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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

四十周年によせて

東松山市 大塚賢一 

 戦後食べ物であれば何でも金に成る時代から、そろそろ安定の兆しが見えて一定収入が欲しいという事が考えられる様に成り、酪農を取り入れることにより、給与所得者の一ヶ月分位の現金収入が得られる事で、急速に当時の若者の間に広まったように思います。
 私も今振り返って見ると、何の事前勉強もせず白黒の牛を飼えば良いものと思い、人に進められるままにこの道にいとも簡単に飛びこんでしまった訳ですが、これも一つには若さ故に出来た事だったと思っております。爾来幾多の試行錯誤の繰り返しで中々実績が上がらなかった記憶があります。
 酪農が盛んになればなる、程当然のことの様に組合員の争奪の問題も、色々の内容を含んで繰り返された訳でありますが、私共の班でも他の組合から加入したいとの事で或る種の制約をしながら組合員に成っていただいた事が昭和三十一年(1956)から三年位に渡っての日記からも発見されます。そして当時は娯楽らしい娯楽もない時代であり乳代清算が楽しみの一つでもあった訳であります。
 僅かな会費で懇親会を持ち、明日の酪農についてよく語り合った訳でありますが、その事が又酪農振興の原動力にもなって居ります。班長宅では新年会を、唐子支部の総会は唐子小学校で開催され、同志的結合の輪を深めて行って黄金の武蔵酪農の時代を築いて行ったように感じております。
 歩けオリンピックの主催国オランダへ、東松山市の第一回派遣団の一員として丁度十年程前に視察に行って参りましたが、この国の面積は日本の九州とほぼ同じ位だそうですが、九十九パーセント平野と云われる様に見渡す限り平野であり、その大部分が牧草地であり、四、五十頭位づつの群れでのんびりと草を食べて居る様は、将に一幅の絵を見て居る様でありました。酪農の本場とは云え、一朝一夕にして現在の様に決して成ったのではなく、永い永い努力の結果であるとの話を伺いました。
 国においては国際競争に充分耐え得る様な体勢造りには強力な行政指導を行ったとの事、即ち意欲のある者には農地の移動等には積極的に指導もし、補助金等も優先し、反面乳価等には一切補助制度は認めなかったとの事です。今静かに日本の農政を振り返って見る時、深く反省させられる想いであります。
 幸いにして当組合には優秀な組合員が意欲を持って経営に精進されて居られる訳であり、40周年を期に尚一層の努力と飛躍を祈念致して筆を措きます。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』91頁〜92頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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