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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第3節:農耕・園芸

昭和恐慌下の小作争議

 1929年(昭和4)にアメリカで起こった恐慌は世界恐慌にまで発展し、日本も深刻な恐慌状態におちいった。この昭和恐慌のもとで、輸出が大きく減少し、企業の操業短縮・倒産があいつぎ、賃金引下げ・人員整理が行われて失業者が増大した。農産物価は下落し、農村の窮乏が厳しくなった。当時、小作料の引き下げと小作地取上反対が小作人の差し迫った課題であった。1930年(昭和5)に全農埼玉県連合会の結成総会が箕田(みのだ)(現鴻巣市)で開かれた。この全農指導のもとで1931年(昭和6)に田桑争議(児玉郡共和村)八和田争議(小川町)、吉見争議(吉見町)、寄居争議(寄居町)などがあいついで起こった。
 八和田村では満州事変の起こった1931年(昭和6)の暮もおしつまった12月の末に小作争議が起こった。八和田村では一反三俵という高い小作料を三割負けろということで全農支部結成の動きが出ていた。そのとき二軒の農家が小作料を払えないために地主から土地を取上げられそうになり、それを阻止しようと近隣の村からも応援がかけつけて皆で共同耕作をして土地を守った。その団結した力で1932年(昭和7)1月に全農八和田支部の結成総会が上横田の輪禅寺で開かれた。上横田の小作人約30人が集まった。「土地は働く農民へ」、「借金はなせるまでまて」等のスローガンが掲げられ、地主の土地取上げに抗議するとともに、小作料減免を訴えたという。
 この集会は、警察に届け出ることで検束はしないという約束をとってあったが、布施辰治弁護士と渋谷定輔全農書記長の応援演説に入ったとき、渋谷の発言に対して臨席警官から二回も「注意!」の声が飛び、それに反対した渋谷は「検束」ということになった。約束が違うということで、参会者が警官に詰め寄り、乱闘になった。七郷村吉田から応援に来ていた坂本幸三郎は、そのときの様子を次のように語っている。

 「検束しないという約束なのに、検束ということになったので、みんなで電気を消してしまい、警官に襲いかかって帽子をふんだくったり、サーベルを曲げてしまったりしました。外套を破られてしまった警官もいました。かなりの乱闘になりました。しかし電気を消してありましたので、そのままみんな逃げてしまい、誰も検束されませんでした。」

 この争議は、その後半月ほどかけて地主と交渉し、ほとんど要求を勝ち取ったという。
 次の資料は古里村に残されていた当時の資料である。小作争議の動きは近隣の村や子どもたちにも影響を与えはじめていたのである。

発会記念大演説会に集まれ  昭和七年一月一七日
  小作人『バンザイ、バンザイ、バンザイ 早クキキニユコーゼ!』
  地主・コーリカシ
     『ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ
      クワバラクワバラ、クワバラクワバラ、オタオタ』
         ※日時 一月一七日 午後八時
         ※場所 上横田 輪禅寺
         ※入場料ハイラナイ
                 主催 全農八和田支部

小学校のミナサンヘ
  ミナサンノオトウサンヤオカアサンハ
  フケイキデコマッテイマス
  ソレデベンゴシノ布施辰治ト言フ人ヤ
  ソノ外貧乏人ノ味方ヲシテクレルタクサンノ人ガ
  タメニナル話ヲ十七日ノ午後六時カラ
  上横田ノオ寺デヤッテクレマス
  オトウサンヤ兄サンヲススメテ
  ヨコシテクダサイ
                  ※全農八和田支部

 このような全国農民組合の成立と小作争議の広がりは、当時の農村がいかに疲弊していたかを示すものであった。これを無視できなくなった政府は1932年(昭和7)に農村の疲弊状態を打開するために、農山漁村経済更生運動に取り組むことになるのである。

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