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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

酪農獣医師として33年間の変遷

小鷹隆夫 

 酪農40周年に当り衷心よりお祝い申し上げます。記念誌発行に際し、私の武蔵酪農での生活を記してみたいと思います。
 私は、山間の村鳩山町(旧亀井村)の農家の4男として生を受け、戦時中の少労力の中で、兄弟協力農作業を手伝いながら成長。戦後29年(1954)酪農振興法が制定され、食物増産(動物性蛋白脂肪の摂取)が不可欠というので畜産が奨励され始めた時、動物愛護が社会に役立つ事に人生の生き甲斐を感じ獣医科に進学、農業と酪農の複合経営の中で、兄夫婦の家業を手伝いながら30年卒業。
 当時は就職難の時代で、先輩の西川奨先生を尋ね武蔵酪農を訪問。伊東勝太郎先生、田村孝一先生と出逢い、それが、その後33年間酪農にお世話になるきっかけとなりました。そして30年(1955)5月より就職の見つかるまで、技術見習として、大きな診療カバンを抱えて田村先生の単車の後に乗り、酪農家を訪問、乳牛に接し、獣医師としての自覚と責任が培われ教育されました。当時は組合員数611戸、毎日10軒からの往診で、夜は小島屋(旅館)さんに宿って廃用診断書の整理を手伝い、報酬3000円を藤野専務さんより頂いた事は今でも忘れる事は出来ません。
 4ヶ月の見習期間後、30年(1955)9月岐阜県恵那郡畜産連合会勤務(長野県境の観光地木曽谷馬籠の近く)。動物全てを対象に、自然と素朴な人情にふれながら一年一ヶ月。若林進先生転職により、武蔵酪農に招請されて31年(1956)11月奉職。
 当時、浜中組合長、藤野専務の管理体制のもとに、組合獣医師としての使命感が強調され、田村、西川両先生の技術指導に基づき、受精、診療に従事、疾病は単純で管理の失宜が多く、抗生物質などの科学療法剤の発達は、病気を容易にしてくれました。
 32年(1957)には、田村先生が健康を害され技術的に惜しまれながら組合参事に就任、以後、役職員の信頼のもとに、酪農振興、組合発展に尽力なされた功績は、まことに大きなものがありました。田村先生の代りに、家畜保健所より井上久雄先生が就任、主任となって、酪農経営改善指導、診療にと大いに努力され、酪農発展に貢献なされたことは承知の通りであります。
 この頃から、漸次、治療技術も進歩して、内科的な治療から外科療法が普及し、帝王切開手術(小見野高橋正照さん所有牛)を始め、盗食鼓張症による第一胃開腹手術が試みられ、充実した技術者のもとで診療に専念出来ました事を誇に思って居ります。
 33年(1958)12月には、長い間乳牛の改良増殖に尽くされた加藤留平受精師さんが転職。翌年1月松本功受精師さんが担当、多忙な時代を生産向上に献身的に尽され、43年(1968)より田辺郁彦受精師さんと共に協力、資質向上に努力されて現在に至って居ります。
 この時代は、機械器具が普及、生産基盤の確立、畜舎の造成も図られ、月輪、太郎丸には共同経営事業も始まり合理的な生産向上を目指して夢と希望に燃えた時代でした。指導部としても念願の診療自動車が購入され、獣医、受精師共に陣容も整い、酪農家の庭先には乳牛が悠然と草を食み、日光浴をし、反芻をしている姿を眺めながら、安定した酪農情勢の中で青春時代を過した懐かしい思い出も多い時でもありました。
 酪農はなやかなりし36年(1961)6月、技術的にも精神的にも大変お世話になり尊敬して居りました西川先生が転職。大山通夫先生が嘱託獣医として診療の一翼を担い、外科手術を得意として活躍することになりました。
 所が、全国的に30年後半より飼養戸数の減少が始まり、武蔵酪農に於いても47年(1972)には顕著となり、35年(1960)658戸、乳牛頭数1021頭数えた生産者も、47年(1972)145戸、乳牛頭数1539頭と戸数が極度に減少、これは小規模層の経営離脱によるもので、内部問題としては、生産性の低さ、所得規模の小ささ、労働周年拘束性が強い事等、外部問題としては、他産業の雇用機会増大が原因と考えられます。反面、規模拡大の動きも見られ、生産向上と一定所得額確保を目的として努力する様にもなって来ました。指導部に於いても、35年度より乳牛資質の改善と、基礎牛確保生産態勢確立のため、計画的に北海道導入が実施され、生産確保に全力を投球する事になりました。
 その間、井上先生が受乳場に転属、二人で苦労を共にした事もある大山先生も、45年(1970)12月小動物に専念のため転職。その後、井上先生と二人で診療、多忙の折には藤田利雄先生の御協力を頂き今日に至って居ります。
 47年(1972)以降は、徐々に戸数減少、多頭飼育という生産性収益性の高い経営形態へと著しく変化し、利益優先の時代へと変貌。51年(1976)にはオイルショック後の景気低迷の中、酪農経営の安定化が叫ばれ、更にその後も、生産調整、環境整備問題等、荒波にもまれつづけて来ました。
 一方疾病も、多頭飼育、省力管理という畜産経営形態の変化に伴い、粗飼料、運動不足による顕性的急性病から、陰性的慢性病へと変化。従来の単純な運動器病、消化器病に比べると大変複雑化して来ました。例えば、第4胃変位、産後起立不能、極度の運動器病、過肥による繁殖障碍、いわゆる代謝病中毒性疾患(ストレス病)等、新しいタイプの疾病へと移行し現在に至って居ります。58年(1983)には、異常産が発生(アカバネウイルスが原因)、難産による切胎、帝王切開手術が夜半に迄及ぶ事もありました。
 この様にして臨床生活33年を経て、今日、振り返って見ますと難産後の出生の喜び、子宮脱、開腹手術後の全快の安堵、又、加療の甲斐もなく廃用・死亡の苦い思い等、どの生産者の家にも、脳裏に刻まれ、決して忘れる事の出来ない思い出が、枚挙にいとまがない程でございます。
 現在、酪農界に於てもここ数年、畜産状況も厳しくなる一方で、農産物の自由化、生産調整下に於ける乳量、乳質問題、飼育者の高齢化、後継者問題、畜舎の環境による公害問題等、畜産経営のむずかしさが問われて来ております。
 この様な酪農形態変遷の中で、生産向上に試行錯誤、勤勉努力なされました生産者の皆様、又、技術的にも精神的にも御指導頂きました多くの先輩諸先生方、職員の皆様方に深甚なる敬意と感謝を表わすと共に、今後もますます酪農発展に御尽力下さいます事を御祈念申し上げます。
 ここに、酪農発足40周年を迎え、多くの先人の築いた偉大なる功績とご苦労を偲び、武蔵酪農発展を心から念願すると共に、今後共微力ながらも出来る限り尽力させて頂きたいと思っております。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』120頁〜122頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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