第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
七郷小学校
七郷(ななさと)小学校に栗原先生頌徳碑(しょうとくひ)がある。1859年(安政6)、広野村生まれの慶次郎(けいじろう)77歳の喜寿(きじゅ)を祝い、教え子等五百人以上の人々の募金により、1935年(昭和10)、この碑は校庭に建てられた。
1872年(明治5)、政府は学制を定め、初等教育の制度として全国に小学校を作り、一定年齢のすべての児童に教育を受けさせることを宣言した。公教育の開始である。学校設立に関わる人、金、モノ一切が地元負担であったので寺院、寺子屋、民家を借用し、村の知識人である神官、僧侶(そうりょ)、寺子屋の師匠(ししょう)、医師などを教員として小学校は発足した。当時杉山村にあった杉山宝斎(ほうさい)の寺子屋は杉山学校(のちの第2七郷小学校)となり、門弟の中から模範生(もはんせい)の慶次郎が選ばれて助教員となった。二年後、慶次郎は職を辞し地租改正の作業に従事、ついで師範(しはん)学校に入学、正教員の資格を取得し、1884年(明治17年)、吉田学校(のちの第1七郷小学校)に赴任(ふにん)する。
1899年(明治32)の第1七郷小学校では就学(しゅうがく)児童167人に対して不就学児童182人、就学率は48%(女子のみ21%)であった。学校設置維持のための寄付金や授業料等の金銭的負担、さらに子守・家事・農作業等の児童の労働力が奪われるのが、義務制でも不就学の理由である。
明治後半の学校教育の課題は、すべての児童を就学させ、毎日登校させることが出来る、「魅力ある学校作り」であったとも言える。そこで、①教員の力量向上のための研修会、②試験・成績による等級制から年齢・児童数を基準とする学年・学級制へ、③学級担任制の導入、④唱歌・体操・遊戯などの新しい教科の設置、④体操場・運動場等学校施設の充実、⑤校内外での躾(しつけ)の重視、⑥遠足・運動会・学芸会などの学校行事の開催等、多方面の教育実践が全国的に新たに展開された。それらは現在までも受け継がれている。こうした活動を通じて就学率ほぼ100%の小学校が誕生したのである。
1909年(明治42)には、村内二校の小学校が統合され、翌年、現在の校地に新校舎が竣功(しゅんこう)、1911年(明治44)4月23日には、七郷尋常高等小学校開校式が挙行された。この日は今も七郷小学校の開校記念日となっている。
翌年、慶次郎は校長を退職、1913年(大正2)には村会議員に選ばれ、ついで1916年から四年間、七郷村長を務めた。その後も多くの役職を歴任し、また花酔(かすい)と号して詩歌俳諧(はいかい)をよくしたが、七〇歳の時失明して隠退(いんたい)、1938年(昭和13)故人となった。
若き日、小川町にあった民権結社勧育社(かんいくしゃ)の一員であった慶次郎は権勢(けんせい)におそれることなく、正しいと信じることを直言する侃諤(かんがく)の人であったと伝えられている。
博物誌だより118(嵐山町広報2004年3月)から作成。