第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
武蔵酪農創立四十周年の歩み
酪農の思い出
嵐山町 奥平武治
私が酪農について関心をもったのは戦後まもなくの事でした。その頃の農地は地力が使い果たされてしまい作物の成育などはほんとうに悪く惨めな有様でした。これを見た時に農業の将来には農地の地力増進が急務で有りこれを解決しなければ農業の発展は有り得ないと思い、酪農をやり地力増進を計るしか他に方法がないと気付きました。そして昭和22年(1947)に初めて千葉県から成牛一頭導入して私の酪農第一歩が始まったのです。当時の乳牛の価格は一頭当り7万円か8万円位でした。当時の状況は埼玉酪農と比企酪農と二つの組合があったのです。尚埼玉酪農は駅前に集乳所を持っており名実共にりっぱな組合でした。私は縁あって同志二人と一緒に比企酪農に加入したのであります。それから半年ばかり過ぎての事でした。当時は牛乳が不足して参りましたので酪農界にも新風が巻き起こったのであります。それは新しい組合を作って東京乳業と云う会社と取引をしようと云う呼び掛けが埼酪菅谷支部長であった山田眞平さんからあり、その時のお話で森永乳業は加工が主体であって高乳価は望めないとの事、それに比べて東京乳業は飲用牛乳が主体であるから高乳価で取引出来るし希望がもてる会社とのことでした。私も大いに賛同しまして組合作りに一生懸命に取組んで参ったのであります。
武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)87頁
当時を思うと組合は素より集乳所もなく、何もかも無いから厳しい出発でした。集乳所については菅谷の中島長太郎さんの所をお借りして細々と出荷を始めた訳です。その時の会社側の責任者は伊東勝太郎さんであり、尚運輸関係は横塚さんが引受けていただいたのでありますが、こうした方々は日夜分かたず組合作りに御協力を戴いたのであります。改めて心より感謝申し上げます。そして僅かの月日で苦労の甲斐あって現在地に組合が出発したわけであります。我々の望みが達成出来てほんとによかったと当時が偲ばれてなりません。その後職員と組合員の御努力によりまして現在の様な立派な組合になり発展を遂げられたのであります。終りに組合の発展と組合員の御繁栄を御祈り申し上げます。