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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

人工授精の歩み

松本功 

 人工授精も普及され始めたのが昭和23年(1948)頃からではあったが、まだまだ雌牛を近くの授精所まで引いていき、直交させた。この辺でも菅谷の木村牛舎、玉川の田中牛舎、唐子の野原牛舎等々、旧町村に1〜2軒位づつ牡牛舎があったが直交での利点もあったが弊害も多かった。武蔵酪農創立の昭和24年(1949)頃は食糧難、就職難で敗戦による経済恐慌で米麦中心の農業から毎月現金収入の得られる酪農をとり入れる人が多くなり1〜2頭の軒下酪農ではあったが、毎日の乳量、毎月の乳代の自慢話しで「お早う千両」と云う言葉も出て、正に酪農は楽農であった。人工授精の普及率はS25年(1950)頃は50%強で1頭当りの年間乳量は3300kg位、その後人工授精も急速に普及されS30年(1955)頃は普及率90%乳量4500kg位となり組合員としても少しでも乳量の多い牛を求めるようになり雌牛の選択には基より種雄牛についても強い関心を持つようになり授精についても種雄牛を指名するようになった。
 昭和34年(1959)先輩の加藤授精師が退職したので後任として勤めてくれと云われ人工授精担当として奉職することとなる。当時は激動の酪農界ではあったが、大先輩及び諸先輩の寝食を忘れてのご努力とご活躍により創立10年にして県下屈指の組合となっていた。
 私の入ったS34年(1959)は組合員630名位乳牛頭数800頭位で組合長藤野喜十氏、専務山田巌氏、参事田村孝一先生、獣医井上、西川、小鷹の諸先生、事務員と牛乳処理系の諸先輩で全員15〜6名で毎日活気に満ちていた。
 当時は授精も茶壷の様な形態魔法瓶に氷を入れ生の精液を運搬したが夏場など特に氷を切らさないようにするのに苦労した。
 当初の乗物は組合より貸与のオートバイ、メグロ350ccで廻ったが何しろ半年位は道も又組合員宅も仲々みつからず道路も未舗装が多く砂塵が上がり厳寒の雪の日や雨の日のオートバイは身に応えた。でもS36年(1961)頃より乗用車も流行りだし組合でも役員の方々等の深いご理解で中古車ながらも名車のヒルマンを買って頂き先生方共、たまには乗せて貰ったが私も勇躍小型自動車の免許をとり、スバル360で廻れるようになり雨の日も風の日も苦にならなくなった。
 酪農組合も発展を重ね霞ヶ関の鋼管牧場のキングドンとキーノーターと云う種雄牛では間に合わなくなっがS37年(1962)頃より凍結精液が叫ばれ、我々授精師も度々講習会に参加、県の山下、入江、大竹の諸先生のご指導を受け、始めは4ℓのジャアーにドライアイス(-75℃)を入れ、グロンサン位の錠剤の凍結精液による受胎率試験を1年位行い、その後細ストロー式の試験も行い結局現在のストロー式となり保存も液体窒素(-196℃)となり半永久的となり、S43年(1968)より実用化となった。従って国内はもとより諸外国の名牛の種まで容易に手に入るようになり改良も一段と進んだ。
 その頃より日本経済も安定し工業立国へと進み始め第二種兼業農家も増え、酪農が落農となり立派なサラリーマンに転向する人も出るようになり、又楽農家は多頭飼育となり健全な酪農経営をめざして専業化して行った。
 S43年(1968)頃より優秀な遺伝子の固定化を図るため種雄牛の後代検定制度が始まり酪農家の血統書付きの牛に厳選された後代検定候補牛の種を授精し1候補牛に対し30頭位の娘牛を国が買い上げ2産程度まで飼育検定し基準点に合格した候補牛だけ後代検定済種雄牛として供用する制度に当組合でもS47年(1972)頃よりS60年(1985)まで大勢の組合員の皆さんにご協力を得てこの事業にも参加して頂き徐々にではあるが、この辺の搾乳地帯の目標である豊乳性、連産性、強健性に富んだ牛作りに励み、40年前より可成良い牛群となり1頭当り年乳量も6000kgくまで上昇してきた。
 これからは尚進んだ雌牛側からの改良技術も取り上げられ授精卵の移植に依って、めざましい改良が進められる事と思います。
 最後になりましたが創立40周年記念誠にめでたい極みでございます。組合及び皆さんの益々の繁栄をお祈り申し上げます。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』123頁〜124頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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