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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第4節:養蚕・畜産

養蚕

七郷地区の繭乾燥場

 日露戦争前後から生糸の生産が伸び、輸出も急速に増大していったが、埼玉では県北の児玉郡や大里郡、県西部の秩父郡、比企郡、入間郡などで養蚕が 盛んになった。こうした状況の中で1906年(明治39)に旧菅谷村では養蚕に携わる農家の人たちが菅谷組合生繭乾燥場を建設した。この乾燥場を旧菅谷村 の菅谷、平沢、志賀の人たちを中心に、上唐子、広野、杉山、千手堂、月輪、川島、鎌形の人たちも利用するようになった。これと並んで七郷村地域でも乾燥場 の建設が始まっていた。

吉田の生繭乾燥場の建設

 越畑の久保寅太郎家に次のような株払込通知書が残されている。

   株払込通知書
 一 弐株金五円也
    内訳 金弐円也   明治四拾年一月五日払込
       金弐円也   仝   年二月一日払込
       金壱円也   仝   年四月一日払込
   右之通リニ候也
    明治四拾年一月一日
   比企郡七郷村大字吉田組合生繭乾燥場
           建設委員長 藤野文八
                代 川口勇蔵 印
    久保三源次 殿

  この文書から、藤野文八が委員長になって吉田に生繭の乾燥場建設をめざし、資金は株金で集めるため、その一環として1907年(明治40年)に2株5円の 払い込みを3回分割で納めるよう久保三源次に通知したことがわかる。旧菅谷村の場合は、1906年(明治39)に1口5円で100口、つまり500円を資 本金として生繭乾燥場を建設し、その年の6月から春蚕にあわせて乾燥を始めたが、七郷村では吉田で乾燥場組合をつくって1907年(明治40)6月から春 蚕に間に合うように操業を開始したと思われる。

越畑の繭乾燥場 改良伝熱式乾燥機器を導入して

  越畑の生繭乾燥場が何年に建設されたか今のところ分からないが、「大正十二年度生繭乾燥受附帳 六月十三日開所 大字越畑繭乾燥場」、「大正十二年度 管 理者火夫夜番控帳 越畑乾燥場」、「大正十三年度生繭乾燥受附帳 六月十一日開場 大字越畑上郷乾燥場」「大正十三年度 夜番帳 六月十日ヨリ 越畑乾燥 場」、「改良伝熱式乾繭器使用心得」、チラシ「大正十四年 事業案内 九月号 松山繭種冷蔵庫」などが残されている。
「改良伝熱式乾繭器使用心 得」は手書きで、一から九まで箇条書きで心得が書かれている。いくらか紹介すると、「一 本乾繭器ハ生繭ヲ乾燥シ糸質ノ改善ヲ図ヲ目的トス」 ニ 以後で 釜の焚はじめや温度管理のことなどを述べ、「七 常務者夜間ハ三間交代トシ復(服)務中ハ能ク室ノ内外ニ注意シ始終巡視スル事 但シ入替有場合ハ此限ニア ラス 八 火夫ハ温度百七八拾度保有セシムル要又監視口ヨリ室内ニ注意シ伝熱管ノ正否ヲ看守シ若シ同管其他ニ異條【異常】ヲ生ジタル時ハ管理者ニ急報スル 者トス」 最後に「右之條々確ク守ラレ度シ 乾繭器製作人 大正十弐年六月 吉田徳三郎敬白」と書かれている。これは、おそらく好景気の中で、糸質の改善のために改良伝熱式乾燥機を導入したので、1923年(大正12)6月の乾燥場開始に当たって伝熱式乾繭器の製作者が使用心得の徹底のために書いたものと思われる。
 当時の繭と生糸の状況についてチラシ「大正十四年 事業案内 九月号 松山繭種冷蔵庫」には、「晩々秋繭萬々歳」の見出しで次のように書かれている。

「世界の大戦が片付いてから亜米利加の機織器械が残らず運転するのは今年が始めてであります。随て生糸は盛んに売れる、加之、今年の春繭は非常に解じょ 【繭から糸をたぐりとるときの繭糸のほぐれ具合】が良く製糸家は既に予定以上の繭を消化して皆原料不足を恐れて居ります。初秋繭は豊作したが中秋繭は不作 しました。晩秋蚕の繭は糸量も多く解じょも良き故一層高値に売れる。桑葉も亦天恵厚く今秋位繁茂した事は無い。元より掃立るものは蚕種の選択に注意し、既 に掃立たるものは飼育に努め、晩々秋繭の萬々歳を唱へ給へ。」

 このチラシで述べられているように、第一次世界大戦後のアメリカへの生糸輸出の好景気に支えられて、埼玉の製糸業は1923年(大正12)、24年に急激に伸びていき、そのもとで村々が生繭の乾燥場づくりと運営に精を出したのである。

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