬことを誓った。
 秋の日ざしは遙かに、いつか夕日は半天の空を赤々と染めて、僕等の決心に応援の熱意を贈って下さるやうに見えた。


博愛心 千野久夫
 夕飯をすました。
 秋の夜、晴渡る空に、星のかがやき数かぎりなく、庭からはしきりに鳴く虫の音。
 そよそよと涼しい風と共にうらの森の中からもにぎやかな音楽が聞えてくる。くつは虫の声があたりの空気を破って聞えだした。
 僕は机によりかかって、時事新報社募集の綴方の想をまとめやうとかかった。
 博愛!! 博愛心!!
 我が国民は昔から博愛の情に深く、戦場にて敵兵をさえ、あはれんだ話は歴史上数限りない程多い。
 楠木正行が川に落ちて流れる敵兵を救ひ上げ、衣類や薬を与へて其の傷を治療させたこと*1。島津義広が文禄の役に敵味方戦死者の為、供養碑を建てたこと。明治卅七八年戦役に上村艦隊が蔚山(うるさん)沖で溺死しようとした敵兵を救ったこと。明治元年(1868)、榎本武揚が函館にこもった時、高松凌雲(たかまつりょううん)が其の頼みによって病院をつくり、敵味方の負傷者を収容して治療したこと。
 西南の役には博愛社が創立されて、敵味方の傷病者を救護したことなど次々と想ひ出された。
 あの関東大地震の際、村の人達が帝都の市民に同情して食糧品・被服等を贈ったことなどを、小さい時の記憶として未だに胸にのこって居る。つい昨年だったか、三陸地方の大震災*2に対しても、罹災者に同情して僕等の学友もいくらかづつお金を出し合って贈ったことだった。
 同情の心!!愛の心!!同胞愛の精神!!これが僕等の間には最も大切なので、これあってこそ、社会事業は発達し、共存同栄、社会国家が立派に進展して行くのだと強く感じて僕の心は晴れ晴れした。
 あたりは物音一つせず、静かな夜中、まださきの虫の声はやまず、しきりに鳴きつづけてゐる。

*1:楠木正行(くすのきまさつら)…楠木正成の嫡男。父の遺志をついで南朝方として戦い、1348年、四條畷(しじょうなわて)で、足利方の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟と戦って敗れ、弟の楠木正時と刺し違えて自害した。摂津国天王寺住吉浜で、山名時氏(やまなときうじ)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)の軍勢を打ち破った際に、敗走し渡部橋に溺れる敵兵を助け手当をし、衣服を与え敵陣へ送り帰した。この事に感じ、四条畷の戦いに楠木勢として参戦した者が多かったという逸話がある。
*2:三陸地震…1933年(昭和8)3月3日、岩手県釜石市東方沖約200kmを震源として発生したマグニチュード8.1の大地震。地震後三陸沿岸を襲った津波による被害が甚大で、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及ぶ。


通信文 満洲の兵士の送る 飯島増子
御免下さい。
 もう内地では大寒も過ぎ、たのしいお正月を過ごして之からはぽかぽか暖かく楽しい春を待つばかりです。満洲の野も内地の草花が芽を出す頃には幾分か暖かくなるでせう。が随分と厳しい寒さの事でせう。その寒さの中で皇国の為に、働いて下さる皆様の事を思います時、私達はいつも感謝の心で皆様の健康を祈って居ります。そして一生懸命勉強して、よき日本人となって家にあって皇国の為に尽くしたい思って居ります。どうぞ益々御奮闘下さって我が国の満洲に於ける権益を守って、そして又益々満洲帝国の発展する様、あげて下さいませ。
   一月七日                    増子
 皆様江


通信文 満洲に働く兵士に送る 永島テツ
御免下さいませ。
 お寒さ厳しき折柄、お変りは御座ゐませんか。私は毎日、丈夫で学校に通っています。近頃はこちらでさへ、随分寒いのですから満洲の方はずい分寒い事でせう。
 先生からも幾度か満洲の様子を聞きましたが、誰もたまげない者はありません。此の寒い地で、皇国の為に活躍して下さる皆様に対しては、私達は寒いなどと云ふて、火鉢なんか、頼りにして居るのは、ほのとに申訳ないことで御座居ます。ですから身も心もひきしめて勉強にl出します。そして家に帰ったら一心に家の手伝ひをいたします。
 どうぞ皇国の為に十分体に注意して奮闘して下さいませ。内地より皆様方の幸福を祈って居ります。 一月卅日


通信文 満洲に働く我が勇士へ 強瀬チヨ子
 寒さ厳しく御座居ますが皆様方にはお変りは御座居ませんか。私達も一心に勉強して、零下三十度あの満洲の野で日夜皇国の為に奮闘下さる兵士の御恩の万分の一にも報いたい考へで居ります。尚寒さに負けず御健全にて皇国の為に御働き下さる様、神様にお願ひ致します。
 内地は寒いといってもまだ気温も零下十度と下った事はありません。雪も今年はまだ一度降っただけです。それでも私達は寒い寒いといってゐるのですが、皆様方の事を思ひますと、いつも申訳なく思ひます。
 どうぞ御身を大切になされて下さいませ。
   さようなら。   一月三十日


散文 黄昏 在松中*1田中隆次
『夕ヤケ小ヤケ、明日天気にナーレ。』と村の子供達の歌ふ声も次第に遠ざかり行って終に聞えなくなる。
 影薄く黄昏(たそがれ)の日は力なく秩父の峰へ落ちかかってゐる。やがては日が沈んでオレンヂ色の大空には奇異の波が漂ってゐた。淡雪がフハフハと寂しさうに飛び去った。烏が二、三羽風に流されながら西空さして飛び去った。秩父颪(おろし)が前進にしみ込み思はず身ぶるいをした。残照も刻々と色褪せて行く。「ゴーン。」寺の鐘の音が響いた。此の淋しさを何に譬(たと)へよう。今まで明るく照り輝いて居たあの陽光も、今は影をひそめ、今日と云ふ日を終ったのである。
 暮色蒼然(ぼしょくそうぜん)として薄暗き彼方の小径には白い砂ほこりが「スーツ。」と渦を巻いて走り行き過ぎた。嗚呼今日も暮れたのか、とつぶやいた。闇は刻々その濃さを増してくる。かすかに汽笛が鳴ってゐる。いつしか空には星の影が見え初めた。今日の太陽も眠りに落入ったのか…………。

*1:松中…埼玉県立松山中学校。1923年(大正12)創立。現在の埼玉県立松山高等学校の前身。


神社掃除の道 杉田朝光
 ほうきを手に持って駆足で本道に出た。もやが谷に立ちこめて居る。其処此処(そこここ)より鶏の声が聞える。どの家にも朝飯の仕度である煙突の煙が三月のそよ風に吹かれてゆったりと舞ひ上って居る。野辺の草木も眠からさめようとしてゐる。東の空には朝日が半天を赤くして、ちぎれ雲が赤く染って居る。烏はねぐらより里に飛んで来る。神社の森より太鼓の音がかすかに響いて来る。朝は空気がすんで居て、何ともなく気持がよい。
 僕は「おくれた。」と思って、境内まで走りつづけた。神前に来ると自然と頭が下るやうな気持になる。西側の杉の大木の神々しさよ。体はもうすっかり清められてしまった。
 友達に挨拶して掃除にかかる。はかれた跡は塵一つ無い。社道と社前の掃除を終して一同は整列して謹んで神前に額(ぬか)づいた。それから帰路を急ぐ。堀端から鳩が二、三羽、羽音高く飛び出した。梅の枝で雀は物語をつづけて居る。朝日はもう高く上って居る。


雪 小林久男
 雲っていた空模様もいよいよ雪になった。此の分で夜まで降ってゐたら五寸も積るかと思ふ程はげしい降り方だ。ガラス窓から向ふを見ると大きいのや小さいのがまじって次から次へと地に落ちて行く。学校が終へて家に帰へった。だんだん時刻は過ぎて日はくれんとする時に僕は外に出て見たが、雪は益々降るばかりだ。
 「此の分なら今夜は随分つもるぞ。」と思ひながら家の中へ入った。少し立って又出て見ると、外はもう真白になった所もあった。あたりはだんだん闇につつまれてゆく。


考査の時間 安藤みき
 ちりんちりんと鐘が鳴った。
 今の時間は考査だと思ふと、皆一心に本を見てゐる。鐘が鳴ってから尚あせって本を見てゐる。
 「あっ先生が来た。」と誰かの声。皆本を机にしまった。
 先生は黒板に白く白く問題を書いて行く。私はそれを一生懸命書いた。書上った。が、漢字が一字いくら考へても考へ出せない。私はくやしくて鉛筆でコツコツ紙をつつく。どうしても思ひ出せない。終に考へるのがいやになった。外はピューピュー風が吹き荒(すさ)んでゐる。其の時ふと横を見ると書けたらしい人もあるし、まだ一心に書いて居る人もある。「もう五分」先生の声にハッとして、又思ひ出そうとしたけれど、どうしても解らない。もう出すのをまつばかり。其の時先生は「名の順に出しなさい。」とおっしゃった。
 私はバネの様に立ち上った。


入学当時の事を思って 飯島増子
 ああ、この大きなポプラの木。顧みれば私が入学した時【1926年(大正15)4月】は、この三分の一だったのだ。が、今はもう二階の屋根より大きく育ってゐる。
 入学してから一月と立つ中に、今まで葉一つなく、枯木の様になってゐた木に一面に若葉が萌え出て、日増に大きくなって行き、そして夏のヂリヂリした日には、青々とした葉もうなだれてしまう事が幾度となくあった。又その頃は木の下の兎小屋の中に兎がねむさうに細い目をしてゐることもあった。又秋になると今まで青々としてゐた葉がいつの間にか黄色がかって落ちて来る。その下で私達は毎日楽しく遊んだ。そのような事がくりかへされて八ヶ年間、そして終にその春の卒業となった。あおの入学当時は二十の数も数へられなかったのである。それが今日の様になったのは、親切に教え導いて下さった【千野幸三郎・石川逸郎・島田福治】校長先生を始め、横山【横山安太郎】先生、諸先生のおかげだと思ひ、感謝の心で胸が一ぱいになる。

七郷小学校『昭和八年度卒業記念文集』 1934年(昭和9)3月
このページの先頭へ ▲