第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
武蔵酪農創立四十周年の歩み
牛の流行性感冒発生に懐う
田村孝一
組合発足して間もない昭和25年(1950)9月、突如として牛の流行性感冒が発生した。初発10日位にして埼玉県内全域に発生をみた。
『武蔵酪農創立四十周年の歩み』116頁〜117頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
私の診療した初発牛は、菅谷村遠山地域が最初で9月の10日頃と記憶しているが、それから関係組合員の飼育する乳牛は殆んど全頭罹患し、体温上昇、呼吸困難、皮温不整、流涎、流涙、茫然起立、食慾不振、食慾廃絶等、呼吸器型、神経型、胃腸型の症状を呈し、軽症のものは一回の治療で回復したが、重症のものは数回の治療を要し、妊娠中のものは流産、早産も発生した。
最盛期の9月中旬から下旬にかけて一週間〜10日位は、伊東所長と共に夜も寝かせてもらえず診療活動も大変でした。
薬品についても、当時は大動物専用薬は少なく、人医用薬を使用し、人間の10倍以上使用するため、菅谷の島本薬局、松山の辻薬局にお願いし薬品の調達も大変に苦労した。
その当時、往診は自転車(西、竹沢約15km 東、八ツ保約25km)だったので、初発後数日は間に合わせたが、罹患牛の増加が激しくなり集乳車を運転手つきで用意してもらい、東部は木村さんの小型トラック、西部は長谷川さんのオート三輪車をお願いした。
オート三輪車の長谷部正ちゃんには随分と苦労をかけました。オート三輪車の助手席に乗せてもらい、膝に毛布を掛け夜になると私が居眠りをするので片手で私をささえ片手で運転をしたり大変だった。
又治療の時、ブドウ糖やリンゲル液に、消炎鎮痛剤等アンプルをカットし混合する作業も手伝い、静脈注射の時、ブドウ糖を持つ手伝い、その時私は又注射針を持ち乍ら居眠りをするので、注射が終るのを確かめて合図をしてくれる等、手際よく助手の役割を果してくれて大変助かりました。
長谷部さんも不眠不休が続いているので、そのうちに私が治療している時間にオート三輪車のボデーで仮眠する様になり、尚その後は長谷部さんの近所の古谷さんを頼み昼夜交替で運転してくれることになりました。
或る時、松山から八ツ保小見野の地区【現・川島町】の診療を終え、木村さんの車で松山の駅まで送ってもらい、東上線の終車で嵐山駅におりると長谷部さんが駅前に待って居て、これから未だ数件往診を頼まれているということで早速竹沢方面にいくことになり、途中小川の町外れで、タイヤがパンクして雨の中2人は困惑したが、道路の端の親切な家の軒下をかり、10数ヶ所チューブに穴があいて仕舞ったところを根気よく直してくれた長谷部さんには頭が下がりました。
結局この日も診療が終ると夜が明けて、私を下宿(月輪六軒、長谷部恭太様宅離れ家二階)に送って長谷部さんは雨の中集乳に出かけました。
集乳の時間が私の仮眠の時間で、下宿に帰った朝、“おばさん”は集乳が終る時間頃まで私を起こさずに気をつかってくれ、組合員の方も朝早く往診の依頼に来ても大部待たされた様子でした。
診療の時間も頼まれた順序でなく、地理的にコースを組んで往診するので朝早く頼まれても途中で隣の家の牛が発病したり、罹患牛が蔓延し計画した時間より次々遅れて夕方になっても未だ診てもらえないと云うことで、生産者には心配かけたり苛立たせたり大変迷惑をかけました。又怒られもしました。
この様な状態が1週間から10日続き、最盛期は9月下旬頃で、猛威をふるった流感も1ヶ月余にして終息した。
私の治療した頭数は約300頭に達し、流産した牛は数頭発生したが。斃死牛の発生をみなかったことは、組合員の皆様の協力によって若輩で未熟な私に幸運を与えてくれたものと感謝して居ます。
この1ヶ月余にして300頭に及ぶ貴重な治療の体験が、私の将来の臨床生活に於ける大きな源となり、基盤となり、40年に亘ってお世話になるスタートでもありました。
翌26年には、咽喉頭麻痺が散発し玉置獣医師と治療に当り大事に至らなかった。
流感大発生の往時を偲び、その一駒を記しました。