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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第1節:寺子屋から学校へ

町の今昔

東昌寺並びに広正寺住職寛山師を憶う

                 助役 安藤専一

 寛山師は文化十四年(1814)菅谷村小名東側の農家山岸家の一男児として孤々の声を挙げた(古老の言による)。幼少の頃その叡知を見込まれて同地檀那寺東昌寺住職に弟子入りすることになった。多年住職を師として禅堂に専念し天保九年(一八三八年)若年二十五歳にして同寺の住職昇進することを得た。
 法務の傍ら近郷青少年の教導に当り、近隣近郷より師の徳を慕って弟子入りするもの多く、常に数十人に及ぶ若者がこの山門を往来する盛況さであったという。この間実に二十有五年に及ぶ。
 晩年広野村高木山広正寺住職の転ずるに及び、益々青少年教育の道を拡げ百有余の門弟が日々寺門を出入りして漢学に精進した。
 師は資性端厳にして威貌犯し難いところがあったが、師匠としてその座に着くとき師範懇切丁寧で門弟を吾児の如く慈愛したため、門弟又よく師匠の助言を守り、品行方正にして学芸に練達したものが多かった。
 師は特に精気強剛の一面あり、般若経六百巻、般若理趣分若千巻、心経一千巻を遂に書写しあげた。般若経は一巻を一軸に作成して門弟及び檀信徒に分与したので、今尚各地に保存されている。
 師が般若経を書写したのはほとんど夜中を当て、手灯と称して左掌の凹みに種油を注ぎこれに灯心を入れて点火し、寝食を忘れて書き続け、種油尽きればまた注いで時には徹夜してその能筆を走らせる精魂ぶりであった。この仕事が十年の久しきに亘(わた)ってようやく大成したということである。理趣分若一巻は吉田宗心寺に秘蔵されている。この経典書写の外神社仏閣等の幟旗、碑石題字で師の揮毫(きごう)になるものが多く、師は当時近郷第一の能筆家であったことが知られる。
 師はまた博学多芸で、詩歌文章俳諧等の道にも通達して斬道の宗匠としてその名が近郷に知れわたった。師が隠退して後、その門弟でその後を継いで寺子屋教育の任に当った者も多く、その数二十余人に及ぶ程であった。
 東昌寺は寛山師の長年に亘った住持寺の関係から、師直筆の多くを保存していたが明治四十三年偶々火災に遭遇してその全部を焼失するの止むなきに至り、今に存在するものはわずかに山門と墓石のみである。
 師は慶応三年(1867)病魔の侵すところとなり、檀信徒、門弟等多くの人たちに惜しまれつつ齒五十四才にして入寂された。
 師の入寂に先立ち即ち慶応二年門弟有志相謀って師の徳を永遠に頌(たた)えるべく、筆塚建設のためその題字を師匠に懇請した。題字は
   螫竜永護 数峯雲
      沙門 寛山書
とあり、寛山師最晩年の筆意その極に入る大揮毫である。この碑石の裏書によると、大般若経書写廃筆の記が誌され、表面七字句を筆子の請により謹書したことが書かれ慶応二丙虎春三月と紀年もはっきりしている。
この頌徳碑建立の企に参加された筆子は実に三百五十名に及び、地元始め唐子、神戸、岩殿、羽尾、中尾、水房、横田、中爪、下里、玉川方面まで広範囲に及んでいる。師の題字七言書並びに裏書は長く門弟代表が保管したものと思われ、この筆塚建設事業は古老の話によれば明治十八、九年頃とのことである。建設地は広野村飛地川島の鬼神社頭を選定している。
 憶うに、師の誕生は滝沢馬琴が南総里見八犬伝刊行の歳で、続いて異国船打払い令が出、天保の江戸大火が起り、弘化に及んで米船浦賀来航あり、英船の琉球来航、その他欧米挙げてわが近海を掠めた時代で、尊王攘夷に国中を挙げて明け暮れたいわゆる幕末の混沌たる時代であった。
 師は明治の黎明(れいめい)を見ず即ち一八六七年大政奉還の年、王政復古の大号令を耳にしつつその生涯を禅布教と郷党のsゥに捧げた誇りを自任し従容として大往生を遂げたのであろう。(昭四二・七・二五 嵐山町助役)

『嵐山町報道』175号「町の今昔」 1967年(昭和42)8月15日
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