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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

養蚕

川島農協*1

稚蚕共同桑園

 稚蚕共同飼育場と稚蚕共同桑園は、車の両輪の如き関係と考へられているが川島支部*1では、飼育場の新築と同時にこれが実現した。圃場は権田和重氏の提供により鼠返し一九〇〇本、多胡一三〇本を組合員全員出動にて四月上旬に植付た。基肥(もとごえ)として専用固形肥料と組合員各自の堆肥材料を持寄りで施した。これによって川島支部の年間を通じての稚蚕飼育の完璧が期待出来ることになった。

稚蚕共同飼育と成績

 明治二十六年(1893)以来の大霜害の影響は、本村春蚕飼育農家三八五戸で八九〇〇余瓦(グラム)掃立予定のところ、実状は一八八戸四五〇〇余瓦という惨胆たる結果となった。そこで掃立不能養蚕家の希望に副(そ)うため川島支部では予(か)ねて新築中の稚蚕飼育場によって本村最初の共同飼育を実施した。五月十四日五百瓦を掃立て、支部長権田和重氏を中心に、日本シルク利根川技術員、島崎文男、権田宗一君外地元婦人の寝食を忘れた努力によって、成績は極めて良好で二十一日無事組合員三十七名に配蚕を終了した。尚配蚕数日前の多忙の時に西吉見村共同飼育場に本村委託の青年講習生として派遣された田幡一一、森田昌雄両君は激しい講習のため一貫以上体重を減らして頑張りつゞけで帰村した。

『菅谷村報道』34号 1953年(昭和28)6月20日

*1:川島村(町)ではなく、菅谷村(現・嵐山町)大字川島の農協支部を指す。
川島村(現・川島町)の施行は1954年(昭和29)。

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