第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
越畑金泉寺境内の一隅に写真のようなさして大きくない一基の石碑がある。碑面は「当十六世」とあり、基壇に「施主筆子中」と刻まれている。「当十六世」というのは金泉寺十六代の住職ということである。金泉寺過去帳によれば、十六世は「当寺拾六世東外宗舟大和尚 弘化三丙午三月於当寺隠居其後月窓寺江住職於彼寺遷化」となっている。また1846年(弘化3)、日影村の真光寺からの「差上申遷化届書之事」という文書に、「別所村月窓寺祖舟長老…略…当三月十九日寅之下刻遷化仕候」とあり、東外宗舟大和尚は金泉寺十六世祖舟であることが明らかである。従ってこの小さな石碑は祖舟の墓石であり、筆子達によって建てられたものと考えられる。
前出の過去帳によれば、祖舟の生国は加賀国金沢で、武士の家に生まれたが、金沢の鶴林寺に入って修業のうえ出家した。1818年(文政元)、先住禅喬の後任として金泉寺住職となり、在任十七年間、後住本瑞に席を譲り隠居、その後別所村(現ときがわ町)月窓寺へ移転、1846年、彼の地において遷化したのである。墓石に「施主筆子中」とあるのは、彼が金泉寺において読み書きを教えた筆子達が施主となって建てたものであることを意味している。云うところの筆子塚でもある。元来筆子塚は寺子屋(近世の初等教育機関)の生徒(寺子)が恩師(師匠)の遺徳を顕彰するために建立したものである。即ち、祖舟の筆子塚の存在は金泉寺に寺子屋があり、付近の子弟を集めて読み書きえを教えたことを物語っている。1852年(嘉永五)、祖舟和尚の七回忌が営まれた。「十六世和尚七会忌香資授納控」には吾兵衛・善兵衛・吉左衛門・新右衛門等三十六人の名前が書かれ、中にはもと・みきといった女性の名も見られた。総額七貫弐百文にもなったが、恐らくここに香資を寄せた人々の多くは教え子であったのではないだろうか。祖舟和尚が近世越畑地域の初等教育を担ってきた功績は大きいといわざるを得ない。
蛇足ながら、1820年(文政3)、祠堂金の寄付を勧進、七十人から多額の金員を集め以来諸霊の祭奠、堂宇の補修等の資となした。また、1821年(文政4)には「不許葷酒入山門」と刻んだ石碑を山門の傍らに建て、不浄なものや心を乱すものは寺門内に入ることを許さないという厳しい禅宗の教義を標榜し、寺の格式を整えるのに大きく貢献した。なお、近年新潟県小国町にある上谷内観音堂[1827年(文政10)再建、創建者男谷検校の孫恵山尼]の勧進帳に「武州比企郡越畑村金泉寺祖舟和尚観世音一体」とあり、祖舟が観音堂に観世音菩薩像を勧請していたことがわかった。因果関係は不明であるが、祖舟和尚の力量の大きさと、仏の道を説く者の真摯な姿を見ることが出来る。