第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
養蚕
幕末の開国によって外国貿易が始まると、生糸と蚕種(さんしゅ)【蚕の卵】が輸出品の中心になっていった。しかし輸出の増加につれて粗悪品も増え、外国商人の不信をかうようになった。明治政府は生糸の改良をめざして群馬県に官営模範工場として富岡製糸工場を開業させ、埼玉では県の奨励もあって民間の製糸会社も出来て生糸の改良に乗り出した。しかし1881年(明治14)からの松方正義の財政引き締めによって非常な不景気になり、生糸の価額が大暴落した。秩父では農民が秩父事件に立ち上がった。
その後も養蚕の改良発展の努力がなされ、県内に養蚕の伝習所や専業の大養蚕家も出てきて、日露戦争前後から生糸の生産も伸び、輸出が急速に伸びていった。埼玉では県北の児玉郡や大里郡、県西部の秩父郡、比企郡、入間郡などで養蚕が盛んになった。こうした状況のなかで菅谷村【現・嵐山町】では養蚕に携わる農家の人たちが協力して生繭(せいけん、なままゆ)の乾燥*1場(かんそうば)を建設した。
そのときの乾燥場設置の規約、運営や利用状況の資料が残されているので、いくらか紹介したい。
菅谷組合生繭乾燥場設置規約
第一条 本組合ハ生繭乾燥ヲ以テ目的トス
第二条 本組合ハ菅谷生繭乾燥場ト称ス
第三条 本組合事務所ハ仮リニ大字菅谷十四番地ニ置ク
第四条 位置ハ大字菅谷トス
第五条 本組合員ハ本村内在住ノ者トス
第六条 本組合存立年限ハ十ヵ年トス
第七条 組合員ハ其払込済出資額ニ応ジ組合財産ニ対スル権利ヲ有ス
第八条 本組合ハ資本金(設置費総額)五百円トシ總口数壱百口トシ一口金五円トス
第九条 資本金(設置費)出資期日ハ左ノ如シ
第一回 【字が薄れていて読めない】
第二回 壱口金弐円五十銭 四月三十日限り
第三回 壱口金弐円五十銭 五月二十日限り
第十条 組合員其出資ヲ怠リタルトキハ期日后金百円ニ対シ一日金五銭トス
第十一条 本組合ニ組長壱人理事四人ヲ置ク 但組長ハ理事ノ互選トス
第十二条 理事任期ハ一ヵ年トス
規定
乾燥場ニ於テ茶ヲ呑ミ其他飲食ハ各自ノ負担タル事
○印ハ本乾燥 △印ハ半乾燥
乾燥料受取人ハ各自認印ヲ押ス事
乾燥料ハ壱昼夜限リニ収入掛ヘ渡ス事
この設置規約によると、菅谷村の在住者ヲ組合員として、生繭の乾燥ヲ目的として乾燥場を建設する。その資本金(設置費)は500円、1口5円で、100口を集める。役員は組長と理事4人、任期1年。組合の存立期限は10年となっている。
繭の乾燥場の建設は、1906年(明治39)4月から始められた。「乾燥場設置支払明細帳」によると、支出総額は金530円45銭3厘で締めくくられている。この金額は、先に紹介した「菅谷組合生繭乾燥場設置規約」の第八条の資本金(設置費総額)500円に見合う金額である。自分たちで資金を出し合って乾燥場の建設を始めたことが分かる。
この施設の利用記録の帳簿によると、利用の開始は1906年(明治39)6月18日から始まっている。明治初期の養蚕は春蚕(はるご)だけであったが、やがて秋蚕(あきご)も始まってきた。乾燥場の利用が6月18日からというのは、春蚕の乾燥から始まったといえる。6月からがその年の第1期、9月からが第2期である。
まず利用状況を見てみる。
1906年(明治39)第1期(6月18日〜6月21日)
乾燥量 183石1斗7升5合 乾燥賃 84円41銭7厘
1906年(明治39)第2期秋蚕(9月4日〜9月7日)
乾燥量 17石6斗9升 乾燥賃 13円43銭
1907年(明治40)第1期(6月16日〜6月26日)
乾燥量 1969貫500匁 乾燥賃 155円89銭
1908年(明治41)第1期(6月14日〜6月25日)
乾燥量 1815貫400匁 乾燥賃 197円64銭
1909年(明治42)第1期(6月11日〜6月20日)
乾燥量 1267貫300匁 乾燥賃 136円74銭
1910年(明治43)第1期(6月11日〜6月21日)
乾燥量 1221貫62匁 乾燥賃 132円95銭
*1906年度は乾燥量が石で、翌年からは貫で表わされている。
この5年間の利用状況を見て特徴的なことをあげてみる。
1.秋蚕時の乾燥記録は1906年の第2期にあるだけで、それもわずかな量であること。それ以後の年は第1期つまり春蚕だけである。秋蚕の飼育が当時始まっていたはずだけれども、春蚕と違って飼育が難しいといわれていたのでまだこの地域ではそれほど普及しなかったのであろうか。理由ははっきりしない。
2.乾燥場の運営状況は順調であったようである。乾燥場の建設運営に必要な資本金(設置費)は規約によると500円であった。実際の資本金の集まり状況は1口5円100口で500円、それに補助金30円。合計530円。乾燥場設置支払明細帳によると、支出は建設運営費が536円45銭3厘。乾燥賃の収入は初年度では少ないが2年目からは増えてきて、設置から5年間の乾燥料収入の合計は721円6銭7厘である。燃料費などの記録がないので細かいことは分からないが、この500円の資本金で始めた乾燥場が順調に運営されていることを示している。
3.乾燥場の利用者が菅谷村の範囲を超えて広がり、地域に根ざした活動になっている。規約では乾燥場の組合員は菅谷村在住者となっているが、実際の利用者は菅谷村以外に広野、杉山、太郎丸などの七郷村(現・嵐山町)の人たち、さらには福田(福田村、現・滑川町)月輪(つきのわ)、伊古、水房(宮前村、現・滑川町)、上唐子、神戸(ごうど)(唐子村、現・東松山市)、下里(小川町)、中爪(なかつめ)(八和田村、現・小川町)、田黒(玉川村、現・ときがわ町)、そして熊谷町(現・熊谷市)、桜沢村(現・寄居町)からも来ている。簡単に言えば後の嵐山町とそれに隣接する地区の人たちに利用されるようになっている。
4.乾燥場の利用頻度の多い地区は菅谷、平沢、志賀の3地区で、それについで上唐子、広野、杉山、千手堂、月輪、川島、鎌形が多い。
*1:繭はそのまま放っておくと中のサナギが成虫(ガ)となって繭に穴をあけたり汚したりしてしまうので、そのようになる前に熱処理してサナギを殺し、生糸にするまでの間にカビが出たり腐敗したりすることがないように乾燥して水分を少なくしてから貯蔵する。この工程を乾燥または乾繭(かんけん)といい、乾燥された繭も乾繭と呼ぶ。