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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

武蔵酪農創立四十周年の歩み

40年前の思い出

旭運輸株式会社*1 会長 横塚元吉 

 滑川、市野川、都幾川の清流を囲む丘陵地帯に広がる森と田や畑、点在する農家の姿は、私の生れ育った頃の東京郊外、大井町や大森の山の手に良く似ています。私が終戦直後この地に永住することになったのも、その辺にあるかも知れません。又、東京で運送屋だった父の実家は、栃木県小山市の在で水田地帯ですが、田作りの外に、水車と牛舎で、当時小山町へ牛乳を売りに行っていたという。私がこの土地に住んで酪農家の牛乳を輸送することになったのも、全くの偶然ではなかったのかも知れません。
 終戦の際部隊長から、家業が運送屋だから運送業で日本の復興に寄与せよ、とトラックの払い下げを受けたけれど、運ぶ物のない農村地帯で、どうしたら良いのか途方に暮れていた時、この地方は酪農地帯なので、これから牛乳の輸送にトラックが必要なので、我々の仕事を手伝ってくれと、当時菅谷駅前に有った埼玉酪農比企集乳所の保泉所長さんから言われてこの道に入ったのです。でも牛乳は二斗缶で六本位しか集まって来ない。リヤカーに積んで東上線の電車の運転室に乗せて、寄居の森永工場に送っていたので、私のトラックでは飼料の配給があった時運ぶ位でした。
 トラックは持っていても収入にならず、然し世の中はうまく出来ていて、東京に帰る疎開の人達の引越荷物を頼まれて忙しく、収入も安定して生活できました。一カ年程経ち牛乳も大分増え、トラックで輸送するようになりましたが、それでもボデーの半分位でした。ボデー一杯になったら直接東京送りにするというので、楽しみに頑張りました。それから三年忘れもしません、昭和二十四年(1949)の春でした、東京直送が実現しました。
 その年の秋、埼酪から分かれて比企郡の酪農家が、明治乳業に出荷しようと同志が集まり武蔵酪農が設立され、当然私も明治の乳を運ぶ事に成りました。埼玉県最大にして唯一の埼玉酪農、そして森永から明治へと変る事は、当時の酪農界にとって大変な事でしたが、心を同じにする人達の固い団結と熱血溢れる努力で、偉大な事業を成し遂げました。
 自来三十数年の今日に至る迄、日本のいや世界経済の変動、農政農業の曲り角を幾つも潜り抜け、県下でも有数な立派な組合に成長されました。然し往時活躍された諸先輩も既に亡き方も多く、思い出すと涙を禁じ得ません。私の今日あるのも、武蔵酪農の皆様のお陰であります。茲に厚く御礼を申し上げます。
 ありがとうございました。私事のみの記事、お許し下さい。

『武蔵酪農創立四十周年の歩み』83頁〜84頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月

*1:旭運輸株式会社は、現・アサヒロジスティクス株式会社。

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