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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

七郷小学校

年頭所感 宮田松之助
 去りし昭和六年を反省して見た。
 江の島鎌倉方面の旅行は面白かった。笠山の登山も又面白かった。夏の水泳や盆踊は更に楽しかった。試験勉強は実に眠かった。其の他よいこと悪い事、楽しいこと、苦しいこと、色々のことが考へれば考へる程眼前に浮かんで来る。
 さうして僕の眼前に待ってゐる将来を考へて見、色々のことを想像する。僕は後七十日内外で卒業し世に出るのである。僕は皆々と別れるのが淋しいとか名残り惜しいとか少しも考へない。むしろ世に出て働くのをよろこんでゐる。
 人は心懸け一つである。野口英世博士も、乃木将軍も、其の他有名なる人物は、皆初一念を全うして偉い人間となったのである。昭和七年初頭の覚悟は卒業に当たっての覚悟である。其の覚悟は只、努力。僕は社会の一人となって、此の心懸けを以て奮闘したいのである。


年頭所感 土橋武治
 満州事変の裡に新年は迎へられた。
 国旗は朝風に翻って、如何にも長閑(のどか)な御代(みよ)の春である。子供は風の子とか。もう霜風に吹きさらされながら凧上の競争に夢中である。自分も此の小さい子供らのやうに常に無心でありたい。然し愈々三ヶ月で懐しい此の小学校を去らなければならない。昨年迄は何の心配もなく面白く過ぎた。然し今年こそはいよいよ卒業するのだ。こう思ふと、何だか淋しい。もっと長く長く学校に居たいような気がする。けれども来る三月二十九日には、皆新しい希望に溢れて、此の鶴巻の学舎から大空に向って勇ましく巣立ちをしなければならない。思へば楽しいやうな、悲しいやうな時である。自分は此の三ヶ月を前にして、社会のため立派な人間になる基をしっかりと作りたい。


昭和七年の春を迎へて 金子注P
 九月十八日の日支衝突は、我等の脳裡に一層強い感じを與へた。以来非常に心は引しまったが、考査やら何やらで頭の中が混雑になった。其の中に六年も暮れて昭和七年を迎へたのである。  月日の過ぎ行くは実に早いもの。楽しいと思った正月も早過去って昭和六年度仕上の第三学期も始ってしまった。我等も平凡な態度では居られなくなった。来る三月二十九日こそ実社会に送り出される記念すべき日である。  内には不祥事件起り、外には満洲問題解決せず、単に日支間の問題に止まらずして、其の余波を全世界に及ぼして、ともすると第二の世界大戦乱を巻起すが如き情態となってゐる。実に多事多端*1なる秋である。我等は誠忠誠意以て国難に当る覚悟がなくてはならない。

*1:多事多端(たじたたん)…事件がうち続き、世の中が騒がしく、穏やかでないこと(『日本国語大辞典』)


かや刈 飯島竹一
 ぼやの中に入り、かやを刈り始めた。時々ばらが僕の手に引かかる。実に痛い。見ると、血がにぢみ出てゐて、よい気持は少しもしない。
 傍らの樫木へ目白が来て居て、盛んに鳴きまはってゐる。すぐ向ふの藪の中から鳩が二匹、大きな羽音を残して飛去った。
 冬の陽は短い。宗心寺の晝鐘が、田耕地を通して、此の山の中までボーンボーンと響き渡った。もうお晝飯だ。


小鳥 関口清司
 正午に近い太陽は長閑(のどか)に照り輝いて暖い光を障子や張板の上に送ってゐる。すると、名も知れない小さな鳥が来て、「チヽ」と鳴きながら、前の木に止まった。便所の南に寝そべってゐた猫が、ちょいと頭を上げたが、又たれてしまった。小鳥は急がしく体を動かしてゐたが、急に飛び去った。


元朝 中村貞吉
 ムックと起きて雨戸をガラリと明けた。「お早よう。」其処には、友達が二、三人来て居た。共に連れ立って、神社に参拝した。未外は薄暗い。明けの明星は寒空にキラキラと光ってゐる。  ポンポン拍手を打てば、神々しく響く。東の空は次第次第に明け初めて行く。間もなく紅に燃えた初日は、東の山の端からムックと飛上った。二、三羽の鴉(からす)が初日を浴びて、東の方へと飛んで行った。何といふ気持のいい朝の眺めであらう。雞(にわとり)は長閑(のどか)な元朝*1の時を作って、此の新たなる御代(みよ)の春を歌ひ続けてゐる。

*1:元朝(がんちょう)…元旦(がんたん)に同じ。


寒き日の思出 大塚登
 村岡土手にさしかかった僕は、急に真の寒さを感じた。ピュウピュウと物音高く吹き来る風は、耳を取り鼻をもぎるかと思はれる。曇日なので尚寒い。此の強い風に追ひやられながら大橋*まで来た。川は此の乾燥続きにすっかり減水してゐる。川上より吹き来る風は小砂利を含んで、ピュウピュウと物凄(すご)い勢いで通る。時々頬(ほお)に突き当って痛い。さすがあの巨大な大橋も、強風には耐へ兼ねて物あはれに鳴ってゐる。
 水涸(か)れて橋行く人の寒さかな。僕は此の一句を思ひ浮べた。通る人は、皆頸(くび)を引込んで、まるで亀の子のやうだ。だがこんな寒さは何でもない。満洲に働く我が将卒は、零下三、四十度と云ふ極寒に十貫目もあるといふ背嚢(はいのう)を背負って、凍った飯を食べるといふ騒ぎだ。又東北地方、北海道の飢饉(ききん)は、全く我々の予想外で、辨当(べんとう)などは馬鈴薯、えり豆、燕麦(えんばく)等だそうである。是から大寒に入れば益々寒さが加はる。あの地方の人々はどうして此の先を暮すのであらうか。
 大橋*1を渡りきって愈々鎌倉町へ入った。

*1:大橋…荒川右岸の村岡と左岸の上熊谷駅、鎌倉町等熊谷市街地を結ぶ荒川大橋のこと。現在は二本に別れ、国道407号線の下り線が「荒川大橋」、上り線が「新荒川大橋」となっている。


晩秋の頃 小屋野文恵
 晩秋の田圃。黒い土と、茶褐色の雑草と、茶褐色の積藁と、青い美しい空と、僕は只ぼんやりと静かな田圃を見つめる。秋でなければ眺められない。又感じられない、濃くて深みのある空を見つめてゐると、眼が痛くなる。自分の身体が吸ひこまれて溶けてしまったら、どんなによいだらう。こんなことを想ったりする。
 けれ共地上は何と悲しい姿。例(たと)へ枯れた草木の紅葉に染まってゐようとも、それは死の前に持つ瞬間の力に過ぎないのだから。高い梢(こずえ)では小鳥が相呼応して鳴いてゐる。木枯が叫ぶ。一陣の風が雑木を襲へば、幾千万といふ木の葉が高く大空に飛散する。空気は一段と澄み亘る。此の頃となれば日夕(にっせき)*1の気温も大分低くなる。そして冬の時季となるのである。

*1:日夕(にっせき)…昼と夜。日夜。昼も夜も。


麦蒔く頃 宮田松之助
 手に提げたバケツには未だ肥料が大変あった。未だ畑の半分しか肥料を引かない。突然、烏が飛んで来て、蒔いた麦種子を食ひ始めた。「畜生ッ」と追ったが中々逃げやうとはしない。足元の土くれを拾ふが早いか、烏は飛立った。土を投げたが間に合はない。土塊(つちくれ)は宙を飛んで向ふの畠へパタンと落ちた。家へ休みに行った。そうしてぽかぽかと湯気の登る薩摩芋を甘く食べた。休みながら新聞を読んだ。題目に「織田と南部が世界新記録」と記されてあった。内容には、三段跳の織田選手は十五米五八、幅跳の南部選手は七米九八で、外に吉岡選手の百、二百米の新記録が載ってゐた。
 畠へ出た。白雲の断片が風に押されて東南の方へ進んで行く。向ふの楢林は充分に黄葉して北風を待ち構へてゐる。


山のことなど 関口清司
 秋も中頃になると、山々の木々は落葉して、雑木林は隅々迄明るく透き通って見える。其の頃になると、色々な鳥が渡って来て、我等の寒い日夕を賑やかに面白く歌って呉れる。
 特に面白いのは目白取りである。をとりを持って日向ごの山に行き、小枝に掛けて待ってゐると、三、四羽の目白がやって来る。そして我等の仕掛によって、目白が目的通り引掛るのである。
 秋も下旬となると落葉樹の林に木枯が時々強く突当る。寒さは一朝毎にはげしくなる。松林を吹来る風が尚勢ひを弛めず、教室の硝子窓を恐ろしく鳴らし立てる日もある。雉か野鳩を打つ銃声も時々聞える。晩秋の静日は尚いい。


日記の一節 土橋武治
 七月一日 水曜日 晴天
 梅雨期も過去ったのか、気持よい晴天が続く。
 便所の辺に緑色の苔が出来て実に汚ない。
 青い山の中から蝉の鳴声がヂーヂーと盛んに聞える。日中は誠に暑い。
 遂この頃迄咲き盛ったバラも花が散って大分淋しくなった。其の代りか、アヲイとダリヤが今真盛り。
 今日は総出で最後の田植をした。
 一田宛植え込んで、五時過ぎすっかり植え終った。
 早苗振で夜は御馳走がった。あとで友人に手紙をかいた。
  和歌 久々の友に便りを出さんとて
         机に向ひペンを取りけり


慰問状 内田秋二
 聞けば去年の半頃から起りました満蒙事変は未だ引続き益々裂しくなる様子、何卒御身体を大切に軍務に御精励なさるやうお願申し上げます。当地は既に正月を迎へ更に小正月迄終って是から春先仕事に精出す時となりました。家でも学校でも毎日、新聞を便りにして満洲に行ってゐる兵隊さんや支那兵の話など聞きつつ勉強して居ります。何しろ満蒙は大産地だそうで、日本人が居住して農業に、商工業に従事してゐることなど、度々先生から話されます。又今は零下何度といふ寒い処だそうで、朝夕はどんなに御困難のことでせう。私達もしっかり勉強して、将来は皆さんのやうな立派な兵隊となって皇国のため盡さうと思って居ります。


慰問状 安藤ユウ子
 寒さ益々相募りました。満洲の御様子も新聞や先生の御話で聞いて居ります。此の寒さを忍んで御国のため働いて下さる皆さんに私は毎日感謝して居ります。内地では新年を迎へてもう二十日余りもたちます。満洲で働いて下さる皆さんのことを思いながら、私達も一心に勉強して居ります。どうぞ御安心下さい。御地では強い寒さのため凍傷にかかる者が大変多いそうですね。それにもかまわず御国のため一生懸命働いて下さる兵隊さん達を私達はどんなにうれしく思ってゐるかわかりません。終りに私達も一心に働いてゐることを申添へて筆をおきます。
 どうぞ御身体を大切に。


卒業に際して 土橋武治
 小学八年間も夢の様に過ぎた。まだ学校で勉強したい。然し三月廿九日愈々学校を卒業して、先生とも友達とも別れなければならない。僕は益々学問に業務に奮励努力して、且社会に伍して後れを取らぬ人間になる覚悟である。四十の同級生よ、家を起し、母校の名を挙げるやう大いに努力しようではないか。


母校を去るの記 中島三千雄
 三月二十九日、愈々此の懐しい母校を卒業するのである。かへり見れば大正十二年四月、新しいカバンと新しい帽子と新しい希望とに燃えて、桜花咲き開く本校に入学したのだった。その年の九月、関東一帯を驚かした大震災などのことも余りよく知らなかった。さうして八星霜は既に巡って、ここに高等科卒業の日は迫ったのである。卒業に際しては、只国のため、村のため、母校のため、大いに心を盡そうと思ふばかりである。


卒業に際して 早川みつ
 入学以来八星霜を経過して、記念すべき卒業式も目前に迫った。其の間には大正の御代も変り、昭和となって既に七年の春となったのである。尋一時代の私達を導く植えに校長先生を始め、諸先生の御困難は一通りではなかったらう。
 此のなつかしい母校を離れても、一日として此の有難い恩を忘れることは出来ない。卒業後は一生懸命業務に従事して、此の高恩の万分の一に報いる覚悟である。


短歌 山狩 安藤一鳳*1

   山狩れば茨のトゲの多くして
          柔かき手の悲しかりけり

   山狩りのかやかき寄せて火つくれば
          火柱高く谷を登りぬ

   燃え後の枯芝にまだ灯(ひ)残りて
          小さき音して燃え進むなり

   燃え跡の灰の中なる草の實の
          はねる音きき鎌をとぎけり

   刈り抜きの山を透して谷上の
          道細々とうねりたる見ゆ

*1:一鳳は安藤専一さんの俳号。高等科二年生の担任だった。


編輯を終りて 梅窓より
 紐解祝の折、新調して頂いた袴を穿き、新しい学帽、新しい靴、それぞれ用意されて、年寄の兎角はかどらぬ足をせき立てながら、好奇心と喜悦とに燃えて教育への第一歩を踏み出した時、鶴巻の学舎に匂ふ桜花も、五百の先輩轟Z姉も、十五人の先生方も、皆やさしい瞳を僕等に注いで下さった。
 かうした若かりし日の懐しい思出はパノラマの如く君等の脳裡に浮び上るに異(ちが)ひない。
 淡雪の降りながら木々に雫を持たせ、麦畑の黒土が照る陽かげを充分に吸込む頃となれば、自然は愈々本春に立入って、やがて桜花の蕾が開く。かうして七度の春は既に迎へられた。今こそ八ヶ年の教育を終って、活社会に新しい第一歩をふみ出す時。強く、深く、勇敢に。
 此の文集は君等が此の八ヶ年を通して、血と汗とによって築き上げた心の表徴*1である。尊い尊い体験録である。折々の暇を見つけては、よく読んで呉れ。
 窓には春雨が静かにけぶってゐる。遅れ咲きの梅花に銀のやうな露が光ってゐる。行く先の幸を祈りつつ筆を擱(お)く。

*1:表徴(ひょうちょう)…外面にあらわれてしるし。標識。(『日本国語大辞典』)

昭和六年度七郷小学校高等科卒業記念文集『螢乃光』 1932年3月
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