第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
大正3(1914)年に第一次世界大戦が始まると日本の輸出は急増して、日本経済は空前の好景気を迎えた。米麦価額の高騰で地主や自作農は利益を得たが、民衆の生活は困窮して大正7(1918)年には米騒動が全国的に起こった。大戦が終わると間もなく戦争景気も終わって大正9(1920)年には農産物価が下落し、農村を不景気が襲った。
当時の小作農民にとって、地主に払う小作料の重さは江戸時代の百姓時代とかわらないものであった。その上、大正4(1915)年に始まった「米穀検査制度」は、地主にとっては品質を保つのには役立ったが、小作農民にとっては検査を受けるための労力が加わり、非常な負担になった。ついに大正9年に埼玉県で小作争議が7件発生し、翌大正10年には74件と爆発的に増加した。この年、比企郡でも小作争議が郡内に起こった。
大正10(1921)年12月17日付けで、穀物検査所松山支所長から穀物検査所長宛に出された内報文書には,比企地域4町村の「農争状況」が記されている。その中で一番状況の厳しい小見野村(現川島村)については、同年12月23日付で比企郡長が直接県知事宛に内申書を出して状況を報告している。
「小見野村小作人約四百名ハ本月初旬以来小作料軽減方ニ付寄々協議ヲ遂ゲ、各字二、三名の総代ヲ選ヒ、本月七日村長ニ面談シ小作料二割(大字加胡、松永、下小見野ハ四割)ヲ減額セラルル様村内地主ト交渉セラレ度旨申出有之、村長ハ地主ヲ招致シ両三回協議シタルモ其意見一致ヲ見ズ今日ニ至リ候」とのべ、郡長としても解決に努力しているがまとまらず、小作人側は地主が承諾するまで納税を差し控えるという状況。さらに郡書記を派遣して納税を説得し、目下地主の中の名望あるものが協定中と、緊迫した状況を報告している。ここは北に荒川、西は市ノ川を控える低地なので水害がひどかった。まさに大正10年12月の押し迫った時期に、村をあげての小作争議に発展していったのである。この頃、小作争議は比企郡全域に拡大していた。
しかし年の明けた大正11(1922)年1月18日付けの穀物検査所松山支所長から穀物検査所長宛報告には、管内における「農争状況」は1月6日に全部円満解決したと記され、郡内小作争議の解決状況を記した「別紙」が付けられている。それによると、小作争議の起こった郡内町村の数は28か町村、大字数では57に及んでいる。要求は大字ごとにまとめられている。そこには「平年ニ於ケル平均反収」「本年ノ平均反収」「小作料」「小作人の軽減要求状況」「地主対小作人間ニ妥協解決ノ状況」「奨励米給与状況」が書き込まれ、「備考」には妥結方法が簡潔に記されている。比企郡内の小作争議の全体像がよく分かる。
この解決状況の「別紙」から嵐山町域の状況を見てみよう。
地区 | 平年平均反収 | 本年平均反収 | 小作料 | 小作人の小作料軽減要求状況 | 地主対小作人間の妥協解決状況 | 備考 |
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七郷村 古里 | 2石 | 1石6斗 | 8斗〜1石 | 1割5分引 | 7分引 | 小作人団結地主ニ折衝シ解決ス。奨励米は従前同様 |
七郷村 吉田 | 2石 | 1石6斗 | 8斗〜1石 | 1割引 | 5分引 | 小作人団結地主ニ折衝シ解決ス。奨励米ハ従前同様。其他字ハ相互ニ解決ス。普通5分引 |
菅谷村 鎌形 | 2石2斗 | 1石8斗 | 1石〜1石2斗 | 1割5分引〜2割引 | 1割引〜1割5分引 | 紛争ト云フ程度ナラス。小作人数人シテ地主に小作料軽減ヲ歎願セルモノナリ。奨励米ハ従前同様 |
菅谷村 大蔵 | 2石 | 1石6斗 | 1石〜1石2斗 | 大蔵外4字ハ別ニ小作料ハ軽減セス。従前ノ奨励米ヲ増給シ円満解決ス。甲5升・乙4升・丙上3升 |
※菅谷村大倉は大蔵に訂正
嵐山町域で、解決状況の「別紙」に記されているのはこの表の4大字だけである。
古里の場合で見ると、平年の平均反別収穫は2石、ところが大正10年の平均収穫が1石6斗しかない。つまり平年の8割の収穫しかない。それなのに小作料は、平年どおりだと8斗〜1石。割合でいうと収穫の5割〜6.25割も小作料として納めなければならない。平年どおりの収穫があれば小作料はその4割〜5割のはずであった。
実はこの平年どおりの小作料もきわめて重いものなのだ。江戸時代の百姓が4公6民とか5公5民という重い年貢を背負わされたといわれてきた。明治維新で新しい時代になったはずなのに、どこの地区でも農民の負担はほとんど変わっていないのだ。
大正10年は不作だったため、そのままだとさらに重い負担になる。ついに古里の小作農民は団結して、地主に小作料1割5分引きの軽減要求を出し、両者の話し合いで約半分弱の7分引きで解決したのである。
吉田の場合はほぼ同じ状況で、小作人が団結して地主と交渉して小作料1割引きを要求し、5分引きで解決した。
鎌形の場合は備考で書いてあるように、小作人が団結して行なうのではなく、数人で地主に歎願するという形であった。大倉(大蔵のこと)他4字は、小作料の軽減はなく、奨励米の増加で解決した。奨励米というのは、米穀検査制度が始まって地主にとっては品質が保たれて有利になるが、小作農にとっては労力負担になるので、地主が小作人に奨励米の名称で一定の米を交付した。例えば甲米1俵に米3升、乙米は2升と。
比企郡ではこのように解決していったが、地域によっては小作人組合を結成、さらに日本農民組合に加入していった。こうした動きの中で小作農代表が村内で力を持ち、従来の地主中心の村政をかえ、村の民主化を促していったのである。