ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

畠山重忠

復活した重忠慰霊祭

 今年もいろいろなできごとがありましたが、ある意味で大きなできごととして、重忠祭の復活があります。
 畠山重忠については、報道でも何回も掲載したように、嵐山に居を構えた代表的な武蔵武士として名高く、その無念の最期を慰めるために、慰霊祭が行われ、かなり盛大なものであったといいます。いろいろな事情で中止されていたものを、いつかは復活させようという念願がかない、今年(1978)六月二十二日、有志により、菅谷館跡の重忠公像前で慰霊祭が行われました。
 これには、町長、議長、教育委員長などの町の公職者、町内有志に、県立歴史資料館長などが参列し、重忠公の霊を慰める神事が行われました。
 あいさつに立った町長は、重忠公像の建立、保存、そして今度の慰霊祭の復活には、重忠公を敬愛する地元の人々の力が大きい。
 大変な努力を要することであったと思うと述べ、来年以降もこの催しが有志の手により続けられていくことを望むとし、重忠をしのんで次のような漢詩をひろうしました。
 「我をして哭(こく)せしむる者は英雄の流薄命多し
  我をして慟(どう)せしむる者は賢哲の士銷魂しやすし
  天命は達人も未だ測るべからず
  勝敗は兵家も豈に能く論ぜん
  只一誠のとこしへに朽ちざるあり
  風神奕々として後毘を射る」
 このあと、本丸跡の杉木立の中で車座になり、公をしのんで酒をくみかわしました。
 午後からは、国立婦人教育会館大ホールを会場に、女流歴史小説家の第一人者杉本苑子先生の講演「畠山重忠と武蔵武士」が行われ、この催しのため、わざわざ来町した、これも重忠研究家として知られる畑県知事が、その博識ぶりを披露し、また町長もあいさつに立ち、重忠公への深い思いを述べました。
 杉本先生は重忠を中心とした武蔵武士の成り立ち、系譜、その行動様式について小説家としての観点からの推論もまじえながら、ほぼ満員の聴衆をひきつけました。

『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
このページの先頭へ ▲