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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

酪農と私

滑川町 横田隆吉 

 やっと終戦となり幸、生命あって、20年(1945)の12月生れ故郷の土を踏むことが出来た。喜んで家を見ると変わっていた。屋根は朽ちて数條の筋がついていた。周りの木の幹が想像以上の成育を見せていた。顧みると家を出てから8年もなんなんとしている。勿論必死で東京周辺を飛び廻っていたのだった。月日のたつのは早い。復員して10日目に父を亡くし、途方にくれて何も考えられないで、年の暮れを迎えざるを得なかった。教職にも戻れないし、公職はつけない運命である。悲しい田や畑はどうなっているだろう。然しこんなことでくじけてはいけない。こと戦争で生命財産を失った不幸の人が幾人いるかしれない。勇気をだそうと思ったのが酪農である。早速仔牛2頭を買い受け、厩舎で飼育が始まった。飼料に乏しく、冬枯の草を集めたり、山から青い葉を取ったり、僅かな稲藁を切ったり、飼料集めに懸命の日々を過ごした。春より秋にかけては、野草の刈取りで忙しかった、1年たっても成育は悪い。どうしたらよいか。思案にくれてあちらこちらを廻って、見たり、聞いたりしたやっぱり、麩糠等濃厚飼料の不足である、買うなら少しはあると云う人があったが、金は人間生活にあてて仔牛の飼料にはまわらない。軍隊でも1年半は無給、帰る電車賃は借りて帰る始末、戦争の苦しみが未だ続いているのだ。それから1年余り後、2頭を基として成牛を購入した。1年過ぎてやっと仔牛が誕生して搾乳が始まった。乳の出荷になり、先輩各位の指導を受け、1人前の牛飼いとなったのだ。
 其の頃は六軒の高坂清一さん、加田の小高睦治さん、新井実三郎さんはベテランの酪農人であった。乳は其の頃嵐山駅前の集乳所へ運んだ。自転車がリヤカーとなって、数人一組となって当番制で運んだのを思い出す。埼玉酪農の松崎孝了さんと話をして離別し、独立したのが昭和25年(1950)1月だった。交渉が難航したことを記憶に残る。当時伊東さんが指導者で信頼性厚く、多くの搾乳者は集団化し、明治乳業と契約し、現在の武蔵酪農の源泉となったのだ。それから組合長も藤野喜十さん、福島敬三さんとなり、事務所、倉庫の拡張と配合飼料機の導入、配合飼料の製造等、数多くの事業を時代の流れと共に遂行し、組合員の数乳量も多くなり、乳の処理場の増築、改築と並んで、小型ロリー車の設備等、活気に満ちた運営が続いた。私も全盛時代の理事或いは監事とお世話になって、昭和46年(1971)5月16日総会に於いて役員を引退させてもらい、昭和50年(1975)滑川村の公人となったので暇がなくなり酪農と別れを告げた。
 大変関係者並びに先輩各位等に御世話様になり、この期を借りてお礼申し上げます。組合の増々発展をお祈り致します。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』91頁〜92頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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