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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

酪農20余年の歩み

嵐山町 吉場雅美 

 時は激動化した、昭和の真只中、酪農家として発足したのは、27年人生男さかり30才の時であった。
 私の営みを酪農に決定づけたのは、自然条件に恵まれた町の片隅の林野に囲まれた地形に、土と闘い、酪農に生き20数年を返り見て、此の度、武蔵酪農40周年誌発刊に際し、想いでを記する機会を得ましたことは、誠に、感謝にたえません。
 戦後も10年余も過ぎ去った頃、日本は経済大国として、造船ブームも世界一として、高度成長を世界に誇り示した頃であった。
 乳量需要も活気を呈し、明治や森永の乳業会社も乳量確保に争奪に及んだこの頃は、我々生産者にも張りのある時代であった。
 酪農家も、次第に増して、武蔵酪農も、頭数は、益々拡大し、各町村にも、畜産共進会が盛んに施行される。昭和32年(1957)秋の比企郡市育成共進会が開かれ、時の組合長浜中東重郎会長より優賞に召されたこともございます。その翌年の頃かと思いますが、本年(1989)誕生した天皇陛下は美智子妃殿下と結婚した頃、県の畜産共進会が深谷市で開催され、武蔵酪農一組合員として入賞出来たのも、時の組合員各位の御支援の賜ものと深く感謝申し上げます。然し、その後の事である。人生には浮き沈みもございます。期待した二産目の成牛が、突然病み出し、食慾もなくなり激しい疲憊その極に達し、田村、井上、小鷹三先生には深夜まで治療に当られ、小鷹先生には夜を徹して看病に付いて頂いたが、悔も空しく遂に、私の不注意怠慢から、手遅れとなり帰らぬ牛となった事も、心に残る深い思い出として、三先生には、本誌をもって、厚く御礼申し上げる次第であります。
 此の様な強打も受けて、又波を越えて、私達、班のグループ7名は、月に1回の乳代精算に、各家庭を廻って、楽しく話合に花咲く夜の交流に生きがいを感じ、大型酪農をめざして、夢と、希望に、躍進した時もあった。
 尚、39年(1964)東京には、オリンピックが開かれ、一大人類の祭典として、乳量需要も増えてか、各メーカーは、色物乳製品が、多量に出廻り、生産者にもピンチが来た。でも我が組合は、益々繁栄し、或る時の通常総会に、議長として就任した時の思い出は、500人もの組合員と記憶しているが、この頃は、玉川地区や、江南地区からも新加入者が増えて、堅実に、組合は、昇る朝日の如く運営されたのである。
 併し、時代の変革の中で、牛と別れる時が来た。49年(1974)成牛7頭、育成3頭、長年愛育した牛も目頭うるむ涙で見送ったのであった。
 でも之を資本として、植木の生産に切り替え、今や会社として造園業に導いて下さったのも酪農のお蔭と信じ、幸せを求めて、今尚、健全な老後の日々が送れる事は、人生の最大の幸福と思い、今後とも、何分よろしく、御支援賜りたく、心より御願い申し上げます。
 武蔵酪農の御繁栄を、お祈り申し上げます。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』108頁〜109頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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