第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
鎌形小学校
かぎりないぬくもりに支えられて
第二十代鎌形小学校校長・小沢禄郎
『鎌形小学校創立百年記念誌』1992年11月 120頁
「あいさつが良く出来る」…町ぐるみで挨拶運動が展開された時、鎌形小の子どもには異口同音の評価があった。
校内で登下校で、さわやかな声とあの笑顔がまぶたに耳に残る。
プールがなくて他校へ借りに行く、与えられた期間が、休業に入っての早々では、梅雨の肌寒さがまだ残り、いま一つさえなかった。
神社側の川原を利用し、ため池のようなプールを設営してみたが、ガラスでの怪我もあり、河川の無断使用は問題だと小言もいただく。しかし、子供たちは結構よろこんであそび、保護者の方も実情を理解して目をつぶってくれた。思えば強引な事をしたものである。
旧日赤社屋の移築については、校内でも賛否両論があった。
校庭がさらに狭くなる、体育面における最低のコースは保持したい意向と、特別教室になやむ必要観の二つに一つの選択は、人間関係を大事にしたい心情の板ばさみに頭をいためた。
日赤の社屋は、かつての避病院であり肺病がしみ込んでいる。
バイキンをわざわざ持ってくる事には反対だと、校長室に立ち寄った人への説得も、それなりに苦労が多かった。
しかし社屋での第一回卒業式(昭和五十八・三・二十五)は、いろいろの意味を込めて印象が深い。
農家に生まれて農具が使えない、そんな実情を考え隣接地を借り上げ、勤労体験学習を学校課題としたのであった。
収穫祭のあと、さつまいもを全校児童に持ち帰らせたところ、保護者からは、おいしかったと嬉しい電話がよせられた。
農園作業をとおして、思いやりの水くれは良かったが、雨上がりでも水をかけるなど、指導する側にも勝手のちがいがあり、職員も共によい体験の機会であったといえる。
オオムラサキの飼育は、袋がけで鎌形小学校が始めたものである。
鉢植えのエノキを利用し、廊下で幼虫の動きが観察され、さなぎから羽化した時は、その美しさに思わず感動したものだ。
校庭のすみに小さなエノキを囲む小屋が現存すれば、昭和五十九年(1984)三月に作ったものである。
小さな新設運動の作文が映画化され、鎌形小学校がその舞台となり、数週間にわたるロケは、映画の裏側をのぞく勉強になった。
この映画のために、入学式を二回も行い、さらに新入生の親子連れも、突然の一コマにセットされるなど、多忙な一日となった。
学校キャンプは地元でもよかろうと、宿舎に学校をあて川原のキャンプファイヤーには地域の人たちが見学する盛況であった。
宿舎となった社屋や教室では、周辺への迷惑もなかろうと、オールナイト気分にひたり、子どもたちは存分に楽しめたようだ。
盆やぐらを校庭に建てた。PTA会長を中心に多くの芳志と協力があり、さらに老人会も共催され、校庭が狭くなるにぎわいであった。ジュース、やきそば、かき氷、わたあめ、そして成人には缶ビールを、それがすべて芳志によるものだった。
保護者、地域、そして先生方のぬくもりに囲まれ、五年間に感情を一つ立てる事もなく、本当にめぐまれた生活を、ここに改めて感謝し、心からお礼を申し上げるものであります。
当時(大正時代)の通学服装を思い出して
鎌形小学校卒業生
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)37頁
男子の服装は夏はたて縞(しま)の一重の着物で三尺(さんじゃく)をしめ、下着は着ている子と着ていない子がいた。冬は袷(あわせ)の着物の上に袢天(はんてん)を着ていた。女子も夏はたて縞の一重の元禄袖の着物で三尺をしめ、下着は着ている子と着ていない子がいたが、腰巻きは皆巻いていた。冬は元禄袖の袷の着物と袢天を着、前掛をかけていた。着物の材料は何処(どこ)の家でも二、三畝(せ)の木綿畑があって、秋に実り、はじけると種が中心にある真っ白い綿が採集出来た。それを綿屋に種と綿を分離してもらい、座布団位の大きさにたたんで頂き、それを祖母や母が糸に紡いで、榛(はしばみ)の木、藍等を染料にして染めたものだった。履物(はきもの)は家で造った藁草履(わらぞうり)が主で、雨の日や雪の日には下駄をはき、唐傘(からかさ)をさして登校をした。祝日や卒業式等の場合は、男子は白と黒のたて縞、女子はえんじ色の袴をはいて参列した。
小林秀吉努力賞
小林秀吉氏は、大正十一年(1922)本校を卒業し、松山中学(現松山高校)を経て、東京府立豊島師範学校を卒業、東京の南葛飾郡第二砂町尋常小学校を初任校として教師になった。
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)66頁
終戦後、佐渡の相川中学校の英語教師をしていた昭和二十六年(1951)、向学心に燃えていた氏は、四十才で教師の職を捨て単身渡米し、働きながらサン・フランシスコ州立大学で教育学を専攻した。氏はノブ・ヒルホテルと言うシスコの場末の安宿で、時給一ドルで電話交換や雑役等の苦学生活の中から昭和二十七年(1952)母校鎌形小学校に教育基金として四十ドルを寄贈した。当時本間姓でしたので、本校では「本間賞」を制定し、学業に励み、行いの立派な児童、各学年一名に授与して来ました。そののち「小林努力賞」と改正され、卒業生全員に「努力賞」が授与される様になり、毎年卒業式には、州立大学のマスター・オブ・アーツの正装で児童を励まし続けました。
その後も数度にわたり多額の基金が寄贈され、「賞」を充実する様希望されました。苦難の留学時代を知る関根茂章前町長は「海と洋」の中で、氏の風貌は気力ファイト満々、不撓不屈の面構え、時々ちらっと閃(ひらめ)く鋭い眼差し、凡そ「留学生」と言う言葉から想像される甘い坊っちゃん留学生とは全く異なる峻烈さがあったと語り、努力の人、小林氏の精神は「努力賞」を通じ、一個の日本男子が、異国の怒濤さかまく社会で何ものにも屈せず、名誉も地位も求めず、苦学しながらひたすら真理を追究した氏が、故郷の後輩児童に贈る愛と期待のメッセージである、と記しております。
九十六才 近所の人気者おばあちゃん
明治39年度卒業 西沢たま(旧姓 吉野)
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)143頁
母校【嵐山町立鎌形小学校】が百年を迎えたこと、おめでとうございます。私は、明治二十九年(1896)十月一日、吉野松五郎の長女として誕生、現在満九十六才を迎えました。私の小学校時代は、せん、ふく、とめ、の名前が多く今の様なしゃれた名前はありません。学校は四年生までで、行っても行かなくてもよく、読み書き、そろばん、習字、修身、作文を勉強し、楽しく好きでした。長着の着物でパンツはなく腰まきをし、袢纏(はんてん)を着て行きました。食べ物はおいしいものはなく、ただご飯に汁をすすって食べ、他に、おなめ漬物、ごまよごし、野菜の煮付けなど、家で作った物が中心でした。おやつは、さつまいも、じゃがいも、焼きもちを食べました。だから、私は今でも、家で作った野菜を食べ、若い者とはおかずが違います。今は、気なりに仕事をし、外へ出て近所でおしゃべりをして遊んでいます。六月にはひ孫が産まれる予定で、生きる楽しみが増えました。
私の小学校時代
明治44年度卒業 内田源作(九十二才)
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)143頁
私の入学は明治の末期であります。通学の服装なども和服で、冬は其の上に上着を着て、履き物は草履か下駄でした。本と其の他は風呂敷に包み、背負い又は肩かけかばんで毎日通学致したのです。当時はお弁当はおにぎりか、弁当箱で時にはおいもだけのときもありました。又近くの生徒たちは先生に話して、家へ食べに行って来る者もありました。教科書は読本、算術、修身、書き方だけは自分で持ち、綴方は先生が題を出すのです。他は年に一度、全校児童で学芸会として色々の劇、踊りの催しもあって、父兄其の他、一堂に集(つど)い大いに喜び、笑って楽しい一日を過ごした事もあります。又遠足は徒歩なので、低学年は川島の鬼鎮神社、高学年は岩殿観音等に行った時を覚えて居ります。勉強及び其の他、長い間御世話になった先生の御恩は決して忘れる事は出来ません。終わりに生徒たちよ、鎌小は環境もよく、熱心な先生方の御指導に、一生懸命勉強して立派な社会人になって下さい。
トコロテンの味 東京より
簾藤万治
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)143頁
私は明治45年(1912)夏に母妹三人で上京した。東京の中学に入るためである。折から明治大帝が御重態で私は父に連れられて宮城前の広場で御平癒を祈った。天皇崩御、乃木大将殉死と田舎から出たばかりの少年の心を暗くした。夕方になると鎌形に帰りたい、友達が恋しい、と明け暮れ思った。
当時鎌小では一、二年・三、四年・五、六年の三教室で先生は校長先生を含めて男二人、女一人と記憶する。校庭で遊んで居ると「万治!!トコロテンを買ってこい!!」先生の命令には我ながら感心するほど素直に聞けた。宿直室でいただいたトコロテンの味は今でも忘れられない。楽しいよい時代であった。
戦中・戦後の鎌小教師
長島喜平
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)125頁
私が鎌形小学校に在職していたのは、昭和十九年(1944)四月から二十二年(1947)三月の三ヶ年で、その間、日本は大きく急転換した時であった。
昭和十九年といえば、戦争の真っ只中、日本に戦争の敗退が、はっきり見え始めた頃であった。
教員もなるべく近くの学校へ配置換えをし、私は唐子小学校から転任してきた。当時、校長さんは、簾藤惣次郎先生であった。
校長さんも私も、当時、日本農士学校(婦人会館の処にあった)の教師や生徒の作業衣を着ていたこともあった。
鎌小は、当時、「戦時下の教育をどのように進めるか」というようなテーマの指定校とされていた。要するに、当時の言葉だと、銃後の教育をどのように進めるかである。(今では、気がとがめる。)
私は、その時の研究授業として、全児童・生徒(高等科)を庭に集め、鎌研(と)ぎを一斉に声をかけてやらせたのを今でも思い出す。
昭和十九年(1944)、戦いが次第に熾烈化(しれつか)し、米軍機が本土を空襲し、東京は勿論、熊谷までも爆撃され、その晩【1945年(昭和20)8月14日】、私は丁度、宿直当番であったので、よく記憶している。
八月終戦で、私は、日本が負けたと認識したが、校長の簾藤先生は、負けたのではない、ポツダム宣言を受諾したのだと言っていた。さすがに信念のある校長先生だと思った。
翌年、六年を担当した時、長島茂さんが、「赤いリンゴに唇よせて」を歌った。この歌は、全日本をささえた歌だったろう。
一年生の頃
大正8年度卒業 小林博治
入学は大正三年(1914)四月。式のあと、「ハタタココマハトマメ」から終りまで、そらで読み上げ乍ら家に帰った。読本を玩具にして遊んでいる中にいつとなく覚えて、全部暗唱出来るようになった訳である。
焼けた校舎の一番東が、一、二年の教室、担任は志賀の大野先生、はじめ、一年は読方、二年は描方、次に二年は読方、一年は書方という風に一時間を半分に分けて、教えられた。石筆で石板に字を書き乍ら、二年生の授業を聞く、そして先生の話を覚えてしまった。二年になってから先生の質問に答えるとピッタリ当る。ほめられて得意だった。級は男十一名、女九名、中に岩沢俊郎、簾藤惣次郎がいた。「大尽のうんこ(御子)様」といって、からかった。
遠足は川島の鬼鎮様、よい天気でヒバリが鳴いていた。楽しい道中だった。原っぱで米の飯のむすびを食べた。うまかった。
皆の胸に黒い喪章(もしょう)がついていた。昭憲皇太后*1が、お崩(かく)れになったからである。*1:昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)…1849年(嘉永2)4月17日(新暦5月9日)-1914年(大正3)4月9日。明治天皇の皇后。
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)144頁
小学生時代
大正8年度卒業 岩沢俊郎
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)144頁
大正三年(1914)菅谷村立第二尋常小学校に入学し、大正八年(1919)九月二十八日学校が焼失し、校舎も机も学用品も全くなくなっていたことが子供心に強く残っております。
当時の先生には大野先生、高坂先生等がいらっしゃり、班渓寺で勉強したこと、運動会は焼けた校舎の側の運動場でやったこと、新校舎が完成し、新しい机・椅子で再び一年生になった気分で遊び、学んだこと等、懐かしく思い出されます。当時は自分の家で織った着物を着、風呂敷に学用品を包み、草履か下駄ばきで通学し、白足袋か裸足で運動したり走りまわったり、現代の子供達とは大違いでした。交通機関は玉川まで歩き、そこから馬車で坂戸に出、坂戸から汽車に乗って川越方面に連れていってもらったり、小川方面には山越で歩いて行き、家で飼っていた馬に乗って近くへ遊びにいったり、川の増水時には筏に乗せてもらって川下りをしたりと、現代の車社会と異なり、自然と親しみ深い小学生時代でした。
心に浮かぶ鎌形小学校
大正10年度卒業 小林儀作(八十三才)
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)144頁
私の父は、明治十八年(1885)生まれですので、鎌形小学校宗信寺で学んだ話を小さい時よく話してくれました。今は戸籍のみに残る父の弟や妹も学校の世話になり、今でもその教科書が僅かに残っています。
私は大正五年(1916)に入学、十一年(1922)に卒業しました。二年生の時の九月二十八日の夜更け、学校が全焼したので翌日雨の中を黒焦げになった学校の焼跡を見に行った記憶があります。そして翌年(1920)の九月新校舎が出来る迄の間、半日交替制で班渓寺で学びました。
亦、私の子供も、孫も戦中戦後の厳しい時代に鎌形小学校のお世話を蒙(こうむ)り成人しました。わたくしは、父の姉妹が五人、私の弟妹が五人、子供が五人、孫が二人、計十九人がこの小学校の世話になって居る事を思うと有難さが身にしみて来ます。
懐かしの少年時代
昭和3年度卒業 大久保六男(旧姓内田)
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)145頁
小学校に文明の灯が灯(とも)ったのは大正十四年(1925)、私達が二年生の頃で、それまでは暗いランプのもとでの生活でした。
低学年はとても暴れん坊で始末の悪い子供で、担任の高坂先生の手を焼かせたものでした。本が好きで、西遊記、霧がくれ才蔵、猿飛佐助、真田幸村等を、風呂たき火の灯りを利用して読みふけりました。
四年の春に、東京の姉のめがねのレンズを一枚もらい夜空を見上げると月も星もはっきり見えて驚きました。母がすぐに私を眼医者に連れていき、めがねを作ってくれました。よく見えるあの山もこの木の枝も私はまるで夢のようでした。学校では皆に笑われ、菅谷部会の運動会ではめがねをかけた子供がいると注目されました。今では珍しいことではありませんネ。
五年、六年生時代は良く見えるめがねの為か、優等の成績をあげて卒業することができました。懐かしい想い出がいっぱいの鎌形小よ永遠なれ。
卒業式
昭和22年度卒業 山下さい
木造校舎東側の二教室を継いで作られた卒業式会場には紅白の幕が張られ、私は母が作った紺の袴をはいていました。六年が終わり、多くの想い出が浮び、この学校や先生と別れることの淋しさで胸がいっぱいでした。入学当時は国民学校であり、床がピカピカに光っていた教室で最初に習ったのが「サイタサイタサクラガサイタ」「シロジニアカクヒノマルソメテ」でした。石段のある坂道まで桜が枝を垂らし、日の丸の旗は青空に映え、気高く美しく見えました。戦争中は苗代の虫取りや麦刈りを手伝い、勉強する時間が少なかった。四年生の夏、終戦となり直ちに教科書の内容が変えられました。物資は不足し、裏紙を利用してノートを作った時代でも、先生方の温かい指導のお陰で、私達三十四名は健やかに卒業式を迎えることが出来たのです。「年月廻りて早やここに卒業証書受くる身と、成りつる君等の嬉しさはそもそも何にか譬うべき」と今では唱われていない卒業式の歌を斉唱しました。
私の小学校時代の恩師
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)145頁
一年 吉田包子先生
二年 岡本泉子先生
三年 岡本泉子先生
四年 新井達男先生
五年 渡辺泰禅先生
六年 渡辺泰禅先生
いかがお過ごしですか。
小学校時代の想い出
昭和20年度卒業 長島茂
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)146頁
鎌形小学校開校百周年を心よりお祝い申し上げます。これから私の小学校時代を綴り皆様に笑っていただければ幸いです。小学校入学、昭和十五年(1940)四月六日、当時着るものといえば絣(かすり)の着物で袖口が鼻汁で光った着物。袢纏(はんてん)を着て登校する生徒もざらであった。同級生は三十五人。そして二年生になった年の十二月八日、太平洋戦争、真珠湾攻撃で開戦。その頃から国民服を着るようになった。当時草履ばき、下駄ばきが多かった。運動靴は一足九十五銭でした。学校も国民学校となり、三年生の担任の新井武雄先生は一学期だけ指導して兵隊に出征、後任の植木先生が二、三学期と指導してくれました。四年生になった時簾藤惣次郎校長先生、担任は吉田包子先生で、食糧増産の時代、校長先生が農具を買い集めて学校でも甘薯植え、麦まき、米作りと、又高等科の生徒は、校庭の隅には炭焼き小屋を作り木炭焼きもやった。私達の授業も勉強と農業となり、五年生になると武道と云う科目も生まれ、木刀、竹ヤリ等の教育もあった。高等科の渡辺先生は海軍での手旗信号(赤白の旗を持って相手に手旗で知らせる)教育も指導してくれました。六年生になると長島喜平先生の担任、その時代は勤労と云う科目も出来ました。勉強と仕事で、兵隊に出征した留守家族の家に勤労奉仕に行ったこともあり、勉強中心でなく、農繁期には学校を休校して野良仕事をやった。昭和二十年(1945)八月十五日正午、天皇陛下のお言葉があるからよく聴くようにと、その当時はラジオのある家は部落でも数戸しかなく、戦争は終わったと両親にきかされた。戦争中は月月火水木金金と言って、休日のないような日々で、学校から帰れば野良仕事の手伝い、弟妹の子守をする毎日、仕事をすれば良い子(今では勉強と塾)。私達の子供時代のように徒党を組んで山遊び、川遊びに明け暮れ、多少乱暴な所があっても陰湿な「いじめ」等はなく、貧しい中にも想い出、思いやり、助け合いの多い時代であったように思います。最近の子供は横のつながりはあるが、縦のつながりがないように思います。又親切にして誘拐される心配もあり、教育のむずかしさがあるようです。お互いに気をつけて安全な生活が出来るよう祈念しつつペンを置きます。
小学校時代の思い出
昭和35年度卒業 杉田廣吉
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)147頁
菅谷村立鎌形小学校に私達は昭和三十年(1955)に三十四名で入学した。戦後のベビーブームで鎌小の学年で、一番多い人数であった。校舎はちょうど敷地の中央に二棟あり表と裏側が校庭になっていた。建物は木造で一つ教室が二階になっていた。六年生になるとこの二階の教室に入れる。ここで勉強できる日を楽しみにしていたものだ。六年生になって入ってみて気付いた。さわぐと教室の真下が職員室になっていたのですぐに叱られた。辛かったことより楽しい思い出の方を覚えている。遠足、運動会、給食、学芸会、臨海学校等。一番印象深いのは、菅谷小学校で行われた菅谷村合同の体育祭に初めて参加した時の事である。私はあまり鎌形の地より出たことがなかったので菅小の校庭のあまりの広さと人の多いことに驚かされた。今では交通機関の発達によりこんなことを思う子供はいないと思う。時代の流れの早さを知る今日このごろ鎌小の良き歴史を伝えていきたいと思います。
思い出
昭和39年度卒業 鯨井利之
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)147頁
鎌形小学校創立百年祭を迎えられましたことを、心より御祝い申し上げます。
創立百年誌刊行にあたり久し振りに小学校時代の写真を見ました。久々に見る写真は数少ないが、思い出に残る臨海学校、東京オリンピック見学、卒業記念写真などがあり、その中で東京オリンピック見学は六年生の時で、入場券をクラス全員の分が買えずクジ引きで行く人を決めた。国立競技場にオリンピックを見に行き聖火台が赤々と燃えていた事は覚えているがどんな競技を見たのかは思い出せない。
私が小学校時代は木造二階建で、冬はダルマストーブに石炭を燃しての暖房でした。今では鉄筋コンクリートの校舎で校庭も広くなり、旧日赤社屋が校内に移築された子供達には良い環境にある小学校を誇りに思っています。これからの鎌形小学校の益々の御発展を御祈り申し上げます。
みちくさ
昭和45年度卒業 曽田良明
『鎌形小学校創立百年記念誌』(鎌形小学校創立百年記念誌担当部編、創立百年記念実行委員会発行、1992年11月3日)148頁
六年間通い続けた懐かしいこの道、目を閉じると見えてくる。坂を下ると左側にザリガニつりした小さな橋、そういえばこの道もまたジャリ道だった。まわりはあたり一面桑畑、右の奥の方には真ん中にポツリと森がある。江の島と呼ばれたその森は昼でも薄暗く何か不気味だった。工場を両脇に見て少し行くと左側に水門があって、ここでよくポッカンつりをした。糸と釣針と重り、エサのミミズつけて流れにまかせて沈めるだけ、良くつれたよな。次に見えるのは、八幡橋、木造の古い橋、大水が出た時、流されて仮に出来た板の橋を渡る時ギュギュとしなったりしてた。橋の向うには八幡神社、野イチゴがいっぱいとれた。帽子いっぱいにして家に持って帰ったら、帽子は真赤になっちゃって母に叱られたっけ。道を右におれて急な坂道、ここを登ると見えて来る桜の木に囲まれた古い木造の校舎。今も目を閉じると見えてくる懐かしい思い出。