第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
町の南を槻川と都幾川が流れ、鎌形の北東で合流し、都幾川となって東流する。川の合流点を落合(おちあい)とか二瀬(ふたせ)と言い、地名ともなって二瀬橋が架けられている。今は上流で取水され水量が減りその上富栄養の生活排水が流れ込み河原は草原となり石は見えない。昔は河原は石や砂利で今の何倍もの水が流れていた。そして、川が流域の林産物を運ぶ唯一の大動脈であった。川には橋はなく、浅瀬を歩いたり、「大蔵仮橋橋賃なし」等の記録にある様に仮橋や渡船で越えていた。橋があると橋賃と言って金を取られた。有料橋なのである。
都幾川は比企郡内を、神戸(ごうど)、葛袋(くずぶくろ)、早俣(はやまた)、長楽(ながらく)と流れ、坂戸の赤尾(あかお)で越辺川(おっぺがわ)と合流する。更に上尾(あげお)の平方(ひらかた)の手前で荒川と合流し、江戸へと流れていく。この流れを利用して、江戸期(吉野良男家文書)から大正頃まで筏(いかだ)が下(くだ)っていた。吉野栄作家に残る1890年、1891年(明治23、24)の文書によれば、現在の東京都北区、荒川区にあった豊島河岸(としまがし)とその下の尾久河岸(おくがし)には、樫(かし)、雑、松等燃料材が送られている。江東区の深川の木場(きば)には建築材の松丸太が流されている。売り上げを控えた文書には、炭六百俵とか、樫、雑等々の記載があり、この荷主は鎌形の吉野治平である。豊島河岸の仕切に「……差引金十七円九十六銭六厘……鎌形吉野治兵衛殿代理千代田啓次郎様」、別紙に「記・筏壱双弐枚・乗賃七円五十銭・一円五十銭出し金・残六円・十二銭小家代・棹(さお)大十銭・小棹四本十銭・締計六円三十二銭・差引残金十一円六十四銭六厘相渡ス 早又千代田啓次郎 吉野治平様」とあり、豊島河岸の売上金から千代田が筏乗せ賃等を差引いて吉野に渡している。早俣河岸の千代田に荷物を運んで貰ったということだ。
『東松山の歴史』中巻によれば、江戸期には、葛袋に筏玉川問屋があり、玉川郷の林産物を江戸に下していた。玉川郷とは、嵐山町根岸より上流の都幾川、槻川に面した村々と考えればよい。東秩父の村も入っている。簾藤勉家文書に松丸太を十四両二分で売った仕切状がある。買い主は玉川屋三右衛門とあり、角印の中には千住橋際玉川屋と彫ってある。江戸の千住大橋際の河岸に、玉川町中宿(ながじゅく)(現玉川村根際。ねぎわ)の豪商小沢三右衛門の出店があったに相違はあるまい。とまれ、筏下しは江戸より明治前期を最盛期として、明治末〜大正と終焉を向かえる。今はただ水神塔(すいじんとう)を残すのみで、忘れ去られ分からなくなってしまった。
水神塔に刻まれた筏連中17ヶ村48名中、嵐山町域13名の名前は次のとおりである。
根岸村:根岸勇蔵
将軍沢村:鯨井五右衛門
鎌形村:杉田宅右衛門・杉田金兵衛・岩澤彦兵衛
長嶋源右衛門・長嶋儀八
千手堂村:関根源左衛門
遠山村:山下茂七・山下平吾・杉田民右衛門
久留田半右衛門
大蔵村:金井広治郎
博物誌だより99(嵐山町広報2002年10月号)から作成