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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

組合発足の想い出

嵐山町 中島長太郎 

 私の酪農に関しては戦中九年間の軍人生活のため中断して居たので途中の空白はお許し願いたい、農業の傍ら昭和の初期に精米業を営み生業として居たが、弟、徳三郎が、埼玉酪農に職員として勤めて居た事が、酪農への一歩であろうと思う、寄居の方から成牛を買い求め酪農はもっぱら妻が行なって居たようである。
 当時私は昭和十四年(1939)五月二十六日召集されて以後の事である。その後弟は召集され中支方面に出征した。戦争終了まで妻と酪農とのつながりが続いた。私は昭和二十三年(1948)七月一日に家に帰ったのである。当時駅前(嵐山駅)に牛乳処理場があり、弟も復員後、再び処理場に勤務して居たが結婚のため退職した。当時マッカーサーの占領下に有り埼玉酪農組合長松崎孝了氏が長期間勤務して居たが、組合内の事柄に一部不満が起こったようであり、特に比企地区の生産者に多かったようである。
 当時役員、松山地区・田中盈氏、野本地区・市川仙之助氏、菅谷地区・山田眞平氏、小川地区・吉田龍次郎氏等々の人達が中心となり米山料理屋に集合して対策を協議したようである。その結果埼玉酪農から、はなれる事は出荷先の森永乳業とはなれることにもつながるので出荷先の問題、新しく生れる組合員の参加等、未知数が非常な問題で設立に踏み切るに非常な決断が必要であった。然し時至り昭和二十四年(1949)仮事務所に拙宅の一部を提供、第一回の出荷を横塚氏の拂下げの木炭車で出荷先の明治乳業に出荷の運びとなった。組合参加者の数が出荷乳量を決める事であり、役員の心配は計り知れぬものがあったようである。第一回の出荷量は決して多いとは云えなかったがその時の喜びは、初代組合長吉田龍次郎氏他組合設立のために努力した人達の喜びの顔が目に浮かぶ。私は精米業に専念して居たので実感は薄いが陰ながら喜んで居た。将来が未知数な新組合の輸送を担当に踏み切ってくれた横塚氏に感謝し敬意を表したい。
 あの時の英知が今日の旭運輸に結びついたのではなかったか。さて組合は出来たものの乳牛は、生きものである。獣医が必要である組合からの要請で明治乳業より伊東獣医が組合専属となり伊東さんの人柄の良さと技術の優れて居た事が組合発展に役立った事は事実である。組合の非常な発展に伴い処理場の建設、獣医陣の拡大と授精師の確保等により組合発展にめざましいものがあった。組合長も非常勤が常勤になり専務の他、参事制が行われ当時獣医として勤務して居た田村氏を参事に迎え県下最大の組合になった。今かえり見て歴代の組合長以下各役員、組合員の皆様のそれぞれの立場の人々と故人をも含めて心からなる感謝を捧げ組合のかわりゆく社会の中での発展を祈って止まない。
 追伸 拙宅が仮事務所の時私が工場で作業中右手薬指切断の事故に遭い事務所に居た伊藤獣医に応急処置をして戴いた事です。組合設立四十周年を迎え薬指のない右手を眺め新ためて当時を想い出すのも、私の組合とのつながりかな、と手を見るたびに想い出す今日この頃です。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』85頁〜86頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
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