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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

畠山重忠

 当時の菅谷郵便局長山岸徳太郎氏は、畠山重忠公の顕彰に熱心に取り組んでいた。1923年(大正12)、菅谷館跡が県史跡に指定される頃には、重忠祭りが行われるようになっていたと思われる。

重忠祭始まる

 山岸【山岸徳太郎】氏は重忠霊祠を整えたり、菅谷館跡の絵葉書所を作成して、館跡の整備に力を注いだ。特に「重忠祭」を創設して、この祭典の主催者となり、重忠公の霊を弔うと共に、大衆に菅谷館跡と重忠公を紹介啓蒙したことは特筆すべきことである。
 重忠公の命日は六月二十二日であるが、農繁最盛期であるため、この日をさけ、春爛漫の四月二十二日を祭日と定めた。この日は花火が打ち上げられ、出店が立ちならび、芝居小屋がかかり、村は勿論、この地方での祭日としてにぎわいを極めたものであった。人々はこの日を待ちのぞみ、当日は春のうららかな陽ざしを浴びながら、一日楽しんだものであった。
 このお祭りは相当長期間続けられた。特に現存する重忠公像の建造された昭和四年(1929)から日支事変(1937)までの間が最もにぎわったのではないかと思はれる。

『菅谷館跡のこと』関根茂章(私家版)1975年

重忠公慰霊祭

比企郡菅谷村大字菅谷村に日本武士の典型としてたたへられてゐる畠山重忠公の慰霊祭が当る二十二日館址跡で執行されるが最近、日本農士学校の生徒等が参列する等、重忠公の言動が髣髴(ほうふつ)とし躍如するかの如き感に打たれて、一層の荘厳味がある。当日は松山町には重忠講があって相当の賑(にぎわい)を呈することであらう。余興としては煙火、撃剣等があると。

『埼玉日報』1934年(昭和9)4月15日
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