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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

鎌形小学校

激動の中で

                 第九代校長 簾藤惣次郎
 私が鎌形小学校に勤めたのは昭和十五年(1940)3月31日から昭和21年(1946)3月31日までの六ヶ年間ですが、この間位、世のうつり変わりが激しく学校教育の変動の多かったことは無いと思います。制度の改革、社会、世相の推移をふり返って見ると、昭和十五年(1940)三月比企郡鎌形尋常高等小学校訓導として就任しましたが、昭和十六年(1941)国民精神作興、国家主義教育を強調した国民学校令の制定により、小学校を国民学校と改称しました。又中央からの指示指導をよくし、学校管理態勢をととのえる為、小学校にも教頭制ができ、昭和十七年(1942)五月三十一日比企郡鎌形国民学校教頭に補せられ、昭和十八年(1943)三月三十一日比企郡鎌形国民学校校長に補せられました。
 この頃、昭和十六年(1941)十二月八日、ハワイ真珠湾攻撃によって開戦した太平洋戦争も初期のマニラ占領、シンガポール占領と戦勝の旗行列等ありましたが、昭和十七年(1942)ミッドウェー海戦からガタルカナル島の戦、アッツ島の玉砕と敗戦がつづき、十九年(1944)七月サイパン島が陥落すると、ここに米空軍の基地が作られ、日本全土が米空軍B二九の爆撃圏内になり、日本各地の主要都市工業地帯は、爆撃され焼失しました。二十年(1945)三月十日の東京大空襲で宮城は焼失し、東京の大部分は焦土となりました。八月六日に広島に原爆投下、ソ連の参戦、九日に長崎に原爆投下、八月十五日ポツダム宣言受諾、終戦の詔勅の天皇ラジオ放送で終戦となりました。八月三十日、連合国軍総司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に上陸、米軍進駐と占領下の生活と変わりました。

 このように悲惨な戦時中や、敗戦占領下の国民生活は、ふる里鎌形学校の子供たちの有様はと、心に残る事を思い出してみると、
 ・疎開…サイパン島の陥落の頃から、東京や他の大都市の人々は空襲からのがれるために、自分生まれた故郷や親類、知人をたよって地方の農山村に疎開した。鎌形へも多くの人が疎開して来て、住宅の一室や物置きなどに移り住み、不自由の中にも安心して生活していました。学校の生徒数も急に増加して全校で一八〇人を超す時もありました。子供たちの間では、言葉のちがい、身なり、習慣のちがいなどから、時折いざこざやいじめなど心配することもありました。
 「学校授業を一年停止」の指令もあり、平常の学校教育も出来ず、疎開の出来ない生徒のいる都会の学校では空襲をさけるため集団学童疎開で地方の山村に行きました。東京日本橋区の有馬国民学校の児童は嵐山渓谷の松月樓(後の一平荘)に疎開して来ました。又学校校舎に軍需工場が疎開したり、軍隊が駐屯することもありました。
菅谷国民学校へは望遠鏡を作る軍需工場が疎開し、玉川国民学校へは軍隊が駐屯しました。鎌形国民学校では平常に授業が出来ました。

 ・食糧増産…戦争のために、若い働き盛りの男子は出征兵士として召集され、農家は人出不足で作物の手入れも充分出来ず、肥料工場は軍需工場に変わり、肥料も少なくなり、収穫も減少しました。その上収穫物の供出(作付反別に応じて米・麦・さつま芋等、国が強制的に買い上げる)がきびしく、食料品が欠乏し、栄養失調や児童の発育不全が多くなりました。学校でも農業実習地や、花だん、校庭の隅の空地などにさつま芋や南瓜(かぼちゃ)などを栽培しました。南瓜の葉のくき、さつま芋の葉を食用にしたなどの話がある程、食糧不足でした。
 農家の供出残のさつま芋など、町の買い出し人が闇値で高く引取るので農家の大きな収入でした。その反面、安い給料の学校の職員は学校を辞めて、農業に転業する先生も多くあり、学校の教職員の欠員補充に苦労した時もありました。

 ・勤労奉仕…食糧増産の叫ばれる時、農家の労働力不足の農繁期に、高学年の生徒は組分けして集団で出征兵士の家などへ勤労奉仕に行き、麦刈り・さつま芋掘り等、手伝いをした。又マニラ麻など来ないので、強い縄の原料とするためカラムシ(麻のような強い繊維のある野草)取りを夏から秋にかけてやり、棕櫚(しゅろ)の毛集めなどもしましたが、成果は上がりませんでした。将来の為にと棕櫚の苗が配布されたので、校庭の南西の桜の下に植え付けました。
 ・服装…衣料の欠乏も日常生活にあらわれ、服装も大きな変化をした。ネクタイ、背広服は敵国のものと、軍服に似た国防色(カーキ色)ツメ襟・五ツボタンの国民服が制定され、防空帽に巻ゲートルが男子の姿、女子はモンペに防空ずきんを常に持参して登校しました。はき物はわらぞうり、手作りの下駄、耐乏訓練のため冬でも足袋ははかず、毎朝朝礼のとき、乾布で上半身を乾布まさつしました。
 ・軍事教練…国民学校高学年では体操の時間に軍事教練が行われた。男は木銃で銃剣術の基礎訓練を行い、武道の時間には男子は剣道の稽古、女子は薙刀(なぎなた)の稽古が行われた。時々の防空演習では、低学年児童は近くの林や森の中へ避難訓練、高学年生はバケツリレーで防火訓練を行った。
 ・神社参拝…毎月、八幡神社の神域清掃、神社参拝を行い、学校の職員室には神棚を祀り、「祭政一致」「政教一致」の考で学校教育を進めました。
 ・奉安殿…天皇皇后両陛下の御写真、教育勅語、詔書等を納め、生徒は毎朝登校の時、奉安殿に向かい礼をし、朝礼の時は全校生徒が奉安殿の方に向かって敬礼をして、一日の仕事を始めました。又四大節(一月一日の元旦、二月十一日の紀元節、四月二十九日の天長節、十一月三日の明治節)の祝賀式には、天皇皇后の御写真を飾り、教育勅語を奉読してお祝いをした。学校教育の精神的根元を神格化した天皇において行われた。
 ・終戦…昭和二十年(1945)八月十五日正午「終戦の詔勅」。天皇のラジオ放送があり、戦争は終わった。八月終りに米軍が進駐し、十月二十二日教育目標、教育政策の指示があり、日本の教育が根本的に変わった。戦時中の全教育令を廃止、修身・歴史・地理教育の停止、神道の特権廃止、男女同権、軍事訓練・武道の禁止、昭和二十一年(1946)一月一日の天皇神格化を否定した詔書、アメリカ教育使節団の来日、及びその調査研究報告書等により、後に教育基本法、学校教育法の制定、六三制施行へと進展して今の学校制度となった。
 終戦後の慌ただしい変化の時、鎌形学校では天皇皇后両陛下の御写真を宮中に返納し、奉安殿は取り壊し、改築して八幡神社境内の護国神社社殿とした。軍事訓練、武道用の木銃、薙刀、木刀は焼却するか破棄するよう指示に従って処分、剣道用具は生徒の組別に分与した。教材教具についても焼却破棄するものが多くあり、教科書も不適の所は墨で塗り潰して使用するなど混迷の時が続いた。
 人は困苦欠乏・世の激動の時には向学心・求知心・忍耐心が出るのか、学校の生徒たちは短い時間でも勉学に精出して努力していました。

『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)116頁〜117頁。
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