第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
太郎丸の田幡丈家に残された文書の中に、1884年(明治17)に埼玉県令吉田清英宛に出した「開墾地願」の控(ひかえ)が残されている。提出者は五名。自分の持つ草生地や林を開墾して、田畑や宅地にかえることの許可願いである。各々の開墾造成地(かいこんぞうせいち)には野取絵図(のとりえず)が付けられている。
名前・現地目・ 面積(坪)・開墾後の地目・反別・収穫物・量
田幡載太郎(草生地・52坪・田・55坪・米・1斗5升1合)
(林・17坪・田・48坪・米・5升)
(林・96坪・宅地・96坪)
(林・18坪・宅地・18坪)
(林・36坪・畑・47坪・麦・1斗2升5合)
田幡亀吉(林・139坪・畑・169坪・麦・4斗5升)
関口菊次郎(林・86坪・畑・87坪・麦・2斗3升2合)
大沢太吉(林・32坪・畑・32坪・麦・8升5合)
田幡熊次郎(林・47坪・畑・47坪・麦・9升4合)
(なお、田幡亀吉の場合のように開墾造成地の面積が増えているものは、造成時に面積を増やしたものである。)
太郎丸の人たちが県に開墾願いを出した1884年(明治17)はどんな時代だったのか。1881年(明治14)から始まる大蔵卿松方正義のインフレ抑制策によって、日本全体がデフレになり、埼玉県内でも民衆の生活は困窮(こんきゅう)を極めていた。1884年(明治17)には、秩父の山間の人たちが生活の苦しさのなかで武装蜂起(ぶそうほうき)する秩父事件が起こった。翌85年には埼玉県会議長加藤政之助が、県内民衆の窮乏状況(きゅうぼうじょうきょう)を視察している。彼の『埼玉県惨状視察報告』によると、「比企、横見両郡の人民世間不景気に沈み且物価の下落せるために其収入を減じて諸懸(しょかかり)の諸税負担に堪(た)へざるが為めか近年来非常に各自負担を増加し其高頃日驚くべきの巨額に登りたる」と述べ、比企郡の人民の負債額121万1843円・毎戸平均106円84銭5厘と述べ、比企・横見の両郡を「最も惨状を極めたる土地」の一つにあげている。太郎丸村も厳しい状況にあったはずである。
太郎丸村の開墾願には、開墾地は「耕作便宜(べんぎ)」「商法便宜の場」で、「格別の立木も無く、人夫等の労賃も無く開墾」出来る地であると記されている。その開墾願をみると、草生地と林の地価が、開墾によって地目が田、畑、宅地に変わることによって大きく変わってくることがわかる。たとえば、田幡載太郎の草生地の地価はわずかに8銭7厘であるが、開墾によって造成された田の地価は6円93銭1厘、実に約80倍に跳ね上がり、収穫される米は1斗5升1合になる。関口菊次郎の場合は、林の地価が43銭、開墾による畑の地価が3円55銭であるから8.3倍に、麦の収穫2斗3升2合なっている。五人の持っている草生地と林の地価を合計してみると2円38銭2厘であるが、開墾によって造成された田、畑、宅地の地価の合計は34円28銭6厘、実に17倍になっている。太郎丸ではわずかな土地の開墾でも、不況の中で生活を守る打開策として行われたと思われる。しかし地価が上がると、地租(ちそ:土地に課される税金)も合計五銭九厘だったものが84銭6厘、14.3倍になってくる。